真白い空間が目の前に広がっていた。
そこには地面の感触こそあれど、そのほかには何もない。
空も、風も、森も、動物も、人も────。
「……いや」
クロウは倒れ込んだまま、唇を動かした。
「お前は、いるか……」
その声は誰に届けるものでもない。ただの独り言だ。
言葉は、ヒトに向けて紡がれてようやく意味を持つ。目の前の相手がそれを理解できるはずもない以上、意味など無い。
「……お前、そんな顔、してたんだな」
黒い鏡の呪縛。
その効果は、強制的にトラウマと向き合わせること。自らのトラウマと向き合うことを拒否し、恐れ、乗り越えられないものは、目を覚ますことを許されない。
だとすれば────これはきっと、必然だった。クロウにとって、これ以上のトラウマなど存在しない。
クロウの影にして闇。
制御不能なる暴の化身。
ソレはクロウを鎧袖一触に叩きのめし、行動目標を失って、停止したまま目の前に立ち尽くしていた。
────悪鬼。
それはクロウの肉体の銘であり、ある種……本質だ。
クロウは上半身を起こして、その有り様を見た。
そして、思う。
……酷い。
普通、どんな人間の立ち姿にも、その人間の意思が浮かぶものだ。好意も悪意も害意も諦めすら、立ち姿に現れる。
だが悪鬼には、それがない。なんの意思も欲望もなく、ただその場に立ち尽くしている。
そのなんと……無様なことか。
「やっぱり……おれは嫌いだな。お前のこと」
だからクロウは、再び立ち上がった。
明確な敵意を見せるクロウに、悪鬼が反応する。瞬きの間に、凄まじい速度で間合いを詰めてくる。
四脚を用いた異形の爬行。単純なる速度において、それはクロウを遥かに超越していた。
故にクロウは、自分から間を詰める愚を犯さない。相手がこちらに接触するその一瞬……そこだけを狙い撃って、硬く硬く握りしめた拳を振るう。そして────。
「がっ……!?」
────またしてもクロウは一方的に撃ち負け、吹き飛ばされた。既に繰り返し打ちのめされ、十数回。勝機は見えない。
クロウの狙いはカウンター。だがその意思と共に放たれたクロウの拳の速度よりも、悪鬼の肉体が躍動する速度のほうが速い。
あまりにも単純明快なスペック差だった。全く異なる時間軸を移動する存在に、カウンターなど通用するはずもない。
かつて悪鬼が巨猿を圧倒したロジックは、そのままクロウを相手にしても適応された。
僅か一瞬、刹那の差。
だがそれはあまりにも埋め難い差であり、断崖である。
敵わないと分かっているものに立ち向かう。
勝ち目の薄い戦いに身を投じる。
……それは、かつてのクロウだったら試みようとも思わなかったことだ。だが今、この身体は、倒れ伏したままでいてくれない。
再び立ち上がり、構える。
「……ミセルも、こんな気分だったのか?」
程度の差こそあれ、ミセルがクロウに対抗しようとすることもまた、無力感との戦いだったはずだ。それを投げ出そうとしなかったミセルを、クロウは思い出した。
「……そうだよな。……よし」
なら、まだ立てる。
だが、立ち上がったからと言って、それが結果に繋がるわけではない。差が存在することは何も変わらないのだ。
一瞬で、クロウは再び叩きのめされた。
地面に凄まじい勢いで叩きつけられ、視界の隅に火花が飛ぶ。ぐらぐらと揺れる視界。鈍い吐き気が止まらない。
浅い息を吐きながら、白い空間に目をやった。
クロウはこの空間がなんなのかなど知らない。どうしてここにいるのかも知らない。悪鬼が自分から分離して目の前に現れた理由など、想像すらもできない。
だがたった一つだけ、理解できることもある────課された試練は、あまりにも明白。
超克せよ、己を。
結局のところクロウの恐れはたった一つ……『クロウは悪鬼には敵わない』という事実に起因する。
クロウの敵わない相手には、悪鬼が目を覚ます────それは言い換えれば、クロウが悪鬼には及ばないからこそ悪鬼が存在している、ということでもある。
故に、成すべきことは明々白々だった。
クロウは悪鬼を見つめながら呟いた。
「……お前を、倒す」
悪鬼を越え、己を支配する。
できるから、ではなく。
そうしなければならないから、ですらなく。
そうしたいから、戦いに身を投じる。
シンプルだ。今のクロウにとって、それは命を賭けるに足る、明快で、十分な理由だった。
故に、いくら敗北を繰り返そうとも立ち上がることをやめようとはしない。本来あり得ぬチャンスである。肉体と魂に走る軋みとは裏腹に、クロウはこの状況に内心で、感謝すらしていた。
悪鬼に敗北し、吹き飛ばされるたび、これまでに経験したこともない痛みが肉体に走り、意気を挫く。
だがそれ以上の渇望が、悪鬼を乗り越えたいという想いが、肉体を突き動かす。
だが今のところ、クロウの望みが果たされる気配は無い。
回数を重ねるごとに、差は浮き彫りとなる。
肉体性能は完全なる同一。
違うのは肉体を操る精度とセンス、ただそれだけ。だがその差が、あまりにも埋め難い。
クロウの眼から見た悪鬼の動きは、正視に耐えないほど悍ましく、そして同時に、しなやかで美しかった。
悪鬼の動きが悍ましく見えるのは所詮、ヒトの感覚がもたらす不調和に過ぎない。
力の流れを正しく捉えるクロウの眼からすれば、悪鬼の動きは、完全なる合理性と機能美の融合体だった。
思わず見惚れそうにすらなる。
クロウは再び拳を構えた。……悪鬼に対し、カウンターが成立する可能性はゼロに近い。つまり、ゼロではない。
諦める道理は、無い。
握り締める拳に全霊を込め、己が悪鬼を打ち砕く姿を脳裏に思い描く。
勝負は交錯の刹那、その一瞬────クロウは拳を放った。
だが、それは空を切る。
……悪鬼に撃ち負けたためではない。悪鬼がクロウに接触する寸前、
フェイント────クロウは一瞬、そう連想したが、すぐに違うと理解した。
悪鬼にそんなものは不要だ。
小細工に頼らずともこちらを圧倒する速度を備える以上、それは意味を持たない。合理的ではない。
そんなことを、悪鬼はしない。
では、何が────。
クロウは直感的に、宙を見上げた。
そして────悪鬼に一瞬だけ遅れ、知覚した。
何かが、降ってくる。
この白い空間の外、存在するともしれぬ虚空から、何か、とても
外界から隔絶されたはずのこの場所からですら、その気配は読み取れた。巨大すぎる魂の質量を以って、なにか凄まじいものがこの幻実に落ち込んでくる。
黒い鏡の支配すら逸脱し、クロウと悪鬼しか存在しないはずの、この空間へと落ち込んでくる異物。それは誰も認識していない、意図せざる誤算の産物である。
クロウという一個人の魂に、他の魂が────
大いなる偶然と必然により、災厄と災厄がここに邂逅する。
凄まじい音と衝撃が響き渡る。
そして────空間が、砕けた。
宙に大きく空いた孔から、巨大な影が姿を現す。
天蓋より舞い降りるその姿を、クロウは知っていた。見たことがあるからだ。思わず声が口をついた。
「……黒竜」
災厄が降臨する。
真白の宙空を砕き割って現れたソレは────黒竜は、天を覆うほどに巨大な、漆黒の翼を広げた。