【完結】声をなくした花屋と、言葉を捨てたマイム   作:稀葉

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六章3

 リノリウムの長い廊下の突き当たり。解放された引き戸の向こうは、木目の床が温かな雰囲気を醸していた。

 バレーボールのコートほどの広さのその部屋は、この病院のリハビリルームだ。

 

 咲良は持参したサーモンピンクの室内用スニーカーに履き替えると、受付で渡されたクリアファイルを係の女性に手渡した。

 

 咲良が美弥に相談したのは、発声のリハビリ再開についてだった。

 入院中のリハビリを思い返しても、週に何度かは通うことになるはずだ。そうなると、『蒼い森』の出勤を調整する必要が出てくる。

 バイトを雇うとかいろいろ検討してからになるだろうと考えた咲良の予想を裏切り、トントン拍子に話が進んだ。

 

「さくちゃんがリハビリを再開したくなった時に備えて、調べておいたの」

 

 よかったら候補に入れてみて、と渡されたのは病院の資料だった。

 

「体調とリハビリを最優先して。オーナー命令だからね」

 

 そんな美弥の言葉に背を押され、咲良はすぐにかつて入院した病院から紹介状を取り寄せ、美弥の紹介してくれた病院を受診した。

 医師の診察を経てのリハビリは、今日が二回目だ。

 

 壁沿いに配された長椅子に腰掛けて、ほうと息を吐く。

 

 部屋の奥では、両脇の手すりを握りしめて、一歩一歩慎重に足を動かす中学生くらいの男の子の姿があった。

 その手前の大きな作業机では、折り紙に取り組んでいるお年寄りたちもいれば、ペンで何かを書いている女性もいる。

 

 室内は、患者たちの雑談やリハビリ器具の金属音、療法士たちの明るい声で満たされていた。

 

 咲良の知るリハビリルームは、療法士と一対一で、個室で行うものだったから、初めてここに案内された時には面食らった。

 面食らったといえば、もうひとつ。

 診察した医師は、「担当は(めぐみ)先生にしようか」とひとりごちるように言っていた。その名前から女性に違いないと思い込んでいた咲良の前に現れたのは、男性の療法士だった。

 少し明るい茶色の髪色。年齢は三十代には届かないくらいだろうか。

 淡いミントグリーンの医療スクラブのネームプレートには『めぐみ』とひらがなで書かれている。

 男性というだけで身構えた咲良は、患者たちに「めぐちゃん」「めぐちゃん先生」と呼ばれて慕われる彼の姿に、少し肩の力を抜くことができた。

 

 今も、咲良の元へと向かってくる途中の恵が、よろけた年配の女性を咄嗟に支えていた。

 

「めぐちゃん先生はほんといい声ねぇ。あたしが死んだらお経を上げに来てよ。その声なら極楽行き間違いなしだわ」

 

「またそういう縁起でもないこと言う……それより、院内レクでオレとデュエットでも歌いましょうよ」

 

 眉をさげて苦笑した恵がバリトンで応じると「ありゃ、それじゃあそれまでがんばらんとね」と女性は大口を開けて笑った。

 

「そうそう! 一緒にマイクを持ってさ。オレ楽しみにしてますから」

 

 そう言って、だらりと下がったままの女性の腕を軽く叩くと、「伊藤さん、お待たせしました」と咲良に声をかけた。

 

 部屋の左奥のパーテーションスペースで、小さな机を挟んで腰を下ろす。

 前回は喉の模型を使いながら、恵は咲良の現在の状況を丁寧に説明してくれた。

 

「しばらく声を出してないことで、ここ、声帯がピタッと閉じる力が弱まっているんです。神経回路の伝達とあわせて、伊藤さんの体に以前の状態を思い出してもらえるように進めていきます」

 

 不安な気持ちで模型を見つめる咲良に、恵は言葉を続けた。

 

「病名は『心因性失声』ってなってますけど、失くしてたわけじゃなくて、これまで伊藤さん自身を守るためにお休みしていた状態だったんだと思います。リハビリを再開する気持ちになったってことは、きっとそろそろ冬眠からさめる準備が整ったんじゃないかなって」

 

 そう言って、今後の進め方や方針を丁寧に説明した恵は、リハビリ計画書を書いて、咲良にいくつかの宿題を課した。

 

・お風呂の時に喉のマッサージをすること

・寝る前に五分間腹式呼吸をすること

・接客の時、最初の「いらっしゃいませ」を心の中で唱えること

 

 リハビリに通うのは週に三回。まださして日も空いてはいないものの、咲良はどれも律儀に取り組んできた。

 

「まだ緊張してます、よね」

 

 恵の言葉に小さく頷くと、「じゃあ、今日はちょっと体を動かしましょうか」とパーテーションの外のストレッチスペースへと移動した。

 

「息を鼻から吸って、口から吐いてくださいね」

 

 腹筋にもききそうな運動なども交えながら、ひとつひとつの動作をこなしていく。

 

 いざ意識してみると、息を吐くたび、あの頃の感覚が喉に張り付く心地になる。

 入院中のリハビリは、まだひりつくような喉の痛みがぶりかえして、息をするのも怖かった。

 その時の記憶が、今も深く巣くっているらしい。

 咲良は無意識に喉を庇うように掌を当てた。

 

「痛みますか?」

 

 今、痛んでいるわけではない。それなのに、痛いような気になる。

 

 咲良は緩く首を振った。

 

「時々そうやって撫でて労ってくださいね。でも、もし本当に痛くなったら、絶対に無理しないで教えてください。いいですか?」

 

 顎を引いた咲良に恵は目を細めた。

 

「宿題、少しだけ変えましょうか。喉のマッサージをする時、お疲れ様、もう大丈夫だよって喉に教えてあげてください。伊藤さんが大変な時に支えてくれた頑張り屋さんの喉ですからね」

 

 その日はそうして幕を閉じた。

 

 リハビリを終えて『蒼い森(みせ)』に着くと、美弥が店頭の植木鉢を整えていた。 

「さくちゃん、おかえり~。お疲れ様」

 

 リハビリの日は休みにしていいと言われていたものの、午前中に通院すれば夕方前には店に着く。休むよりは少しでも出勤するほうが、咲良にとっては気が楽だった。

 

「雨は仕方ないとしても、蒸し暑いねぇ」

 

 美弥はぱたぱたと手で顔を扇いだ。

 

「あ、ねぇねぇさくちゃん。一休みしてからでいいから、これ、描いてみない?」

 

 レジ台の前に、イーゼルスタンドにたてられた黒板とカラフルなチョークが置かれていた。

 

「お店の前に置いてみようかなって。さくちゃんアレンジの練習でいっぱいお花を描いてたでしょう? ああいうのとか、ちょっとしたひと言とか……どう?」

 

 濃い緑のボードに視線を向ける。

 カフェの店先などで時折見かけるチョークアート。ああいうものが店頭にあれば、確かに人目をひいていいかもしれない。

 とはいえ、それほどうまく描けるようにも思えない。そう思って美弥に視線を戻すと、「巧く描こうとか思わなくて大丈夫。でも、さくちゃんセンスいいから私が描くよりいいと思って」と悪戯げに笑った。

 

「お願いしてもいい?」

 

 不安なまま引き受けたものの、いざ描いてみると思いのほか愉しくて、咲良は夢中でチョークを動かした。

 

 紫陽花とてるてる坊主の上に『雨つづきですね。でも、あなたの心は晴れますように』と書き添えたボードを店頭に立てかける。

 

 その日から週に何度かボードを書き換えるのが、咲良の業務に加わった。

 

 

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