あれほど見たいと思っていたアニメの二期も、漫画の続きも、少し触れて放置してしまっている。クリアに数時間かかるゲームなんて、もっての外だ。
けれど、僕が今、唯一やっているゲーム『ベイクドタッチ』だけは不思議と長く続けられていた。
理由は単純、操作が楽だからだ。
何もしないと落ち着かないけど、これで何かをしたような気分になっている。
僕はいつもの通り、画面の中央に鎮座したビスケットをタップした。
すると、小さなビスケットが飛び出し、カウントが一つ増えていく。
毎日毎日、これの繰り返しなんだけど、数字が増えるのを眺めてるだけでも案外、楽しいものだ。
もちろん、それだけではなく、たまにチュートリアルのババアが「坊や、焼き方が単調だね」だのとちょっかいを入れてくる。
が、今日に限って、そいつは現れなかった。
不思議に思いながらタップし続けていると、画面中央のビスケットが徐々に淡く明滅していった。
初めて見るエフェクトだったが、何かの裏技かと思い、特に気にせずタップする。
「いつまで、そうしてるつもりだい?」
ババアが現れてメッセージウィンドウに何か表示された瞬間、視界が白一色にぼやけていく。
意識を手放す直前、ビスケットが粉々に砕け散っていくのを見た。
………………
…………
……
気が付くと、辺りの景色は変わっていた。
クッキー模様のレンガの壁、マシュマロのような白いソファー。
毎日眺めていたゲームの中、そのものだった。
「やっと起きたかい、坊や。ほら、さっさと支度しな」
こちらに声をかけてきたそいつは、白髪の老婆だった。
しかも、ベイクドタッチのチュートリアルに出てきたババアにソックリ。
「いつものババアだ……」
「口の悪いガキだねぇ! アタシにはメアリーって名前があるんだ。ちゃんとメッセージボックスの名前欄を確認しな!」
メッセージボックスってなんだよ、と思いながら、右手のデバイスを見る。
それは先ほどまで触っていたスマートフォンではなかった。
アップルパイの中身だけくりぬいたような外観に液晶画面がすっぽり収まっている。
「本当だ……っていうかチュートリアルのババアって、ちゃんと名前あったんだ」
画面の会話ログには、確かにメアリーと表示されていた。ご丁寧に僕が喋った内容まで記録されている。
それよりも気になることがあった。
先ほどから自身の発する声が妙に甲高い。うろ覚えだけど、声変わり前の自分の比じゃない。
胸元に違和感を抱き、恐る恐る、視線を下ろす。そこには、男の体にはあるはずのないふくらみがあった。
「おっぱ……」
それ以上、言葉は続かなかった。脳の整理が追いつかない。
状況を把握しようとデバイスに視線を落とすと、画面には、めちゃくちゃ可愛い女の子の顔が映っていた。
恐らく、これが今の自分の顔なのだろう。
素朴で地味な格好で、田舎の村娘を思わせる格好だ。
よく見ると自分は今、ピンクのエプロンドレスを身にまとっていることがわかった。
こんな美人な女の子のアバターはこのゲームには出てこない。
きっと、まだ夢の中なのだろう。
そう思った時、
「まだ夢の中にいると思っているのかい、オリスの坊や?」
ババアに思考を盗聴された。
しかも本名まで知ってやがった。
「アンタのことはなんでもお見通しさ」
「ババア、あんたは一体何者なんだ……」
「メアリーだって言ってるだろ。アタシはしがない焼き菓子職人。そして、アンタは……」
ババアがゆっくりと勿体付けるように、こちらを指差す。
「アタシの弟子!」
「は?」
ゲームのチュートリアルで聞いたようなことを言い始めた。
「聞こえなかったのかい? その年で耳が遠いんじゃ先が思いやられるよ」
既に耳が遠くなってそうな奴には心配されたくない。
確か主人公は最初、このババアに指南を受けるんだっけか。
スキップボタンがあったから全部飛ばしたけど。
「はいはい、わかりましたよお師匠さん。それで、チュートリアルをスキップするにはどうすればいい?」
話半分に聞きながら、僕はチュートリアルをスキップすることにした。
「チュートリアル? ゲームみたいに甘えたこと言ってんじゃないよ」
しかし、ババアに阻止された。
ここはゲームの世界だろ。
「文句があるならビスケットの一つでも焼いてみな」
ババアの言葉に段々と冷静さを取り戻していった僕は、名案を思いつく。
そうだ、ゲームの世界なら、タップするとお菓子を作れるんじゃないか?
「わかったよ。じゃあ、早速ビスケットを作ってやろうじゃないか!」
そう啖呵を切った僕は、宙に向かって人差し指を軽くつついた。
サクッ……と小気味良い音が鳴り、小さな一口サイズのビスケットが掌に落ちてくる。
異世界に転生したら何らかの能力を持っているんじゃないかと思って試してみたら、案の定だった。
「どうよお師匠さん。これが主人公の力だ」
ババアは驚きもしていない。
それどころか、呆れたようにため息をつきながらビスケットをぶんどってきた。
「なーにが主人公の力だ。坊や、こいつはただのビスケット硬貨だよ」
ビスケット硬貨――まったく知らない単語だ。
もしかして、このゲームはビスケットそのものを増やしているわけじゃなかったのか?
「まあでも、そんな便利な能力があるなら材料の心配はなさそうだね」
「待ってくれババア。まさか、本当にビスケットを一から作る気じゃないよな?」
「当たり前だろ。菓子職人がお菓子を作らなくてどうするんだい?」
菓子職人になった覚えはない。
もっとも、この家に僕とババアしかいない時点で、渋々従うしかなさそうだった。
◇ ◇ ◇
「坊や、焼きすぎだよ!」
ババアのスパルタ指導は昼夜に及んだ。
窓の外から見える景色がさっきと同じ昼間のままだから、僕の体感だけど。
このゲームには夜の概念がないのかよ。
そう言えば、ハロウィンイベントやクリスマスイベントなどで画面が夜になったことがあった。
まさか、そういうイベントがないと夜にならないのだろうか。
「今度は焼きが足りないよ!」
絶望している暇もなくババアの叱責が飛んでくる。
僕はなんで今、ビスケットなんか作っているのだろう。
けれど、こうやって何かに集中できたことは久しぶりだった。
いつからだろう、やることなすこと中途半端になっていったのは……。
「まあ、及第点ってところだね」
ようやくババアから解放された僕は、マシュマロのソファに寝っ転がった。ふわふわの感触に段々と瞼も下がっていく。
浮き沈みを繰り返す快楽に身をまかせ、何も考えずにそのまま目を閉じた。
「はじめてにしちゃ上出来だよ……」
ババアの声が聞こえた気がしたが、眠気には勝てず、何を言っているのかはよく分からなかった。
◇ ◇ ◇
「朝だよ、起きな!」
耳をつんざくようなババアの声で目を覚ました。
いつの間にかまとっていた、白いわたあめのような布団をどけてソファから飛び起きる。
陽射しを受けてきらめくカーテンは飴細工。照明の豆電球はどう見てもキャンディのそれだ。
ありとあらゆるお菓子をモチーフとした家具たちが、僕を出迎えている。
何と言っても僕の身体も女の子のままだし、どうも夢じゃないらしい。本当にゲームの世界に来てしまったようだ。
「ババア! そんな大声で起こさなくていいだろ」
「開口一番それかい! まったく師匠に対する態度が成ってないねぇ……」
弟子になった覚えはない。
「今日は買い出しに行くよ。アンタが勝手に出した硬貨で家中を埋め尽くされる前にね」
「え?」
ババアが指差す方向には、大量のビスケット硬貨の山ができていた。
今も約一秒間隔で硬貨が降ってきている。
ちょうど、自分が宙をつついた部分だった。
「なんだこれ!?」
「アタシが聞きたいくらいだよ」
そう言えば最初にタップした後、時間経過でビスケットが増えていったような気がした。
もちろん、タップすればするほど増えていくので、どんどんタップしてレベルを上げた方が効率は良い。
が、現実の世界となると話は別だ。ゲームと同じように増加速度を上げていったら、家がビスケットの津波に流されてしまう。
「と、とりあえず街に出よう!」
「その方がいい。こんだけ硬貨がありゃ引っ越しも余裕で出来そうだねぇ」
サクッ……サクッ……。
相も変わらず美味しそうな音が鳴るたびにビスケット硬貨が増えていく。
「呑気に言ってる場合か!」
持てるだけ硬貨を持った僕とババアは、足早に街へ向かう。
ピロッ……と変な音が鳴った直後、視界が一瞬だけ白くなった。
◇ ◇ ◇
気付くと僕とババアは、やや大きめの街路に足を踏み入れていた。
ゲームだからしょうがないかもしれないが、瞬間移動は心臓に悪いのでやめてほしい。
「ここはレンブンの街さ。坊やは初めて来ただろう?」
「レンジなんだかオーブンなんだか、はっきりしろよ……」
ババアの言う通り、ゲーム内で街の機能を解放させたことはなかった。
人と関わること自体が億劫なのに、SNS交流だのギルドだの要らない機能まで付いてくるから、あえて機能をシャットアウトしていたのだ。
というか、なんでババアはそんなことまで知っているんだろうか。
「年の功ってヤツさ。それより見てみな、アンタにおあつらえ向きな商品があるよ」
ババアの読心術は、もうそういうものだと整理せざるを得ない。
今はそんなことより、目の前のマスコットキャラのことで頭がいっぱいだった。
「こいつ、使えるかも……」
クッキーのような焦げ茶色のそいつは、お釣りのビスケット硬貨を食べていた。
確か、名前はサクット。
このゲーム唯一のマスコットキャラで、ダウンロードの時のサムネイル画像もそいつだった気がする。
「あんたら、まさかコイツが欲しいとか言わないよな?」
店主と思わしき男がこちらの会話に反応した。
「こいつがいないとお釣りの管理が大変でなぁ……あんたらの持ってるその硬貨全部と交換なら考えてやらんこともないがな」
明らかに吹っ掛けて来ていた。
だが、手持ちの硬貨そのものは無から作れるはした金だ。
このまま取引成立に持ち込めば……。
「半分」
突如、ババアに思考を遮られる。
「は? 今なんと」
「半分ならくれてやるって言ったんだよ」
なんと、ババアが半額で値切ろうとしていた。
おい、ふざけんなババア!
せっかく交渉がうまくいきそうだったのに。
「甘いね、坊や。こういうヤツにはこっちからも吹っ掛ける必要があるのさ」
「は、半分だぁ? いくらなんでも吹っ掛けすぎだろうがい!」
「駄目かい? なら六割だ」
「いいや、九割だ」
「七割ならどうさ?」
「七……うーん、いやでも」
ババアと店主の値切り合戦が白熱している。
店主はいつの間にか、ババアのペースに乗せられているようだった。
「じゃあ八割だ!」
「よし、八対二だ。もってけ泥棒!」
ババアと店主の息が合う。
袋いっぱいの硬貨から八割を店主に渡し、商談は成立した。
サクットを受け取る際、お釣りとして蓄えていた硬貨が吐き出された。
僕たちが渡した硬貨の量には及ばなかったが、店主は大喜びだった。
もっとも、サクットにはそれ以上の硬貨を蓄えてもらうことになるのだが。
「なあ、ババア。なんで値切ったんだよ。別に全部渡しても困らなかっただろう?」
「坊や、損得の話じゃないんだよ」
そう言って、ババアはクッキーを一枚こちらに手渡してくる。
受け取ったものをかじると、ザクッとした感触に加えてわずかな甘さが広がっていく。
思わず口元を緩めてしまったが、ババアにからかわれないよう表情を切り替える。
「足元を見られるとカモにされる。世の中はお菓子のように甘いばかりじゃないのさ」
「ふーん。そういうものなのか」
「坊やにはまだ難しかったかい?」
「うるさいな」
ババアの言うことはもっともだが、子ども扱いされるのは妙に落ち着かない。今の身体は女の子で子供そのものだけど、精神の方はそうじゃないはず。
もやもやとした気持ちを抱えながら、ふと視線を逸らすと、とんでもない光景が目に飛び込んできた。
サクットの身体がいつの間にか豆粒ほどになっている。
僕の掌を縦横無尽に駆け巡るそいつは、自分の身体をまき散らしながら、さらに縮んでいった。