夕暮れ染まるビスケット色の空の下、レンブンの街は未だ祭りの熱気に包まれていた。
大勢の人の視線を受けながら、僕はババアと対峙していた。
「さあ見せてみな! 坊やの全力を!」
「望むところだ、ババア!」
お互いの啖呵を合図に、僕とババアの闘いの火蓋が切られた。
……もちろん、飛び交うのは拳ではなく、バウムクーヘンだけど。
「先攻はアタシがもらうよ!」
ババアに先手を取られた。
相変わらず、強引な奴だ。
弟子だから手加減してやろう、という気概は一切感じられない。
僕は、このババアの本気に応えなくてはならない。
普段なら怖気づくところだが、今は不思議と高揚感で湧き上がっていた。
思えば、ババアと対等に向き合うことなど、一度たりともなかった。
いつも掌の中で転がされ、煙に巻かれるような態度でうやむやにされる。
そんな相手が今、僕を好敵手として本気で挑んできている。
ワクワクする理由としては、十分だ。
「これがアタシ流のバウムクーヘン! 名付けて、伝統のバウムクーヘンさ!」
……そのまんまじゃないか。
バンブキンさんの言う通り、ババアは熟練の技でバウムクーヘンを完成させていた。
幾重にも重なった年輪は均一で、焼き色も艶も申し分ない。
立ちのぼる甘い香りだけで、思わず唾を飲み込んでしまう。
焼き色、色合い、香り――どれをとっても文句のつけようもない。
完全無欠のバウムクーヘンが、そこにあった。
「これが伝説の焼き菓子職人! メアリー選手のバウムクーヘン、一体どなたが召し上がって判断するのでしょうか!」
事前に段取り決めてなかったのかよ!
司会の人も困惑して、心の内を実況しちゃってるぞ!
「何言ってんだい。街のみんなに食べてもらうに決まってるじゃないか」
ババアの提案に、歓声が響き渡る。
あんだけ食べたのにバウムクーヘンも食べる気なのか、この街の人たちは。
みんな、焼き菓子が好きすぎるだろ!
「み、皆さん、慌てずに! バウムクーヘンはまだまだたくさんあります! オリス選手の分も控えてるので、あんまり食べないで!」
司会の人が対応に追われ、切実な願いを叫んでいた。
ババアに振り回されすぎてて、なんだか可哀そうだ。
「ほら、坊や。アンタも食べな……」
ババアが、一口サイズに切り分けたバウムクーヘンを僕へ差し出す。
思い返すと、ババアの焼き菓子を口にするのは、これが初めてだった。
弟子なのに、一度も食べさせてもらったことがない。
クッキーをくれたこともあったが、あれは既製品だ。
――今になって、ようやく。
一口嚙み締めた瞬間、思わず息をのんだ。
「……これが、ババアの味」
僕が最初に作ったものなんて、比べ物にならない。
何層にも重ねられた生地は驚くほどしっとりとしていて、噛むほどに卵とバターの香りが広がっていく。
長年焼き菓子を作り続けてきた職人にしか出せない、至高の味。
数あるバウムクーヘンの中でも、間違いなく頂点だ。
僕はこれに真正面から挑まなくてはいけない……というわけでもなかった。
「つ、続きまして、オリス選手のバウムクーヘンです!」
司会の人のやや疲れ気味のアナウンスを合図に、僕のバウムクーヘンが露わになった。
「おーっと、これは一体!? バウムクーヘンなのに焼き色が茶一色です!」
年輪どころか正面、側面、背面、どれをとっても茶一色のバウムクーヘン。
けれど、それこそが、僕のバウムクーヘンだった。
「坊や、アンタまさか、勝負を捨てたんじゃないだろうね!?」
「いいや、一口食べてみれば、わかるよ」
ババアは未だ戸惑っている。
それもそのはず、街の人たちが手を付けても、評価は芳しくない。
一口食べても、不思議そうな顔をするだけだった。
それどころか、ババアのバウムクーヘンで口直しをする人もいるぐらいだ。
でも、それでいい。
「まあ、騙されたと思って、食ってやるかね……」
ようやく観念したのか、ババアが僕のバウムクーヘンを一口大に切り分け、口に運ぶ。
一回も咀嚼しない内に、ババアが目を見開いた。
「……美味い」
当初の目論見通り、ババアに「美味い」と言わせることに成功した。
正確には、この偏屈な老婆の味覚を取り戻すこと……なのだが。
「ショコラの入れ知恵だね? まったく、いつまでも生意気なヤツだよ……」
「あら、今回は違うわよ」
僕たちの様子をうかがっていたショコラがババアの推測を否定する。
そう、これは僕の思いつきで――我儘だ。
サクットから排出されたビスケットには、辛味があった。
最初は神様への拷問として、わざと辛くしているのかなと思っていたが、そうじゃなかった。
あのビスケットの味自体には文句がない。
だから、神様は嫌がりつつも、ビスケットをちまちまと食べていた。
コンテストでの評価もおかしかった。
森の果物で作った焼き菓子でさえ酷評し、唯一認めたのは禁断の果実を使った僕のアップルパイだけ。
極めつけは、僕への忠告。
どうして、禁断の果実への対抗策である秘密のシナモンに加減があることを知っていたのか。
答えは一つ。
ババアも昔、禁断の果実を口にしていた。
その代償で――味覚を失っていたんだ。
「これは、ババアのために焼いたバウムクーヘンだよ」
茶色で覆われているのは、秘密のシナモンをありったけ使ったからだ。
今のババアの舌に合わせて、数種類のスパイスも練り込んである。
街の人たちには悪いことをしたと思う。
甘い風味を期待したのに、実態はスパイス香る、一風変わったバウムクーヘンなのだから。
誰にも評価されなくていい。
ババアが『美味い』と言ってくれれば、それで十分だった。
「……アタシの負けだよ」
憑き物が落ちたかのように、ババアの表情は穏やかだった。
だけど、とても晴れやかな顔だった。
『最後のクエスト、伝説の焼き菓子職人を達成しました。元の世界へ戻りますか?』
突如、パイフォンから聞こえてくる無機質なアナウンス。
いつの間にクエストなんて、受けてたんだ!
突き付けられた「はい」か「いいえ」の二択。
ここで「いいえ」を選べば、ずっとこの街の住人として暮らせるだろう。
街のみんなに認められた焼き菓子職人として、楽しく生活できるはずだ。
――でも、僕は。
「坊や、行くのかい?」
やっぱり、ババアだけが察していた。
チュートリアルだけでなく、エンディングもナビゲーションしてくれるのか。
「うん、さようなら師匠」
「最後の最後になんだい気持ち悪い。ババアで構わないよ」
「わかった、じゃあなババア!」
「ふんっ、二度とその面を見せるんじゃないよ!」
その言葉と同時に、僕は「はい」を選択する。
光に包まれ、僕は意識を手放した。
◇◇◇
気が付くと辺りの景色は変わっていた。
そこには、クッキー模様のレンガの壁も、マシュマロのような白いソファーも、存在していない。
面白味もない、単調な白一色の壁と無機質な家具の数々。
ババアの家ではない……現実世界の、僕の家だ。
手の中のスマートフォンの画面に映る僕は、エプロンドレスの可憐な少女などではなく、冴えない青年だった。
本当に、戻ってきてしまったんだ。
ベイクドタッチなんてゲームも存在していなかった。
ネットを検索してみても、一切情報がない。
だとしたら、僕が今までやっていたゲームはなんだったんだろう。
まるで、長い夢でも見ていたかのようだ。
けれど、僕は決して忘れてなんかいない、この温もりを。
不器用なままの僕を導いた声を。
呆れた顔で笑う姿を。
ビスケット色の空の下で、ぶつけたあの想いを――。
◇◇◇
――数か月後。
僕は迷うことなく会社を辞めて、菓子職人の道を目指した。
あの経験が功を奏したようで、現実世界においても、自然に焼き菓子を作れる腕が身に付いていた。
得意の焼き菓子はアップルパイ。
禁断の果実なんて便利なものはないけど、周りの評価は上々だった。
そして、今、自分の店を持った僕は、これから焼き菓子職人としての人生を歩もうとしている。
やや古めの外観だが、アンティーク調の店構え。
『BAKED XROSS』という名の店が、僕の新たな住まいだ。
今日のおすすめを書いた立て看板のメニューの設置がようやく終わり、僕は厨房に向かう。
ちなみに今日のおすすめは、ビスケットだ。
レジの前に置いておくと映えそうな焼き菓子を何個か作り、ショーケースに並べた。
定番の焼き菓子は当然、ちょっと変わったものを何個か置いている。
サブレ・クッキー・ビスケットのお得な詰め合わせ、サクット。
焼きトウモロコシの風味が香る、第三のスコーン。
フルーツをふんだんに使った、ガトー・インビジブル。
禁断の果実……なんてものは用意できなかったけど、使うリンゴにこだわったアップルパイ。
そして、バウムクーヘン……万人向けはもちろん、スパイスが香るあの味も用意してある。
……全部、あの世界で学んだ印象深い、焼き菓子だ。
――カラン、と扉に付けた鈴が小気味の良い音を立てる。
まだちょっと早いけど、お客さんかな?
入ってきたのは、エプロンドレスに身を包んだ老婆。
違うとわかっているのに、僕はあの日々の記憶が脳裏をかすめた。
老婆は口元を歪め、ちょっと意地の悪そうな表情で、それでいて穏やかな口調で語りかける。
「坊や、ビスケットを一枚、もらえるかい?」