禁断の果実――
焼き菓子のことしか考えていないような、この世界では、人類が最初に口にした食べ物だと伝えられている。
しかし、それは同時に、罪の象徴でもあったという。
あまりにも美味すぎて、一度口にすれば、他の食べ物では満足できなくなってしまう。
故に、禁断の果実。
……と、ババアは語っていた。
適当言ってるんじゃないだろうな?
「本当に実在するのか?」
「もちろんだとも。坊やの足で確かめてみるといい」
いつの間にか用意されていた地図の切れ端を、ババアはぶっきらぼうに手渡してきた。
中央には、小さな文字で『禁忌の森』と記されている。
「いいかい。この場所は決して口外するんじゃないよ!」
「なんで?」
ババアからの返答はない。
ただ、こちらをじっと見つめたまま動かない。
「そんなにヤバい場所なのか?」
おい、何か言ってくれよ……。
沈黙の中、プレッツェルのようにねじれた時計の針だけが、カチ、カチと音を刻んでいる。
「おいってば!」
まるで察しろと言わんばかりの沈黙に、だんだん耐え切れなくなってくる。
「……ククク」
僕が声を荒げた瞬間、ババアの肩が小刻みに震え始めた。
「ははははは! 冗談だよ、ただの穴場さ。……まあ、森の奥には野生の動物がわんさかいるから、あんまり近づかない方がいいけどねぇ」
こいつ、ふざけんなよ。
本気でビビったじゃんか!
よく見るとこの地図、普通の紙じゃない。
米やジャガイモなどで作られた、食べられる紙状のお菓子だ。
最後まで、おふざけ全開だな。
僕は呆れながら、サクットを抱えて家を後にした。
◇◇◇
ババアの地図を頼りに、僕とサクットin神様は、禁忌の森の入り口らしき場所を彷徨っていた。
まだ昼間だというのに、辺りは薄暗い。
木々は空を覆い隠し、不気味なくらい静まり返っている。
化け物や魔物の類が出ても、おかしくない雰囲気だった。
禁忌の森という名前は、伊達じゃないってことか。
「ふっ、オ、オリスよ……まさか、おおお怖気づいておるのか?」
サクットの中から神様が煽ってきた。
だが、声が震えまくってるので、動揺しているのが丸わかりだ。
神様がビビってどうすんだよ。
……いや、ババア相手にも散々ビビってたし、今さらか。
「こんな暗がり、誰だって警戒するだろ」
一応、神様が話しやすいようにフォローしておく。
こんなんでも、一人よりは心強いからな。
「お、おお……確かに用心するに越したことはないのう。なかなかやるではないか」
案の定、すぐ調子に乗る。
ビスケット以外の焼き菓子を自由に食べられるようになるのは、まだまだ先になりそうだな。
ミルフィーユの層を一枚ずつ重ねるように、僕たちは慎重に森の奥へと歩みを進めた。
「え……?」
「な、なんじゃこれは!?」
森の入り口を抜けた途端、想像もしていなかった光景が飛び込んできた。
鬱蒼としていた森の中には、きれいな青空が広がっていた。
ビターチョコレートのコーティングを割った途端、真っ白なクリームが現れるように、景色は一変していた。
「止まりなさい!」
呆気に取られていると、突然、刺すような鋭い声が響き渡った。
声のした方の先には、こちらを睨む女性の姿。
いるよなー、やっぱり。
こういう禁足地へ向かおうとする時に立ちふさがるNPC。
だいたい、最初に話しかけてくる奴って、道案内役か門番なんだよな。
「ここを通りたいなら、通行料を払いなさい」
……通行料をせしめるタイプの門番だった。
眼鏡の女性は、僕を一瞥すると、次の瞬間、目を見開いて二度見した。
「メ、メアリー!?」
いきなり、ババアの名前を叫ばれた。
そういえば、僕の今の姿は、若い頃のババアによく似ているらしい。
……ということは、ババアの知り合いか?
それにしては、若すぎるような……。
「いや、僕は――むぐっ!?」
突然、サクットが僕の口元にビスケットを突っ込んできた。
「しーっ! 今は話を合わせておくのじゃ!」
小声で神様がささやく。
「相手は禁忌の森の住人。あの恐ろしい老婆の知り合いというなら好都合……このまま勘違いさせておくのじゃ」
バレたら大変なことになりそうだぞ。
ババアの怒りの方が。
勝手に若い頃の姿で名を騙られていたと知ったら、あとで何をされるかわかったものじゃない。
……まあ、被害を受けるのは、まず間違いなく神様だけど。
自由に焼き菓子を食べる権利を剥奪され、再びビスケット生活へ逆戻りする神様の姿が脳裏をよぎる。
そういえば、サクット産のビスケットって、最初の一枚は誰が作ったんだろう。
量産するにしても、元になるものは必要なはずだ。
ほんのり辛味が効いているあたり、案外、ババアの手作りだったりするのかもしれない。
「そのちょっと辛そうなビスケットの香り! やっぱり貴方、メアリーでしょ!?」
意外なところで、サクット産ビスケットの秘密が判明した。
やっぱり、あれはババアのお手製だったらしい。
「僕はオリスだよ」
「おぬし、バラしてどうす……うぐっ!?」
お返しと言わんばかりに、残りのビスケットの欠片をサクットに突っ込む。
どうやら、神様の口にクリーンヒットしたらしい。
ババアの知り合いなら、変に隠し事をしても意味がないだろう。
「メアリーじゃ……ない?」
「うん。僕はその弟子ってところかな」
「……なるほど。そういうことだったのね」
眼鏡の女性は、どこか懐かしそうに目を細めた。
「私はショコラ。まあ、行商人みたいなものよ」
「行商人? ……こんな人の来ない場所で?」
「ここで商売をしているわけじゃないわ。森の果実をジャムにして街へ出荷しているのよ。……昔は、メアリーにも随分お世話になったわ」
そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。
「メアリーの知り合いなら歓迎するわ。それにしても、あのメアリーが弟子をとっているなんて、不思議な感覚ね」
「……ババア、こんなところにも顔が利くのか」
「ふふっ、ババアって……!」
ショコラは腹を押さえ、小刻みに肩を震わせる。
「んふふふふ……あー、おかしい。確かに、もう何十年も経ってるものね」
どうやら笑いのツボにハマったらしい。
……ひとまず、通行料を請求された件は忘れることにしよう。
「それで、メアリーのお弟子さん」
ショコラは笑いを落ち着かせると、改めて僕の方へ向き直った。
「この森に何の用かしら? 禁忌の森って呼ばれていることは、承知で来たんでしょう?」
「うん。禁断の果実を探しているんだ」
そう告げた瞬間、ショコラの表情がぴたりと固まった。
「その話は、誰から聞いたの?」
さっきまでの砕けた喋り方とは、似ても似つかない。
冷たく張り詰めた声だった。
僕の背筋が、ドライアイスで直接冷やされたみたいに寒くなる。
……ババアの知り合いって、怖い人が多いんだな。
神様を除いて。
「もちろん、ババアから」
「メアリーが……」
ショコラは目を伏せ、小さくため息をついた。
「……そう。わかったわ。この先に私の家があるの、詳しい話は、そこでしましょう」
僕は、気絶しているであろう神様を起こさないよう、そっとサクットを抱え直した。
そのまま、ショコラの後を追っていく。
青空が照らす森は見通しもよく、野生動物の類に遭遇することはなかった。
◇◇◇
数分もしないうちに、簡素な作りのログハウスにたどり着いた。
白い壁に、積み重ねられた丸太。
まるで、巨大なブッシュドノエルをそのまま家にしたような見た目だった。
家の内装には見覚えがあった。
……あったというより、これはババアの家によく似ている。
「メアリーの家によく似ているでしょ?」
「似ているというか、ほとんど一緒……」
設計した大工が同じだったのだろうか。
……というより、たびたび忘れそうになるが、ここはゲームの世界だ。
家の内装が似通っていても、不思議ではない。
「昔の人の家はだいたい、こんな感じよ」
「……昔の人って、何年前の話?」
「さあ? もう数えるのもやめちゃったわ」
ショコラは悪戯っぽく笑った。
僕はふいに今の時間を確認したくなって、パイフォンの画面に視線を向けた。
……あれ?
時計が動いていない。
シュガースティックで表示されたデジタル時計の数字が、さっきから微動だにしていなかった。
まさか、壊れたのか?
再起動すれば直るだろうか?
……いや、もし起動しなくなったら困るな。
電波はちゃんと立っているし、バッテリー残量も問題ない。
「へぇ、今の時計ってこんな感じなのね」
いつの間にか、ショコラがパイフォンの画面を覗き込んでいた。
「ああ、ごめん。どうも時計の機能だけ壊れてるみたいで」
「時計が動かないってことなら、壊れていないわよ」
「え?」
「だって、この森の中では、時間が止まってるんだから」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
「……貴方、禁断の果実のことは知ってるの?」
「美味すぎて、他の食べ物が口に合わなくなるってことくらいかな」
「はぁ……メアリーの悪い癖ね」
ショコラは額に手を当て、大きくため息をついた。
「まったく、あの人は。いつも面倒な説明役を人に押し付けるんだから」
ババアが雑だったり、肝心なことを何も説明してくれなかったりするのは、若い頃からなのか。
今以上にやんちゃだったら、手が付けられないだろうな。
……ちょっとだけ、ショコラに同情してしまう。
「この森はね、禁断の果実が熟した瞬間のまま時が止まっているの」
なんだって?
そんな荒唐無稽な話――。
いや、あるか。
ゲームの世界だもんな。
「そして、恐ろしいことに、禁断の果実の話も全部事実よ」
禁断の果実って、ただの比喩表現じゃなかったのか。
そんな危険な材料を、レシピに載せるなよ!
パイフォンに書いてあったレシピはゲーム攻略用のものだったのだろう。
だけど、そんな味覚を破壊するような焼き菓子を、街の人たちに食べさせるわけにはいかない。
――今のこの世界は、現実なんだから。
「なんとかできないかな? ババアが僕を送り出したってことは、対策があるんだろうし」
「ふふっ」
頭をひねる僕を見て、ショコラが笑みを零した。
「昔、メアリーも同じことを悩んでたわ」
「え?」
「『こんな美味しいものを自分たちだけで独り占めするなんて、もったいない!』ってね」
「……ババアが?」
「ええ。禁断の果実のデメリットを打ち消す方法を何十年も。そして、試行錯誤の末、ようやく見つけたの」
黄金色の粉末が入った瓶が、テーブルにそっと置かれる。
「シナモンよ」
シナモン――。
あの白くてかわいい犬みたいなやつ……じゃない!
アップルパイに入っていることがある、あの香辛料だ。
「シナモンは禁断の果実の味を忘れるための香辛料。メアリーが見つけた、唯一の対抗手段よ」
アップルパイにシナモンは定番中の定番だ。
これなら、焼き菓子の風味を壊さずに済む。
それにしても、シナモンにそんな効果があるなんて、知らなかったな。
「禁断の果実も、シナモンも、本来なら貴方に譲ってあげてもいいのだけれど……」
ショコラはそこで、いたずらっぽく口元を緩める。
「私は行商人なの。言いたいことはわかるでしょ?」