触れられるほど綺麗になる。けれど、最後の線だけは越えられない。
これは、月村手毬とプロデューサーが、焦がされるような一週間の果てに迎える、特別な夜の話。

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月村手毬とプロデューサーの短編です。

タイトル通り、かなり甘く、けっこー背徳寄り。
(自分の中では)成人済み設定のため、原作時間軸そのままではありません。

匂わせ・艶っぽい描写を含みますが、直接的な描写は避けています。……多分ね!!
手毬がライブ前の一週間、プロデューサーとの関係の中で少しずつ変わっていく話です。

咲季とことねも少し出ます。


月村手毬は、焦らされて艶めく

 

 月村手毬は、そろそろ夢見る少女ではなくなってきた、と自分では思っている。

 

 ステージに立つ意味も、歌で何を背負うのかも、自分の意思と言葉で選べる年齢になった。

 けれど、大人になったからといって、自由になったわけではない。

 

 むしろ、大人になった分だけ、責任や触れてはいけないものの輪郭は鮮明になる。

 

 彼女は、どこまでもアイドルだった。

 

 仕事。

 人気。

 ファン。

 将来。

 ………そして、昔からは考えられないプロデューサーとの関係。

 

 誰にも言えないこと、言ってはいけないこと。

 

 それこそ、SyngUp!の二人にも。

 

 普段口に出せないものだからこそ、この夜は……月村手毬とそのプロデューサー、二人だけのものになっていた。

 

 

  ◇

 

 

 その夜、手毬はプロデューサーの部屋の前に立っていた。

 

 ノックをするまでに、逡巡し、三秒ほどかかった。

 もっとも、その三秒は、手毬にとってはひどく長く感じられたのだが。

 

 ドアが開く。

 

「……月村さん?」

 

「……いま、他には誰も居ないですよ? プロデューサー」

 

 ノックする前に、周囲を見渡した。

 だから、間違いない。

 

 念のため、プロデューサーも部屋から顔を出して、周りを見渡す。

 

 そして、ため息。

 

「……入っていいですよ、手毬」

 

 親しくない人間が見れば、いつもの調子だ、と評価するだろう。

 短い返事。不機嫌そうな目。

 

 感情を隠すために、余計にぶっきらぼうになる癖。

 

 けれど、プロデューサーには分かる。

 仕事の相談に来たわけではない、と。

 

 プロデューサーの部屋には、散らばる資料としっかりとしたコーヒーの匂いが残っていた。

 今日は、大きなライブの一週間前。

 

 手毬が来たというのに、

 彼は、まだ仕事の顔をしていた。

 

 それが、少し腹立たしかった。

 

 ……自分だけが、女の顔をしている気がしたからだ。

 

「……私、今日は帰りませんからね?」

 

「あの……手毬?」

 

「だから帰らないってば」

 

「まだ何も言っていませんが……」

 

「言われる前に言ったんです」

 

「でも明日は……」

 

「昼からレッスンでしょ? 知ってるから」

 

「睡眠時間を削るのは……いただけませんが」

 

 手毬は、目の前に腰掛けたプロデューサーを見る。

 

 本当は、相談に来たのだ。

 

 ここ最近、自分でも分かるほど…なんというか…調子が悪かった。

 

 歌えないわけではない。

 声は出るし、身体も動く。

 けれど、どこか身体の芯が浮いている感じ。

 

 時たま呼吸が浅くなり、集中が続かない。

 レッスン中、ふとした瞬間に意識が逸れる。

 

 最初は、ライブ前の緊張なのだと思った。

 大きなステージの一週間前なら、多少の乱れはあって当然だ。

 

 そう自分に言い聞かせた。

 

 …けれど、違う。

 私は分かっている。

 今までこんなことはなかった。

 

 これは、

 緊張ではない。不安でもない。

 体調不良でも、たぶんない。

 

 …見えないプロデューサーを追ってしまう、自分がいた。

 歌いながら、踊りながら、鏡越しに彼の顔を確認してしまう自分がいた。

 

 褒められたい。認められたい。

 

 最初から思っていたそういう気持ちだけならば、まだよかった。

 

 問題は、…その先だった。

 

 もっと近くで見てほしい。

 

 やがてそれは、褒められたい、認められたい、という気持ちだけでは収まらなくなっていく。

 自分だけに向ける表情で見てほしい。

 アイドルとしてではなく、月村手毬として触れてほしい。

 

 そんな思いが強まっていくにつれて、手毬の不調は大きくなり、そして名前を変えた。

 

 これは体調ではない。

 コンディションの乱れではない。

 

 …欲だ。

 それも、身体の奥からせり上がってくる種類の。

 しかも、ひどく面倒で、みっともなくて、腹立たしい欲。

 

 プロデューサーのところまで来たのは、その相談のためだった。

 最近、調子が悪い。

 集中できない。

 どうすればいいか分からない。

 

 そんな感じで、言うつもりだった。

 

 けれど、目の前にした瞬間に、言いたかったことは消えた。

 

 私の疼き。

 これは、全てこの人のせいだ。

 そして、この人なら治せる。

 

「……プロデューサー」

 

「はい?」

 

「そろそろ、さ」

 

「はい」

 

「……抱いてほしいんだけど」

 

 話すにつれて、声は小さくなった。

 

 だが、小さいだけで、決して弱くはなかった。

 

 ここのところ…ずっと、吐き出そうとしては、飲み込んできた言葉だったから。

 

 何度も胸の内に押し返して、それでも……毎日、夜になるたびに、彼を前にしては暴れ回って喉元まで上がってきた言葉。

 

 それを、手毬はようやく言った。

 

 プロデューサーは、すぐには答えなかった。

 

 その沈黙が、手毬の頬に熱を集める。

 

「……何か言ってよ」

 

「簡単に出来る返事が…思いつきません」

 

「知ってる」

 

「……こう、ですかね?」

 

 そう言って、プロデューサーは手毬の手を引く。

 自身はソファーに座り、さらに引き寄せる。

 

 そうして、膝の上に乗せた手毬を、そっと抱きしめた。

 

 手毬が求めていたものとは違う、

 あまりにも丁寧なハグだった。

 壊れ物を扱うような、けれど距離だけは確かに近い、ずるい抱きしめ方。

 

 …こういうコトをする関係になって、それなりが経つ。

 

 なのに…毎度のことながら、こうされると手毬は一瞬息を止めてしまう。

 

 自分で言ったくせに、触れられた途端、身体が真っ先に反応する。

 

 肩から力が抜ける。

 胸の奥に溜まっていた熱が、行き場を見つけたようにほどける。

 

 悔しいな。

 

 こんなことで落ち着く自分が、ものすごく悔しい。

 

 本当は…こんなコト求めてるわけじゃないのに。

 

 満足しそうな心を抑えるよう、口を開く。

 

「……分かっててやってますよね?」

 

「何のことでしょう」

 

「…そういう意地悪なところ、いい加減治してほしいんですけど」

 

「………その、抱いてほしい、と言われましたので」

 

「そういう意味じゃないことくらい、分かりますよね?」

 

「……はい」

 

「認めるんだ」

 

「…やっぱり嘘はつけませんので」

 

「…酷くないですか?」

 

「すみません…でもやっぱり、手毬はアイドルなので」

 

「…しばらく放さないでください」

 

「はい」

 

 腕の中で、頭を擦り付けながら、手毬は小さく息を吐いた。

 

 相談に来たはずだった。

 不調の原因を一緒に考えてもらう…それが建前。

 

 当たり前だが、答えは最初からここにあった。

 

 プロデューサーの腕の中。

 名前を呼ばれる距離。

 仕事ではない声。

 触れられる手。

 

 それが欲しかった。

 そして、それ以上が欲しかった。

 

 ここのところ、ずっと、ずっと欲しかったから。

 だから自分は調子を崩していたのだと、手毬は理解した。

 

 自分らしくないな、とも思ったけれど、

 もしかすると、これ以上なく自分らしいのかもしれない。

 

「プロデューサー…」

 

「はい」

 

「最近、身体の違和感が増しているんです……気付いてます?」

 

「……はい」

 

「本当に酷いと思いません?」

 

「…すみません」

 

「…ほったらかしにしてる、プロデューサーのせいですから」

 

「はい」

 

(本当は、私のせいだけど)

 

 手毬は、彼の服を掴んだ。

 

 今回も、なし崩し的にハグだけで済ませようとしているのが分かる。

 分かるから腹が立つ。

 

 優しい。真面目。

 私が大切にされている。

 

 …そんなことは分かっている。

 

 それでも、今の手毬が欲しいのは、アイドルとしての正しさだけではなかった。

 

「ねえ」

 

「はい」

 

「このまま誤魔化す気?」

 

「……誤魔化し通せるとは思っていません」

 

「じゃあ」

 

 手毬は顔を上げた。

 

 目が潤んでいる。頬は紅潮している。

 そんな彼女を前にしているが、

 それでも、プロデューサーは目を逸らさない。

 

「ちゃんと、抱いて欲しいんです」

 

「う…」

 

 プロデューサーの腕に、ほんの少しだけ力が入った。

 

 緊張こそしているが、その反応を手毬は見逃さなかった。

 

 ああ、と内心で思う。

 

 この人も、平気じゃない。

 

 自分だけが乱されているわけではない。

 

 それが分かっただけで、手毬は少しだけ強くなれた。

 

 プロデューサーは、手毬を抱きしめたまま、静かに、そして苦しそうに言った。

 

「……貴女は、まだアイドルでしょう」

 

 手毬は目を伏せた。

 

 分かっていた。

 

 そういう言葉が来ることくらい、最初から分かっていた。

 

 けれど、分かっていても苦しかった。

 

「そうだね」

 

「………万が一にも、子供が出来たら」

 

「……ぅ」

 

 手毬の顔は、先ほどよりも赤くなり、同時に唇を噛んだ。

 

 反論はできない。

 

 彼女はアイドルだ。

 ちょっと大人になっても、自由に見えても、身体のすべてを好き勝手に扱えるわけではない。

 

 歌うための喉。

 踊るための脚。

 光を受ける肌。

 ファンの前に立つ顔。

 

 それらは手毬自身のものでありながら、同時にステージへ預けているものでもあった。

 

 プロデューサーは、誘惑や雰囲気に流されず、それを守ろうとしている。

 

 だから、ずるい。

 

 正しいことを言われると、怒る場所がなくなる。

 

「でも」

 

 手毬は、彼の胸元に額を押しつけた。

 

「どうしようもなく…好きなんです、貴方が」

 

 ちょっと涙が出てしまっている。

 

 責めるような声だった。

 

 けれど、ほとんど縋るような声でもあった。

 

「…ありがとう、ございます。……ですが、万が一…いえ、可能性が例え那由多の彼方だとしても…ダメなものは、ダメなんです」

 

「……うぅ」

 

 手毬は唇を噛んだ。

 

 その反応は、拗ねたようにも見えた。

 拗ねているだけではない。

 

 分かっているのだ。

 

 自分の身体が、もはや自分やプロデューサーだけのものではないことを。

 

 手毬はそれを嫌っていない。

 むしろ誇りに思っている。

 

 だからこそ…とてつもなく、苦しかった。

 

「…好きなのに」

 

 その言葉は、あまりに素直だった。

 

 いつもの手毬なら、もっと遠回りをする。

 もっと皮肉る。

 もっと相手のせいにする。

 

 けれど今夜は、それが出来なかった。

 

「…好きなのに、ずっと我慢してるんですよ?…私」

 

 手毬の声が震える。

 

 プロデューサーは、これ以上にないほど近づいた。

 

 そして、一層…抱きしめた。

 

 自分に比べれば、ずっと細い肩。

 歌で自分を証明しようとしてきた、頑固で、不器用で、どうしようもなく真面目な肩。

 

「…俺も…好きですよ」

 

 耳元で、プロデューサーが言った。

 

「手毬を、愛しています」

 

「……もっと言って」

 

「大切にしたいんです」

 

「…うん」

 

「だから、今夜は我慢を――」

 

「それは言わないで」

 

 手毬は、プロデューサーの服を掴んだ。

 

「最後まで言ったら、もっと泣きますよ?」

 

「……はぁ」

 

 手毬は、彼の胸元に額をぐりぐりと押しつけた。

 

 部屋の空気は、さらに熱を持っている。

 

 月村手毬は感じている。

 何かが始まる前の沈黙、だと。

 

 私が“おねだり”したから。

 アイドルとして…やってはイケないコトが始まりそうな、甘い時間だ。

 

 プロデューサーの手が、今まで触れたことのない、手毬の背中…そして腰を撫でる。

 

「あっ…///」

 

 服越しのゆっくりした愛撫だった。

 

 手毬は、触れられて、びくりと肩を震わせる。

 

「……今の触りかた…いやらしい」

 

「こうされるの、嫌でしたか?」

 

「…嫌じゃないけど」

 

「けど?」

 

「…でも、言い方が変態みたいです」

 

「……俺はまだ何も言っていませんが?」

 

 もう少しで言いそうだったじゃん、と手毬は思った。

 

 嫌じゃない。

 でも変な声出ちゃって、恥ずかしい。

 とめてほしくない。

 

 自分の中にある感情の全部が、もどかしくて、腹立たしい。

 

「手毬さん」

 

「なに」

 

「今夜はここまでです」

 

「……ここまできて、お預けですか!?」

 

 手毬は顔を上げた。

 

 睨んでいる。

 けれど目は潤んでいる。

 

「…プロデューサーは、私のこと好きなんですよね」

 

「好きです」

 

「なら」

 

「好きだからです」

 

 彼は、手毬の髪に触れた。

 

 撫でるだけ。

 ただそれだけなのに、手毬は目を伏せてしまう。

 

 拒めない。

 

 拒めない自分が、また腹立たしい。

 

「…絶対、帰りませんからね!」

 

「はい」

 

「でも、シてくれないんでしょ」

 

「はい」

 

「……じゃあ、もっと抱きしめてよ、代わりに」

 

「…それくらいなら」

 

「朝まで」

 

「……できる限りでいいですか?」

 

 結局、その夜は、二人で最後の線を越えることなかった。

 

 ただ、越えないままだったにしろ、線のすぐ手前まで近づいた、と手毬は感じている。

 

 

   ◇

 

 

 ライブまでの一週間、手毬は毎夜のように“おねだり”をした。

 

 ある日は長くキスをして、ある日は際どく抱きしめられた。

 疲れ切った日は、ひたすら髪を撫でられた。

 どうしようもなく甘えたくなった日は、見透かされたように背中に触れられた。

 

 けれど、最後の線だけは越えない。

 

 その約束を守っているからこそ、二人の夜はかえって濃くなっていった。

 …手毬の熟れた思いという名の果実は、刈り取られることもなく、未だに実り続けている。

 

 そんな日々を送る中、昼間の彼女は、表面上いつも通りだった。

 

 不機嫌そうで。口数が少なくて。

 プロデューサー以外から褒められると、ちょっと嫌そうな顔をして。

 でも、歌い始めると、誰よりも真剣で。

 

 けれど、ふとした瞬間に意識が飛ぶ。

 

 プロデューサーの声を思い出す。

 昨日の夜、髪を撫でられた感触を思い出す。

 耳元で「綺麗です」と囁かれた時の、身体の奥からほどけるような感覚を思い出す。

 

 腹立たしい。

 

 こんなことで乱され続ける自分が嫌だった。

 でも、夜になればまた自分からノコノコと部屋へ行く。

 

 もっと腹立たしい。

 

 しかも厄介なことに、その乱れは、隠せているようで隠せていなかった。

 学園の廊下を歩いているだけで、向けられる視線が増えた。

 

 最初は気のせいだと思った。

 ライブ前だから注目されているだけ。

 月村手毬というアイドルに、期待が集まっているだけ。

 

 そう思おうとした。

 けれど、違ったみたいだ。

 

「月村先輩、あの……すごく綺麗です」

 

 すれ違った後輩が、勇気を振り絞るように声をかけてきた。

 

 手毬は足を止めた。

 

「急にどうしたの?」

 

「え?あ、い、いや、その…えーと」

 

 後輩は顔を赤くして、ノートを差し出した。

 

「あの、よかったらサイン、もらえませんか…今の月村先輩から頂きたいんです!」

 

「……今?」

 

「はい。今日じゃないと…なにかもったいない気がして」

 

 意味が分からない。

 

 分からないが、キラキラ向けてくる視線に悪意ではないことだけは分かった。

 

 手毬は少し眉をひそめたまま、差し出されたペンを受け取る。

 

「あなた、名前は?」

 

「えっ、あ、書いてくれるんですか?」

 

「書かない方がいいの?」

 

「書いてください!」

 

 後輩の声が少し大きくなり、近くにいた生徒が振り返った。

 

 それが悪かった。

 

「あ、月村さんだ」

 

「サインもらってる?」

 

「え、いいなー」

 

「今日の月村さん、なんか写真より綺麗じゃない?」

 

 数人が近づいてくる。

 

 手毬は、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「……並ばないで欲しいんだけど」

 

「え?並んだらいいんですか?」

 

「いいって言ってない」

 

 結局、追加で三人分のサインを書いた。

 

 逃げるように教室へ向かう途中でも、何度か声をかけられた。

 

 いつもなら、もっと遠巻きだった。

 クールで近寄りがたい月村手毬。

 歌はすごいけれど、下手に話しかけると氷点下の返事が返ってきそうなアイドル。

 

 そう思われていたはずだった。

 

 なのに、その日の手毬は、妙に人を引き寄せた。

 

 近づきがたいままなのに、目を離せない。

 冷たそうなのに、どこか柔らかい。

 拒んでいるように見えるのに、ほんの少しだけ隙がある。

 

 その矛盾が、人の足を止めていた。

 

 手毬にとっては迷惑だった。

 

 いや、迷惑なはずだった。

 

 けれど、声をかけられるたびに、昨夜のプロデューサーの声が蘇る。

 

 綺麗です。

 

 その言葉が、昼間の学園で別の人間の口からも繰り返される。

 

 まるで、隠していたものを見透かされているようだった。

 

 落ち着かないし、腹立たしい。

 

 でも、ほんの少しだけ。

 

 ……嬉しくないわけではなかった。

 

 

 レッスンが終わって、いつもの教室に戻った手毬は、タオルで汗を拭きながら水を飲んでいた。

 

 その手つきも、いつもより少しだけゆっくりだった。

 

 喉を通る水の冷たさを、身体が妙に意識している。

 そんな自分に気づいて、手毬はますます不機嫌な顔になった。

 

 咲季が、じっとその顔を見る。

 

 咲季はこういう時、遠慮しない。

 勝負相手の変化には敏感だ。

 肌の調子や表情などという曖昧なものも、彼女にとってはコンディションの一部だった。

 

「……ねえ、手毬」

 

「なに」

 

「今日、廊下でサイン求められてたわよね」

 

 手毬は少しむせた。

 

「ごほっ……見てたの?」

 

「見えたのよ。というか、ちょっとした列になってたじゃない」

 

「列じゃない。三人」

 

「そこはどうでもいいの」

 

 咲季は腕を組み、手毬を正面から見る。

 

 その目は、友人のものでもあり、ライバルのものでもあった。

 

「最近、手毬に声かける子、増えてない?」

 

「知らない」

 

「知らないわけないでしょ。今日なんて、レッスン室に来るまでに何回止められてたのよ」

 

「……数えてない」

 

「私は数えたわ。七回」

 

「…気持ちワル、暇なの?」

 

「単なるライバルの状態確認よ」

 

「言い方こわ…」

 

「それで」

 

 咲季は少し言いづらそうに、しかし逃げずに言った。

 

「最近……その、色っぽくない?」

 

 手毬は水を飲む手を止めた。

 

「は?揶揄ってる?」

 

「怒らないでよ。褒めてるの」

 

「だとしたら、咲季の褒め方下手すぎない?」

 

「肌の艶がいい。目も煌めいてる。あと、動きも表情も柔らかい」

 

「……それ、褒めてる?」

 

「褒めてるわよ。悔しいけど」

 

 咲季は一度、ちょっぴり唇を尖らせた。

 

 彼女はそういうところで、驚くほどまっすぐだった。

 

「手毬…貴女のビジュアルは過去最高だと思う」

 

「……そ、そう?」

 

「それに声もいい。高音に行く前に、変な力が入ってない」

 

「それはいつもじゃん」

 

「いつも以上に手強いわよ…でも、そんな貴女に勝ちたいわ」

 

「……咲季らしいね」

 

「でしょう?」

 

 咲季は少し胸を張ったあと、すぐに真顔に戻る。

 

「でも、アドバイスさせて。…貴女、どんな時でも上の空になる瞬間があるわ」

 

 手毬の肩が、わずかに跳ねた。

 

「ない」

 

「ある」

 

「ない」

 

「ある。今日の二曲目、入りが半拍遅れた。三曲目のサビ前も、視線が一瞬泳いだ」

 

「……細か、流石に本当に気持ち悪いって」

 

「仕方ないじゃない。貴女に勝ちたいんだから…それで…」

 

「おつかれー」

 

 そこへ、ことねが戻ってきた。

 

 手にはペットボトル。

 

「…え、なになに? この空気」

 

「…助けて、ことね」

 

「こ邪魔しないで、ことね」

 

「いや、私来たばっかりなんだけど…?んで、これは手毬の歌の話なん??…そ・れ・と・も、廊下でモテ散らかしてた話?」

 

 手毬は顔をしかめた。

 

「…ことねも見てたんだ。モテ散らかしてないって」

 

「散らかしてたって。購買の前でも声かけられてたじゃん。『月村さん、今日めっちゃ綺麗です』って。私、隣で聞いてたもん」

 

「そこにもいたの?」

 

「いたよ。手毬、気づいてなかったけど」

 

「……最悪」

 

「最悪じゃないでしょ。いいことじゃん。サインも求められてたし」

 

 ことねは、ペットボトルを机に置き、手毬の顔を覗き込んだ。

 

 ことねは、可愛さをただの感覚で終わらせない。

 どう見えるか。

 どこが武器になるか。

 誰に刺さるか。

 そのあたりを、妙に現実的に見ている。

 

 だからこそ、手毬の変化にも容赦がない。

 

「…うん。やっぱ違うナー」

 

「そうよねそうよね!」

 

「…何が?」

 

「手毬の目」

 

「…また目?」

 

「目は大事でしょ。今の手毬、カメラマンが寄りたくなる目してる」

 

「意味分からない」

 

「分かりやすく言うと、引きが強い。見た人が『何考えてるんだろ』って勝手に深読みする感じ」

 

「なるほど…ことね、良い言語化するわね」

 

「勝手に言語化しないでほしいんだけど…」

 

「でもそれが売れるってことなんだよな。アイドルは商売ですから」

 

「ことねが言うと妙に生々しいね」

 

「…生きていくにはお金がいるので」

 

 目を逸らしたことねに対して、

 咲季が呆れたように息を吐いた。

 

「ことね、逸れてるわ」

 

「…いや、でも大事じゃん?手毬、今かなり商品力上がってる」

 

「商品って言わないで」

 

「じゃあ、魅力?」

 

 ことねはけらけら笑ったあと、少しだけ声を落とした。

 

「…んでさ、ほんとに何かあったん?」

 

 手毬は答えなかった。

 

 ことねの目は、咲季とは違う意味で鋭い。

 

 咲季は、ステージに出る変化を見る。

 ことねは、人に見られる時の変化を見る。

 

 どちらから見ても、今の手毬は明らかに違っているらしい。

 

「寝不足?」

 

「……少し」

 

「だけど肌は荒れてないわ!」

 

「咲季、うるさい」

 

「ご飯ちゃんと食べてる?」

 

「食べてる」

 

「むしろめちゃくちゃ整ってる顔してるんだよね。…寝不足でこれなら、世の美容法が泣くよ」

 

「知らないよ」

 

「あと、なんと言うか……満たされてないのに、満たされかけてる顔っていうの?」

 

 手毬の肩が跳ねた。

 

 咲季が眉をひそめる。

 

「満たされてないのに、満たされかけてる?」

 

「うん。言い方むずいんだけどさ。今の手毬って、完全にご機嫌ってわけじゃないの。むしろ焦れてる。でも、その焦れ方が顔に出て、妙に艶になってるというか…」

 

「……ことね?」

 

「アッハイ、黙ります」

 

 ことねは黙った。

 

 顔は全然黙っていなかった。

 

 咲季は少し考えるように手毬を見る。

 

「……つまり、コンディションは上がってる。でも集中が一瞬飛ぶ」

 

「咲季までまとめないで」

 

「大事なことよ。ライブ一週間前なんだから」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「分かってる」

 

「じゃあ、何に気を取られてるの?」

 

 手毬は、視線を逸らした。

 

 図星だった。

 

 身体の調子はいい。

 喉も開く。

 肌も荒れていない。

 表情も、鏡で見て分かるくらい整っている。

 

 けれど、意識だけが少し浮いている。

 

 夜の記憶が、昼間の自分に滲んでくる。

 アイドルとして整えた身体が、恋人として触れられた記憶を覚えてしまっている。

 

 不健全だった。

 背徳的だった。

 それなのに、ステージに立つ自分が綺麗になっている。

 

 その矛盾が、手毬をいっそう落ち着かなくさせた。

 

「別に」

 

 手毬は、ようやくそう言った。

 

 咲季とことねが、同時に目を細めた。

 

「別に、ね」

 

「別に、だって」

 

「なに」

 

「ううん?」

 

「何でもないわ」

 

「二人とも腹立つ」

 

 ことねが笑う。

 

「まあ、いいんじゃない? 手毬が綺麗になるなら」

 

「よくない」

 

「よくないの?」

 

「……知らない」

 

 咲季は、少しだけ真面目な声になった。

 

「でも、本番で意識飛ばさないでよ」

 

「飛ばない」

 

「ならいいわ。今の手毬は強い。だからこそ、変なところで崩れたらもったいないもの!」

 

 手毬は少しだけ黙った。

 

 咲季の言葉は、時々まっすぐすぎて逃げ場がない。

 

「……分かってる」

 

「なら、よし」

 

 ことねが、にやりと笑う。

 

「んで、手毬」

 

「なに」

 

「今日このあと、予定ある?」

 

「……ないよ」

 

「間が怪しい」

 

「…ない」

 

「夜に誰かと会ったり?」

 

「…ない」

 

「今の目、絶対ある」

 

「ことね」

 

「はい黙ります」

 

 ことねは二度目の降参ポーズをした。

 

 ただし、口だけだった。

 

「でもさ、もし何かあるなら、ちゃんと寝なよ。今の手毬、ビジュアルは強いけど、疲れてるように見えるからさ」

 

「……分かってる、ありがとう」

 

「あと、サイン頼まれた時の顔、もうちょっと柔らかくした方がいいよ。怖いから」

 

 その日の昼、手毬はいつもより多く名前を呼ばれた。

 

 廊下で。

 購買の前で。

 レッスン室の入り口で。

 

「月村さん、写真集みたいでした」

 

「次のライブ、絶対見ます」

 

「今日の髪、すごく似合ってます」

 

「あの、サイン……いいですか?」

 

 そのたびに手毬は、少し嫌そうな顔をした。

 

 けれど、断りきれない。

 

 ペンを受け取り、名前を書き、短く一言添える。

 

 その一言だけで、相手は嬉しそうに笑う。

 

 手毬は、その笑顔を見るたびに妙な気持ちになった。

 

 自分が綺麗になっている。

 そう見られている。

 

 その理由を、誰も知らない。

 

 夜ごとプロデューサーの部屋で、抱きしめられ、焦らされ、触れられ、最後の線だけを残されていることなど、誰も知らない。

 

 知らないまま、みんなが今の手毬を褒める。

 

 結果的に、その一週間で月村手毬の評判はさらに上がった。

 歌の調子がいい。

 表情が大人びた。

 写真映えがする。

 

 そんな言葉が、学園のあちこちで囁かれた。

 

 そして手毬は、そのたびに不機嫌そうな顔をした。

 

 不機嫌そうな顔をしながら、夜になるとまた、プロデューサーの部屋へ向かった。

 

 自分が日に日におかしくなっていることを、手毬はもう否定できなかった。

 

 けれど同時に。

 

 日に日に綺麗になっていることも、否定できなかった。

 

 その夜、手毬はいつもより早くプロデューサーの部屋を訪ねた。

 

 ドアが開くなり、彼女は中へ入った。

 

「手毬さん」

 

「もう無理」

 

 第一声が、それだった。

 

 プロデューサーは、ドアを閉める。

 

「……何が、でしょうか」

 

「分かってるくせに聞かないで」

 

「確認は必要ですよ」

 

「そういうところ、本当に嫌い」

 

「すみません」

 

「でも嫌いじゃない」

 

「はい」

 

「今の忘れて」

 

「難しいです」

 

「最低」

 

 いつものやり取りだった。

 

 けれど、いつもより声に熱がある。

 

 手毬は俯いたまま、プロデューサーに近づく。

 

「ずっと変なんです」

 

「はい」

 

「レッスン中も、寝る前も、起きた時も。プロデューサーの声、思い出す」

 

「……はい」

 

「キスも」

 

「はい」

 

「抱きしめるのも」

 

「はい」

 

「その……撫でられるのでも」

 

 そこで、手毬は言葉を止めた。

 

 自分で言って、自分で赤くなる。

 

 その顔を見て、プロデューサーの理性がわずかに軋んだ。

 

 この数日、彼も平気ではなかった。

 

 手毬を抱きしめていた。

 キスをしていた。

 髪を撫で、背中に触れ、震える肩を受け止めていた。

 

 それでも最後までは進まない。

 

 そう決めていたからこそ、触れるたびに欲が濃くなる。

 

 守っているはずなのに、焦らしている。

 大切にしているはずなのに、苦しめている。

 

 その矛盾が、彼の中にも積もりに積もっていた。

 

   ◇

 

 結果的に、手毬は欲求不満を抱えたまま、ライブを成功させた。

 

 文句なしの大成功だった。

 その日の手毬は、これまでの月村手毬とは少し違って見えたらしい。

 

 声は深く、表情は大人びて、視線にはどこか艶があった。

 後日公開されたブロマイドにも、その変化ははっきり残っていた。

 

 そう。

 その日は、特別だった。

 

 一言の言葉で片づけるには惜しいほどだった。

 手毬の歌は、いつもより深く、いつもより柔らかく、そして、いつもより遠くまで届いた。

 

 咲季は悔しそうに笑っていた。

 ことねは「今日の手毬、ちょっと反則」と言った。

 スタッフも、ファンも、誰もが熱に浮かされたように拍手を送っていた。

 

 けれど、手毬自身がいちばん分かっていた。

 

 今日の自分は、少し違った。

 

 この一週間、ずっと身体の奥に残っていた熱。

 触れられて、止められて、焦らされて、言葉だけでほどかれてきたもの。

 

 それらが全て、ステージの上で歌に変わった。

 

 だからこそ、終演後の高揚はなかなか引かなかった。

 

 ホテルで長時間シャワーを浴びても。

 念入りに髪を乾かしても。

 ベッドに入って、目を閉じても。

 

 全く、眠れない。

 

 身体は…とても疲れている。

 喉も、脚も、確かに今日一日を使い切った感覚がある。

 それなのに、胸の奥だけがまだ鳴っていた。

 

 歓声の残響。

 照明の熱。

 それらに照らされる中ででも、一瞬見てしまったプロデューサー。

 

 思い出した瞬間、手毬は枕を抱えた。

 

「……寝られないな」

 

 小さく呟いても、部屋は何も答えなかった。

 

 分かっていた。

 今の自分がどこへ行きたいのか、何をしたいのかくらい、もう分かりきっていた。

 

 だから手毬は、しばらく天井を睨んだ後、諦めたように一息つき、起き上がった。

 

 夜のホテルの廊下には、誰もいなくて静かだった。

 それもそのはず。

 スタッフもアイドルも、それぞれの部屋で疲れを癒している時間。

 

 そんな中、手毬だけが、さながら本番の続きにいるような感覚で歩いていた。

 

 向かった先は、プロデューサーの部屋だった。

 

 ノックをする。

 

 少しの間があって、気配がした。

 

「私です。廊下には今…誰もいません」

 

 ドアが開いた。

 

「……手毬、さん」

 

「やっぱり、起きてましたか」

 

 予想通り、プロデューサーも、眠っていなかった。

 

 むしろ、いつもより目が冴えているように見えた。

 彼が着ているのはラフなシャツ。

 襟元は少し緩んでいる。

 

 彼の胸元に見とれる手毬の鼻腔をくすぐるのは、ほんのりとしたアルコールの匂い。

 見れば、テーブルの上には小さなグラスが置かれている。

 

 珍しいな、と手毬は思った。

 

 プロデューサーがお酒を飲んでいるところなど、ほとんど見たことがない。

 

「……飲んでたんですか?」

 

「まあ……冷蔵庫にあったものを、少しだけです」

 

「プロデューサーが??」

 

「…眠れなくて…今日くらいは、いいかと思いまして」

 

 そう言って、彼は少しだけ困ったように笑った。

 

 その笑い方が、いつもよりも無防備だった。

 

 酒のせいだけではない。

 たぶん、今日のライブのせいだ。

 

 プロデューサーも、興奮が冷めていないのだと分かった。

 

「ふーん、プロデューサーも眠れなかったんだ?」

 

「はい」

 

「私も」

 

「……正直、そうだと思ってました」

 

「入っていい?」

 

「もちろんいいですよ、どうぞ」

 

 どこか、今日の彼はガードが甘く見える。

 普段とは違う、胸の高鳴りを携えて、部屋に入る。

 部屋に入ると、空気が少しだけ甘かった。

 

 お酒の匂い。

 ライブ後の熱。

 そして、この一週間で二人の間に染みついた、言葉にしづらい親密さ。

 

 手毬は何も言わずにソファーに向かい、プロデューサーが座っていたであろう痕跡の隣に座った。

 

 この一週間と同じように。

 

 彼も座ってくれる。

 

 距離は近い。

 肩が触れる。

 手毬はそれを避けない。

 

 むしろ、自分からさらに寄った。

 

「……今日」

 

「はい」

 

「よかったですか?」

 

「最高でした」

 

 即答だった。

 

 あまりにも迷いのない返事に、手毬は少しだけ面食らう。

 

「そ、そうですか」

 

「本当に、最高でした」

 

「二回言わなくていい」

 

「何度だって、言わせてください」

 

 プロデューサーの声が、いつもより柔らかい。

 

 酒が入っているせいか。

 それとも、今日のステージを見たせいか。

 

 たぶん、両方だった。

 

「手毬さん」

 

「なに」

 

「今日の貴女は、最高に綺麗でした」

 

「……知ってる」

 

「知っていても言います。綺麗でした。歌も、表情も、立ち姿も、一番でした」

 

「…」

 

「嫌ですか?」

 

「嫌じゃないけど」

 

 手毬は、プロデューサーの袖を軽く掴んだ。

 

 その仕草は、この一週間で覚えたものだった。

 言葉で甘えるのが下手な手毬が、代わりに選ぶ合図。

 

 プロデューサーは、それを見て少しだけ息を吐いた。

 

 手毬を撫でながら答える。

 

「……酒が入っていると、よくないですね」

 

「何が」

 

「口が緩みますし、自制が効きません」

 

「いつもより?」

 

「かなり」

 

「じゃあ、もっと言って」

 

 手毬は顔を上げた。

 

「今日の私、どうだった?」

 

 プロデューサーは、少し黙った。

 

 普段なら、ここで言葉を選ぶ。

 プロデューサーとして、アイドルを褒める言葉を選ぶ。

 

 だが今夜の彼は、少しだけ違った。

 すらすらと、本音の言葉が紡がれる。

 

「眩しかったです」

 

「……」

 

「怖いくらいに」

 

「怖い?」

 

「はい。俺はステージの上の貴女を見ていて、誇らしかった。嬉しかった。けれど同時に……」

 

 プロデューサーは、そこで言葉を止めた。

 

 手毬は袖を掴む指に力を込める。

 

「同時に?」

 

「誰にも見せたくないな、と思いました」

 

 手毬の呼吸が止まった。

 

 その言葉は、プロデューサーとしては失格だった。

 けれど、恋人としてはあまりにも甘かった。

 だから、手毬はニヤケ顔で言う。

 

「……最低ですよ?」

 

「はい」

 

「プロデューサーが言っていいことじゃないです」

 

「分かっています」

 

「でも、嬉しいです」

 

 手毬は、肩を寄せた。

 

 プロデューサーは苦笑した。

 

 その顔は少し赤い。

 酒のせいか、手毬のせいか。

 

 おそらく、今夜は…否、どちらでもよかった。

 

「この一週間、ずっと思っていました」

 

「何をですか?」

 

「俺が触れるたびに、貴女が綺麗になる」

 

「…続けてください」

 

「抱きしめるだけで、何百色にも表情が変わる。髪を撫でるだけで、何千色にも声が柔らかくなる。そして…キスの後は、目が……」

 

「そこまで言わなくていい」

 

「すみません」

 

「でも、覚えててください」

 

「忘れません、絶対」

 

 手毬は、プロデューサーの胸元に額を預けた。

 

 この一週間と同じだった。

 

 抱きしめられる。

 髪を撫でられる。

 耳元で名前を呼ばれる。

 

 ただ、それだけ。

 

 それだけのはずなのに、今日の夜はいつもより危うかった。

 

 ライブを終えた昂り。

 少しだけ入った酒。

 緩んだ口。

 そして、互いにもう十分すぎるほど触れ合ってしまった記憶。

 

 慣れたプロデューサーの手が、手毬の背中へ回る。

 

 慣れた手毬は、それを拒まなかった。

 

 思う存分、手毬を堪能したプロデューサーは、酔っていたからか、一度だけ口を滑らせた。

 

「……こういう触れ合い方を“ポリネシアン”と呼ぶんでしたっけ」

 

 手毬は、僅かに眉をひそめた。

 

「なんなんです?その言葉」

 

「急がず、長い時間をかけて、触れ合いや言葉で親密さや……お互いの愛を深める方法だったはずです」

 

「ふーん」

 

「不満足ですか?」

 

「…いや。別に、こういうのも嫌いじゃないです、し」

 

「そうですか」

 

 プロデューサーは、敢えて手を止めた。

 

「…プロデューサー?」

 

「なんですか?」

 

「……言わせないで欲しいんですけど?」

 

 手毬は顔を上げた。

 

 目が潤んでいる。

 少し怒っている。

 それに困っている。

 それでも、逃げない。

 

   「…とても疼いて、仕方ないんです」

 

 その言葉に、部屋の空気が止まった。

 

 手毬自身も、自分で言った言葉の強さに驚いたようだった。

 だが、取り消さなかった。

 

 プロデューサーは、目を伏せる。

 

「手毬」

 

「名前呼ばないで。余計に変な気分になる」

 

「……俺もです」

 

「…え?」

 

「俺も、そろそろ限界です」

 

 手毬の目が揺れた。

 

「……じゃあ!」

 

「ですが!」

 

「またそれ?!」

 

「何度でも言います」

 

「分かってる」

 

「貴女の身体は、貴女だけのものではありません…引退ライブだって、まだまだ先です」

 

「分かってる」

 

「輝く貴女のステージを…待っている人がいます」

 

「分かってるって言ってる」

 

「…俺だって、その一人です」

 

 手毬は言葉を失った。

 

 それは反則だった。

 

 プロデューサーとしての言葉。

 恋人としての言葉。

 その両方が混ざっている。

 

 責めたいのに、責められない。

 

「ずるい」

 

「はい」

 

「そう言えば、私が我慢すると思ってる」

 

「思っていません」

 

「私…とっても辛かった。この一週間は特に」

 

「知ってます」

 

「…じゃあどうするの?」

 

「一緒に考えたいんです、許容出来るラインを」

 

「……考えるだけじゃ、もう無理だってば」

 

 縋るような手毬の声は、小さかった。

 

 プロデューサーは、彼女の頬に触れた。

 顔にかかった、髪を払う。

 

 その手つきは、慎重だった。

 急接近した、目と目が合う。

 

「今の手毬は、過去最高に綺麗です」

 

「…今それ言う?」

 

「綺麗すぎて、困っています」

 

 全く話を聞かないで、続けるプロデューサーに対して、手毬の顔が赤くなる。

 

 完成されたアイドルを前に…プロデューサーは、美しさから溜息が出た。

 

 その短い沈黙の間に、理性がいくつも頭をよぎる。

 

 体調。将来。

 …子供が出来る可能性。

 世間に知られた時のこと。

 

 …俺たちは、プロデューサーとアイドルという、どうしようもなく危うい関係。

 

 その全部を分かった上で、手毬はここにいる。

 

 先週から続く管理をされに来たのではない。

 恋人として、愛されたいと来たのだ。

 

「……分かりました」

 

「何が?」

 

「……分かりました」

 

「何が?」

 

「正直、俺も限界です」

 

 手毬は目を閉じた。

 

 ギュッと瞑ったその表情を見て、プロデューサーは感じた。

 

 この一週間、彼女はよく耐えていた。

 今日の歌のために。

 今日のライブのために。

 アイドルである自分を守るために。

 

 だが、その我慢は、もう美談では済まないところまで来ている、と。

 

 昼間の集中の途切れ。

 ふとした瞬間に遠くなる視線。

 夜を重ねるたびに、少しずつ切実さを増していく声。

 

 不満は、ただの欲求ではなくなりつつあった。

 

 抑えつけすぎれば、かえって心身に悪い。

 彼女の歌にも、表情にも、生活にも、じわじわと影を落とし始めている。

 

 直接、最後の線を越えるつもりはない。

 それは、まだ違う。

 

 けれど、何もしないまま「我慢してください」と言い続けるのも、もう違う。

 

 プロデューサーは、手毬を守りたかった。

 同時に、彼女の○○として、彼女の辛さをほどいてやりたかった。

 

 欲を否定するのではなく、二人で抱えられる範囲に落とす。

 それが今、自分にできるぎりぎりの判断だった。

 

 だが。

 

 そこまで考えても、彼の手はまだ止まっていた。

 

 どうにも、素面のままでは、最後の踏ん切りがつかない。

 

 俺のこの手で、満足させたい。

 苦しさを逃がしてやりたい。

 それでも、理性が何度も袖を引く。

 

 壊してはいけない。

 踏み込みすぎてはいけない。

 

 その声が強すぎる。

 

 このままでは、また中途半端に彼女を焦らすだけになるかもしれない。

 優しさの形をした寸止めで、余計に手毬を追い詰めるかもしれない。

 

 プロデューサーは、テーブルの上に置かれたグラスを見た。

 

 まだ残っている。

 

「……少しだけ、待ってくださいね」

 

「え?」

 

「もう逃げるわけではありませんので」

 

 彼はグラスを手に取った。

 

 手毬が目を開ける。

 

「……まだ飲むの?」

 

「少しだけです」

 

「酔って誤魔化す気?」

 

「違いますよ」

 

「じゃあ、何」

 

「知ってます?俺って案外臆病なんです」

 

 その言葉に、手毬は黙った。

 

 プロデューサーは、苦く笑う。

 

「貴女に触れることが、怖いんです」

 

「……」

 

「大切だから。アイドルだから。恋人だから。どの理由も本当で、本気なんです。でもどれを選んでも言い訳になる」

 

 グラスの中身が、小さく揺れた。

 

「だから、少しだけ。判断を失うためではなく……踏み出すために」

 

「…変な人」

 

「はい」

 

「お酒に溺れて手を出すのって、最低なシチュエーションですよ」

 

「はい」

 

「でも」

 

 手毬は、彼から目を逸らさなかった。

 

「逃げないなら、いいです」

 

 プロデューサーは頷き、グラスを傾けた。

 

 喉を通る酒は、熱かった。

 

 だが、酔いに身を預けるほどではない。

 ただ、胸の奥で固まっていた躊躇を、ほんの少しだけ溶かす程度。

 

 グラスを置く音が、部屋に落ちた。

 

 その音を合図にしたように、手毬が一歩近づく。

 

「プロデューサー」

 

「はい」

 

「今日は、誤魔化さないで」

 

「はい」

 

「最後までは、しないんでしょ」

 

「絶対しません」

 

「でも、ちゃんと………ぁ」

 

 手毬はそこで言葉を詰まらせた。

 

 続きを言うには、まだ恥ずかしすぎた。

 

 プロデューサーは、彼女の頬に触れる。

 

「分かっています」

 

「……本当に?」

 

「はい」

 

「途中で、また止めたりしない?」

 

「失神しそうになったり、止めるべきところでは止めます」

 

「そういう意味じゃないです」

 

「はい」

 

「……意地悪」

 

 手毬の声が、少しだけほどけた。

 

 プロデューサーは、しっかりと彼女を抱き寄せた。

 

 いつもの抱擁より、少しだけ強く。

 いつものキスより、少しだけ深く。

 

 それでも、乱暴ではなかった。

 

 触れてはいけないものに触れるように。

 けれど、もう触れないふりはしないように。

 

 手毬の指が、彼のシャツを掴んだ。

 

「……名前、呼んで」

 

「手毬」

 

「もっと」

 

「手毬」

 

「……ん」

 

 それ以上の言葉は、夜に溶けた。

 

 部屋の灯りが、一つ落ちる。

 

 最後の線だけは残したまま、二人はその手前にあるものを、今夜初めて誤魔化さずに見た。

 

 何が行われたのかを、言葉にする必要はなかった。

 

 ただ、長い夜だった。

 

 呼吸が乱れ、名前が何度も落ち、拒むためではない「待って」が何度か挟まった。

 そのたびに、プロデューサーは止まり、確かめ、また手毬の様子を見ながら進めた。

 

 手毬は、自分がどれだけ我慢していたのかを、その夜になってようやく知った。

 

 そして。

 

 暗転。

 

  ◇

 

 しばらくして、部屋には浅い呼吸だけが残っていた。

 

 手毬は、ベッドにうつ伏せになっていた。

 

 肩で息をしている。

 喉の奥で、まだ言葉にならない息が揺れている。

 

 頬は火照り、目尻にはうっすら涙が滲んでいた。

 泣いたわけではない。

 けれど、泣いた後のような顔をしていた。

 

 髪は少し乱れている。

 上着の裾も、ほんのわずかにずれている。

 

 何もかもが決定的ではない。

 けれど、何もなかったとは到底言えない。

 

 その曖昧さが、かえって淫靡で、彼の理性の砦を壊そうとしてくる。

 

「……っ、は……」

 

 手毬は、息を整えようとして失敗した。

 

 胸元に手を当て、何度か深く呼吸をする。

 

 身体の奥に溜まっていた熱が、ようやく逃げ道を見つけたようだった。

 まだ全部ではない。

 それでも、張り詰めていたものがほどけていく感覚がある。

 

 プロデューサーは、少し離れたところに膝をついていた。

 

 その顔も、平静ではなかった。

 

 酒のせいだけではない。

 手毬を見てしまったせいだ。

 

 彼女がアイドルとしてではなく、恋人として息を乱す姿を。

 恥ずかしさに耐えきれず視線を逸らし、それでも手を離さなかった姿を。

 

 見てしまった。

 

 もう、知らなかった頃には戻れない。

 

「……手毬」

 

「ちょ…ちょっと休憩させてください」

 

「すみません」

 

 手毬は、目を伏せたまま言った。

 

 プロデューサーは息を止めた。

 

 手毬は、ゆっくりと顔を上げる。

 彼を見る。

 

 瞳はまだ潤んでいた。

 怒っているようにも、拗ねているようにも、甘えているようにも見えた。

 

「……最低、バカ」

 

「はい」

 

「変態」

 

「はい」

 

「プロデューサーのくせに」

 

「はい」

 

「でも」

 

 手毬は、震える指で彼の袖を掴んだ。

 

「……気持ちよかった」

 

 その言葉に、プロデューサーの表情がわずかに緩んだ。

 

「よかったです」

 

 手毬は、小さく息を吐いた。

 

 プロデューサーは、彼女の髪に触れようとして、少しだけ手を止めた。

 

「触れても?」

 

「今さら聞くの、言わされてるみたいで腹立つんですけど?」

 

「確認は必要です」

 

「……いい」

 

 彼の指が、乱れた髪をゆっくりと整える。

 

 その仕草だけで、手毬はまた目を細めた。

 

「……もう少ししたら」

 

「はい」

 

「……その、また」

 

「はい」

 

 プロデューサーは、手毬を静かに、優しく撫で続ける。

 

 手毬の呼吸は、まだ少し荒い。

 身体も、完全には落ち着いていない。

 

 だが、さっきまでの切迫感は薄れていた。

 

 欲求不満の棘が抜け、残ったのは、熱の名残と、ひどく甘い疲労だった。

 

「……一週間」

 

「はい」

 

「本当に、つらかったです」

 

「知っています」

 

「知ってて、焦らした」

 

「はい」

 

「酷いです」

 

「はい」

 

「でも、今日みたいにしてくれるなら」

 

 手毬はそこで言葉を止めた。

 

 続きを言う勇気は、まだなかった。

 

 プロデューサーは、それ以上を急かさなかった。

 

「無理はしません」

 

「うん」

 

「最後の線も、越えません……その、しばらくは」

 

「……うん」

 

「でも、苦しい時は、言ってください」

 

「言ったら?」

 

「一緒に考えます」

 

「また考えるだけ?」

 

「今夜は、特別ですから」

 

 手毬の顔が一気に赤くなった。

 

「言い方」

 

「すみません」

 

「……でも」

 

 手毬は、彼の胸元で小さく呟いた。

 

「今のは、ちょっと好き」

 

 夜は、まだ静かだった。

 

 けれど、二人の間にあった張り詰めたものは、少しだけ形を変えていた。

 

 越えてはいけない線は、まだそこにある。

 だが、その手前で互いを救う方法を、二人は知ってしまった。

 

 それが正しいかどうかは、まだ分からない。

 

 ただ、手毬はその夜、久しぶりに深く息を吸えた……。

 

 

 

 

 

ATTENTION!!

※これ考えてたんですけど、あんまりにも直球だったのでやめたやつです(笑)

 

「提案があります」

 

 手毬は、嫌な予感がした。

 

「……なに」

 

「いわゆる、“後ろ”という選択肢もあります」

 

 手毬の時間が止まった。

 

 意味は分かった。

 分かってしまった。

 

 だから、余計に顔が熱くなる。

 

「へ」

 

「はい」

 

「へ、へ、変態なんじゃないですか!?」

 

「言われると思いました」

 

「思ったなら言わないで!」

 

「理由は幾つかあります」

 

「聞きたくない!」

 

「一番は、出来る心配が無いということです」

 

「う、う、ぅぅ〜……!」

 

 手毬は両手で顔を覆った。

 

 

 




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

「触れられるほど綺麗になる手毬」と、「守りたいのに焦らしてしまうプロデューサー」の話でした。

手毬は素直じゃないけど、欲しいものにはかなり正直だと思っています。
そしてプロデューサーも、理性で止めているだけで、別に平気なわけではない…でしょ!?

最後のおまけは、考えたものの本編に入れるにはあんまりにも直球すぎたネタです(笑)

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