これは、月村手毬とプロデューサーが、焦がされるような一週間の果てに迎える、特別な夜の話。
タイトル通り、かなり甘く、けっこー背徳寄り。
(自分の中では)成人済み設定のため、原作時間軸そのままではありません。
匂わせ・艶っぽい描写を含みますが、直接的な描写は避けています。……多分ね!!
手毬がライブ前の一週間、プロデューサーとの関係の中で少しずつ変わっていく話です。
咲季とことねも少し出ます。
月村手毬は、そろそろ夢見る少女ではなくなってきた、と自分では思っている。
ステージに立つ意味も、歌で何を背負うのかも、自分の意思と言葉で選べる年齢になった。
けれど、大人になったからといって、自由になったわけではない。
むしろ、大人になった分だけ、責任や触れてはいけないものの輪郭は鮮明になる。
彼女は、どこまでもアイドルだった。
仕事。
人気。
ファン。
将来。
………そして、昔からは考えられないプロデューサーとの関係。
誰にも言えないこと、言ってはいけないこと。
それこそ、SyngUp!の二人にも。
普段口に出せないものだからこそ、この夜は……月村手毬とそのプロデューサー、二人だけのものになっていた。
◇
その夜、手毬はプロデューサーの部屋の前に立っていた。
ノックをするまでに、逡巡し、三秒ほどかかった。
もっとも、その三秒は、手毬にとってはひどく長く感じられたのだが。
ドアが開く。
「……月村さん?」
「……いま、他には誰も居ないですよ? プロデューサー」
ノックする前に、周囲を見渡した。
だから、間違いない。
念のため、プロデューサーも部屋から顔を出して、周りを見渡す。
そして、ため息。
「……入っていいですよ、手毬」
親しくない人間が見れば、いつもの調子だ、と評価するだろう。
短い返事。不機嫌そうな目。
感情を隠すために、余計にぶっきらぼうになる癖。
けれど、プロデューサーには分かる。
仕事の相談に来たわけではない、と。
プロデューサーの部屋には、散らばる資料としっかりとしたコーヒーの匂いが残っていた。
今日は、大きなライブの一週間前。
手毬が来たというのに、
彼は、まだ仕事の顔をしていた。
それが、少し腹立たしかった。
……自分だけが、女の顔をしている気がしたからだ。
「……私、今日は帰りませんからね?」
「あの……手毬?」
「だから帰らないってば」
「まだ何も言っていませんが……」
「言われる前に言ったんです」
「でも明日は……」
「昼からレッスンでしょ? 知ってるから」
「睡眠時間を削るのは……いただけませんが」
手毬は、目の前に腰掛けたプロデューサーを見る。
本当は、相談に来たのだ。
ここ最近、自分でも分かるほど…なんというか…調子が悪かった。
歌えないわけではない。
声は出るし、身体も動く。
けれど、どこか身体の芯が浮いている感じ。
時たま呼吸が浅くなり、集中が続かない。
レッスン中、ふとした瞬間に意識が逸れる。
最初は、ライブ前の緊張なのだと思った。
大きなステージの一週間前なら、多少の乱れはあって当然だ。
そう自分に言い聞かせた。
…けれど、違う。
私は分かっている。
今までこんなことはなかった。
これは、
緊張ではない。不安でもない。
体調不良でも、たぶんない。
…見えないプロデューサーを追ってしまう、自分がいた。
歌いながら、踊りながら、鏡越しに彼の顔を確認してしまう自分がいた。
褒められたい。認められたい。
最初から思っていたそういう気持ちだけならば、まだよかった。
問題は、…その先だった。
もっと近くで見てほしい。
やがてそれは、褒められたい、認められたい、という気持ちだけでは収まらなくなっていく。
自分だけに向ける表情で見てほしい。
アイドルとしてではなく、月村手毬として触れてほしい。
そんな思いが強まっていくにつれて、手毬の不調は大きくなり、そして名前を変えた。
これは体調ではない。
コンディションの乱れではない。
…欲だ。
それも、身体の奥からせり上がってくる種類の。
しかも、ひどく面倒で、みっともなくて、腹立たしい欲。
プロデューサーのところまで来たのは、その相談のためだった。
最近、調子が悪い。
集中できない。
どうすればいいか分からない。
そんな感じで、言うつもりだった。
けれど、目の前にした瞬間に、言いたかったことは消えた。
私の疼き。
これは、全てこの人のせいだ。
そして、この人なら治せる。
「……プロデューサー」
「はい?」
「そろそろ、さ」
「はい」
「……抱いてほしいんだけど」
話すにつれて、声は小さくなった。
だが、小さいだけで、決して弱くはなかった。
ここのところ…ずっと、吐き出そうとしては、飲み込んできた言葉だったから。
何度も胸の内に押し返して、それでも……毎日、夜になるたびに、彼を前にしては暴れ回って喉元まで上がってきた言葉。
それを、手毬はようやく言った。
プロデューサーは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、手毬の頬に熱を集める。
「……何か言ってよ」
「簡単に出来る返事が…思いつきません」
「知ってる」
「……こう、ですかね?」
そう言って、プロデューサーは手毬の手を引く。
自身はソファーに座り、さらに引き寄せる。
そうして、膝の上に乗せた手毬を、そっと抱きしめた。
手毬が求めていたものとは違う、
あまりにも丁寧なハグだった。
壊れ物を扱うような、けれど距離だけは確かに近い、ずるい抱きしめ方。
…こういうコトをする関係になって、それなりが経つ。
なのに…毎度のことながら、こうされると手毬は一瞬息を止めてしまう。
自分で言ったくせに、触れられた途端、身体が真っ先に反応する。
肩から力が抜ける。
胸の奥に溜まっていた熱が、行き場を見つけたようにほどける。
悔しいな。
こんなことで落ち着く自分が、ものすごく悔しい。
本当は…こんなコト求めてるわけじゃないのに。
満足しそうな心を抑えるよう、口を開く。
「……分かっててやってますよね?」
「何のことでしょう」
「…そういう意地悪なところ、いい加減治してほしいんですけど」
「………その、抱いてほしい、と言われましたので」
「そういう意味じゃないことくらい、分かりますよね?」
「……はい」
「認めるんだ」
「…やっぱり嘘はつけませんので」
「…酷くないですか?」
「すみません…でもやっぱり、手毬はアイドルなので」
「…しばらく放さないでください」
「はい」
腕の中で、頭を擦り付けながら、手毬は小さく息を吐いた。
相談に来たはずだった。
不調の原因を一緒に考えてもらう…それが建前。
当たり前だが、答えは最初からここにあった。
プロデューサーの腕の中。
名前を呼ばれる距離。
仕事ではない声。
触れられる手。
それが欲しかった。
そして、それ以上が欲しかった。
ここのところ、ずっと、ずっと欲しかったから。
だから自分は調子を崩していたのだと、手毬は理解した。
自分らしくないな、とも思ったけれど、
もしかすると、これ以上なく自分らしいのかもしれない。
「プロデューサー…」
「はい」
「最近、身体の違和感が増しているんです……気付いてます?」
「……はい」
「本当に酷いと思いません?」
「…すみません」
「…ほったらかしにしてる、プロデューサーのせいですから」
「はい」
(本当は、私のせいだけど)
手毬は、彼の服を掴んだ。
今回も、なし崩し的にハグだけで済ませようとしているのが分かる。
分かるから腹が立つ。
優しい。真面目。
私が大切にされている。
…そんなことは分かっている。
それでも、今の手毬が欲しいのは、アイドルとしての正しさだけではなかった。
「ねえ」
「はい」
「このまま誤魔化す気?」
「……誤魔化し通せるとは思っていません」
「じゃあ」
手毬は顔を上げた。
目が潤んでいる。頬は紅潮している。
そんな彼女を前にしているが、
それでも、プロデューサーは目を逸らさない。
「ちゃんと、抱いて欲しいんです」
「う…」
プロデューサーの腕に、ほんの少しだけ力が入った。
緊張こそしているが、その反応を手毬は見逃さなかった。
ああ、と内心で思う。
この人も、平気じゃない。
自分だけが乱されているわけではない。
それが分かっただけで、手毬は少しだけ強くなれた。
プロデューサーは、手毬を抱きしめたまま、静かに、そして苦しそうに言った。
「……貴女は、まだアイドルでしょう」
手毬は目を伏せた。
分かっていた。
そういう言葉が来ることくらい、最初から分かっていた。
けれど、分かっていても苦しかった。
「そうだね」
「………万が一にも、子供が出来たら」
「……ぅ」
手毬の顔は、先ほどよりも赤くなり、同時に唇を噛んだ。
反論はできない。
彼女はアイドルだ。
ちょっと大人になっても、自由に見えても、身体のすべてを好き勝手に扱えるわけではない。
歌うための喉。
踊るための脚。
光を受ける肌。
ファンの前に立つ顔。
それらは手毬自身のものでありながら、同時にステージへ預けているものでもあった。
プロデューサーは、誘惑や雰囲気に流されず、それを守ろうとしている。
だから、ずるい。
正しいことを言われると、怒る場所がなくなる。
「でも」
手毬は、彼の胸元に額を押しつけた。
「どうしようもなく…好きなんです、貴方が」
ちょっと涙が出てしまっている。
責めるような声だった。
けれど、ほとんど縋るような声でもあった。
「…ありがとう、ございます。……ですが、万が一…いえ、可能性が例え那由多の彼方だとしても…ダメなものは、ダメなんです」
「……うぅ」
手毬は唇を噛んだ。
その反応は、拗ねたようにも見えた。
拗ねているだけではない。
分かっているのだ。
自分の身体が、もはや自分やプロデューサーだけのものではないことを。
手毬はそれを嫌っていない。
むしろ誇りに思っている。
だからこそ…とてつもなく、苦しかった。
「…好きなのに」
その言葉は、あまりに素直だった。
いつもの手毬なら、もっと遠回りをする。
もっと皮肉る。
もっと相手のせいにする。
けれど今夜は、それが出来なかった。
「…好きなのに、ずっと我慢してるんですよ?…私」
手毬の声が震える。
プロデューサーは、これ以上にないほど近づいた。
そして、一層…抱きしめた。
自分に比べれば、ずっと細い肩。
歌で自分を証明しようとしてきた、頑固で、不器用で、どうしようもなく真面目な肩。
「…俺も…好きですよ」
耳元で、プロデューサーが言った。
「手毬を、愛しています」
「……もっと言って」
「大切にしたいんです」
「…うん」
「だから、今夜は我慢を――」
「それは言わないで」
手毬は、プロデューサーの服を掴んだ。
「最後まで言ったら、もっと泣きますよ?」
「……はぁ」
手毬は、彼の胸元に額をぐりぐりと押しつけた。
部屋の空気は、さらに熱を持っている。
月村手毬は感じている。
何かが始まる前の沈黙、だと。
私が“おねだり”したから。
アイドルとして…やってはイケないコトが始まりそうな、甘い時間だ。
プロデューサーの手が、今まで触れたことのない、手毬の背中…そして腰を撫でる。
「あっ…///」
服越しのゆっくりした愛撫だった。
手毬は、触れられて、びくりと肩を震わせる。
「……今の触りかた…いやらしい」
「こうされるの、嫌でしたか?」
「…嫌じゃないけど」
「けど?」
「…でも、言い方が変態みたいです」
「……俺はまだ何も言っていませんが?」
もう少しで言いそうだったじゃん、と手毬は思った。
嫌じゃない。
でも変な声出ちゃって、恥ずかしい。
とめてほしくない。
自分の中にある感情の全部が、もどかしくて、腹立たしい。
「手毬さん」
「なに」
「今夜はここまでです」
「……ここまできて、お預けですか!?」
手毬は顔を上げた。
睨んでいる。
けれど目は潤んでいる。
「…プロデューサーは、私のこと好きなんですよね」
「好きです」
「なら」
「好きだからです」
彼は、手毬の髪に触れた。
撫でるだけ。
ただそれだけなのに、手毬は目を伏せてしまう。
拒めない。
拒めない自分が、また腹立たしい。
「…絶対、帰りませんからね!」
「はい」
「でも、シてくれないんでしょ」
「はい」
「……じゃあ、もっと抱きしめてよ、代わりに」
「…それくらいなら」
「朝まで」
「……できる限りでいいですか?」
結局、その夜は、二人で最後の線を越えることなかった。
ただ、越えないままだったにしろ、線のすぐ手前まで近づいた、と手毬は感じている。
◇
ライブまでの一週間、手毬は毎夜のように“おねだり”をした。
ある日は長くキスをして、ある日は際どく抱きしめられた。
疲れ切った日は、ひたすら髪を撫でられた。
どうしようもなく甘えたくなった日は、見透かされたように背中に触れられた。
けれど、最後の線だけは越えない。
その約束を守っているからこそ、二人の夜はかえって濃くなっていった。
…手毬の熟れた思いという名の果実は、刈り取られることもなく、未だに実り続けている。
そんな日々を送る中、昼間の彼女は、表面上いつも通りだった。
不機嫌そうで。口数が少なくて。
プロデューサー以外から褒められると、ちょっと嫌そうな顔をして。
でも、歌い始めると、誰よりも真剣で。
けれど、ふとした瞬間に意識が飛ぶ。
プロデューサーの声を思い出す。
昨日の夜、髪を撫でられた感触を思い出す。
耳元で「綺麗です」と囁かれた時の、身体の奥からほどけるような感覚を思い出す。
腹立たしい。
こんなことで乱され続ける自分が嫌だった。
でも、夜になればまた自分からノコノコと部屋へ行く。
もっと腹立たしい。
しかも厄介なことに、その乱れは、隠せているようで隠せていなかった。
学園の廊下を歩いているだけで、向けられる視線が増えた。
最初は気のせいだと思った。
ライブ前だから注目されているだけ。
月村手毬というアイドルに、期待が集まっているだけ。
そう思おうとした。
けれど、違ったみたいだ。
「月村先輩、あの……すごく綺麗です」
すれ違った後輩が、勇気を振り絞るように声をかけてきた。
手毬は足を止めた。
「急にどうしたの?」
「え?あ、い、いや、その…えーと」
後輩は顔を赤くして、ノートを差し出した。
「あの、よかったらサイン、もらえませんか…今の月村先輩から頂きたいんです!」
「……今?」
「はい。今日じゃないと…なにかもったいない気がして」
意味が分からない。
分からないが、キラキラ向けてくる視線に悪意ではないことだけは分かった。
手毬は少し眉をひそめたまま、差し出されたペンを受け取る。
「あなた、名前は?」
「えっ、あ、書いてくれるんですか?」
「書かない方がいいの?」
「書いてください!」
後輩の声が少し大きくなり、近くにいた生徒が振り返った。
それが悪かった。
「あ、月村さんだ」
「サインもらってる?」
「え、いいなー」
「今日の月村さん、なんか写真より綺麗じゃない?」
数人が近づいてくる。
手毬は、露骨に嫌そうな顔をした。
「……並ばないで欲しいんだけど」
「え?並んだらいいんですか?」
「いいって言ってない」
結局、追加で三人分のサインを書いた。
逃げるように教室へ向かう途中でも、何度か声をかけられた。
いつもなら、もっと遠巻きだった。
クールで近寄りがたい月村手毬。
歌はすごいけれど、下手に話しかけると氷点下の返事が返ってきそうなアイドル。
そう思われていたはずだった。
なのに、その日の手毬は、妙に人を引き寄せた。
近づきがたいままなのに、目を離せない。
冷たそうなのに、どこか柔らかい。
拒んでいるように見えるのに、ほんの少しだけ隙がある。
その矛盾が、人の足を止めていた。
手毬にとっては迷惑だった。
いや、迷惑なはずだった。
けれど、声をかけられるたびに、昨夜のプロデューサーの声が蘇る。
綺麗です。
その言葉が、昼間の学園で別の人間の口からも繰り返される。
まるで、隠していたものを見透かされているようだった。
落ち着かないし、腹立たしい。
でも、ほんの少しだけ。
……嬉しくないわけではなかった。
レッスンが終わって、いつもの教室に戻った手毬は、タオルで汗を拭きながら水を飲んでいた。
その手つきも、いつもより少しだけゆっくりだった。
喉を通る水の冷たさを、身体が妙に意識している。
そんな自分に気づいて、手毬はますます不機嫌な顔になった。
咲季が、じっとその顔を見る。
咲季はこういう時、遠慮しない。
勝負相手の変化には敏感だ。
肌の調子や表情などという曖昧なものも、彼女にとってはコンディションの一部だった。
「……ねえ、手毬」
「なに」
「今日、廊下でサイン求められてたわよね」
手毬は少しむせた。
「ごほっ……見てたの?」
「見えたのよ。というか、ちょっとした列になってたじゃない」
「列じゃない。三人」
「そこはどうでもいいの」
咲季は腕を組み、手毬を正面から見る。
その目は、友人のものでもあり、ライバルのものでもあった。
「最近、手毬に声かける子、増えてない?」
「知らない」
「知らないわけないでしょ。今日なんて、レッスン室に来るまでに何回止められてたのよ」
「……数えてない」
「私は数えたわ。七回」
「…気持ちワル、暇なの?」
「単なるライバルの状態確認よ」
「言い方こわ…」
「それで」
咲季は少し言いづらそうに、しかし逃げずに言った。
「最近……その、色っぽくない?」
手毬は水を飲む手を止めた。
「は?揶揄ってる?」
「怒らないでよ。褒めてるの」
「だとしたら、咲季の褒め方下手すぎない?」
「肌の艶がいい。目も煌めいてる。あと、動きも表情も柔らかい」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてるわよ。悔しいけど」
咲季は一度、ちょっぴり唇を尖らせた。
彼女はそういうところで、驚くほどまっすぐだった。
「手毬…貴女のビジュアルは過去最高だと思う」
「……そ、そう?」
「それに声もいい。高音に行く前に、変な力が入ってない」
「それはいつもじゃん」
「いつも以上に手強いわよ…でも、そんな貴女に勝ちたいわ」
「……咲季らしいね」
「でしょう?」
咲季は少し胸を張ったあと、すぐに真顔に戻る。
「でも、アドバイスさせて。…貴女、どんな時でも上の空になる瞬間があるわ」
手毬の肩が、わずかに跳ねた。
「ない」
「ある」
「ない」
「ある。今日の二曲目、入りが半拍遅れた。三曲目のサビ前も、視線が一瞬泳いだ」
「……細か、流石に本当に気持ち悪いって」
「仕方ないじゃない。貴女に勝ちたいんだから…それで…」
「おつかれー」
そこへ、ことねが戻ってきた。
手にはペットボトル。
「…え、なになに? この空気」
「…助けて、ことね」
「こ邪魔しないで、ことね」
「いや、私来たばっかりなんだけど…?んで、これは手毬の歌の話なん??…そ・れ・と・も、廊下でモテ散らかしてた話?」
手毬は顔をしかめた。
「…ことねも見てたんだ。モテ散らかしてないって」
「散らかしてたって。購買の前でも声かけられてたじゃん。『月村さん、今日めっちゃ綺麗です』って。私、隣で聞いてたもん」
「そこにもいたの?」
「いたよ。手毬、気づいてなかったけど」
「……最悪」
「最悪じゃないでしょ。いいことじゃん。サインも求められてたし」
ことねは、ペットボトルを机に置き、手毬の顔を覗き込んだ。
ことねは、可愛さをただの感覚で終わらせない。
どう見えるか。
どこが武器になるか。
誰に刺さるか。
そのあたりを、妙に現実的に見ている。
だからこそ、手毬の変化にも容赦がない。
「…うん。やっぱ違うナー」
「そうよねそうよね!」
「…何が?」
「手毬の目」
「…また目?」
「目は大事でしょ。今の手毬、カメラマンが寄りたくなる目してる」
「意味分からない」
「分かりやすく言うと、引きが強い。見た人が『何考えてるんだろ』って勝手に深読みする感じ」
「なるほど…ことね、良い言語化するわね」
「勝手に言語化しないでほしいんだけど…」
「でもそれが売れるってことなんだよな。アイドルは商売ですから」
「ことねが言うと妙に生々しいね」
「…生きていくにはお金がいるので」
目を逸らしたことねに対して、
咲季が呆れたように息を吐いた。
「ことね、逸れてるわ」
「…いや、でも大事じゃん?手毬、今かなり商品力上がってる」
「商品って言わないで」
「じゃあ、魅力?」
ことねはけらけら笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「…んでさ、ほんとに何かあったん?」
手毬は答えなかった。
ことねの目は、咲季とは違う意味で鋭い。
咲季は、ステージに出る変化を見る。
ことねは、人に見られる時の変化を見る。
どちらから見ても、今の手毬は明らかに違っているらしい。
「寝不足?」
「……少し」
「だけど肌は荒れてないわ!」
「咲季、うるさい」
「ご飯ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「むしろめちゃくちゃ整ってる顔してるんだよね。…寝不足でこれなら、世の美容法が泣くよ」
「知らないよ」
「あと、なんと言うか……満たされてないのに、満たされかけてる顔っていうの?」
手毬の肩が跳ねた。
咲季が眉をひそめる。
「満たされてないのに、満たされかけてる?」
「うん。言い方むずいんだけどさ。今の手毬って、完全にご機嫌ってわけじゃないの。むしろ焦れてる。でも、その焦れ方が顔に出て、妙に艶になってるというか…」
「……ことね?」
「アッハイ、黙ります」
ことねは黙った。
顔は全然黙っていなかった。
咲季は少し考えるように手毬を見る。
「……つまり、コンディションは上がってる。でも集中が一瞬飛ぶ」
「咲季までまとめないで」
「大事なことよ。ライブ一週間前なんだから」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
「じゃあ、何に気を取られてるの?」
手毬は、視線を逸らした。
図星だった。
身体の調子はいい。
喉も開く。
肌も荒れていない。
表情も、鏡で見て分かるくらい整っている。
けれど、意識だけが少し浮いている。
夜の記憶が、昼間の自分に滲んでくる。
アイドルとして整えた身体が、恋人として触れられた記憶を覚えてしまっている。
不健全だった。
背徳的だった。
それなのに、ステージに立つ自分が綺麗になっている。
その矛盾が、手毬をいっそう落ち着かなくさせた。
「別に」
手毬は、ようやくそう言った。
咲季とことねが、同時に目を細めた。
「別に、ね」
「別に、だって」
「なに」
「ううん?」
「何でもないわ」
「二人とも腹立つ」
ことねが笑う。
「まあ、いいんじゃない? 手毬が綺麗になるなら」
「よくない」
「よくないの?」
「……知らない」
咲季は、少しだけ真面目な声になった。
「でも、本番で意識飛ばさないでよ」
「飛ばない」
「ならいいわ。今の手毬は強い。だからこそ、変なところで崩れたらもったいないもの!」
手毬は少しだけ黙った。
咲季の言葉は、時々まっすぐすぎて逃げ場がない。
「……分かってる」
「なら、よし」
ことねが、にやりと笑う。
「んで、手毬」
「なに」
「今日このあと、予定ある?」
「……ないよ」
「間が怪しい」
「…ない」
「夜に誰かと会ったり?」
「…ない」
「今の目、絶対ある」
「ことね」
「はい黙ります」
ことねは二度目の降参ポーズをした。
ただし、口だけだった。
「でもさ、もし何かあるなら、ちゃんと寝なよ。今の手毬、ビジュアルは強いけど、疲れてるように見えるからさ」
「……分かってる、ありがとう」
「あと、サイン頼まれた時の顔、もうちょっと柔らかくした方がいいよ。怖いから」
その日の昼、手毬はいつもより多く名前を呼ばれた。
廊下で。
購買の前で。
レッスン室の入り口で。
「月村さん、写真集みたいでした」
「次のライブ、絶対見ます」
「今日の髪、すごく似合ってます」
「あの、サイン……いいですか?」
そのたびに手毬は、少し嫌そうな顔をした。
けれど、断りきれない。
ペンを受け取り、名前を書き、短く一言添える。
その一言だけで、相手は嬉しそうに笑う。
手毬は、その笑顔を見るたびに妙な気持ちになった。
自分が綺麗になっている。
そう見られている。
その理由を、誰も知らない。
夜ごとプロデューサーの部屋で、抱きしめられ、焦らされ、触れられ、最後の線だけを残されていることなど、誰も知らない。
知らないまま、みんなが今の手毬を褒める。
結果的に、その一週間で月村手毬の評判はさらに上がった。
歌の調子がいい。
表情が大人びた。
写真映えがする。
そんな言葉が、学園のあちこちで囁かれた。
そして手毬は、そのたびに不機嫌そうな顔をした。
不機嫌そうな顔をしながら、夜になるとまた、プロデューサーの部屋へ向かった。
自分が日に日におかしくなっていることを、手毬はもう否定できなかった。
けれど同時に。
日に日に綺麗になっていることも、否定できなかった。
その夜、手毬はいつもより早くプロデューサーの部屋を訪ねた。
ドアが開くなり、彼女は中へ入った。
「手毬さん」
「もう無理」
第一声が、それだった。
プロデューサーは、ドアを閉める。
「……何が、でしょうか」
「分かってるくせに聞かないで」
「確認は必要ですよ」
「そういうところ、本当に嫌い」
「すみません」
「でも嫌いじゃない」
「はい」
「今の忘れて」
「難しいです」
「最低」
いつものやり取りだった。
けれど、いつもより声に熱がある。
手毬は俯いたまま、プロデューサーに近づく。
「ずっと変なんです」
「はい」
「レッスン中も、寝る前も、起きた時も。プロデューサーの声、思い出す」
「……はい」
「キスも」
「はい」
「抱きしめるのも」
「はい」
「その……撫でられるのでも」
そこで、手毬は言葉を止めた。
自分で言って、自分で赤くなる。
その顔を見て、プロデューサーの理性がわずかに軋んだ。
この数日、彼も平気ではなかった。
手毬を抱きしめていた。
キスをしていた。
髪を撫で、背中に触れ、震える肩を受け止めていた。
それでも最後までは進まない。
そう決めていたからこそ、触れるたびに欲が濃くなる。
守っているはずなのに、焦らしている。
大切にしているはずなのに、苦しめている。
その矛盾が、彼の中にも積もりに積もっていた。
◇
結果的に、手毬は欲求不満を抱えたまま、ライブを成功させた。
文句なしの大成功だった。
その日の手毬は、これまでの月村手毬とは少し違って見えたらしい。
声は深く、表情は大人びて、視線にはどこか艶があった。
後日公開されたブロマイドにも、その変化ははっきり残っていた。
そう。
その日は、特別だった。
一言の言葉で片づけるには惜しいほどだった。
手毬の歌は、いつもより深く、いつもより柔らかく、そして、いつもより遠くまで届いた。
咲季は悔しそうに笑っていた。
ことねは「今日の手毬、ちょっと反則」と言った。
スタッフも、ファンも、誰もが熱に浮かされたように拍手を送っていた。
けれど、手毬自身がいちばん分かっていた。
今日の自分は、少し違った。
この一週間、ずっと身体の奥に残っていた熱。
触れられて、止められて、焦らされて、言葉だけでほどかれてきたもの。
それらが全て、ステージの上で歌に変わった。
だからこそ、終演後の高揚はなかなか引かなかった。
ホテルで長時間シャワーを浴びても。
念入りに髪を乾かしても。
ベッドに入って、目を閉じても。
全く、眠れない。
身体は…とても疲れている。
喉も、脚も、確かに今日一日を使い切った感覚がある。
それなのに、胸の奥だけがまだ鳴っていた。
歓声の残響。
照明の熱。
それらに照らされる中ででも、一瞬見てしまったプロデューサー。
思い出した瞬間、手毬は枕を抱えた。
「……寝られないな」
小さく呟いても、部屋は何も答えなかった。
分かっていた。
今の自分がどこへ行きたいのか、何をしたいのかくらい、もう分かりきっていた。
だから手毬は、しばらく天井を睨んだ後、諦めたように一息つき、起き上がった。
夜のホテルの廊下には、誰もいなくて静かだった。
それもそのはず。
スタッフもアイドルも、それぞれの部屋で疲れを癒している時間。
そんな中、手毬だけが、さながら本番の続きにいるような感覚で歩いていた。
向かった先は、プロデューサーの部屋だった。
ノックをする。
少しの間があって、気配がした。
「私です。廊下には今…誰もいません」
ドアが開いた。
「……手毬、さん」
「やっぱり、起きてましたか」
予想通り、プロデューサーも、眠っていなかった。
むしろ、いつもより目が冴えているように見えた。
彼が着ているのはラフなシャツ。
襟元は少し緩んでいる。
彼の胸元に見とれる手毬の鼻腔をくすぐるのは、ほんのりとしたアルコールの匂い。
見れば、テーブルの上には小さなグラスが置かれている。
珍しいな、と手毬は思った。
プロデューサーがお酒を飲んでいるところなど、ほとんど見たことがない。
「……飲んでたんですか?」
「まあ……冷蔵庫にあったものを、少しだけです」
「プロデューサーが??」
「…眠れなくて…今日くらいは、いいかと思いまして」
そう言って、彼は少しだけ困ったように笑った。
その笑い方が、いつもよりも無防備だった。
酒のせいだけではない。
たぶん、今日のライブのせいだ。
プロデューサーも、興奮が冷めていないのだと分かった。
「ふーん、プロデューサーも眠れなかったんだ?」
「はい」
「私も」
「……正直、そうだと思ってました」
「入っていい?」
「もちろんいいですよ、どうぞ」
どこか、今日の彼はガードが甘く見える。
普段とは違う、胸の高鳴りを携えて、部屋に入る。
部屋に入ると、空気が少しだけ甘かった。
お酒の匂い。
ライブ後の熱。
そして、この一週間で二人の間に染みついた、言葉にしづらい親密さ。
手毬は何も言わずにソファーに向かい、プロデューサーが座っていたであろう痕跡の隣に座った。
この一週間と同じように。
彼も座ってくれる。
距離は近い。
肩が触れる。
手毬はそれを避けない。
むしろ、自分からさらに寄った。
「……今日」
「はい」
「よかったですか?」
「最高でした」
即答だった。
あまりにも迷いのない返事に、手毬は少しだけ面食らう。
「そ、そうですか」
「本当に、最高でした」
「二回言わなくていい」
「何度だって、言わせてください」
プロデューサーの声が、いつもより柔らかい。
酒が入っているせいか。
それとも、今日のステージを見たせいか。
たぶん、両方だった。
「手毬さん」
「なに」
「今日の貴女は、最高に綺麗でした」
「……知ってる」
「知っていても言います。綺麗でした。歌も、表情も、立ち姿も、一番でした」
「…」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど」
手毬は、プロデューサーの袖を軽く掴んだ。
その仕草は、この一週間で覚えたものだった。
言葉で甘えるのが下手な手毬が、代わりに選ぶ合図。
プロデューサーは、それを見て少しだけ息を吐いた。
手毬を撫でながら答える。
「……酒が入っていると、よくないですね」
「何が」
「口が緩みますし、自制が効きません」
「いつもより?」
「かなり」
「じゃあ、もっと言って」
手毬は顔を上げた。
「今日の私、どうだった?」
プロデューサーは、少し黙った。
普段なら、ここで言葉を選ぶ。
プロデューサーとして、アイドルを褒める言葉を選ぶ。
だが今夜の彼は、少しだけ違った。
すらすらと、本音の言葉が紡がれる。
「眩しかったです」
「……」
「怖いくらいに」
「怖い?」
「はい。俺はステージの上の貴女を見ていて、誇らしかった。嬉しかった。けれど同時に……」
プロデューサーは、そこで言葉を止めた。
手毬は袖を掴む指に力を込める。
「同時に?」
「誰にも見せたくないな、と思いました」
手毬の呼吸が止まった。
その言葉は、プロデューサーとしては失格だった。
けれど、恋人としてはあまりにも甘かった。
だから、手毬はニヤケ顔で言う。
「……最低ですよ?」
「はい」
「プロデューサーが言っていいことじゃないです」
「分かっています」
「でも、嬉しいです」
手毬は、肩を寄せた。
プロデューサーは苦笑した。
その顔は少し赤い。
酒のせいか、手毬のせいか。
おそらく、今夜は…否、どちらでもよかった。
「この一週間、ずっと思っていました」
「何をですか?」
「俺が触れるたびに、貴女が綺麗になる」
「…続けてください」
「抱きしめるだけで、何百色にも表情が変わる。髪を撫でるだけで、何千色にも声が柔らかくなる。そして…キスの後は、目が……」
「そこまで言わなくていい」
「すみません」
「でも、覚えててください」
「忘れません、絶対」
手毬は、プロデューサーの胸元に額を預けた。
この一週間と同じだった。
抱きしめられる。
髪を撫でられる。
耳元で名前を呼ばれる。
ただ、それだけ。
それだけのはずなのに、今日の夜はいつもより危うかった。
ライブを終えた昂り。
少しだけ入った酒。
緩んだ口。
そして、互いにもう十分すぎるほど触れ合ってしまった記憶。
慣れたプロデューサーの手が、手毬の背中へ回る。
慣れた手毬は、それを拒まなかった。
思う存分、手毬を堪能したプロデューサーは、酔っていたからか、一度だけ口を滑らせた。
「……こういう触れ合い方を“ポリネシアン”と呼ぶんでしたっけ」
手毬は、僅かに眉をひそめた。
「なんなんです?その言葉」
「急がず、長い時間をかけて、触れ合いや言葉で親密さや……お互いの愛を深める方法だったはずです」
「ふーん」
「不満足ですか?」
「…いや。別に、こういうのも嫌いじゃないです、し」
「そうですか」
プロデューサーは、敢えて手を止めた。
「…プロデューサー?」
「なんですか?」
「……言わせないで欲しいんですけど?」
手毬は顔を上げた。
目が潤んでいる。
少し怒っている。
それに困っている。
それでも、逃げない。
「…とても疼いて、仕方ないんです」
その言葉に、部屋の空気が止まった。
手毬自身も、自分で言った言葉の強さに驚いたようだった。
だが、取り消さなかった。
プロデューサーは、目を伏せる。
「手毬」
「名前呼ばないで。余計に変な気分になる」
「……俺もです」
「…え?」
「俺も、そろそろ限界です」
手毬の目が揺れた。
「……じゃあ!」
「ですが!」
「またそれ?!」
「何度でも言います」
「分かってる」
「貴女の身体は、貴女だけのものではありません…引退ライブだって、まだまだ先です」
「分かってる」
「輝く貴女のステージを…待っている人がいます」
「分かってるって言ってる」
「…俺だって、その一人です」
手毬は言葉を失った。
それは反則だった。
プロデューサーとしての言葉。
恋人としての言葉。
その両方が混ざっている。
責めたいのに、責められない。
「ずるい」
「はい」
「そう言えば、私が我慢すると思ってる」
「思っていません」
「私…とっても辛かった。この一週間は特に」
「知ってます」
「…じゃあどうするの?」
「一緒に考えたいんです、許容出来るラインを」
「……考えるだけじゃ、もう無理だってば」
縋るような手毬の声は、小さかった。
プロデューサーは、彼女の頬に触れた。
顔にかかった、髪を払う。
その手つきは、慎重だった。
急接近した、目と目が合う。
「今の手毬は、過去最高に綺麗です」
「…今それ言う?」
「綺麗すぎて、困っています」
全く話を聞かないで、続けるプロデューサーに対して、手毬の顔が赤くなる。
完成されたアイドルを前に…プロデューサーは、美しさから溜息が出た。
その短い沈黙の間に、理性がいくつも頭をよぎる。
体調。将来。
…子供が出来る可能性。
世間に知られた時のこと。
…俺たちは、プロデューサーとアイドルという、どうしようもなく危うい関係。
その全部を分かった上で、手毬はここにいる。
先週から続く管理をされに来たのではない。
恋人として、愛されたいと来たのだ。
「……分かりました」
「何が?」
「……分かりました」
「何が?」
「正直、俺も限界です」
手毬は目を閉じた。
ギュッと瞑ったその表情を見て、プロデューサーは感じた。
この一週間、彼女はよく耐えていた。
今日の歌のために。
今日のライブのために。
アイドルである自分を守るために。
だが、その我慢は、もう美談では済まないところまで来ている、と。
昼間の集中の途切れ。
ふとした瞬間に遠くなる視線。
夜を重ねるたびに、少しずつ切実さを増していく声。
不満は、ただの欲求ではなくなりつつあった。
抑えつけすぎれば、かえって心身に悪い。
彼女の歌にも、表情にも、生活にも、じわじわと影を落とし始めている。
直接、最後の線を越えるつもりはない。
それは、まだ違う。
けれど、何もしないまま「我慢してください」と言い続けるのも、もう違う。
プロデューサーは、手毬を守りたかった。
同時に、彼女の○○として、彼女の辛さをほどいてやりたかった。
欲を否定するのではなく、二人で抱えられる範囲に落とす。
それが今、自分にできるぎりぎりの判断だった。
だが。
そこまで考えても、彼の手はまだ止まっていた。
どうにも、素面のままでは、最後の踏ん切りがつかない。
俺のこの手で、満足させたい。
苦しさを逃がしてやりたい。
それでも、理性が何度も袖を引く。
壊してはいけない。
踏み込みすぎてはいけない。
その声が強すぎる。
このままでは、また中途半端に彼女を焦らすだけになるかもしれない。
優しさの形をした寸止めで、余計に手毬を追い詰めるかもしれない。
プロデューサーは、テーブルの上に置かれたグラスを見た。
まだ残っている。
「……少しだけ、待ってくださいね」
「え?」
「もう逃げるわけではありませんので」
彼はグラスを手に取った。
手毬が目を開ける。
「……まだ飲むの?」
「少しだけです」
「酔って誤魔化す気?」
「違いますよ」
「じゃあ、何」
「知ってます?俺って案外臆病なんです」
その言葉に、手毬は黙った。
プロデューサーは、苦く笑う。
「貴女に触れることが、怖いんです」
「……」
「大切だから。アイドルだから。恋人だから。どの理由も本当で、本気なんです。でもどれを選んでも言い訳になる」
グラスの中身が、小さく揺れた。
「だから、少しだけ。判断を失うためではなく……踏み出すために」
「…変な人」
「はい」
「お酒に溺れて手を出すのって、最低なシチュエーションですよ」
「はい」
「でも」
手毬は、彼から目を逸らさなかった。
「逃げないなら、いいです」
プロデューサーは頷き、グラスを傾けた。
喉を通る酒は、熱かった。
だが、酔いに身を預けるほどではない。
ただ、胸の奥で固まっていた躊躇を、ほんの少しだけ溶かす程度。
グラスを置く音が、部屋に落ちた。
その音を合図にしたように、手毬が一歩近づく。
「プロデューサー」
「はい」
「今日は、誤魔化さないで」
「はい」
「最後までは、しないんでしょ」
「絶対しません」
「でも、ちゃんと………ぁ」
手毬はそこで言葉を詰まらせた。
続きを言うには、まだ恥ずかしすぎた。
プロデューサーは、彼女の頬に触れる。
「分かっています」
「……本当に?」
「はい」
「途中で、また止めたりしない?」
「失神しそうになったり、止めるべきところでは止めます」
「そういう意味じゃないです」
「はい」
「……意地悪」
手毬の声が、少しだけほどけた。
プロデューサーは、しっかりと彼女を抱き寄せた。
いつもの抱擁より、少しだけ強く。
いつものキスより、少しだけ深く。
それでも、乱暴ではなかった。
触れてはいけないものに触れるように。
けれど、もう触れないふりはしないように。
手毬の指が、彼のシャツを掴んだ。
「……名前、呼んで」
「手毬」
「もっと」
「手毬」
「……ん」
それ以上の言葉は、夜に溶けた。
部屋の灯りが、一つ落ちる。
最後の線だけは残したまま、二人はその手前にあるものを、今夜初めて誤魔化さずに見た。
何が行われたのかを、言葉にする必要はなかった。
ただ、長い夜だった。
呼吸が乱れ、名前が何度も落ち、拒むためではない「待って」が何度か挟まった。
そのたびに、プロデューサーは止まり、確かめ、また手毬の様子を見ながら進めた。
手毬は、自分がどれだけ我慢していたのかを、その夜になってようやく知った。
そして。
暗転。
◇
しばらくして、部屋には浅い呼吸だけが残っていた。
手毬は、ベッドにうつ伏せになっていた。
肩で息をしている。
喉の奥で、まだ言葉にならない息が揺れている。
頬は火照り、目尻にはうっすら涙が滲んでいた。
泣いたわけではない。
けれど、泣いた後のような顔をしていた。
髪は少し乱れている。
上着の裾も、ほんのわずかにずれている。
何もかもが決定的ではない。
けれど、何もなかったとは到底言えない。
その曖昧さが、かえって淫靡で、彼の理性の砦を壊そうとしてくる。
「……っ、は……」
手毬は、息を整えようとして失敗した。
胸元に手を当て、何度か深く呼吸をする。
身体の奥に溜まっていた熱が、ようやく逃げ道を見つけたようだった。
まだ全部ではない。
それでも、張り詰めていたものがほどけていく感覚がある。
プロデューサーは、少し離れたところに膝をついていた。
その顔も、平静ではなかった。
酒のせいだけではない。
手毬を見てしまったせいだ。
彼女がアイドルとしてではなく、恋人として息を乱す姿を。
恥ずかしさに耐えきれず視線を逸らし、それでも手を離さなかった姿を。
見てしまった。
もう、知らなかった頃には戻れない。
「……手毬」
「ちょ…ちょっと休憩させてください」
「すみません」
手毬は、目を伏せたまま言った。
プロデューサーは息を止めた。
手毬は、ゆっくりと顔を上げる。
彼を見る。
瞳はまだ潤んでいた。
怒っているようにも、拗ねているようにも、甘えているようにも見えた。
「……最低、バカ」
「はい」
「変態」
「はい」
「プロデューサーのくせに」
「はい」
「でも」
手毬は、震える指で彼の袖を掴んだ。
「……気持ちよかった」
その言葉に、プロデューサーの表情がわずかに緩んだ。
「よかったです」
手毬は、小さく息を吐いた。
プロデューサーは、彼女の髪に触れようとして、少しだけ手を止めた。
「触れても?」
「今さら聞くの、言わされてるみたいで腹立つんですけど?」
「確認は必要です」
「……いい」
彼の指が、乱れた髪をゆっくりと整える。
その仕草だけで、手毬はまた目を細めた。
「……もう少ししたら」
「はい」
「……その、また」
「はい」
プロデューサーは、手毬を静かに、優しく撫で続ける。
手毬の呼吸は、まだ少し荒い。
身体も、完全には落ち着いていない。
だが、さっきまでの切迫感は薄れていた。
欲求不満の棘が抜け、残ったのは、熱の名残と、ひどく甘い疲労だった。
「……一週間」
「はい」
「本当に、つらかったです」
「知っています」
「知ってて、焦らした」
「はい」
「酷いです」
「はい」
「でも、今日みたいにしてくれるなら」
手毬はそこで言葉を止めた。
続きを言う勇気は、まだなかった。
プロデューサーは、それ以上を急かさなかった。
「無理はしません」
「うん」
「最後の線も、越えません……その、しばらくは」
「……うん」
「でも、苦しい時は、言ってください」
「言ったら?」
「一緒に考えます」
「また考えるだけ?」
「今夜は、特別ですから」
手毬の顔が一気に赤くなった。
「言い方」
「すみません」
「……でも」
手毬は、彼の胸元で小さく呟いた。
「今のは、ちょっと好き」
夜は、まだ静かだった。
けれど、二人の間にあった張り詰めたものは、少しだけ形を変えていた。
越えてはいけない線は、まだそこにある。
だが、その手前で互いを救う方法を、二人は知ってしまった。
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
ただ、手毬はその夜、久しぶりに深く息を吸えた……。
ATTENTION!!
※これ考えてたんですけど、あんまりにも直球だったのでやめたやつです(笑)
「提案があります」
手毬は、嫌な予感がした。
「……なに」
「いわゆる、“後ろ”という選択肢もあります」
手毬の時間が止まった。
意味は分かった。
分かってしまった。
だから、余計に顔が熱くなる。
「へ」
「はい」
「へ、へ、変態なんじゃないですか!?」
「言われると思いました」
「思ったなら言わないで!」
「理由は幾つかあります」
「聞きたくない!」
「一番は、出来る心配が無いということです」
「う、う、ぅぅ〜……!」
手毬は両手で顔を覆った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
「触れられるほど綺麗になる手毬」と、「守りたいのに焦らしてしまうプロデューサー」の話でした。
手毬は素直じゃないけど、欲しいものにはかなり正直だと思っています。
そしてプロデューサーも、理性で止めているだけで、別に平気なわけではない…でしょ!?
最後のおまけは、考えたものの本編に入れるにはあんまりにも直球すぎたネタです(笑)