月村手毬は、目を覚ました瞬間から機嫌が悪かった。
カーテンの隙間から差し込む朝日は弱く細く、ホテルの白い壁を斜めに切っている。
空調の低い駆動音と、遠くの廊下を歩く誰かの足音だけが聞こえる静かな朝だった。
昨日あれだけ歌って、踊って、身体を使い切ったのだから、起き抜けに多少の重さが残っているのは当然だ。
喉の奥には薄い疲労があり、脚にだって鈍い張りがある。
そこまでは、ライブ翌日の朝として何もおかしくない。
問題は、別のところにあった。
「…………」
顔を洗いに行くでもなく、仰向けのまま、手毬は天井を睨んだ。
ここしばらく、朝起きた瞬間から胸のどこかに引っかかっていたものが、ない。
ついこの間まで浅くなりがちだった呼吸も、今日は自然と深く入る。
試しにもう一度、今度は深呼吸をしてみても、胸の奥で何かにつかえるような感覚がない。
昨日まで、意識して押し込めようとすればするほど大きくなっていた、焦燥感にも似た何かが、ひどく素直に消えていた。
「……最っ悪」
呟いてから、布団を頭まで引き上げた。
本来なら、喜ぶべきことだった。
集中を乱していたものが消えた。身体も心も、昨日までより明らかに軽い。ライブを終えた翌日としては、むしろ出来すぎているくらいだった。
それなのに、素直に喜べない。
我ながら、原因が分かりやすすぎるからだ。
睡眠でも、食事でも、レッスンでもない。何か特別なケアをしたわけでもない。
昨夜。
プロデューサーの部屋へ行って。
散々甘えに甘えまくって。
言い訳も逃げ道も、全部なくなるところまで自分から求めて。
そして最後には――。
「…………っ」
思考がそこへ届いた瞬間、手毬は枕を抱きしめるようにして身体を丸めた。
駄目だ。
そこだけは朝から思い出さなくていい。
そう思った時には、もう遅かった。
『……気持ちよかった』
「ああああぁぁ……」
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
どうしてああ言ったんだろう。
もっと別の言い方だってあったはずだ。
悪くなかった。
…まあまあ。
少し楽になった。
……ありがとう。
何なら何も言わずに顔を逸らして、そのまま寝たふりでもしておけばよかった。
いつもの自分なら、きっとそうした。少なくとも、あんなふうに自分から一番言ってはいけない本音を差し出したりはしなかった。
なのに昨夜は、意地も、皮肉も、格好をつける余裕も、全部どこかへ消えていた。
プロデューサーの前で、アイドルでもなければ、少し大人になった月村手毬でもない。ただ好きな人に甘えたいだけの自分が出てしまった。
「……馬鹿」
今度の呟きは、誰に向けたものか自分でも分からなかった。
プロデューサーに対して、半分。
自分に対して、残り半分。
と言ったところが妥当だろうか。
そもそも昨夜は、プロデューサーの方が何度も立ち止まっていた。
それを見て、不満そうな顔をしたのは自分だ。
彼に、誤魔化さないで、と言ったのも自分。
途中で逃げるな、と迫ったのも自分。
記憶を辿れば辿るほど、相手だけを責める余地は狭くなっていく。
「…ホント…私も、だけど」
布団の中で、さらに小さく丸くなる。
大人になったと思っていた。
少なくとも昔よりは。
ステージに立てば、大勢の前でも歌える。失敗した時には、事実を受け止めて、何が悪かったのか考えられる。昔の仲間や、自分の弱さについても、少しずつ言葉に出来るようになった。
それなのに。
好きな人に触れられた翌朝の自分一人を、まるで扱えない。
そう考えると、少し情けなくて。
「……ふふ」
ほんの少しだけ、可笑しかった。
◇
昨夜。
プロデューサーの部屋から戻る前、手毬は少し眠ってしまった。
目を覚ました時、身体には薄いブランケットが掛けられていた。
室内の照明は薄く落とされていて、ソファーのすぐそばにはプロデューサーがいた。
仕事の資料を読んでいたわけでも、スマートフォンを見ていたわけでもない。
ただ静かに座って。
ただ、手毬を見つめて。
起きるのを待っていた。
目と目が合った瞬間、嬉しいと思うより先に、恥ずかしさが込み上げてしまった。
「……何してるんですか」
寝起きの第一声としては、もう少し可愛げがあってもよかった。
けれど、今の手毬には無理だった。
「貴女が起きるのを待っていました」
「起こせばよかったのに…こんな時間じゃないですか」
「見惚れていたので」
「……見惚れてただけですか?」
「……だけですよ」
「本当に?」
「すみません」
「最低ですね、プロデューサー」
「言わせにかかっておいて、それは酷くありませんか?」
彼にしては珍しく、どこか締まりのない、にへらとした笑みだった。
そんな顔で、当たり前のように髪を撫でてくる。
そして。
そんな程度のことで満足しかけている自分がいる。
そこが腹立たしい。
「……なんです?」
「いえ」
「思ってることは正直に言ったほうがいいよ、プロデューサー」
「…そうですね……では正直に言いましょう」
一拍置いて、彼は続けた。
「貴女の安らかな顔を見て、安心していました」
予想していなかった答えだった。
手毬は一瞬、言葉を失った。
「……どういうこと?」
「少し、顔色が良くなったので」
「…………」
自分の顔に、思わず手が伸びた。
こういうところだ、と手毬は思う。
この人は、こういうところがずるい。
もっとありきたりな、甘い言葉を言われたなら、いくらでも反発できる。
可愛いとか。
綺麗だとか。
好きだとか。
…愛しているとか。
そういう言葉なら、恥ずかしいと言って目を逸らせばいいし、場合によっては「気持ち悪い」と言ってしまえば、照れ隠しとしては充分成立する。
けれど。
顔色が良くなったから安心した。
そんな、ひどく彼<プロデューサー>らしい言葉で心配されてしまうと、どうにも言い返す気力ががなくなる。
…しかも、昨夜あれだけ距離が近くなったあとで、だ。
自分はまだ、触れられた場所や言われた言葉の一つひとつを思い出すだけで、まともに相手の顔も見られないというのに。
それでもこの人の口から最初に出てくるのが、自分の体調についてなのだ。
そのことが、手毬にはどうしようもなく嬉しくて堪らない。
「……そんなに酷そうでした?」
「ここ数日は、特に」
「気付いてたんだ」
「貴女のプロデューサーですから、当然です」
「…ずいぶん便利ですね、その言葉」
「そうかもしれません」
彼の指が、眠っている間に少し乱れた前髪を整える。
触れ方は優しい。
昨日までの、何かを求める触れ方とは違う。ただ、そこにいることを確かめるような手だった。
「レッスン中は集中しようとしていましたし、ステージに立っている時は問題ありませんでした。でも、休憩に入った瞬間に表情が変わることが増えていました」
「……そこまで見てたんですね」
「見ていますよ」
「…………」
「他でもない、貴女のことですから」
「それ」
「はい?」
「そういうの、急に言わないで」
「…すみません」
「謝るくらいなら言わないでよ」
「でも、言った方がいいと言われましたので」
「……本当に性格悪いですね、プロデューサー」
「そうでしょうかね?」
悪びれていない。
手毬は小さく息を吐く。
それでも、撫でてくる手を払おうとは思わなかった。
「……私、そんなに変でした?」
「見ればわかる程度には」
「…………最悪じゃないですか」
「でも、だからこそ…」
「なに」
「今日のライブは最高でした、過去一番です」
「……知ってます」
少しだけ。
口元が緩みそうになった。
慌てて戻す。
今笑ったら。
また何か言われる気がした。
「だから、余計に心配していました…さっきまで」
「……何を」
「そうですね…例えるなら、糸が切れたみたいにならないかと」
「糸?」
「この一週間、ずっと張り詰めていたでしょう?…色々と」
図星だった。
手毬は答えず、代わりに少しだけ身体をずらした。
ほんの少し。
プロデューサーの方へ。
意識してやったわけではない。
少なくとも、自分の中ではそういうことにしておきたかった。
「それで、私が寝てるの見て安心したんだ」
「はい」
「……ふーん」
それしか言えなかった。
胸の奥が、妙に温かい。
昨夜、手毬はずっと自分のことばかり考えていた。
苦しい。
触れてほしい。
もっと近くにいてほしい。
そういうのばっかり。
けれど。
プロデューサーは、そんな自分に触れながら、同時にずっと自分の状態を見ていたのだ。
それがプロデューサーとしての習性なのか。
二人の関係性だからこそなのか。
きっと本人にも、綺麗に分けることは出来ないのだろう。
そして手毬は、その分けられなさが嫌いではなかった。
プロデューサーとして大切にされたい。
これからは…恋人としても大切にされたい。
どちらか片方だけでは嫌なのだ。
我ながら、ずいぶんと贅沢だと思う。
でも。
その両方をくれる人だからこそ、自分はこの人を好きになったのかもしれない。
「……ねぇ、プロデューサー?」
「はい」
「私が寝てる間、本当に見てただけ?」
「…………」
「その間、なにもしなかった?」
「……髪には触れました」
「他は?」
「ブランケットをかけました」
「他は?」
「…………」
プロデューサーが目を逸らした。
手毬は、それを見逃さなかった。
「…やましいこと、です?」
「い、いえ…そんなことは決して」
彼が私の顔を見る。
それは白状しているのと同じだ。
「…顔に何かしたんですね」
「……額に」
「額に?」
「一度だけ、キスをしました」
「…………」
今度こそ。
本当に予想していなかった。
顔が、一気に熱くなる。
「……寝込みを襲うのは最低ですよ?」
「す、すみません…」
「……お、起きてる時にすればいいじゃん」
「……」
「…………」
言ってから。
自分の顔が、どこまでも赤くなってくる感覚がした。
「…………今のなし」
「難しいです」
「忘れて」
「努力します」
「今すぐ」
「それは少し――」
「忘れてってば!うぅぅ…」
手毬はブランケットを引き上げ、半分ほど顔を隠した。
その向こうで、プロデューサーが小さく笑った。
「……また笑ってる」
「すみません」
「また謝った」
「……では、笑っていません」
「嘘つき」
「はい」
「認めるんだ」
なんだか。
急に全部が馬鹿馬鹿しくなって。
手毬はブランケットの向こうで、小さく息を吐いた。
昨日までの自分なら。
こんなふうには笑えなかったかもしれない。
身体の奥にある欲をどうしたらいいのか分からず、その苦しさを全部プロデューサーへぶつけることしか出来なかった。
でも今は。
少なくとも。
隣にこの人がいる。
自分が眠るまでいてくれて。
眠ったあとも。
起きるまで、そばにいてくれた。
それだけで。
胸の奥にあった尖った何かが、少しだけ丸くなっている。
「……もう少し」
「はい?」
「もう少しだけ、このままでいて」
今度は。
ちゃんと言えた。
「分かりました」
「……あと」
「はい」
「…もっと撫でて」
「……分かりました」
プロデューサーの指が、もう一度髪へ触れる。
ゆっくり。
何かを求めるためではなく。
ただ、自分がここにいることを確かめるように。
手毬は目を閉じた。
さっきまで寝ていたのだから、もう眠くはない。
それでも。
この人に撫でられながら目を閉じるのは、思っていたよりずっと気持ちがよかった。
「……あの」
「はい」
「…私って、面倒ですか?」
口にした瞬間。
自分でも驚いた。
そんなことを聞くつもりはなかった。
手毬は目を開けない。
今さら取り消すのも格好悪い。
少しの沈黙。
その数秒が、ひどく長い。
「はい」
「……はい?」
思わず目を開けた。
プロデューサーは、いつもの真面目な顔をしていた。
「はっきり言って…貴女は、かなり面倒です」
「……自分で言っておいてあれなんですけど。それ以上言われると泣きそうなんですけど」
「でも」
手毬の言葉を遮るように、プロデューサーは続けた。
「それで嫌になったことは、一度も…一度たりともありません」
「…………」
「むしろ」
「……むしろ?」
「貴女が俺に面倒をかけてくれるのは、嬉しいですよ」
「…言い方が…気持ち悪いよ、プロデューサー」
「すみません」
「…………」
「…………」
「……でも」
「はい」
「そういう言い方も嫌いじゃない」
「何がですか?」
「聞き返さないで」
「…はい」
もう一度。
手毬は目を閉じた。
耳が熱い。
頬も熱い。
それでも身体は、不思議なくらい落ち着いていた。
眠る前とは違う。
昨夜までとも違う。
欲がなくなったわけではない。
むしろ、好きだと思う気持ちは、以前よりはっきりしている。
でも。
好きだから苦しい、だけではなくなっていた。
好きだから安心する。
そういうものも、どうやらあるらしい。
そのことを。
手毬は、少しずつ知り始めていた。
「……もう帰る」
少し経って、手毬はようやくそう言った。
「送ります」
「部屋、すぐそこなんですけど」
「知ってます」
「五メートルくらいです」
「そうですね」
「じゃあ一人で――」
「絶対送ります」
「……頑固プロデューサー」
「貴女ほどでは」
「は?」
「さて、行きましょう」
「今のどういう意味?」
「そのままです」
「喧嘩売ってる?」
「この時間は売っていませんね」
結局、二人で廊下へ出た。
本当に短い距離だった。
数歩歩けば、それで終わる。
それでも、手毬には妙に長く感じられた。
誰もいないホテルの廊下を並んで歩く。
手も繋いでいない。
身体が触れているわけでもない。
外から見れば、ただプロデューサーが担当アイドルを部屋まで送っているだけだ。
けれど。
二人だけが知っている。
ほんの少し前まで何を話していたのか。
どんな声で名前を呼んだのか。
どんなふうに相手へ触れていたのか。
そして、どれだけ格好悪い自分を見せたのか。
その秘密だけが、何もしていない二人の間に濃く残っていた。
自室の前へ着く。
手毬はカードキーを取り出しながら、なんとなくプロデューサーの顔を見た。
もう、かなりいつもの顔に戻っていた。
さっきまであれほど余裕がなかったくせに。
それが気に食わなかった。
「……もう平気そうですね」
「俺ですか?」
「他に誰がいるんですか」
「かなり無理をしていますよ…ええ、本当に」
「…………」
また。
予想していたものとは違う返事だった。
手毬は少しだけ目を逸らす。
「……そう」
「はい」
「ふーん」
「…月村さん」
「手毬って…誰も見てないから」
「…手毬」
「何」
「今日は、よく眠れると思います」
「…あの…誰のせいで寝不足になったと思ってるんですか?」
「俺のせいですね、すみません」
「…本当に」
自分の部屋のドアを開ける。
部屋へ入る。
閉める直前。
「おやすみなさい、手毬」
名前で呼ばれた。
さっきとは違う呼び方。
一瞬だけ、閉めかけたドアを止めそうになった。
「……おやすみ、プロデューサー」
それだけ返して、ドアを閉めた。
そのあと。
手毬はしばらく、その場から動けなかった。
もう一度開けようとは思わなかった。
けれど。
閉めたことを。
ほんの少しだけ、惜しいとも思った。
インフルかかって細菌にもやられてました。
もはや持ちネタレベルの罹患