TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
思い出したのは、雨の音だった。
石畳を叩く雨。
軒先から落ちる雫。
遠くで鳴る鐘。
濡れた土と薬草の匂い。
そして、見慣れない天井。
「……どこ」
声に出してから、自分の声が思ったより高いことに気づいた。
喉が痛い。
身体が重い。
指先が冷えている。
寝台の上で瞬きをする。
白い天幕。
木枠の窓。
棚に並んだ薬瓶。
薄く開いた窓から入る湿った風。
知らない部屋だ。
いや、知っている。
知っているのに、知らない。
そのずれが、頭の奥でひどく気持ち悪かった。
「……ルシェル?」
扉の向こうから声がした。
女の人の声。
心配そうで、けれど近づきすぎない声。
ルシェル。
そう呼ばれて、胸の奥がわずかに震えた。
ボクの名前だ。
ルシェル・ノア。
十五歳。見習い浄化師。
辺境の小さな浄化院で育ち、瘴気を祓う蒼銀の光を持つ。
そうだ。
そうだった。
けれど、それとは別に、もう一つの記憶があった。
黒い画面。
白い天井。
雨の日の通学路。
スマートフォン。
コンビニの明かり。
名前の違う自分。
男だった身体。
知らないはずの言葉。
知らないはずの生活。
それらが、熱に浮かされた夢のように頭の奥へ流れ込んでくる。
ボクは、息を吸った。
「……情報量、多すぎ」
最初に出た感想がそれだった。
もっとこう、混乱して叫ぶとか、泣くとか、神様に文句を言うとか、そういう場面なのかもしれない。
でも、喉が痛い。
身体も重い。
叫ぶ体力がない。
なので、ひとまず寝台の上で天井を見たまま、現実を雑に受け入れることにした。
ボクはルシェル・ノア。
見習い浄化師。
前の記憶がある。
そして、どうやら今は女の子の身体で生きている。
「……うん。保留」
決めきれないものは、保留。
便利な言葉だ。
扉が控えめに叩かれる。
「ルシェル、入ってもいい?」
院の治療師、マルタさんの声だった。
この身体の記憶が、そう教えてくれる。
「いいよ」
答えると、扉がゆっくり開いた。
マルタさんは中へ入ってきても、すぐには寝台へ近づかなかった。
いつもの距離で立ち止まり、こちらの顔を見る。
「気分は?」
「頭の中に知らない本棚が増えた感じ」
「……熱がまだあるのね」
「たぶん、熱だけじゃない」
ボクがそう言うと、マルタさんは眉を寄せた。
だが、深く聞かない。
この人は昔からそうだった。
必要なことは聞くけれど、無理やり引き出そうとはしない。
それがありがたかった。
「昨夜、瘴気溜まりの浄化をしたでしょう。あのあと倒れたの。三日、眠っていたわ」
「三日」
思わず指を折りかけて、力が入らずやめた。
「三日寝たのに疲れてる。睡眠の費用対効果が悪い」
「何の話?」
「ボクにも分からない」
マルタさんは少し困ったように笑った。
「いつもの調子に近いなら、少し安心ね」
いつもの調子。
そう言われて、胸の奥が少し引っかかった。
この軽口は、前の自分のものなのか。
ルシェルのものなのか。
分からない。
けれど、どちらでも口から出るなら、今はそれでいい気もした。
「王都から迎えが来ているわ」
マルタさんが言った。
「迎え?」
「あなたの蒼銀を正式に見たいそうよ。見習い浄化師として、王都の浄化師団へ登録する手続きもあるみたい」
「蒼銀」
自分の右手を見る。
細い指。
白い肌。
ところどころに薬草の染み。
手のひらを軽く開くと、そこに淡い光が滲んだ。
銀ではない。
青でもない。
その間の、静かな色。
蒼銀。
この身体がずっと持っていた光。
瘴気を祓う力。
濁りをほどく力。
人々がありがたがる力。
けれど、手のひらに揺れるその光を見て、ボクは妙な不安を覚えた。
綺麗だ。
綺麗すぎる。
まるで、自分のものではないみたいに。
「無理に出さなくていいわ」
マルタさんが静かに言う。
「あ」
気づけば光は強くなりかけていた。
慌てて手を握る。
光は消えた。
「勝手に営業開始するのやめてほしい」
「えいぎょう?」
「仕事熱心すぎるって意味」
「あなた、倒れてから少し変な言い回しをするわね」
「仕様変更かも」
「しよう?」
「気にしないで」
自分でも説明できない。
前の記憶がある。
でも、それを誰かに話してどうなるのか分からない。
少なくとも今、マルタさんに「実は別の人生の記憶があります」と言ったところで、寝台から出してもらえなくなる未来しか見えない。
なので、これも保留。
「迎えの人たち、もういるの?」
「ええ。三人。剣士と、魔術師と、戦士」
「編成が堅い」
「へんせい?」
「いや、こっちの話」
ボクは寝台から起き上がろうとした。
全身が重い。
だが、ずっと寝ているのも落ち着かない。
「待って、まだ無理よ」
「迎えが来てるなら、顔くらい出す」
「倒れたばかりなのに?」
「三日寝たから実質寝すぎ」
「そういう問題ではないわ」
「大丈夫。倒れたらまた寝る」
「それは大丈夫とは言わないの」
マルタさんは呆れたように言いながらも、肩へ外套を掛けてくれた。
白に近い銀髪が、肩先でさらりと落ちる。
鏡は見なかった。
見れば、たぶんまた頭の中のずれが大きくなる。
今はまだ、知らない顔を確認する勇気がない。
◇
院の客間には、三人がいた。
一人目は、黒髪の剣士。
背は高い。
無駄にきりっとしている。
腰の剣も、表情も、いかにも真面目そうだった。
二人目は、長い茶髪の女性。
淡い紫の外套に、細い杖。
魔術師だろう。目が優しい。
ただし、優しい人ほど何を見ているか分からないので油断はしない。
三人目は、大柄な男。
肩幅が扉。
盾が本体なのではと思うくらい大きな盾を背負っている。
ボクが部屋へ入ると、三人は一斉にこちらを見た。
その視線が、少し痛い。
蒼銀を見る目。
珍しいものを見る目。
期待と確認と、少しの緊張。
それは悪意ではない。
でも、悪意がなければ平気というものでもない。
「君がルシェル・ノアか」
黒髪の剣士が言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「目覚めた直後なので、自己認識に若干の揺らぎがある」
剣士が固まる。
魔術師の女性が小さく笑った。
「聞いていたより面白い子ね」
「どう聞いてたの」
「蒼銀の光を持つ、礼儀正しくて大人しい見習い浄化師」
「情報が古いか、観測対象が猫かぶってる」
「猫?」
「こっちの話」
またやった。
前の記憶由来の言葉が混じる。
まあ、意味が通らないなら通らないでいい。
剣士は咳払いをした。
「俺はレオン。王都から派遣された護衛だ」
魔術師の女性が続く。
「私はセレス。魔術と簡単な治癒を担当するわ」
大柄な男が短く言う。
「ガルドだ」
「盾?」
「戦士だ」
「盾職っぽい」
「……盾職?」
「褒めてる」
「そうか」
ガルドはそれ以上聞かなかった。
いい人かもしれない。
少なくとも、細かい言葉の意味を無理に追及しない人は信用度が少し上がる。
レオンは真面目な顔で言った。
「王都まで、俺たちが同行する。道中には瘴気溜まりもある。君には無理のない範囲で浄化を頼むことになる」
「無理のない範囲」
思わず繰り返した。
「それ、本当に守られるやつ?」
レオンが眉を寄せる。
「守る」
「じゃあ、浄化師にありがちな『できるならやって』を『できるまでやって』に変換する謎の圧力は?」
「かけない」
「口約束?」
「約束だ」
まっすぐな声だった。
少し困る。
こういう人は、たぶん本気で言っている。
本気で言っている人を疑うのは、少し疲れる。
「分かった。じゃあ、仮で信じる」
「仮?」
「本採用前のお試し期間」
「……よく分からないが、分かった」
レオンは真面目に頷いた。
この人、たぶん全部真面目に受け取る。
危険だ。
軽口が全部通じない可能性がある。
セレスが微笑む。
「旅の支度は明日の朝でいいわ。今日は休みましょう」
「明日?」
「体調を見てからよ」
「いや、迎えに来たなら今日出るのかと」
「あなた、三日寝ていたのよ」
「だから寝だめ済み」
「寝だめで体力は戻らないわ」
正論だった。
ボクは黙った。
セレスは勝った顔をしなかった。
ただ、こちらの顔色を見て、ゆっくり言う。
「それに、あなたの蒼銀は少し不安定に見える」
胸の奥が、ひやりとした。
「分かるの?」
「魔術師だから、少しだけ」
セレスの視線は手のひらではなく、ボクの顔を見ていた。
蒼銀だけを見ているわけではない。
それに少しだけ息がしやすくなる。
「手、勝手に光った」
「いつから?」
「起きてから」
「怖い?」
即答できなかった。
怖い。
でも、怖いと言うほど分かっていない。
綺麗だと思う。
便利そうだとも思う。
けれど、自分の意思より先に出る感じが気持ち悪い。
「……ちょっと気まずい」
「気まずい?」
「自分の身体なのに、知らない機能がある感じ」
セレスは笑わなかった。
「そう。なら、急がない方がいいわ」
「急がないと王都の人が困るんじゃないの?」
「王都の人は少しくらい困っても平気よ」
「強い」
「あなた一人が倒れる方が困るわ」
それは少し、返事に困る言葉だった。
ルシェルの記憶では、浄化師は必要とされるものだ。
瘴気が濃くなれば、人が倒れる。
畑が枯れる。
井戸が濁る。
だから、浄化師は呼ばれる。
役に立たなければならない。
そう思っていた。
けれど、セレスは「あなた一人が倒れる方が困る」と言った。
蒼銀ではなく、ボクが。
「……変なの」
「そう?」
「うん。変だけど、悪くない」
セレスは少しだけ笑った。
◇
その夜、ボクは眠れなかった。
寝台の上で、手のひらを見つめる。
蒼銀はもう出ていない。
でも、奥にあるのは分かる。
呼べば来る。
そんな感覚がある。
それが不思議で、少し怖くて、少しだけ心強い。
前の記憶。
今の記憶。
ルシェル・ノアという名前。
王都から来た三人。
浄化の旅。
全部が一気に増えすぎて、頭の中が荷物過多だった。
「人生、容量制限ないのかな」
小さく呟く。
返事はない。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
雨粒が窓を叩く。
その音を聞いていると、不思議と落ち着いた。
雨は名前を呼ばない。
何かを求めてもこない。
ただ降っている。
それがよかった。
ふと、棚の上に小さな石が置かれているのに気づいた。
灰青色の、何でもない石。
以前からあったものではない。
誰かが薬瓶の重しにでも置いたのだろう。
手を伸ばして、つまむ。
冷たい。
役に立たない。
けれど、指先に収まる感触が妙に良かった。
「……石」
それだけ言って、掌の中で転がす。
名前はまだない。
名前をつけるほどのものでもない。
でも、妙に手放しにくかった。
この時のボクは知らなかった。
いつか、役に立たない石が、ボクにとってとても大事なものになることを。
壊されても、なくならないものになることを。
そしてもう一度、似た石の前で立ち止まる日が来ることを。
今はただ、雨の音を聞きながら、その石を握っていた。
◇
翌朝、雨は上がっていた。
浄化院の前には、王都行きの馬車が用意されている。
馬が二頭。
荷物は少ない。
レオンは馬車の横で剣の留め具を確認していた。
セレスは薬箱を積み、ガルドは盾を背負って門の横に立っている。
ボクは外套を羽織り、院の扉の前に立った。
マルタさんが小さな袋を渡してくれる。
「薬草と、乾いた果物。無理をしないこと」
「無理の定義が難しい」
「疲れたら休む。痛かったら言う。怖かったら止まる」
「簡潔」
「忘れそうだから、簡潔にしたの」
「信用がない」
「あるから言うのよ」
マルタさんは、少しだけ目を細めた。
「ルシェル。あなたは蒼銀だけじゃないわ」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。
蒼銀だけじゃない。
まだ、うまく飲み込めない。
でも、覚えておく価値はありそうだった。
「分かった。仮で覚える」
「仮でもいいわ」
ボクは頷いた。
馬車へ向かう。
レオンが手を差し出した。
「乗れるか?」
「乗れる。たぶん」
「たぶんが多いな」
「人生全体がたぶんなので」
「大丈夫か、それは」
「今のところ稼働中」
レオンは少し困った顔をしながらも、手を引いてくれた。
手袋越しの手は温かい。
馬車に乗り込むと、セレスが向かいに座った。
ガルドは御者台の横へ。
レオンは最後に乗る。
「王都までは数日。途中、瘴気溜まりを二箇所見る」
「見るだけ?」
「必要なら浄化する」
「必要じゃなければ?」
「しない」
「いいね。必要最低限労働」
レオンが首を傾げる。
「労働?」
「浄化業務」
「業務なのか」
「見習いなので、労働環境には敏感です」
セレスが笑った。
ガルドが前から低く言う。
「出るぞ」
馬車がゆっくり動き出す。
浄化院が遠ざかる。
窓の外には、雨上がりの道。
水たまりに、朝の光が薄く反射している。
ボクは手のひらを開いた。
蒼銀は出ない。
代わりに、胸の奥で何かが静かに揺れている。
不安。
期待。
前の記憶。
今の自分。
全部が混ざって、まだ形にならない。
でも、馬車は進む。
なら、ひとまず進むしかない。
「ルシェル」
レオンが呼んだ。
「何?」
「体調が悪くなったら言え」
「了解。倒れる前に報告する」
「倒れる前じゃ遅い」
「厳しい」
「普通だ」
「じゃあ、ちょっと気持ち悪くなったら言う」
「それでいい」
セレスが頷く。
「怖くなっても言っていいわ」
「怖いも報告対象?」
「もちろん」
「項目が多い」
「旅はそういうものよ」
ガルドが前から言う。
「眠いなら寝ろ」
「盾職から睡眠指示が来た」
「指示ではない」
「じゃあ助言?」
「そうだ」
「採用」
ボクは外套を引き寄せた。
目を閉じる前に、もう一度だけ窓の外を見る。
雨上がりの道。
遠ざかる浄化院。
王都へ続く道。
前の人生の終わりは、もう思い出せないほど遠い。
今の人生は、まだ足元がふらついている。
それでも。
ボクはルシェル・ノア。
見習い浄化師。
蒼銀の光を持っている。
そして今、妙に真面目な剣士と、優しいけれど油断ならない魔術師と、盾みたいな戦士に迎えられて、旅に出る。
「……まあ」
目を閉じながら、ボクは小さく呟いた。
「初期パーティとしては、悪くないか」
「何か言ったか?」
レオンが聞く。
「別に。仮採用って話」
「まだ仮なのか」
「本採用は様子見」
「厳しいな」
「見習いなので」
馬車が揺れる。
蒼銀の光はまだ出ない。
けれど、胸の奥で、ほんの少しだけ温かいものが灯った気がした。
旅が始まる。
それが何を壊し、何をくれるのか。
この時のボクは、まだ知らなかった。