TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第9話 王都市場と必要ではないもの

 

 翌朝、ボクは少しだけ早く起きた。

 

 王都の鐘より早かった。

 

 それだけで、勝った気がした。

 

「鐘に勝った」

 

 寝台の上で小さく呟く。

 

 隣で身支度をしていたセレスが振り返った。

 

「何に?」

 

「王都の朝鐘。今日は鳴る前に起きた」

 

「それはすごいわね」

 

「棒読みじゃない?」

 

「半分くらい本気よ」

 

「半分」

 

 レオンが覚えたせいで、半分くらいという言葉の使用頻度が増えている気がする。

 

 よくない。

 

 いや、便利だからいいか。

 

 机の上の雨雫を手に取る。

 

 紐を首にかけ、外套の内側へしまう。

 

 胸元に小さな重み。

 

 今日もある。

 

 よし。

 

「体調は?」

 

 セレスが聞く。

 

「昨日よりまし」

 

「市へ行けそう?」

 

「短時間なら」

 

「無理そうなら?」

 

「戻る」

 

「よし」

 

「よし判定された」

 

 セレスは満足そうに頷いた。

 

 この人は最近、ボクが「疲れた」「戻る」「無理かも」と言うたびに少し嬉しそうにする。

 

 変な人だ。

 

 普通は、元気です、大丈夫です、任せてください、の方が喜ばれる気がするのに。

 

 でも、たぶんそれがこの人なりの見方なのだろう。

 

 言えることを、回復として見る。

 

 なんか少し、くすぐったい。

 

     ◇

 

 朝食後、まず装備確認が行われた。

 

 場所は館の小さな準備室。

 

 机の上には、ボクの荷物が並べられている。

 

 浄化師の短杖。

 薬草袋。

 小瓶。

 包帯。

 火打ち石。

 保存食。

 水筒。

 外套の予備留め具。

 

 こうして並べると、意外と荷物が多い。

 

「旅人っぽい」

 

 ボクが言うと、レオンが首を傾げた。

 

「旅人だろう」

 

「そうだけど、自分の荷物を見ると実感が出る」

 

「足りないものはあるか」

 

「分からない」

 

「セレス」

 

「小瓶がもう二つ欲しいわね。あと、包帯は多めに。靴紐も予備があるといいわ」

 

「靴紐」

 

 ボクは自分の靴を見る。

 

 確かに、切れたら困る。

 

 地味だけど重要だ。

 

「ガルド審査員は?」

 

「水を弾く布」

 

「水?」

 

「雨具にも荷包みにもなる」

 

「実用的」

 

「あと、携帯食」

 

「また?」

 

「食える時に食え」

 

「ガルド、食に厳しい」

 

「旅では大事だ」

 

「正論」

 

 レオンがリストに書き込む。

 

「では、小瓶、包帯、靴紐、防水布、携帯食」

 

「装備確認、普通に業務感ある」

 

「業務だ」

 

「今日は半分観光じゃないの?」

 

「必要なものを買ってからだ」

 

「真面目」

 

「買い忘れると困る」

 

「それはそう」

 

 必要なものは分かりやすい。

 

 小瓶。

 包帯。

 靴紐。

 布。

 食料。

 

 買う理由がある。

 

 必要だから。

 

 それは楽だ。

 

 でも、昨日の夜から、少しだけ別の感覚もあった。

 

 必要ではないものが並ぶ場所を、見たい。

 

 買うかどうかは分からない。

 

 ただ、見たい。

 

 その気持ちがまだ残っているのが、少し不思議だった。

 

     ◇

 

 王都の市は、宿場の市とは比べものにならなかった。

 

 まず、広い。

 

 通り一本が丸ごと市場になっている。

 

 天幕が連なり、店が並び、屋台が声を張り上げている。

 野菜、果物、香辛料、布、革、金属細工、薬草、本、旅道具、菓子、花、鳥籠、ランプ、玩具。

 

 人が多い。

 

 とにかく多い。

 

 宿場の市が小川なら、王都の市は濁流だった。

 

「……人類、多い」

 

 ボクが立ち止まりかけると、レオンがすぐ横に立った。

 

「大丈夫か」

 

「市場が本気を出してる」

 

「戻るか?」

 

「まだ入って三歩」

 

「三歩でも戻っていい」

 

「それはそれで悔しい」

 

 セレスが横で言う。

 

「まず必要なものだけ買って、そこから考えましょう」

 

「了解。目的地を設定しよう」

 

 目的があると歩きやすい。

 

 小瓶の店。

 包帯と薬草布。

 靴紐。

 防水布。

 携帯食。

 

 順番に買う。

 

 レオンは値段交渉が下手だった。

 

 というか、相手の言い値で真面目に払おうとする。

 

 セレスが横から穏やかに値段を下げる。

 

 ガルドは店先に立っているだけで、店主が少し正直になる。

 

 役割分担ができている。

 

「レオン、買い物戦闘力低め?」

 

 靴紐の店を離れてから言うと、レオンが少し不満そうにした。

 

「必要なものに代金を払うだけだろう」

 

「それはそうだけど、市では交渉が発生する」

 

「相手も商売だ」

 

「真面目すぎる」

 

 セレスが笑った。

 

「レオンは値切るのが苦手なのよ」

 

「セレスは得意?」

 

「少しだけ」

 

「優しい顔で価格を下げる魔術師」

 

「人聞きが悪いわ」

 

「褒めてる」

 

「半分?」

 

「七割」

 

「増えてるわね」

 

 ガルドが買った携帯食の袋を担いでいる。

 

 というか、気づいたら量が増えていた。

 

「ガルド、それ何日分?」

 

「念のためだ」

 

「念のためが重い」

 

「食料は裏切らない」

 

「名言っぽい」

 

「そうか」

 

 ガルドは満足そうだった。

 

     ◇

 

 必要な買い物が終わる頃には、ボクはかなり疲れていた。

 

 しかし、同時に少し楽しくもあった。

 

 王都の市はうるさい。

 人が多い。

 視線もある。

 

 でも、物も多い。

 

 色が多い。

 匂いが多い。

 役に立つものも、役に立たないものも、雑に並んでいる。

 

 世界が大きい感じがした。

 

 それは少し怖くて、少し面白い。

 

「戻るか?」

 

 レオンが聞いた。

 

 ボクは少し迷った。

 

 疲れている。

 

 でも、もう少しだけ見たい。

 

「あと、少しだけ」

 

「何を見る」

 

「分からない。必要じゃないもの」

 

 レオンは少しだけ瞬きをした。

 

 セレスが微笑む。

 

「じゃあ、ゆっくり見ましょう」

 

「買わないかも」

 

「見てもいいわ」

 

「役に立たないものかもしれない」

 

「役に立たなくてもいいでしょう?」

 

 それは、どこかで聞いた言葉に似ていた。

 

 使わなくていい。

 だからいい。

 

 ボクは胸元の雨雫を押さえる。

 

 ころん、と小さく揺れた。

 

「うん」

 

 役に立たないものを見る。

 

 それは思ったより難しかった。

 

 どうしても、用途を探してしまう。

 

 この布は包帯に使える。

 この小瓶は薬に使える。

 この紐は荷物を結べる。

 この金属片は留め具に使える。

 

 違う。

 

 今はそうではない。

 

 ただ、綺麗とか、面白いとか、変とか、そういう理由で見ていい。

 

 ……難易度が高い。

 

「ルシェル」

 

 レオンが呼んだ。

 

「何?」

 

「あそこはどうだ」

 

 彼が指差した先には、小さな露店があった。

 

 木彫りの小物が並んでいる。

 

 鳥。

 猫。

 小さな馬。

 よく分からない丸い生き物。

 葉っぱの形の飾り。

 

「レオンが役に立たないものを提案した」

 

「役に立たないのか?」

 

「たぶん」

 

「では合っている」

 

「真面目に選んだんだ」

 

 近づいてみると、木彫りはどれも手のひらに乗るくらい小さい。

 

 荒削りだが、表情がある。

 

 特に猫がよかった。

 

 やる気のない顔をしている。

 

「この猫、やる気ない」

 

 ボクが言うと、店主の老人が笑った。

 

「そいつは寝てる猫だ」

 

「起きてても働かなさそう」

 

「猫だからな」

 

「正しい」

 

 猫を手に取る。

 

 軽い。

 

 木の匂いがする。

 

 雨雫より少し大きい。

 

 可愛いかと言われると、微妙。

 でも、なんかいい。

 

「欲しいのか?」

 

 レオンが聞く。

 

「見てるだけ」

 

「そうか」

 

「買わないよ」

 

「そうか」

 

「止めないの?」

 

「止める理由がない」

 

「買えとも言わない?」

 

「君が決めるものだろう」

 

 当然のように言われた。

 

 胸の奥が少し変な感じになる。

 

 買ってもいい。

 買わなくてもいい。

 

 どちらでも、たぶん問題ない。

 

 それが少し落ち着かない。

 

「……今日は見てるだけにする」

 

 ボクは猫を戻した。

 

 老人は頷いた。

 

「また気が向いたら来な」

 

「はい」

 

 店を離れる。

 

 少し惜しい気もした。

 

 でも、今日は買わない。

 

 見て、迷って、戻した。

 

 それだけ。

 

「よかったの?」

 

 セレスが聞く。

 

「うん。見ただけだけど、ちょっと面白かった」

 

「それでいいわ」

 

「買わないのもあり?」

 

「あり」

 

「そっか」

 

 あり。

 

 買うのもあり。

 買わないのもあり。

 迷うのもあり。

 

 市場は選択肢が多くて疲れる。

 

 でも、選べるものがあるのは、悪くないのかもしれない。

 

     ◇

 

 少し歩いた先に、色硝子の店があった。

 

 ランプや小瓶、窓飾りが並んでいる。

 

 日差しを受けて、赤や緑や青の光が天幕の下に落ちていた。

 

「綺麗」

 

 素直に声が出た。

 

 セレスが隣に並ぶ。

 

「本当ね」

 

 青い硝子の小さな雫型飾りがあった。

 

 雨雫とは違う。

 もっと透明で、もっと綺麗で、明らかに飾りとして作られたもの。

 

 手を伸ばしかけて、止める。

 

 雨雫が胸元にある。

 

 これはもう持っている。

 

 似たものを買う必要はない。

 

 そう思った。

 

 でも、そういう問題でもない気がした。

 

「見てもいいわよ」

 

 セレスが言う。

 

「買わない」

 

「見るだけでも」

 

「うん」

 

 手に取る。

 

 硝子は冷たかった。

 

 光を通して、指先が青くなる。

 

 綺麗だ。

 

 でも、雨雫とは違う。

 

 雨雫は地味で、少し欠けていて、石で、重みがある。

 これは綺麗で、軽くて、光を通す。

 

 どちらがいい、ではない。

 

 違う。

 

「雨雫の方が好き?」

 

 セレスが聞いた。

 

「比べるものじゃない気がする」

 

 自分で言って、少し驚いた。

 

「これはこれで綺麗。でも、雨雫は雨雫」

 

「そう」

 

「雨雫、先輩感ある」

 

「昨日来たばかりなのに?」

 

「歴戦の顔をしてる」

 

「石よ?」

 

「石にも顔がある」

 

 セレスが笑う。

 

 ボクは硝子の飾りをそっと戻した。

 

 店主に礼を言って、店を離れる。

 

 買わなかった。

 

 でも、見てよかった。

 

 胸元の雨雫を触る。

 

 ころん。

 

 そこにある。

 

 綺麗な硝子を見たあとでも、そこにあることが少し嬉しかった。

 

     ◇

 

 市場の端に近づいた頃、少し騒ぎが起きた。

 

 人だかり。

 

 子供の泣き声。

 

 馬のいななき。

 

 レオンの表情がすぐに変わった。

 

「下がれ」

 

「うん」

 

 今度は素直に下がる。

 

 ガルドが前へ出る。

 

 人の隙間から見えたのは、荷馬車の脇に倒れた小さな子供だった。

 

 その近くで、黒い煙のようなものが薄く漂っている。

 

 瘴気。

 

 強くはない。

 

 でも、子供が吸い込むには十分嫌な濁りだ。

 

 周囲の人々は何が起きたのか分からず、ざわざわしている。

 

「瘴気袋だ」

 

 誰かが言った。

 

 荷の中に古い瘴気を帯びた布か何かが紛れていたのかもしれない。

 

 市場では時々ある、とルシェルの記憶が教える。

 

 放っておくと広がるほどではない。

 

 でも、子供は泣きながら咳き込んでいる。

 

 ボクの手の奥が熱くなった。

 

 蒼銀が動きたがる。

 

「ルシェル」

 

 レオンがこちらを見る。

 

「できるか?」

 

 できる。

 

 たぶん。

 

 小さい。

 街道脇の倒木より少し薄い。

 

 ただ、人が多い。

 

 見られている。

 

 それが嫌だった。

 

 でも、子供が咳をしている。

 

 ボクは胸元の雨雫を握った。

 

「短くやる」

 

 セレスがすぐに言う。

 

「私が周りを下げるわ」

 

 ガルドが人垣の前に立つ。

 

「離れろ」

 

 低い声。

 

 それだけで、人が一歩下がった。

 

 レオンは荷馬車の側へ回り、危ないものがないか確認する。

 

 自然に動く。

 

 ボクも前へ出た。

 

 倒れた子供の母親らしき女性が、こちらを見る。

 

「浄化師様……!」

 

「見習いです」

 

 反射で訂正した。

 

 こんな時に何を言っているのか、と思わなくもない。

 

 でも、言わないと落ち着かない。

 

「少しだけ離れて。吸わないように」

 

「は、はい」

 

 子供の近くにしゃがむ。

 

 直接触らない。

 

 手をかざす。

 

 黒い靄が、子供の口元と荷の布に絡んでいる。

 

 手のひらに蒼銀が灯る。

 

 周囲が息を呑む気配。

 

 視線が増える。

 

 光が少し強くなりかける。

 

 セレスの声。

 

「手のひらだけ」

 

 レオンの声。

 

「短く」

 

 ガルドの声。

 

「周りは下がった」

 

 それぞれ短い。

 

 必要なことだけ。

 

 ボクは息を吐く。

 

「営業範囲、市場の一角のみ」

 

 小さく言って、詠唱する。

 

「痛みを責めず、濁りをほどき、還る道を開く」

 

 蒼銀が流れた。

 

 強すぎないように。

 子供へではなく、靄へ。

 荷の布へ。

 

 黒い靄が揺れ、薄くなる。

 

 焦げたような匂いが消え、代わりに湿った布の匂いが残る。

 

 子供の咳が少しずつ収まった。

 

 泣き声も弱くなる。

 

 終わり。

 

 手を下ろす。

 

 思ったより疲れた。

 

 人前だからかもしれない。

 

「終わり」

 

 言うと、レオンがすぐに頷いた。

 

「下がれ」

 

「うん」

 

 今度も素直に下がる。

 

 母親が何度も頭を下げている。

 

「ありがとうございます、浄化師様、本当に」

 

「見習いです。あと、荷の布は触らないで。王都の人に見てもらって」

 

「はい、はい」

 

 レオンが近くの巡回兵を呼ぶ。

 

 セレスが子供の様子を見る。

 

 ガルドが人垣をさらに下げている。

 

 ボクは少し離れた壁際に立ち、雨雫を握った。

 

 人々の視線がこちらにある。

 

 蒼銀。

 

 見られている。

 

 さっきよりずっと強く。

 

 胸の奥が少し詰まる。

 

「ルシェル」

 

 レオンが戻ってきた。

 

 近づきすぎない距離で止まる。

 

「戻るぞ」

 

「うん」

 

「もう買い物は終わりだ」

 

「異議なし」

 

 セレスも戻ってくる。

 

「子供は大丈夫。少し休めばいいわ」

 

「よかった」

 

「あなたは?」

 

「疲れた」

 

「戻りましょう」

 

 ガルドが荷物を担ぎ直す。

 

「道を開ける」

 

「ガルド、人混み対策が強い」

 

「戻るぞ」

 

「はーい」

 

「はいは短くでいい」

 

「長さまで」

 

 そんなやり取りをしながら、市場を出る。

 

 背中に、まだ視線がある。

 

 ありがとうという声。

 蒼銀だという声。

 見習いらしいという声。

 

 全部が混ざる。

 

 嫌ではない。

 

 でも、疲れる。

 

 たぶん、両方。

 

     ◇

 

 館へ戻る馬車の中で、ボクはぐったりしていた。

 

 馬車の揺れに抗議する元気もない。

 

 胸元の雨雫だけを握っている。

 

「今日は、見るだけの予定だったのに」

 

 小さく言うと、レオンが答えた。

 

「必要な浄化だった」

 

「うん」

 

「短く終えた」

 

「うん」

 

「戻る判断もできた」

 

「うん」

 

 レオンはそれ以上言わなかった。

 

 褒めすぎない。

 責めない。

 事実だけを並べる。

 

 それが今はよかった。

 

 セレスが言う。

 

「予定外ではあったけれど、予定を全部捨てたわけではないわ」

 

「どういうこと?」

 

「必要な買い物は済ませた。必要ではないものも見た。浄化は短く終えた。今、戻っている」

 

「なるほど」

 

「ちゃんと途中で切り上げている」

 

「書類に書けそう」

 

「クラウスさんなら書くかもね」

 

 少し笑った。

 

 ガルドが御者台から声をかける。

 

「菓子も買った」

 

「重要事項」

 

「重要だ」

 

「ガルドの中ではね」

 

「旅では重要だ」

 

「はい」

 

「はいは一回」

 

「今日のはい指導、ここで来たか」

 

 少しだけ、馬車の中の空気が緩んだ。

 

     ◇

 

 館に戻ると、クラウスが玄関近くで待っていた。

 

 なぜいる。

 

「早い」

 

 ボクが言うと、クラウスは淡々と答えた。

 

「市場で小規模瘴気事案があったと連絡が来た」

 

「王都の情報網、怖い」

 

「仕事だ」

 

「書類の人、今日は現場にも早い」

 

「記録確認だ」

 

 クラウスはボクを見た。

 

「体調は」

 

「疲れた」

 

「記録する」

 

「そこも?」

 

「重要だ」

 

「じゃあ、疲れたけど倒れてはいない」

 

「それも記録する」

 

「あと、短く終わった」

 

「聞いている」

 

「視線が多かった」

 

 クラウスの筆が止まる。

 

「それも記録するか?」

 

「……うん。多かった。疲れた」

 

「分かった」

 

 彼は紙片に書いた。

 

『市場にて小規模瘴気事案。本人、短時間浄化。終了後疲労あり。人目による負荷あり。以後、市場同行時は人払いまたは早期離脱を考慮』

 

 その場で書いている。

 

 書類が、また少し味方になった。

 

「クラウスさん」

 

「何だ」

 

「書類で休ませるの、得意?」

 

「得意でありたい」

 

「かっこいいこと言った」

 

「茶化すな」

 

「半分本気」

 

「残り半分は」

 

「疲れてる」

 

「なら休め」

 

「はいはい」

 

「はいは一回でいい」

 

 クラウスまで言った。

 

 感染が広がっている。

 

 ガルドが少し満足そうだった。

 

     ◇

 

 部屋に戻ると、ボクは寝台に倒れ込んだ。

 

 外套だけはセレスに手伝ってもらって脱いだ。

 

 雨雫は外さず、胸元に残す。

 

「首、苦しくない?」

 

「平気。今日はこのままがいい」

 

「分かった」

 

 セレスはそれ以上言わなかった。

 

 レオンは買ってきた荷物を机に置く。

 

 ガルドは菓子の包みを別に置いた。

 

「あとで食え」

 

「今は無理」

 

「あとでだ」

 

「了解」

 

 部屋が静かになる。

 

 市場の声が、まだ耳に残っている。

 

 ありがとう。

 蒼銀。

 浄化師様。

 見習い。

 光。

 

 悪い言葉ではない。

 

 むしろ、感謝されていた。

 

 でも、胸の奥が少しざわつく。

 

 蒼銀が見られると、ボクより先に光が歩いていく気がする。

 

 でも、今日の子供は助かった。

 

 それも事実だ。

 

 嫌だったことと、よかったことが同時にある。

 

 分類が難しい。

 

「ルシェル」

 

 レオンの声。

 

「何?」

 

「今日の浄化は、よかった」

 

 ボクは顔を上げた。

 

「褒めてる?」

 

「褒めている」

 

「でも、疲れた」

 

「ああ」

 

「見られるのは嫌だった」

 

「ああ」

 

「でも、やってよかったとは思う」

 

「ああ」

 

「全部ある」

 

「全部あっていい」

 

 短い言葉だった。

 

 けれど、少し楽になった。

 

 どれか一つに決めなくていい。

 

 よかった。

 嫌だった。

 疲れた。

 助けられた。

 見られたくなかった。

 

 全部ある。

 

「レオン、今日は返答が優秀」

 

「仮採用は?」

 

「かなり延長」

 

「まだ本採用ではないのか」

 

「長期審査なので」

 

「そうか」

 

 レオンは少しだけ笑った。

 

     ◇

 

 夕方、少し眠ったあと、ガルドの買ってきた菓子を食べた。

 

 薄い焼き菓子に、乾いた果物が入っている。

 

「甘い」

 

「食えるか」

 

「食べられる」

 

「ならいい」

 

「ガルド、菓子部門は本採用」

 

「何だそれは」

 

「菓子選び担当」

 

「そうか」

 

「受け入れるんだ」

 

 セレスが笑い、レオンも少し笑った。

 

 市場で買った防水布や小瓶は、机の上に整理されている。

 

 必要なものたち。

 

 そして、その横にガルドの菓子。

 

 必要かどうかは怪しいが、今は必要だった。

 

 役に立つものと、役に立たないものの境目は、たぶん思っているより曖昧だ。

 

 雨雫もそうだ。

 

 働かない石。

 でも、そこにある。

 

「今日、木彫りの猫、買わなかったな」

 

 ボクが言うと、セレスがこちらを見る。

 

「気になってる?」

 

「ちょっと」

 

「また行けばいいわ」

 

「また行ける?」

 

「体調がいい日に、短くなら」

 

 また。

 

 その言葉が、少し不思議だった。

 

 市場は今日で終わりではない。

 

 買わなかったものも、また見に行ける。

 

 もちろん、売れてしまっているかもしれない。

 

 それはそれで、仕方ない。

 

 でも、また行けるかもしれない。

 

 そう思えるだけで、少し軽い。

 

「じゃあ、猫は保留」

 

「仮予定?」

 

「仮予定」

 

 レオンが頷く。

 

「なら、覚えておく」

 

「レオン、覚えること増えて大変だね」

 

「必要なら覚える」

 

「木彫り猫、必要?」

 

「君が気にしているなら」

 

 またその言い方。

 

 ボクが気にしているなら。

 

 必要かどうかではなく。

 

 胸元の雨雫を握る。

 

「……変なの」

 

「またか」

 

「変だけど、悪くない」

 

 レオンは何も言わずに頷いた。

 

     ◇

 

 夜。

 

 枕元に雨雫を置く。

 

 今日は首から外す時、少しだけ名残惜しかった。

 

 でも、紐が絡まると困るので外す。

 

 机の上には、買ってきた小瓶と包帯。

 椅子の上には防水布。

 袋の中には携帯食。

 そして菓子。

 

 必要なもの。

 必要ではないかもしれないもの。

 でも、今ここにあるもの。

 

「おやすみ、雨雫」

 

 小さく言う。

 

 セレスが灯りを落とす。

 

「今日はよく休んでね」

 

「うん」

 

 レオンが扉の近くで言う。

 

「明日は予定を減らす」

 

「勝手に?」

 

「相談する」

 

「ならよし」

 

「市はしばらくなしだな」

 

「木彫り猫は?」

 

「仮予定として保留」

 

「使いこなしてきた」

 

「そうか」

 

 ガルドが隣室から低く言った。

 

「菓子はある」

 

「明日も食べる」

 

「そうしろ」

 

「ガルド、菓子部門本採用」

 

「戦士だ」

 

「そこは譲らない」

 

 少し笑って、目を閉じる。

 

 市場のざわめきがまだ耳に残っている。

 

 蒼銀を見られた疲れもある。

 

 子供の咳が収まった時の感触もある。

 

 木彫り猫のやる気のない顔も、青い硝子の光も、雨雫の重みもある。

 

 今日も多かった。

 

 でも、全部が嫌だったわけではない。

 

 全部が良かったわけでもない。

 

 全部ある。

 

 それでいいらしい。

 

 枕元で、雨雫が灯りの名残を少しだけ返していた。

 

 蒼銀ではない。

 

 ただの石の、ただの反射。

 

 今日のところは、それで十分だった。

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