TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝、予定は減った。
本当に減った。
王都の書類文化を少しだけ疑っていたが、机の上に置かれた予定表には、簡潔にこう書かれていた。
『午前:休養。
午後:今後の移動予定確認。
追加予定なし。』
「短い」
ボクは紙を持ったまま、思わず言った。
「書類なのに短い」
セレスが横から覗き込む。
「分かりやすくていいわね」
「クラウスさん、やればできる」
「本人に言う?」
「言うと困りそうだから言う」
「ほどほどにね」
窓の外は薄曇りだった。
王都の空を覆う結界は、昨日より少し白っぽく見える。
曇り空越しの結界は、まるで水の膜みたいだった。
見ていると、少しだけ手の奥が反応する。
強くはない。
ただ、遠くで誰かが呼んでいるような気配。
ボクはすぐに胸元の雨雫を押さえた。
「本日休業」
小さく呟く。
手の奥の熱は、それ以上強くならなかった。
「今のところ、効果あるわね」
セレスが言う。
「蒼銀への勤務管理」
「勤務管理」
「働きすぎ防止」
「大事ね」
「大事」
自分で言っておいて、少し変な気分だった。
蒼銀は力だ。
浄化師として必要なものだ。
でも、勝手に動くなら、止まってもらう必要がある。
力があることと、いつでも使うことは違う。
たぶん。
◇
午前は、本当に何もなかった。
何もないというのは、意外と難しい。
忙しい時は、目の前のことをこなせばいい。
でも、何もない時間は、頭の中が勝手に動く。
王都。
結界。
蒼銀。
市場。
木彫りの猫。
見られた疲れ。
助かった子供。
それから、これからのこと。
「王都にずっといるわけじゃないんだよね」
昼前、部屋で雨雫を転がしながら言った。
ころん、と音がする。
レオンは椅子で剣の手入れをしていた。
「その予定はない」
「登録が終わったら?」
「いくつか選択肢がある」
「選択肢」
その言葉に少し身構えた。
選択肢は便利だ。
でも、多いと疲れる。
レオンは布で剣を拭きながら続けた。
「一つは、しばらく王都に滞在して訓練を受ける」
「王都滞在」
「もう一つは、近郊の浄化地を回りながら実地経験を積む」
「旅続行?」
「そうだ」
「ノア浄化院に戻る選択肢は?」
「ある。ただ、王都側の登録手続きが完全に終わるまでは少し時間がかかる」
「つまり、書類がまだ追ってくる」
「そうなる」
「書類、追尾性能高い」
レオンは少しだけ笑った。
笑う頻度が増えてきた気がする。
いい傾向なのか、ボクの変な言葉に慣れすぎているのかは分からない。
「ルシェルはどうしたい」
レオンが聞いた。
軽い声ではなかった。
でも、重くしすぎてもいなかった。
ボクは雨雫を指で止める。
「どうしたい、か」
すぐには出ない。
王都に残る。
訓練を受ける。
近郊を回る。
浄化院に戻る。
どれもあり得る。
王都は大きくて疲れる。
でも、学べるものは多い。
結界塔も気になる。
旅は疲れる。
馬車は敵寄り。
でも、市や宿場や街道の景色は嫌いではない。
浄化院に戻るのは安心するかもしれない。
でも、戻ったら全部元通りになるかというと、たぶんならない。
前の記憶を思い出した後のボクは、もう前と同じではない。
「……王都にずっとは、しんどい」
まず、それだけ言った。
レオンは頷く。
「そうか」
「でも、何も分からないまま戻るのも、ちょっと落ち着かない」
「蒼銀のことか」
「うん。あと、自分のこと」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
自分のこと。
何だその大きすぎる主語は。
でも、言ってしまったものは仕方ない。
「王都で全部調べる、は嫌?」
セレスが本を閉じて聞いた。
「嫌というか、たぶん疲れる。王都は人が多いし、空も管理されてるし、書類も多い」
「書類は確かに多いわね」
「でも、王都の外で少しずつなら、やれそうな気がする」
「近郊の浄化地を回る方?」
「たぶん」
たぶん。
まただ。
でも、今はそれ以上はっきり言えない。
ガルドが部屋の隅で腕を組んだまま言った。
「旅なら、歩く」
「当たり前だけど重い」
「馬車も使う」
「馬車との再戦が決定してしまった」
「休みながら行けばいい」
「ガルド、意外と休みを認める」
「動けなくなれば進めない」
「理由が現実的」
「現実だからな」
ガルドはいつも通りだった。
それが少し落ち着く。
「近郊の浄化地って、どんなところ?」
ボクが聞くと、レオンは机の上に地図を広げた。
いつの間に用意していたのか。
王都周辺の地図。
街道。
村。
森。
小川。
古い祠。
結界石。
その中に、いくつか印がつけられている。
「小規模な瘴気溜まりがいくつかある。正式浄化師が対応予定だったが、急ぎではないものだ」
「急ぎじゃない」
「そうだ。見て、無理なら戻る。必要なら同行者つきで短く浄化する」
「手のひら営業?」
「その範囲で」
「レオン、営業概念を受け入れてきた」
「説明しやすい」
「便利だよね」
セレスが地図を指差す。
「この辺りなら、王都から半日。宿場も近いわ。最初なら無理が少ないと思う」
指先の先には、小さな村の名前があった。
丘の村。
王都の東、なだらかな丘陵地にある小さな村。
近くに古い境界石があり、最近少し濁りが出ているらしい。
「境界石」
ボクは地図の文字を見る。
「結界塔の小さい版?」
「かなり古いものだけれど、役割は似ているわ。村や畑の周りを守る石ね」
「見るだけでも勉強になりそう」
「ええ」
見るだけ。
その言葉は、もう少し信用できるようになってきた。
昨日の結界塔は、本当に見るだけで終わった。
予定通りに終わることがある。
それを少し覚えた。
「そこ、行ってみたいかも」
言ってから、心臓が少しだけ跳ねた。
自分で言った。
行ってみたい。
必要だからではなく。
呼ばれたからでもなく。
役目だからでもなく。
見てみたい。
蒼銀がどう反応するのか知りたい。
自分がどう感じるのか知りたい。
それくらいなら、言ってもいい気がした。
レオンはすぐに決めなかった。
「今日の午後、クラウスと確認する。出発するなら明後日以降だ」
「明日じゃないんだ」
「準備がいる」
「真面目」
「無計画に出る方が危ない」
「正論」
ガルドが頷く。
「食料もいる」
「ガルドはそこ」
「重要だ」
「重要です」
セレスが微笑む。
「じゃあ、午後に相談ね。行くかどうかは、それから決めましょう」
「仮予定」
ボクが言うと、三人とも自然に頷いた。
仮予定。
ボクの言葉が、少しずつパーティの共通語になっている。
それが少しおかしかった。
◇
午後、クラウスが来た。
今日も扉の前で名乗り、入っていいか確認してから入る。
もう少し雑に入ってきてもよさそうなものだが、毎回きちんとしている。
書類の人は、手順の人でもあるらしい。
「近郊浄化地への同行希望が出たと聞いた」
「情報が早い」
「レオン殿から事前連絡があった」
「レオンも早い」
「護衛なので」
レオンが淡々と答える。
クラウスは地図を机に広げた。
「候補は三つある」
「三つ」
「一つ目、東の丘の村。古い境界石の濁り。危険度は低い。水場から遠い。人家からも少し離れている」
「水場から遠い」
昨日の水鏡のことを思い出す。
水面は、まだ少し見たくない。
だから、その条件はありがたかった。
「二つ目、南街道の小祠。通行人が多い。見学には向かない」
「市場と似た感じになりそう」
「そう判断した」
「判断済みだった」
「三つ目、西の古井戸。濁りは小さいが、水場だ。今回は推奨しない」
「書類の人、かなり分かってる」
「記録を読んだ」
クラウスは淡々とそう言った。
記録。
水鏡の件。
市場で人目が多かった件。
結界塔で手が反応した件。
それらがちゃんと次の予定に反映されている。
王都の書類が、初めて少し頼もしく見えた。
「じゃあ、東の丘の村?」
ボクが言うと、クラウスは頷いた。
「行く場合は、半日移動。到着日は観察のみ。翌日に浄化するか判断」
「観察のみ」
「そうだ」
「到着日にやりたくなったら?」
「やらない」
即答だった。
「強い」
「到着日は疲労がある。場所を見るだけで十分だ」
「ボクができそうって言っても?」
「予定にない」
「書類の壁」
「必要なら壁になる」
クラウスが真顔で言った。
書類の壁。
少し笑いそうになったが、たぶん本人は本気だ。
「それ、ちょっといいね」
「そうか」
「王都の書類、初めて防御力を感じた」
「本来、手続きには防御力があるべきだ」
「名言っぽい」
「ただの事実だ」
クラウスは続ける。
「同行者はレオン殿、セレス殿、ガルド殿。現地の村長には、見学であり、見世物ではないと伝える」
「見世物ではない」
「必要事項だ」
「それも書く?」
「書く」
「強い」
セレスが地図を見ながら言う。
「宿泊は村の宿ですか?」
「村長宅の離れを用意できるとのことだ。水場から離れている。出入り口は一つ。窓は丘側」
「配慮が細かい」
「昨日の市場後に手配条件を足した」
「書類の人、仕事が早い」
「褒めるなら普通に褒めろ」
「すごい」
クラウスが少し黙った。
「……評価として受け取る」
「困ってる」
「少しな」
やっぱり困るらしい。
◇
話は思ったより早く進んだ。
出発は二日後。
明日は準備と休養。
王都を完全に離れるわけではない。
近郊の短い実地見学。
期間は三日予定。
一日目、移動と観察。
二日目、体調次第で短時間浄化。
三日目、帰還。
浄化できなければ、そのまま戻る。
見ただけで終わっても記録上は問題なし。
「見ただけで終わってもいいんだ」
ボクが確認すると、クラウスは頷いた。
「今回の目的は、実地環境での反応確認と、本人の負荷把握だ。浄化完了ではない」
「実地環境での反応確認」
「言い方が硬いか」
「かなり」
「なら、見に行って、無理なら戻る」
「分かりやすい」
「書類には硬い方で書く」
「二重言語」
「王都なので」
ボクは地図を見る。
東の丘の村。
知らない場所。
でも、王都より小さそうだ。
空も、たぶん結界の膜が薄いか、ない。
人も少ない。
市場ほど騒がしくもない。
古い境界石。
それが少し気になる。
蒼銀がどう反応するのか。
そして、ボクはその時、止まれるのか。
「行ってみる」
ボクは言った。
部屋が少し静かになる。
言ったあとで、胸が少し高鳴った。
怖い。
でも、嫌ではない。
「仮じゃないのか」
レオンが聞いた。
「仮だけど、今のところ行く」
「分かった」
「明日になって無理そうなら?」
セレスが確認する。
「延期」
「ええ」
「当日、着いて無理そうなら?」
「観察だけ」
ボクが答えると、ガルドが頷いた。
「戻る道もある」
「ガルド、そこ大事にするね」
「大事だ」
「うん。大事」
クラウスはそのやり取りを記録していた。
「本人、東の丘の村への短期同行を希望。ただし体調不良時は延期、到着後の判断により観察のみも可」
「そのまま書くと真面目な感じになる」
「真面目な話だ」
「そうだった」
少し笑う。
でも、胸の奥は静かだった。
自分で言った。
行ってみる。
それは小さいけれど、はっきりした言葉だった。
◇
クラウスが帰ったあと、部屋の空気が少し変わった。
旅の前の空気だ。
荷物を確認する音。
セレスが薬草袋を開く音。
レオンが地図を折りたたむ音。
ガルドが携帯食の袋を点検する音。
王都に来てから、ずっと建物の中にいた気がする。
もちろん市場や結界塔には行った。
でも、王都の内側だった。
今度は外へ出る。
近郊とはいえ、旅だ。
「馬車、また乗るのか」
ボクが言うと、レオンが答えた。
「半日だ」
「半日も馬車」
「歩くより早い」
「便利な敵」
「まだ敵なのか」
「最近、少し和解しつつある」
「それはよかった」
ガルドが携帯食を見ながら言う。
「酔うなら食いすぎるな」
「でも食べないと酔う」
「少し食え」
「実用的助言」
「旅では大事だ」
「ガルド、旅の生活知識が強い」
「戦士だからな」
「盾職じゃなくて?」
「戦士だ」
「はい」
「はいは一回」
「今の一回」
セレスが笑った。
このやり取りも、だいぶ定番になってきた。
◇
夕方、少しだけ館の庭に出た。
噴水からは離れた、木陰のベンチ。
王都の結界は、夕焼けを受けて淡い紫に見える。
綺麗だ。
でも、やはり空が一枚遠い。
レオンが隣ではなく、少し離れた位置に立っている。
セレスは花壇を見ている。
ガルドは庭の入口にいる。
自然に、でも過剰ではない距離。
この数日で、少しずつ決まってきた距離だった。
「王都、出るんだね」
ボクが言うと、レオンが答えた。
「ああ」
「ちょっと安心してる」
「王都が嫌か」
「嫌というより、大きすぎる」
「そうか」
「でも、クラウスさんとかリーネさんとか、食堂の人とか、見習いの子とか、悪くない人もいた」
「ああ」
「王都全部が嫌、ではない」
「それでいいんじゃないか」
「雑にまとめた」
「悪いか」
「悪くない」
雨雫を胸元から出して、手のひらに乗せる。
夕方の光を受けて、灰青色の石が少しだけ柔らかく見えた。
「雨雫、旅に出るよ」
言ってから、レオンの視線に気づいた。
「聞いてた?」
「ああ」
「石に話しかけるの、定着してきた」
「いいんじゃないか」
「いいの?」
「君の石だろう」
君の石。
その言い方に、指先が少し止まる。
ボクの石。
レオンが買ってくれた。
ボクが受け取った。
ボクが名前をつけた。
だから、ボクの石。
当たり前なのに、少し嬉しい。
「レオン」
「何だ」
「これ、買ってくれてありがと」
初めて、ちゃんと言った気がする。
レオンは少しだけ驚いた顔をした。
それから、いつもの真面目な顔に戻る。
「気に入ったならよかった」
「仮採用から本採用になりつつある」
「石がか?」
「石も。レオンも」
「俺もか」
「まだ審査中」
「厳しいな」
「長期審査なので」
レオンは少し笑った。
夕焼けの中で見ると、その笑い方は少し穏やかだった。
◇
夜。
出発前々日なのに、少し落ち着かなかった。
荷物はまだ完全にはまとめていない。
明日は準備の日だ。
でも、気持ちはもう少しだけ外へ向いている。
枕元に雨雫を置く。
ころん。
「おやすみ、雨雫。二日後、出張」
セレスが灯りを落としながら笑った。
「石も出張するのね」
「同行必須なので」
「大事な装備?」
「装備ではない」
「じゃあ?」
少し考える。
雨雫は、装備ではない。
道具でもない。
お守りと言えば近いけれど、それだけでもない。
「同行者」
言ってから、自分で少し笑った。
「石だけど」
「いいんじゃない?」
「いいのかな」
「ルシェルがそう思うなら」
セレスの言い方は、いつも少しずるい。
ボクがそう思うなら。
それを肯定するのは、まだ慣れない。
でも、少しずつなら受け取れる。
隣室からガルドの声がした。
「早く寝ろ」
「壁越しはい指導?」
「寝ろ」
「はい」
「一回でいい」
「一回だった」
レオンが扉の近くで低く笑った気がした。
部屋の空気が、少し柔らかい。
王都に来た初日とは違う。
まだ怖いものはある。
蒼銀を見たい人たちもいる。
書類もまだ追ってくる。
結界塔を見ると手が反応する。
でも、行き先が決まった。
東の丘の村。
古い境界石。
見るだけかもしれない。
少しだけ浄化するかもしれない。
何もできずに戻るかもしれない。
それでも、ボクが「行ってみる」と言った。
今日はそれで十分だった。
目を閉じる。
王都の夜の音が遠くなる。
枕元で、雨雫が小さく光を返していた。
旅は、また始まる。
王都の外へ。
少しだけ、自分の方へ。