TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

14 / 36
第13話 境界石の丘

 

 朝の丘の村は、王都よりずっと静かだった。

 

 鐘の音はない。

 馬車の車輪も少ない。

 遠くで鶏が鳴き、近くで山羊が鳴き、風が畑の草を揺らしている。

 

 窓を開けると、冷たい空気が入ってきた。

 

 土と草の匂い。

 

 王都の石と煙の匂いとは違う。

 

「朝が軽い」

 

 ボクが窓辺で言うと、セレスが荷物を整えながら振り返った。

 

「よく眠れた?」

 

「王都よりは」

 

「よかった」

 

「ただ、山羊の声で一回起きた」

 

「山羊ね」

 

「山羊は目覚まし機能もある」

 

「多機能ね」

 

「即日採用から常勤採用へ」

 

 セレスは笑った。

 

 枕元の雨雫を手に取る。

 

 昨日の夜、境界石を「石の先輩」と呼んだせいで、少しだけ妙な気分になっている。

 

 今日は本当に、その先輩に会いに行く。

 

 いや、石だけど。

 

「おはよう、雨雫。今日は大先輩に挨拶です」

 

 当然、返事はない。

 

 働かない石は、今日も安定して働かない。

 

 紐を首にかけ、外套の内側へしまう。

 

 胸元に小さな重みが戻った。

 

 手のひらの奥は、朝から少しだけ温かい。

 

 丘の上の境界石が、こちらを呼んでいるわけではない。

 

 ただ、そこにあるのが分かる。

 

 遠くの灯りを、目を閉じても感じるような感覚。

 

 嫌ではない。

 

 けれど、少し落ち着かない。

 

「手、どう?」

 

 セレスが聞いた。

 

「ちょっと起床済み」

 

「蒼銀が?」

 

「うん。でも、まだ出勤はしてない」

 

「今日は見に行くだけよ」

 

「分かってる。勤務開始は未定」

 

「よし」

 

 よし判定が出た。

 

 最近、セレスのよし判定も増えている。

 

     ◇

 

 朝食は、昨日の乳酪と温かい麦粥だった。

 

 ガルドは乳酪を真剣に見ていた。

 

 完全に気に入っている。

 

「買うの?」

 

 ボクが聞くと、ガルドは頷いた。

 

「帰りに買う」

 

「決定済み」

 

「保存できると言っていた」

 

「情報収集してる」

 

「食料は大事だ」

 

「丘の村、ガルドに評価されてる」

 

 村長は少し嬉しそうに笑った。

 

「ありがたいことです」

 

 レオンは村長と今日の予定を確認している。

 

「境界石までは、村の外れから丘を上る。道はあるが、途中から草地だと聞いた」

 

「はい。昨日、村の者が道の手前まで確認しました。石の周辺には近づいておりません」

 

「案内は?」

 

「丘のふもとまで、私の孫に」

 

 昨日の山羊案内人の少年が、隅で背筋を伸ばした。

 

 少し誇らしげだ。

 

「その先は、こちらで行く」

 

 レオンが言う。

 

 村長はすぐに頷いた。

 

「承知しております。見物人も出さぬよう伝えてあります」

 

「見物人」

 

 ボクが小さく呟くと、村長がこちらを見た。

 

「ご不快でしたら申し訳ありません」

 

「いや、助かります。人が多いと、ちょっと疲れるので」

 

「はい。王都より、そう申し送りがありました」

 

 クラウス。

 

 また仕事をしている。

 

 書類の壁は、村まで届くらしい。

 

「王都の書類、遠距離防御」

 

 思わず言うと、レオンが小さく笑った。

 

「その表現、クラウスに伝えるか」

 

「困るかな」

 

「少し困るだろうな」

 

「じゃあ伝える」

 

「ほどほどにしてやれ」

 

 セレスが言った。

 

     ◇

 

 丘へ向かう道は、畑の間を通っていた。

 

 低い石垣。

 伸び始めた麦。

 土の道。

 遠くの風車。

 

 王都の舗装された道とは違い、少し歩くたびに靴の裏へ土の感触が返ってくる。

 

 悪くない。

 

 ただ、坂道は意外と体力を奪う。

 

「丘、見た目より仕事してくる」

 

 ボクが息を整えながら言うと、ガルドが振り返った。

 

「坂だからな」

 

「坂は敵?」

 

「敵ではない」

 

「馬車よりは?」

 

「歩けば進む」

 

「馬車は?」

 

「乗れば進む」

 

「ガルド、どっちにも中立」

 

「進めばいい」

 

「旅人の答え」

 

 少年が前を歩きながら、ちらちらこちらを見ていた。

 

 昨日より緊張は薄い。

 

 でも、やはり見習い浄化師という存在は珍しいのだろう。

 

「山羊、今日も元気?」

 

 ボクが聞くと、少年はぱっと顔を上げた。

 

「はい! 朝から柵をかじってました」

 

「柵を」

 

「たまにやります」

 

「山羊、自由すぎる」

 

「怒ると、こっちを見ながらまたかじります」

 

「強い」

 

 山羊の話になると、少年は普通に話せるらしい。

 

 ボクも助かる。

 

 蒼銀の話より、山羊の方がずっといい。

 

「白い山羊、名前あるの?」

 

「ミルです」

 

「ミル」

 

「灰色がガルで、茶色がポロです」

 

「ガル」

 

 思わずガルドを見る。

 

 少年が慌てた。

 

「あ、ガルドさんとは違います!」

 

「分かっている」

 

 ガルドは真顔で答えた。

 

「灰色の山羊か」

 

「はい」

 

「強いか」

 

「柵を一番かじります」

 

「強いな」

 

「そこで評価するんだ」

 

 セレスが笑い、少年も笑った。

 

 丘の道が、少しだけ軽くなった。

 

     ◇

 

 村の外れで、少年は足を止めた。

 

 そこから先は、畑ではなく草地になる。

 

 丘の上に、境界石が見えていた。

 

 近くで見ると、昨日より大きい。

 

 人の背丈ほどの石柱。

 表面には古い文字と紋様。

 苔がつき、ところどころ欠けている。

 

 石の周りの草だけ、少し色が鈍い。

 

 枯れているわけではない。

 

 ただ、光を受けるのが下手になっているような色。

 

 空気も、少し重くなった。

 

「ここまでで大丈夫だ」

 

 レオンが少年に言った。

 

「はい」

 

 少年はボクたちを見て、それから境界石を見る。

 

「あの、石、治りますか?」

 

 治る。

 

 その言葉に、少しだけ胸が引っかかる。

 

 浄化できますか、ではなく。

 

 治りますか。

 

 ボクはすぐには答えなかった。

 

 治ると言い切るのは怖い。

 でも、何も言わないのも違う。

 

「今日は、見てみるだけ」

 

 ボクはそう言った。

 

「明日、少しできるか考える」

 

 少年は少しだけ不安そうだったが、頷いた。

 

「はい」

 

「あと、山羊に指を食べられないようにする」

 

「それは本当に気をつけてください」

 

「真剣」

 

「ミルは特に」

 

「白いのに危険」

 

 少年は少し笑ってから、村の方へ戻っていった。

 

 彼の背中が十分に離れてから、レオンがこちらを見る。

 

「行けるか」

 

「行ける。たぶん」

 

「たぶん」

 

「前向きなたぶん」

 

「分かった」

 

 セレスが言う。

 

「今日は石の手前まで。触らない。光を出さない。嫌になったら戻る」

 

「了解」

 

 ガルドが先に歩く。

 

「足元を見る」

 

「はい」

 

「一回でいい」

 

「一回だった」

 

 いつものやり取りをしてから、ボクたちは丘を上がった。

 

     ◇

 

 境界石へ近づくにつれて、手のひらの奥の熱が強くなった。

 

 王都の結界塔のような、強く引かれる感じではない。

 

 もっと低い。

 

 地面の下から、古い音が響いてくるような感覚。

 

 石の周りには、黒い靄がまとわりついていた。

 

 瘴気。

 

 でも、濃くはない。

 

 薄く、細く、長い間そこにいたもの。

 

 境界石の表面に刻まれた紋様の一部が、黒く濁って見える。

 

「嫌な感じ?」

 

 セレスが小声で聞く。

 

「嫌というより、眠そう」

 

「石が?」

 

「うん。長く働いて、今ちょっと寝不足」

 

 自分で言ってから、ちょっと変な比喩だと思った。

 

 でも、感覚としてはそれが近い。

 

 境界石は壊れていない。

 

 ただ、疲れている。

 

 その上に、薄い瘴気が重なっている。

 

「大先輩、残業してる」

 

 ボクが呟くと、レオンが聞き返した。

 

「残業?」

 

「働きすぎ」

 

「石が?」

 

「境界石だから、働いてると思う」

 

「そうか」

 

 レオンは真面目に頷いた。

 

 最近、この人は石に対するボクの発言をかなり真面目に処理する。

 

 それでいいのだろうか。

 

「ここまでにするか」

 

 ガルドが言った。

 

 境界石まで、あと十歩ほど。

 

 確かに、これ以上近づかなくても見える。

 

 ボクは立ち止まった。

 

 草が足元で揺れる。

 

 風が吹く。

 

 丘の上から村が見えた。

 

 畑。

 石垣。

 風車。

 山羊の柵。

 

 この石は、あれをずっと見てきたのだろうか。

 

 そう思うと、少しだけ胸の奥が静かになった。

 

「今日は、ここでいい」

 

 自分で言った。

 

 手のひらは温かい。

 

 蒼銀は出たがっている。

 

 でも、まだ出さない。

 

 今日は見るだけ。

 

「本当にいいのか」

 

 レオンが確認する。

 

「うん」

 

「やれそうでも?」

 

「今日は移動の翌日……じゃなくて、到着翌日か。えっと、予定では観察」

 

「そうだ」

 

「だから、観察だけ」

 

 言葉にすると、少し落ち着く。

 

 予定。

 

 観察だけ。

 

 触らない。

 光を出さない。

 近づきすぎない。

 

 クラウスの紙が頭に浮かぶ。

 

 書類の壁、丘の上でも仕事をしている。

 

「境界石さん」

 

 ボクは少しだけ声を落として言った。

 

 返事はない。

 

 当たり前だ。

 

「今日は挨拶だけです。ボクは見習いなので」

 

 セレスが隣で静かに笑った気配がした。

 

 レオンは何も言わない。

 

 ガルドも黙って周囲を見ている。

 

 風が吹く。

 

 境界石の表面の黒い靄が、ほんの少しだけ揺れた。

 

 気のせいかもしれない。

 

 でも、それでよかった。

 

「明日、ちょっとだけ考えます」

 

 そう言って、ボクは一歩下がった。

 

 手の奥の熱が少し引く。

 

 蒼銀は出なかった。

 

 出さずに済んだ。

 

「終わり?」

 

 セレスが聞く。

 

「終わり」

 

 ボクは頷いた。

 

「今日の業務、挨拶のみ」

 

「お疲れさま」

 

「石の先輩、思ったよりちゃんと先輩だった」

 

「どういう意味だ」

 

 レオンが聞く。

 

「長くそこにいる感じがした」

 

「そうか」

 

「うん。大事にされてる石だと思う」

 

 村の人が近づかないようにしていたこと。

 昨日、村長が石の話を急かさなかったこと。

 少年が「治りますか」と聞いたこと。

 

 その全部が、少しだけ分かった気がした。

 

 あの石はただの設備ではない。

 

 村の一部だ。

 

 それを、ボクは今日見た。

 

 それで十分だった。

 

     ◇

 

 帰り道は、行きより少し楽だった。

 

 浄化していないから、身体の疲れは少ない。

 

 ただ、頭は少し使った。

 

 境界石の気配。

 薄い瘴気。

 蒼銀の反応。

 村の景色。

 

 それらを抱えたまま、丘を下りる。

 

「顔色は悪くないわ」

 

 セレスが言った。

 

「顔色診断、今日も実施中」

 

「今日は歩き方も見てるわ」

 

「拡張された」

 

「疲れている時は、少し右足が遅れる」

 

「そんなところまで?」

 

「ええ」

 

「魔術師というより観察師」

 

「それも半分くらい」

 

「半分文化」

 

 レオンが少し笑う。

 

 ガルドは前を歩きながら言った。

 

「転ぶな」

 

「現実的助言」

 

「坂だ」

 

「はい」

 

「一回でいい」

 

「今のは一回」

 

 村の外れまで戻ると、少年が待っていた。

 

 どうやら山羊の柵の近くから様子を見ていたらしい。

 

 ただ、こちらへ近づきすぎてはいない。

 

 偉い。

 

「どうでしたか?」

 

 少年が聞く。

 

「今日は挨拶だけ」

 

 ボクは答えた。

 

「挨拶」

 

「うん。石の大先輩だった」

 

 少年は首を傾げた。

 

 当然だと思う。

 

「明日、もう少し見てみる。今日は触ってないし、光も出してない」

 

「そうなんですか」

 

「うん。でも、見た」

 

 少年は少し考えてから頷いた。

 

「じゃあ、石もルシェルさんを見ましたか?」

 

 その言い方が、少し面白かった。

 

「たぶん」

 

「なら、挨拶ですね」

 

「そう。挨拶成立」

 

 少年は満足そうに笑った。

 

 いい子だ。

 

 山羊の案内人としても優秀だし、石への理解もある。

 

「山羊は?」

 

 ボクが聞くと、少年は急に真剣な顔になった。

 

「ミルがまた柵をかじりました」

 

「大事件」

 

「はい」

 

 浄化師より山羊の方が大変かもしれない。

 

     ◇

 

 昼食後、ボクは離れで少し休んだ。

 

 本当に少しだけのつもりだったが、気づいたら一時間以上寝ていたらしい。

 

 起きると、枕元に雨雫が置かれていた。

 

 たぶん、寝る時に自分で外したのだろう。

 

 記憶が曖昧だ。

 

「起きた?」

 

 セレスが窓辺で本を読んでいた。

 

「寝てた」

 

「ええ」

 

「挨拶だけなのに」

 

「挨拶でも疲れるわ」

 

「石相手でも?」

 

「相手が石でも」

 

「そっか」

 

 身体は重くない。

 

 でも、深いところが少し眠い。

 

 蒼銀を使わなくても、反応を抑えるだけで疲れるらしい。

 

「手は?」

 

 セレスが聞く。

 

「今は普通」

 

「よかった」

 

「明日、どうするかはまだ分からない」

 

「今日決めなくていいわ」

 

「便利」

 

「便利でいいの」

 

 ボクは雨雫を指で転がす。

 

 ころん。

 

 ころん。

 

 境界石の表面にまとわりついていた薄い靄を思い出す。

 

 たぶん、短くならできる。

 

 でも、近づきすぎると蒼銀が強く出るかもしれない。

 

 どこまで近づくか。

 どこで止まるか。

 どれくらい光を出すか。

 

 考えることがある。

 

 でも、それは明日でいい。

 

「今日は山羊見ていい?」

 

 ボクが聞くと、セレスが笑った。

 

「体調がよければ」

 

「体調は、山羊ならいける」

 

「山羊用体調」

 

「そう」

 

     ◇

 

 夕方、また山羊を見に行った。

 

 白いミルは、噂通り柵をかじっていた。

 

 本当にこちらを見ながらかじっている。

 

「挑発的」

 

 ボクが言うと、少年が頷いた。

 

「いつもです」

 

「ミル、強い」

 

 灰色のガルは、こちらを見てから草を食べ始めた。

 

 ガルドはそれをじっと見ている。

 

「似てる?」

 

 ボクが聞くと、ガルドは少し考えた。

 

「食うところは」

 

「そこ?」

 

「大事だ」

 

「ガルド、山羊との共通点を食に見出した」

 

 茶色のポロは、セレスの外套の裾に興味を示していた。

 

 セレスが慌てて少し下がる。

 

「食べないでね」

 

「ポロ、魔術師の布を狙う」

 

「困るわ」

 

 レオンは少し離れて立ち、山羊とボクたちを見ていた。

 

 その顔が、どこか穏やかだった。

 

「レオンは山羊に興味ないの?」

 

「見ている」

 

「感想は?」

 

「自由だな」

 

「とても自由」

 

 白いミルが、また柵をかじった。

 

 自由である。

 

 ボクは笑った。

 

 境界石のことは、少し遠くなった。

 

 明日はまた考える。

 

 でも今は、山羊が柵をかじっている。

 

 それを見ている。

 

 それでよかった。

 

     ◇

 

 夜、離れの部屋。

 

 夕食には、また乳酪が出た。

 

 ガルドは保存用を少し買う交渉をしていた。

 交渉というより、真顔で「買う」と言い、村長が笑って頷いただけだった。

 

 王都の市場とは違う交渉方法だ。

 

 部屋に戻って、枕元に雨雫を置く。

 

 窓の外には丘が見える。

 

 月明かりの中で、境界石は小さな影だった。

 

 昨日より、少し近く感じる。

 

 実際には距離は同じ。

 

 でも、今日挨拶をしたからかもしれない。

 

「明日、どうする?」

 

 レオンが扉の近くで聞いた。

 

「まだ分からない」

 

「そうか」

 

「でも、たぶん、少しだけ近づく」

 

「浄化するか?」

 

「分からない。見てから」

 

「分かった」

 

 レオンはそれ以上聞かなかった。

 

 セレスが灯りを落とす。

 

「明日の朝、もう一度決めましょう」

 

「うん」

 

 ガルドが隣室から言う。

 

「寝ろ」

 

「はい」

 

「一回でいい」

 

「一回」

 

 いつものやり取り。

 

 それだけで、少し安心する。

 

「おやすみ、雨雫。大先輩、寝不足だったね」

 

 小さく言う。

 

 雨雫は答えない。

 

 境界石も、遠くで黙っている。

 

 でも、今日はそれでいい。

 

 石はだいたい黙っているものだ。

 

 ボクは目を閉じる。

 

 明日は、少しだけ近づく。

 

 たぶん。

 

 前向きなたぶん。

 

 それくらいなら、今夜のボクにも抱えて眠れそうだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。