TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第14話 ちょっとだけの浄化

 

 翌朝、目が覚めると、手のひらが温かかった。

 

 痛くはない。

 眩しくもない。

 蒼銀も出ていない。

 

 ただ、手の奥が、昨日より少しだけ起きている。

 

「……出勤前待機」

 

 寝台の上で呟く。

 

 枕元の雨雫は、いつも通り黙っていた。

 

 働かない石は、今日も模範的に働かない。

 

 ボクはそれを手に取り、首にかける。

 

「おはよう、雨雫。今日は大先輩に、ちょっとだけ手伝うかもしれない」

 

 返事はない。

 

 でも、胸元に収まる重みが少しだけ落ち着く。

 

 窓の外を見る。

 

 丘の上の境界石は、朝の光の中で細く立っていた。

 

 昨日より、少しだけはっきり見える。

 

 黒い影ではなく、古い石として。

 

「起きた?」

 

 セレスが声をかけてくる。

 

「起きた。蒼銀も起きてる」

 

「強い?」

 

「まだ弱い。寝起きで布団から出るか迷ってるくらい」

 

「分かるような、分からないような」

 

「ボクにも半分くらい」

 

 セレスは笑った。

 

 それから、いつものように聞く。

 

「今日はどうする?」

 

 どうする。

 

 昨日の夜から、ずっと頭の隅にあった問いだった。

 

 境界石へ行く。

 少しだけ近づく。

 見てから決める。

 

 そこまでは考えていた。

 

 でも、浄化するかどうかはまだ決めていない。

 

 ボクは胸元の雨雫を押さえた。

 

「行く」

 

「うん」

 

「昨日より、少し近くまで」

 

「うん」

 

「浄化するかは、石の前で決める」

 

「分かったわ」

 

「ただし、やるとしてもちょっとだけ」

 

「ちょっとだけね」

 

「大規模営業はしない」

 

「しないでください」

 

 セレスが少し真面目な顔で言った。

 

 敬語になった。

 

 それだけで、ちょっと危険なことを言っていたのだと分かる。

 

「しません」

 

「よし」

 

「よし判定」

 

 ボクは少し笑った。

 

 怖くないわけではない。

 

 でも、昨日よりは分かる。

 

 あの境界石は、たぶん壊れていない。

 完全に祓う必要も、急いで何かを変える必要もない。

 

 長く働いて、少し疲れている。

 

 それなら、全部を一気にどうにかするより、まずは表面の靄を少しだけ払うくらいでいい。

 

 たぶん。

 

     ◇

 

 朝食の席で、村長に今日の予定を伝えた。

 

「今日は、昨日より近くで見ます」

 

 ボクは麦粥を少し食べてから言った。

 

「できそうなら、ほんの少しだけ触らずに浄化します」

 

 村長は深く頷いた。

 

「承知しました。村の者は近づけません」

 

「見物も?」

 

「させません」

 

「助かります」

 

 昨日より、言葉が出しやすい。

 

 村長は急かさない。

 

 少年も、山羊の話をしながら聞いている。

 

「ミルは今朝も柵を?」

 

 ボクが聞くと、少年は真剣に頷いた。

 

「かじりました」

 

「安定」

 

「でも、今日は少しだけです」

 

「ミルにも自制がある」

 

「たぶん」

 

 少年が「たぶん」を使った。

 

 感染が村に広がっている。

 

 少し危険だ。

 

 ガルドは乳酪をパンに乗せている。

 

 集中している。

 

「ガルド、今日は境界石だよ」

 

「分かっている」

 

「乳酪に意識が寄ってない?」

 

「食える時に食う」

 

「旅の真理」

 

 レオンが地図を畳みながら言う。

 

「出るのは朝食後少し休んでからだ。急がない」

 

「朝一番じゃないんだ」

 

「体を起こしてからの方がいい」

 

「馬車じゃないのに?」

 

「歩く」

 

「坂もある」

 

「そうだ」

 

 坂。

 

 昨日の丘。

 

 見た目より仕事をしてくる相手。

 

 今日は坂にも注意が必要だ。

 

 境界石だけに気を取られると、足元で負ける。

 

「坂対策も必要」

 

 ボクが言うと、ガルドが頷いた。

 

「足元を見る」

 

「はい」

 

「一回でいい」

 

「まだ何も言ってないのに」

 

「先に言った」

 

「先制はい指導」

 

 少年が笑った。

 

     ◇

 

 丘へ向かう道は、昨日と同じだった。

 

 畑の間を抜ける。

 低い石垣の横を歩く。

 風車がゆっくり回っている。

 

 昨日と同じ道なのに、少し違って見えた。

 

 今日は、昨日より目的が近い。

 

 山羊ではなく、境界石。

 

 もちろん、帰りに山羊は見る。

 

 そこは大事だ。

 

 村の外れまで、少年が案内してくれた。

 

「今日はここまで」

 

 レオンが言う。

 

 少年は頷く。

 

「はい」

 

 それから、ボクを見た。

 

「石、よろしくお願いします」

 

「うん。よろしくされすぎない範囲で」

 

「えっと」

 

「見習いなので」

 

「あ、はい」

 

 少年はまだ少し分からなさそうだったが、頷いて戻っていった。

 

 その背中を見送ってから、レオンがこちらを見る。

 

「行けるか」

 

「行ける」

 

 今日は、たぶんをつけなかった。

 

 自分でも少し驚いた。

 

 レオンも気づいたのか、一瞬だけ目を細める。

 

「分かった」

 

 ガルドが先に立つ。

 

 セレスが横に並ぶ。

 

 ボクはゆっくり坂を上った。

 

     ◇

 

 境界石は、昨日と同じ場所に立っていた。

 

 当たり前だ。

 

 石なので。

 

 でも、昨日と同じでいて、昨日より少し親しみがある。

 

 挨拶した相手だからかもしれない。

 

 石の周りの草は、やはり少し色が鈍い。

 表面の紋様には、薄い黒い靄がまとわりついている。

 

 朝の光の中で見ると、その濁りは思ったより細かった。

 

 濃い瘴気溜まりではない。

 

 長い時間をかけて、少しずつ絡みついた埃のようなもの。

 

「昨日と同じくらい?」

 

 セレスが聞く。

 

「うん。増えてはいない」

 

「よかった」

 

 ボクは昨日止まった場所まで行き、そこで一度立ち止まった。

 

 手のひらが温かい。

 

 蒼銀が出たがっている。

 

 でも、まだ出さない。

 

「もう少し近づく」

 

 自分で言う。

 

 レオンが短く返す。

 

「ああ」

 

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 

 境界石まで、あと七歩ほど。

 

 ここまで近づくと、石の表面の細かな傷まで見えた。

 

 古い文字。

 苔。

 欠けた角。

 雨風に削られた紋様。

 

 それでも、石は立っている。

 

 村の方を向いて。

 

 ずっと。

 

「大先輩、思ったより働いてる」

 

 ボクは小さく言った。

 

 レオンが少しだけ笑った気がした。

 

 セレスは何も言わない。

 

 ガルドは周囲を見ている。

 

「触らない」

 

 ボクは確認するように言った。

 

「触らない」

 

 セレスが返す。

 

「手のひらだけ」

 

 レオンが言う。

 

「手のひらだけ」

 

 ボクも繰り返す。

 

「短く」

 

 ガルドが言う。

 

「短く」

 

 ボクは頷いた。

 

 この確認が、少しおかしいくらい安心する。

 

 大げさな儀式ではない。

 

 ただの声かけ。

 

 でも、それで境目ができる。

 

 ここから先に行きすぎないための、小さな杭みたいなもの。

 

「じゃあ」

 

 右手を上げる。

 

 境界石には触れない。

 

 手のひらを、少し離れたところにかざす。

 

 胸元の雨雫を、左手で軽く押さえる。

 

 ころん。

 

 小さな感触。

 

「営業範囲、石の表面の、端っこだけ」

 

 声に出す。

 

 少し変な言い方だが、今のボクには分かりやすい。

 

 全部ではない。

 

 村全部でもない。

 丘全体でもない。

 境界石全体でもない。

 

 表面の端っこだけ。

 

 手のひらに、淡い蒼銀が灯った。

 

 薄い光。

 

 強くない。

 

 でも、石の靄が、ふわりと反応する。

 

「痛みを責めず、濁りをほどき、還る道を開く」

 

 いつもの言葉。

 

 けれど、今日は少しだけ言い方を変えた。

 

「今日は、ちょっとだけ」

 

 蒼銀が細い糸のように伸びる。

 

 境界石の表面の、黒く濁った紋様の端へ。

 

 触れた瞬間、手の奥が少し引かれた。

 

 石の古い力。

 村を囲んできた細い結界。

 何度も雨に打たれ、風に削られ、それでも残っているもの。

 

 その奥へ、蒼銀が入り込みたがる。

 

 もっとできる。

 

 そう感じた。

 

 石全体に光を流せる。

 靄を全部ほどける。

 村を囲む古い流れを、少し整えられる。

 

 たぶん、できる。

 

 でも。

 

「端っこだけ」

 

 ボクは声に出した。

 

 レオンがすぐに続ける。

 

「端だけだ」

 

 セレスが言う。

 

「息をして」

 

 ガルドが言う。

 

「足を動かすな」

 

 全部、短い。

 

 そこにいる。

 

 ボクは息を吐いた。

 

 蒼銀を、ほんの少しだけ流す。

 

 黒い靄が薄くなる。

 

 紋様の端が、朝の光を受けてわずかに明るく見えた。

 

 そこで止める。

 

 止める。

 

 止める。

 

「……終わり」

 

 手を下ろした。

 

 蒼銀が消える。

 

 消えたあと、手のひらが少し冷えた。

 

 膝が抜けそうになるほどではない。

 

 でも、身体の奥がふっと軽く疲れた。

 

「下がる」

 

 レオンが言った。

 

「うん」

 

 一歩下がる。

 

 さらにもう一歩。

 

 境界石から距離を取る。

 

 手の奥の引かれる感じが弱まった。

 

 ボクは胸元の雨雫を握る。

 

「……できた」

 

 自分で言って、少し驚いた。

 

 全部ではない。

 

 ほんの端っこだけ。

 

 でも、できた。

 

 そして、止まれた。

 

 そこがたぶん、一番大事だった。

 

     ◇

 

 誰もすぐには褒めなかった。

 

 それが助かった。

 

 もし「すごい」と言われたら、反射で「もっとやれます」と言ってしまいそうだった。

 

 だから、沈黙が少しありがたかった。

 

 セレスがまず聞いた。

 

「気分は?」

 

「ちょっと疲れた」

 

「痛みは?」

 

「ない」

 

「手は?」

 

「冷たい」

 

 セレスが近づきすぎない距離で、ボクの顔を見る。

 

 顔色診断だ。

 

 もうだいぶ慣れた。

 

「座る?」

 

「座る」

 

 ガルドが近くの平らな石を確認し、外套を軽く敷いた。

 

「座れ」

 

「早い」

 

「足が抜ける前に座れ」

 

「はい」

 

「一回でいい」

 

「一回だった」

 

 座ると、思ったより身体がほっとした。

 

 やっぱり疲れていたらしい。

 

 レオンは境界石を見ていた。

 

「濁りが薄くなっている」

 

「端っこだけね」

 

「ああ。端だけだ」

 

「村全体には影響ないと思う」

 

「それでいい」

 

 それでいい。

 

 その言葉が、思ったより響いた。

 

 全部でなくていい。

 

 少しだけでいい。

 

 止まっていい。

 

「大先輩、ちょっとだけ残業減ったかな」

 

 ボクが言うと、セレスが微笑んだ。

 

「そうかもしれないわね」

 

「でも、まだ寝不足」

 

「明日以降、正式な浄化師さんに続きを頼んでもいいのよ」

 

「ボクが全部やらなくても?」

 

「ええ」

 

 分かっていたはずなのに、改めて言われると少し変な感じがする。

 

 この石は村のものだ。

 

 この瘴気は、ボクが見つけたものではない。

 

 王都から来た見習いが全部どうにかしなくてもいい。

 

 でも、少しだけ手伝った。

 

 それでいい。

 

「……ボク、見習いだしね」

 

「そうだ」

 

 レオンが言う。

 

「見習いなら、今日のこれは十分だ」

 

「真面目剣士の評価?」

 

「護衛としても、同行者としても」

 

「二部門評価」

 

「ああ」

 

「高評価?」

 

「高評価だ」

 

 ストレートに言われると、ちょっと恥ずかしい。

 

「……そっか」

 

 ボクは雨雫を握った。

 

「じゃあ、今日の業務は終了」

 

「戻るぞ」

 

 ガルドが言う。

 

「早い」

 

「終わったなら戻る」

 

「現実的」

 

「疲れている」

 

「はい」

 

「一回でいい」

 

「本日も安定」

 

     ◇

 

 村へ戻ると、少年が待っていた。

 

 昨日と同じ場所。

 

 ただ、今日は少しそわそわしている。

 

「どうでしたか?」

 

「ちょっとだけ」

 

 ボクは指で小さく幅を作る。

 

「本当にちょっとだけ、石の端をきれいにした」

 

「治りましたか?」

 

「全部はまだ。でも、少しだけ楽になったと思う」

 

 少年は丘の方を見る。

 

 遠くの境界石は、村からだとほとんど変わって見えない。

 

 でも、少年は真剣に頷いた。

 

「少しでも、よかったです」

 

「うん」

 

「石、大丈夫そうでしたか?」

 

「寝不足だけど、立ってる」

 

「寝不足」

 

「働き者の石だった」

 

 少年は少し考えたあと、納得したように頷いた。

 

「村の石なので」

 

 その言い方が、少しよかった。

 

 村の石。

 

 ボクの雨雫とは違う。

 

 境界石は、この村の石だ。

 

 だから、村の人たちが大事にしている。

 

「今日、山羊は?」

 

 ボクが聞くと、少年の顔が明るくなった。

 

「ミルが柵を越えようとしました」

 

「進展が早い」

 

「止めました」

 

「山羊部門、大事件」

 

 レオンが少し笑い、セレスも笑った。

 

 ガルドだけが真面目に聞いた。

 

「柵は壊れたか」

 

「少しだけ」

 

「直すべきだ」

 

「はい」

 

「ガルド、山羊柵にも実務的」

 

「柵は大事だ」

 

「境界石の日に柵の話」

 

「どちらも境界だ」

 

 ガルドが普通に言った。

 

 ボクは少し黙った。

 

 なるほど。

 

 山羊の柵も、境界石も、どちらも境界。

 

 急に深いことを言われると困る。

 

「ガルド、たまに核心を突く」

 

「そうか」

 

「そう」

 

     ◇

 

 昼食後、ボクはまた離れで眠った。

 

 短い浄化だったのに、身体はしっかり休みを要求してきた。

 

 セレス曰く、顔色はそこまで悪くなかったらしい。

 

 ただ、目が眠そうだった、と言われた。

 

 それは普段からでは。

 

 と思ったが、言わなかった。

 

 夕方前に目が覚めると、部屋の中にはレオンがいた。

 

 椅子に座って、地図を見ている。

 

「起きたか」

 

「起きた。今、何時?」

 

「夕方前だ」

 

「寝すぎた?」

 

「必要なだけ寝た」

 

「便利回答」

 

「事実だ」

 

 身体を起こす。

 

 枕元に雨雫がある。

 

 触れると、冷たい。

 

「境界石、どうなった?」

 

「村長が見に行きたいと言っていたが、今日は近づかないように伝えた」

 

「明日は?」

 

「朝、遠くから見る程度だろう。王都へ報告を送る。正式な浄化師を呼ぶか、俺たちが戻るまで保留にするかは村と王都で決める」

 

「ボクが続きやる予定は?」

 

「ない」

 

「ないんだ」

 

「ああ。今日は端だけと決めた」

 

「そっか」

 

 少しほっとした。

 

 同時に、少しだけ物足りない気もした。

 

 できるのに。

 

 そう思う部分はある。

 

 でも、今日は止まれた。

 

 止まったことを、次で台無しにしたくない。

 

「続き、やりたくなるかもしれない」

 

 正直に言った。

 

 レオンは驚かなかった。

 

「だろうな」

 

「だろうなって」

 

「君は、できそうなことはやりたくなる」

 

「分析されてる」

 

「数日一緒にいれば分かる」

 

「そんなに分かりやすい?」

 

「分かりやすいところと、分かりにくいところがある」

 

「どっちが多い?」

 

「半分くらい」

 

「使いこなしてる」

 

 少し笑う。

 

 レオンも少しだけ笑った。

 

「続きがやりたくなったら、言え」

 

「やっていい?」

 

「まず言え」

 

「言ったら?」

 

「一緒に考える」

 

「止めるかもしれない?」

 

「止めるかもしれない」

 

「正直」

 

「隠しても仕方ない」

 

 それが、少しありがたかった。

 

 全部許すと言われるより、信用できる。

 

「じゃあ、今言っておく。続き、ちょっとやりたい気持ちはある」

 

「分かった」

 

「でも、今日はやらない」

 

「分かった」

 

「明日も、たぶんやらない」

 

「たぶん」

 

「前向きじゃないたぶん」

 

「それも分かった」

 

 レオンは地図を畳んだ。

 

「今日はもう休め。夕食に乳酪が出る」

 

「それは起きる」

 

「ガルドも待っている」

 

「乳酪仲間」

 

「そうだな」

 

     ◇

 

 夕食の席で、村長は境界石の話を静かに聞いた。

 

 ボクは、できるだけ分かりやすく話した。

 

 石は壊れていないこと。

 濁りは薄いこと。

 今日は表面の端を少しだけ浄化したこと。

 今すぐ村に大きな害があるわけではないこと。

 でも、後日きちんと見てもらった方がいいこと。

 

 村長は何度も頷いた。

 

「ありがとうございます。急ぎすぎずに済みます」

 

 その言葉に、少し驚いた。

 

「急ぎすぎず?」

 

「ええ。悪くなっていると聞けば、村の者は不安になります。けれど、今すぐ壊れるものではないと分かれば、落ち着いて王都へ相談できます」

 

「そういうものですか」

 

「そういうものです」

 

 村長は穏やかに笑った。

 

「全部をすぐ直すより、どれくらい悪いのか分かるだけでも、村には助けになります」

 

 それは、少し意外だった。

 

 浄化することだけが助けではない。

 

 見ること。

 伝えること。

 急がなくていいと分かること。

 

 それも助けになるらしい。

 

 ボクは雨雫を胸元で押さえた。

 

「見習いの仕事としては、あり?」

 

 小さく聞くと、レオンが答えた。

 

「ありだ」

 

 セレスも頷く。

 

「十分よ」

 

 ガルドは乳酪を食べながら言った。

 

「村が落ち着いた」

 

「食べながら核心」

 

「食事中でも事実は言える」

 

「強い」

 

 村長が笑った。

 

 少年も笑った。

 

 食事の席は、昨日より少し明るかった。

 

     ◇

 

 夜。

 

 離れの窓から、丘の上を見る。

 

 境界石は、月明かりの中に立っている。

 

 昨日と同じようで、少しだけ違う。

 

 ほんの端っこだけ、軽くなっている。

 

 たぶん、村の人にはまだ分からない。

 

 でも、ボクには少し分かる。

 

 石の大先輩は、まだ寝不足だけれど、布団の端を少し整えられたくらいにはなった。

 

 比喩が変だ。

 

 でも、そんな感じ。

 

 枕元に雨雫を置く。

 

 ころん。

 

「おやすみ、雨雫。今日は大先輩の端っこだけ手伝った」

 

 セレスが灯りを落としながら言う。

 

「端っこだけで止まれたわね」

 

「うん」

 

「それが今日の一番大事なところかも」

 

「浄化したことより?」

 

「ええ」

 

 少し考える。

 

 確かに、そうかもしれない。

 

 できると思った。

 

 もっとできるとも思った。

 

 でも、端だけで止まった。

 

 自分で終わりと言えた。

 

 レオンが扉の近くで言う。

 

「明日は村長へ報告して、王都へ戻る」

 

「もう戻るんだ」

 

「ああ」

 

「ちょっと名残惜しい」

 

「山羊か?」

 

「山羊も。村も。境界石も」

 

「また来ることもできる」

 

「仮予定?」

 

「仮予定だ」

 

「レオンが言った」

 

 少し笑う。

 

 ガルドが隣室から言う。

 

「乳酪も買う」

 

「ガルドの目的も明確」

 

「大事だ」

 

「はい」

 

「一回でいい」

 

「一回です」

 

 丘の村の夜は静かだ。

 

 王都よりも。

 

 でも、もう明日は戻る。

 

 書類も待っている。

 報告もある。

 王都の空の天井もある。

 

 けれど、ここへ来たことは、たぶん無駄ではなかった。

 

 山羊を見た。

 乳酪を食べた。

 境界石に挨拶した。

 端っこだけ浄化した。

 止まれた。

 

 それだけで、十分な気がする。

 

「ボク、今日ちょっと見習い浄化師っぽかった?」

 

 小さく聞くと、セレスが答えた。

 

「ええ。とても」

 

 レオンも言った。

 

「ああ」

 

 ガルドは少し間を置いて言った。

 

「食って寝れば、なおいい」

 

「最後だけ生活指導」

 

「大事だ」

 

「はい」

 

「一回」

 

「一回」

 

 目を閉じる。

 

 雨雫は枕元にある。

 

 丘の上には境界石。

 

 小さい石と、大きい石。

 

 どちらも黙っている。

 

 でも、今日はその黙った石たちの間で、少しだけ自分の手を止められた。

 

 それが、なんとなく嬉しかった。

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