TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝、丘の村には薄い霧が出ていた。
王都の結界越しに見る白さとは違う。
空を覆う膜ではなく、地面から立ち上がる柔らかい白。
畑の向こうが少しぼやけ、風車の羽根も半分だけ見えている。
「朝が白い」
窓辺でそう言うと、セレスが荷物をまとめながら微笑んだ。
「霧ね」
「王都の空より、こっちの白の方が軽い」
「そう感じる?」
「うん。王都は上から。これは下から」
「詩人みたいなことを言うわね」
「寝起きなので語彙が迷子」
机の上の雨雫を手に取る。
灰青色の石は、霧の朝によく似合った。
「おはよう、雨雫。今日は帰社日です」
「帰社?」
「王都へ戻る」
「帰還日ね」
「それ」
紐を首にかけ、外套の内側へしまう。
胸元にいつもの小さな重み。
今日は蒼銀の熱はあまりない。
昨日、端っこだけ浄化した境界石は、まだ丘の上にある。
気配はある。
でも、昨日の朝ほど手を引かれる感じはなかった。
大先輩、少しだけ寝られたのかもしれない。
石だけど。
◇
朝食の席では、村長が改めて頭を下げた。
「昨日は、ありがとうございました」
「端っこだけです」
ボクはすぐに言った。
「全部じゃないので、王都に報告して、正式な浄化師さんに見てもらってください」
「はい。急がず、けれど放っておかずに、ですね」
「それがいいと思います」
自分で言って、少し不思議だった。
昨日まで、全部をどうにかしなければならないような気がしていた。
でも今は、引き継ぐことも仕事の一部だと思える。
少しだけ。
クラウスが聞いたら、たぶん書類にしそうだ。
ガルドは乳酪をパンに乗せている。
今朝も真剣だ。
「持ち帰り用は用意してあります」
村長が言うと、ガルドは深く頷いた。
「助かる」
「ガルド、村への感謝が乳酪中心」
「食料は大事だ」
「もう村長さんにも伝わってると思う」
村長は笑った。
少年も笑っている。
彼は少し迷ったあと、こちらへ小さな木片を差し出した。
「これ、山羊の柵を直した時に余った木です」
「木」
「ミルがかじったところの」
「ミル被害木材」
「はい」
少年は真面目だった。
ボクは受け取っていいのか一瞬迷った。
ただの木片だ。
役には立たない。
少し歯形がついている。
でも、なんかいい。
「もらっていいの?」
「はい。旅のお守りにはならないかもしれないけど」
「ミルの犯行記録にはなる」
少年が笑った。
「じゃあ、もらう」
木片は軽かった。
雨雫とは違う。
名前をつけるほどではない。
でも、丘の村へ来たことの小さな証拠みたいだった。
「また役に立たないものが増えた」
ボクが呟くと、レオンが言った。
「いいんじゃないか」
「レオン、その返し増えたね」
「実際、いいんじゃないか」
「雑だけど助かる」
セレスが木片を見て微笑む。
「小袋に入れておく?」
「うん。失くすとミルに申し訳ない」
「ミルに?」
「柵をかじった努力が」
「努力なのかしら」
ガルドが低く言った。
「柵はかじらない方がいい」
「現実的」
◇
食後、村を出る前に丘の方を見に行った。
近づきはしない。
村の外れから、遠く見るだけ。
霧は少し晴れ、境界石の上半分が見えていた。
昨日より、ほんの少しだけ石の周りが軽く見える。
村人に分かるほどではない。
でも、ボクには分かった。
たぶん、セレスにも少しは分かる。
「昨日やったところ、残ってる?」
セレスが聞く。
「うん。端っこだけだけど」
「それで十分よ」
「十分って言葉、最近よく聞く」
「必要だから」
レオンは少し離れて立ち、丘を見ている。
「戻るぞ」
「うん」
ボクは境界石へ軽く頭を下げた。
「またね、大先輩。次は正式な人が来るかも」
返事はない。
石なので。
でも、霧の中で立つその姿は、昨日より少しだけ眠そうではなかった。
そういうことにしておく。
◇
山羊にも別れを告げた。
これは重要である。
白いミルは、相変わらず柵の近くにいた。
灰色のガルは草を食べている。
茶色のポロは少年の袖を狙っていた。
「ミル、柵をかじりすぎないように」
ボクが言うと、ミルはもぐもぐした。
「聞いてない」
「山羊だからな」
レオンが言う。
「山羊にも限界がある」
「何の限界?」
「理解力だ」
「レオンが山羊に冷静」
少年が草を差し出してくれた。
今度は指を近づけすぎないよう慎重に渡す。
ミルは遠慮なく食べた。
「容赦なし」
「指は大丈夫か」
ガルドが確認する。
「無事」
「よし」
「ガルドのよし判定」
「噛まれていない」
「山羊安全管理部門」
「戦士だ」
「兼任多すぎ問題」
セレスが笑っている。
村長も遠くで笑っていた。
旅立つ前に山羊へ挨拶する浄化師一行。
かなり変な光景だと思う。
でも、悪くない。
◇
馬車の準備は整っていた。
荷物。
薬草袋。
携帯食。
防水布。
乳酪の包み。
そして、ミル被害木材。
だいぶ荷物の意味が混ざっている。
必要なものと、そうでもないもの。
どちらも旅には乗るらしい。
「帰りの馬車、どうだ」
レオンが聞く。
「出発前なので、まだ中立」
「香草は?」
「持った」
「疲れは?」
「少し。でも、昨日より軽い」
「なら、途中で休憩を増やす」
「増やすの?」
「帰りは急がない」
「王都へ戻るのに?」
「戻る道も旅だ」
レオンが自然に言った。
少し、胸に残る言葉だった。
戻る道も旅。
行く時だけが旅ではない。
帰ることも、戻ることも、旅の一部。
「真面目剣士、たまにいいこと言う」
「たまにか」
「今日はかなり」
「そうか」
レオンは少しだけ笑った。
セレスが村長へ礼を言い、ガルドが乳酪の包みを慎重に積む。
慎重すぎる。
「ガルド、それ一番大事?」
「崩れると困る」
「乳酪の安全輸送」
「大事だ」
村長が笑っている。
少年も笑っている。
「また来てください」
少年が言った。
ボクは少しだけ迷ってから、頷いた。
「うん。仮予定」
「かりよてい?」
「たぶん、また」
「はい」
少年は嬉しそうに頷いた。
仮予定。
また。
軽い言葉だけど、今日は少し明るい。
◇
馬車が村を出る。
低い石垣の間を通り、畑を抜け、丘の道を下る。
窓の外で、村が少しずつ小さくなった。
風車。
山羊の柵。
村長宅。
丘の上の境界石。
全部が後ろへ流れていく。
「名残惜しい?」
セレスが聞く。
「ちょっと」
「よかったわね」
「名残惜しいのが?」
「ええ。嫌な場所ではなかったということでしょう」
「うん」
嫌な場所ではなかった。
むしろ、少し好きになった。
山羊もいたし。
乳酪もおいしかったし。
石の大先輩もいた。
行く前は、少し怖かった。
でも、帰る時に名残惜しいなら、行ってよかったのかもしれない。
馬車が揺れる。
今日は少しだけ坂が多い。
馬車がまた本気を出し始める。
「……帰り道、馬車が調子に乗ってる」
ボクが香草の包みを取り出すと、セレスが水筒を渡してくれた。
「休憩場所まで少しよ」
「馬車、最後まで油断できない」
「敵ではないわ」
「セレスまで馬車派に」
「私は中立よ」
「中立が一番強い」
御者台からガルドの声。
「食えば耐えられる」
「ガルド派は食料陣営」
「そうだ」
「認めた」
レオンが前から言う。
「次の石橋で休む」
「了解」
帰り道は、行きより少しにぎやかだった。
ボクが馬車に文句を言い、セレスが笑い、レオンが休憩地点を告げ、ガルドが食料を勧める。
ただ、それだけ。
でも、行きより少し楽だった。
◇
石橋の休憩地点で、馬車を降りた。
水面は見えない位置に座る。
もう、この配慮は自然になっていた。
言わなくてもそうしてくれる。
だから、こちらも「助かる」と言える。
「ここ、助かる」
ボクが言うと、レオンが頷いた。
「見えない場所にした」
「分かってた」
「そうか」
「ありがとう」
レオンは少しだけ目を伏せた。
「どういたしまして」
「普通に返ってきた」
「返すだろう」
「レオン、たまに普通で驚く」
「失礼だな」
「半分くらい」
セレスが笑う。
ガルドは袋から干し果物を出した。
「食え」
「はい」
「一回でいい」
「一回だった」
干し果物を食べながら、少しだけ足を伸ばす。
丘の村での疲れが、今になってじわじわ出てきていた。
浄化自体は短かった。
でも、歩いて、見て、止めて、話して、戻る。
それだけでも十分疲れる。
「眠そうね」
セレスが言う。
「顔色?」
「まぶた」
「顔色プライバシーからまぶた領域へ」
「今日は分かりやすいわ」
「帰りの馬車で寝るかも」
「寝ていいわよ」
「馬車に負ける」
「今回は引き分けでいいんじゃない?」
「また和解案」
「ええ」
馬車と和解。
難しい課題だ。
でも、今日は少しくらい寝てもいいかもしれない。
帰る道も旅なら、寝る道も旅の一部かもしれない。
少し強引な理論だけど。
◇
王都が見えたのは、午後の終わり頃だった。
遠くに城壁。
その上に淡い結界の膜。
丘の村から見る空は広かった。
王都へ近づくと、また空に天井が戻ってくる。
少し息苦しい。
でも、前ほど嫌ではなかった。
「あ、戻ってきた」
ボクは窓から城壁を見ながら言った。
「帰ってきた、ではなく?」
セレスが聞く。
「まだ帰ってきたって感じではない」
「そう」
「でも、戻ってきた感じはある」
王都はまだ自分の場所ではない。
でも、完全な知らない街でもなくなった。
クラウスがいる。
リーネがいる。
食堂の人がいる。
見習いの子たちがいる。
木彫り猫の露店も、たぶんどこかにある。
そう考えると、少しだけ街の輪郭が柔らかくなる。
レオンが馬車の外から言う。
「東門で手続きをする。今日は館へ戻って休むだけだ」
「報告は?」
「俺が先にする」
「ボクは?」
「明日でいい」
「明日」
「疲れている」
「はい」
「一回でいい」
「レオンまで」
「便利だな」
「感染してる」
ガルドが低く言った。
「いいことだ」
「発生源が肯定した」
◇
東門の手続きは、行きと同じくらい早かった。
レオンが通達書を出す。
兵士が確認する。
馬車が通る。
門をくぐると、空気が変わる。
土と草の匂いから、石と煙と人の匂いへ。
王都の音が戻ってくる。
鐘。
車輪。
人声。
どこかの店の呼び込み。
少し疲れる。
でも、今日はすぐに館へ戻る。
予定にそう書かれている。
予定があると、少し楽だ。
館に着くと、玄関前にクラウスがいた。
予想通りすぎる。
「いると思った」
馬車から降りながら言うと、クラウスは淡々と答えた。
「戻る時間を聞いていた」
「書類の人、待機性能も高い」
「報告を受けるためだ」
「ボクは明日でいいって聞いた」
「その通りだ。今日は休め」
「じゃあなぜ今いるの」
「レオン殿から最低限の報告を受ける」
「仕事熱心」
「仕事だ」
クラウスはボクの顔を見る。
顔色診断か。
この人もするのか。
「疲労あり」
「見ただけで記録された」
「明日の聞き取りは短縮する」
「助かる」
「丘の村では、予定通りか」
ボクは少し考えてから答えた。
「予定通り。ちょっとだけ浄化して、止まれた」
クラウスは一瞬だけ表情を変えた。
たぶん、少し安心したのだと思う。
「そうか」
「あと、山羊を見た」
「聞いている」
「もう?」
「レオン殿の事前報告にあった」
「レオン、山羊まで報告したの?」
レオンが少し目を逸らした。
「体調に関わる要素として」
「山羊が?」
「楽しみにしていたからな」
「真面目剣士、山羊を業務報告へ入れる」
クラウスは咳払いした。
「山羊については、詳細報告不要だ」
「書かない?」
「必要があれば書く」
「必要が生じる山羊」
「休め」
「はい」
「一回でいい」
クラウスまで言った。
もう完全に広がっている。
◇
部屋に戻ると、少しだけ懐かしく感じた。
王都の館の部屋。
数日しか離れていないのに、戻ってきた感じがある。
机。
窓。
寝台。
いつもの椅子。
セレスが荷物を置く。
ガルドは乳酪の包みを大事そうに食料袋へ移す。
レオンはクラウスとの報告のために一度部屋を出た。
ボクは外套を脱ぎ、雨雫を首から外した。
机の上に置く。
ころん。
いつもの音。
それから、小袋からミル被害木材を出して、その横に置いた。
灰青色の石と、歯形のついた木片。
どちらも役に立たない。
でも、どちらも今日ここにある。
「増えたね」
セレスが言う。
「旅の成果」
「境界石の報告より?」
「それもある。でも、これはこれ」
「そうね」
ボクは寝台に座った。
身体が沈む。
やっぱり疲れていた。
「今日は、ちゃんと戻ってきた」
小さく言う。
「ええ」
「行って、見て、ちょっとやって、止まって、戻ってきた」
「うん」
「旅って、戻ってくるところまでなんだね」
セレスが少しだけ微笑んだ。
「そうね」
ガルドが食料袋を閉じながら言う。
「帰るまでが旅だ」
「急に格言」
「そういうものだ」
「ガルド、生活格言部門も本採用」
「戦士だ」
「兼任です」
ガルドは少しだけ諦めた顔をした。
◇
夜、レオンが戻ってきた。
報告は済んだらしい。
クラウスは明日の午前、短い聞き取りだけにすると言っていたとのこと。
書類の人は、疲労ありをちゃんと反映してくれる。
「レオン」
「何だ」
「山羊も報告したんだって?」
レオンは一瞬黙った。
「ああ」
「なぜ?」
「君の状態がよかったからだ」
「山羊で?」
「山羊を見ている時、緊張が抜けていた」
「それを報告したの?」
「体調に関わる」
「真面目すぎる」
「悪いか」
「悪くないけど、山羊が公式記録に近づいてる」
「必要なら仕方ない」
「山羊、必要扱い」
セレスが笑いすぎないようにしている。
ガルドは普通に頷いた。
「山羊はよかった」
「ガルドまで」
「乳酪もよかった」
「本音が出た」
部屋の空気が、丘の村の夜みたいに少し柔らかくなった。
王都の部屋なのに。
不思議だ。
「レオン」
「何だ」
「戻る道も旅って言ったでしょ」
「ああ」
「あれ、よかった」
レオンは少し驚いた顔をした。
それから、静かに頷いた。
「そうか」
「うん。戻ってきたら、ちゃんと終わった感じがした」
「それならよかった」
「真面目剣士、本採用にかなり近い」
「まだ近いだけか」
「長期審査なので」
「分かった」
いつものやり取り。
でも、少しだけ意味が変わっている気がした。
◇
枕元に雨雫を置く。
その隣に、ミル被害木材も置いてみた。
並べると、かなり変な組み合わせだった。
石と、かじられた木。
でも、ボクにはどちらも旅の証拠だ。
「おやすみ、雨雫。おやすみ、ミルの歯形」
セレスが灯りを落としながら笑った。
「歯形にも挨拶するのね」
「一応、同行者見習い」
「増えていくわね」
「増えすぎたら困る」
「その時は小袋を増やしましょう」
「解決策が物理」
「大事よ」
隣室からガルドの声。
「寝ろ」
「はい」
「一回でいい」
「一回です」
レオンが扉の近くで静かに言う。
「明日は短い報告だけだ」
「うん」
「その後は休み」
「木彫り猫は?」
「明日は休み」
「正論」
「体調が戻ったら、仮予定だ」
「覚えてた」
「覚えている」
目を閉じる。
王都の夜の音が戻ってきている。
鐘。
人の声。
遠い馬車。
空を覆う結界の気配。
でも、今日はその音の奥に、丘の村の風も少し残っている気がした。
山羊の声。
草の匂い。
境界石の静けさ。
乳酪の味。
行って、戻ってきた。
それだけなのに、何かが少し増えている。
雨雫の隣に、木片があるように。
ボクの中にも、小さなものが一つ増えた。
戻る道も旅のうち。
その言葉を思い出しながら、ボクは眠った。