TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第18話 王都の小さな亀裂

 

 翌朝、保留猫はまだ保留猫だった。

 

 名前は決まっていない。

 

 雨雫。

 ミルの歯形。

 保留猫。

 

 枕元の小箱に三つ並んでいる。

 

 かなり奇妙な祭壇みたいになっているが、本人たちは全員無言なので問題ない。

 

「おはよう、雨雫。おはよう、ミルの歯形。おはよう、保留猫」

 

 保留猫は、相変わらずやる気のない顔をしていた。

 

 名前を求めている感じもない。

 

 その無欲さ、見習いたい。

 

 セレスが身支度をしながら笑う。

 

「名前、本当に保留猫になりそうね」

 

「本人が不服を言わないから」

 

「木彫りだからね」

 

「木彫りは寛容」

 

「そうかしら」

 

 今日は外出なし。

 

 予定表にも、そう書いてある。

 

『午前:休養。

 午後:リーネによる短時間面談。

 外出予定なし。』

 

 外出なし。

 

 木彫り猫も買った。

 丘の村からも戻った。

 昨日は市場へ行った。

 

 今日は休む。

 

 そう決まっている。

 

 だから、少し気が抜けていた。

 

 それがよくなかったのかもしれない。

 

     ◇

 

 午前は穏やかだった。

 

 部屋で休み、少しだけ食堂へ行き、戻ってくる。

 

 ガルドは乳酪の残量を確認していた。

 

「保存分が減ってる」

 

 ボクが言うと、ガルドは頷いた。

 

「食ったからな」

 

「当たり前のことを真顔で」

 

「食わなければ残る」

 

「哲学?」

 

「食料管理だ」

 

 レオンは地図を見ていない。

 

 剣の手入れもしていない。

 

 椅子に座って、ただ窓の外を見ている。

 

 休んでいるらしい。

 

 レオンが休んでいるところを見るのは珍しい。

 

「レオンも休むんだ」

 

 ボクが言うと、レオンはこちらを見た。

 

「休む」

 

「意外」

 

「人間だからな」

 

「真面目剣士も人間」

 

「そうだ」

 

「剣士って寝るの?」

 

「寝る」

 

「食べる?」

 

「食べる」

 

「雨雫より生物寄り」

 

「比べる相手がおかしい」

 

 セレスが笑った。

 

 そんな、普通の午前だった。

 

 王都の部屋。

 

 少しだけ馴染んだ食堂。

 

 枕元の変な三点セット。

 

 穏やかすぎて、少し眠くなるくらい。

 

     ◇

 

 午後、リーネが来た。

 

 予定通り。

 

 白い外套ではなく、薄青の上着。

 

 手には書類が少しだけ。

 

 少しだけ、というのが大事だった。

 

「今日は、丘の村での体調と、次の予定について少しだけ確認します」

 

「少しだけ」

 

「はい。クラウスさんからも、長くしないようにと言われています」

 

「書類の人、休養管理が厳しい」

 

「そうですね」

 

 リーネは穏やかに笑い、椅子に座った。

 

 レオンは壁際。

 セレスは隣。

 ガルドは扉の近く。

 

 いつもの配置。

 

 リーネはまず、丘の村の話を聞いた。

 

 境界石のこと。

 端だけ浄化したこと。

 止まれたこと。

 翌日疲れたこと。

 

 それから、山羊のことも聞いた。

 

「山羊も記録対象?」

 

 ボクが聞くと、リーネは少し笑った。

 

「体調が緩んだ場面として」

 

「山羊、王都の支援記録に入る」

 

「支援記録ではありませんが」

 

「近い」

 

「近いかもしれません」

 

 リーネは否定しきれない顔をした。

 

 その時だった。

 

 廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。

 

 金属が石床に当たるような、鋭い音。

 

 続いて、誰かの慌てた声。

 

「下がってください!」

 

 部屋の空気が変わった。

 

 レオンが即座に扉の方へ向く。

 

 ガルドはすでに扉の前に立っていた。

 

 セレスがボクの腕に触れない距離で、視線だけを向ける。

 

「ここにいて」

 

 レオンが言った。

 

 声は低い。

 

 いつもの冗談を返す空気ではなかった。

 

「何?」

 

「確認する」

 

 扉の外で、また声がした。

 

「結界灯が割れた! 触るな!」

 

 結界灯。

 

 王都の廊下に設置されている、小さな結界補助具。

 

 夜間や非常時に通路を保護するための灯りだと、昨日クラウスが少し説明していた気がする。

 

 それが割れた。

 

 割れただけなら、大きな事件ではない。

 

 でも、次の瞬間、手のひらの奥が熱くなった。

 

 強い。

 

 王都の結界塔ほどではない。

 けれど、丘の境界石より鋭い。

 

 廊下の向こうから、薄い濁りの気配が流れてくる。

 

「瘴気?」

 

 ボクが言うと、リーネの表情が変わった。

 

「割れた結界灯に、濁りが混じっていたのかもしれません」

 

「混じるものなの?」

 

「古いものなら、まれに」

 

 レオンが短く言う。

 

「ガルド、扉を開ける。人がこちらへ来ないように」

 

「分かった」

 

「ルシェルは出るな」

 

 出るな。

 

 はっきり言われた。

 

 いつもなら少し反発したかもしれない。

 

 でも、手の奥の熱が強すぎて、すぐには言い返せなかった。

 

 廊下から、咳き込む声が聞こえる。

 

 子供ではない。

 

 若い職員か、見習いか。

 

「下がれって言ってるだろ!」

 

「でも、灯りが……」

 

 ざわざわと人の気配が増える。

 

 嫌な増え方だ。

 

 市場の時のように、人目が集まる。

 

 蒼銀が、手の中で起き上がる。

 

 出ろ、と言われていないのに。

 

 光りたがる。

 

「ルシェル」

 

 セレスの声。

 

「手」

 

「起きてる」

 

「出さないで」

 

「分かってる」

 

 分かっている。

 

 でも、廊下の向こうで咳が続いている。

 

 瘴気は小さい。

 

 たぶん、小さい。

 

 でも、近い。

 

 館の中。

 

 王都の中。

 

 見習いも職員もいる場所。

 

 ボクの手のひらが熱い。

 

 できる。

 

 そう思ってしまう。

 

「ボクが行けば」

 

「待て」

 

 レオンの声が鋭かった。

 

 廊下へ出かけた足が止まる。

 

「待て。状況が見えていない」

 

「でも」

 

「待て」

 

 二度目。

 

 短い。

 

 強い。

 

 責められているわけではない。

 

 止められている。

 

 ガルドが扉を少し開けた。

 

 廊下の空気が流れ込む。

 

 薄い黒灰の匂い。

 

 焦げた金属のような匂い。

 

 手が、勝手に光りかけた。

 

「営業開始しない」

 

 ボクは胸元の雨雫を握った。

 

「営業開始しない。まだ見てない。まだ決めてない」

 

 声に出す。

 

 雨雫の重み。

 

 机の上の保留猫。

 

 ミルの歯形。

 

 必要ではないものたち。

 

 それらを思い出す。

 

 ボクは蒼銀だけではない。

 

 今はまだ、出さない。

 

 リーネが立ち上がった。

 

「私が見ます」

 

「リーネさんが?」

 

「私は正式な浄化師です。まず私が対応します」

 

 その言い方が、はっきりしていた。

 

 ボクではない。

 

 正式な浄化師。

 

 リーネが扉へ向かう。

 

 レオンが道を開ける。

 

 ガルドが廊下側に立ち、部屋の中が見えすぎないように遮る。

 

 扉の隙間から、廊下が見えた。

 

 床に落ちた青白い結晶片。

 

 割れた灯具。

 

 その周囲に薄い黒い靄。

 

 数人の職員が下がり、若い見習いらしき少女が壁際で咳き込んでいる。

 

 市場ほど人は多くない。

 

 でも、視線はある。

 

 そして、その視線のいくつかが、こちらへ向きかけていた。

 

 蒼銀の見習いがいる。

 

 たぶん、そう思われた。

 

 リーネが廊下へ出る。

 

「全員、下がってください。触らない。吸い込まない。水をかけない」

 

 声が通る。

 

 柔らかいけれど、強い。

 

 リーネの手元に淡い青の浄化光が灯った。

 

 蒼銀ではない。

 

 もっと落ち着いた、清い水色。

 

 彼女は割れた結界灯へ手をかざし、短い詠唱をした。

 

 靄が少しずつ薄くなる。

 

 咳き込んでいた少女を、別の職員が支えながら下がらせる。

 

 ボクはそれを見ていた。

 

 手のひらはまだ熱い。

 

 でも、光は出ていない。

 

 出していない。

 

「……ボクじゃなくても」

 

 小さく呟く。

 

 セレスが隣で言った。

 

「ええ」

 

「できる人がいる」

 

「いるわ」

 

「リーネさん、ちゃんと強い」

 

「正式な浄化師だもの」

 

 当たり前のことだった。

 

 でも、当たり前に見えていなかった。

 

 瘴気が出たら、自分がやらなきゃいけない気がした。

 

 蒼銀が反応したら、出さなきゃいけない気がした。

 

 でも、リーネがいる。

 

 王都には他にも浄化師がいる。

 

 ボクは、まだ見習いだ。

 

 手のひらの熱が、少しだけ引いた。

 

     ◇

 

 廊下の瘴気は、すぐに収まった。

 

 大きな事件ではなかった。

 

 割れた結界灯の内部に溜まっていた濁りが、破損と同時に漏れたらしい。

 

 被害は軽い咳と、廊下の一時封鎖。

 

 リーネが初期対応し、あとから来た職員が破片を封じた箱に入れた。

 

 けれど、部屋の中の空気はしばらく戻らなかった。

 

 なぜなら、ボクの蒼銀が出かけたからだ。

 

 出してはいない。

 

 でも、出かけた。

 

 それは自分でも分かった。

 

 レオンも、セレスも、ガルドも、リーネも分かったと思う。

 

 事件自体は小さい。

 

 でも、ボクにとっては小さくなかった。

 

 リーネが戻ってきた時、ボクは椅子に座っていた。

 

 手を握っている。

 

 雨雫を握っている。

 

「終わりました」

 

 リーネが言う。

 

「大丈夫?」

 

 ボクが聞くと、彼女は頷いた。

 

「はい。見習いの子も、少し咳き込んだだけです」

 

「よかった」

 

 本当にそう思った。

 

 そのあとに、別の感情が来た。

 

 自分が行かなかったことへの、少しの焦り。

 

 行かなくてよかったという、安堵。

 

 自分じゃなくてもよかったという、軽さ。

 

 そして、蒼銀が反応したことへの怖さ。

 

 全部が一度にある。

 

「出そうになった」

 

 ボクは言った。

 

 リーネは椅子に座り直す。

 

「見えていました」

 

「止められた」

 

「ええ」

 

「でも、出そうになった」

 

「それも事実です」

 

 リーネは声を落ち着かせた。

 

「今日のことは、事件としては小さいです。でも、ルシェルさんの反応を見るうえでは大事です」

 

「記録する?」

 

「します」

 

「やっぱり」

 

「ただし、責める記録ではありません」

 

 リーネははっきり言った。

 

「廊下で小規模な濁りが発生。本人の蒼銀が反応。本人は雨雫を握り、声に出して発現を抑制。同行者の制止と、正式浄化師の対応により、本人は発現せずに待機できた」

 

 すらすら出てきた。

 

 もう書類みたいだった。

 

「それ、良い記録?」

 

 ボクが聞くと、リーネは頷いた。

 

「良い記録です」

 

「出してないのに?」

 

「出さなかったからです」

 

 その言葉で、胸の奥が少し止まった。

 

 出さなかったから。

 

 何かをしたからではなく。

 

 しなかったことが、良い記録。

 

「でも、咳してる人がいた」

 

「私が対応しました」

 

「ボクもできたかもしれない」

 

「できたかもしれません。でも、今日は必要ありませんでした」

 

 必要ありませんでした。

 

 少し痛い。

 

 でも、痛いのは悪い意味だけではなかった。

 

 必要ではない。

 

 それは役立たずという意味ではない。

 

 今日は、別の人ができた。

 

 だから、ボクが出なくてもよかった。

 

 それだけ。

 

 セレスが静かに言う。

 

「必要な時に出すことと、反応したから出すことは違うわ」

 

「……うん」

 

「今日は、反応したけれど出さなかった」

 

「うん」

 

 ガルドが扉の近くから言った。

 

「待つのも動きだ」

 

 また核心を突く。

 

「ガルド、今日それ言う?」

 

「事実だ」

 

「強い」

 

 レオンが続ける。

 

「俺が待てと言って、君は止まった」

 

「レオンの声、強かった」

 

「強く言った」

 

「怒った?」

 

「怒っていない。止めた」

 

「そう」

 

「怒る場面ではない」

 

 それも、少し助かった。

 

     ◇

 

 事件のあと、館の中は少しざわついた。

 

 廊下は一時的に封鎖され、割れた結界灯は回収された。

 

 クラウスも来た。

 

 やっぱり来た。

 

 ただ、今日は部屋に入ってくる前に、廊下でリーネとかなり話していた。

 

 その後、扉の前で名乗る。

 

「入っても?」

 

「いいです」

 

 ボクが答えると、クラウスが入ってきた。

 

 手には紙。

 

 だが、いつもより少し少ない。

 

「まず、今回の件は事故として処理する」

 

「事故」

 

「古い結界灯の内部劣化だ。誰かが故意に起こしたものではない」

 

 故意。

 

 その言葉が、少しだけ廊下に冷たく落ちた。

 

 クラウスは続ける。

 

「ただし、点検不足はある。こちらで対応する」

 

「見習いの子は?」

 

「医務室で休んでいる。軽症だ」

 

「よかった」

 

「ルシェル・ノア氏」

 

「はい」

 

「君の反応については、リーネ殿から聞いた」

 

「書く?」

 

「書く」

 

「ですよね」

 

「だが、評価は明確にする」

 

 クラウスは紙を一枚見せた。

 

『本人、突発的な濁り発生時に発現衝動あり。同行者の制止に反応し、発現を保留。正式浄化師の対応を待機できた。今後、突発事案時は本人を第一対応者としないこと。本人に待機の役割を明示すること。』

 

 読みながら、少し変な気持ちになった。

 

 第一対応者としない。

 

 待機の役割。

 

「待機も役割になるの?」

 

 ボクが聞くと、クラウスは即答した。

 

「なる」

 

「ただ見てるだけでは?」

 

「状況による。今日の場合、君が発現すれば人目が集まり、別の混乱が起きた可能性がある。待機は妥当な判断だ」

 

「でも、ボクが判断したというより、止められた」

 

「止められて止まれた。十分だ」

 

 クラウスは紙を机に置いた。

 

「むしろ、止まれない方が問題になる」

 

「止まれた記録」

 

「そうだ」

 

 止まれた。

 

 丘の境界石でもそうだった。

 

 端だけで止まれた。

 

 今日は、出さずに止まれた。

 

 事件は進んだ。

 

 けれど、ボクも少し進んだのかもしれない。

 

 そう思うのは、少しだけ都合がいいだろうか。

 

「今日はもう面談なしだ」

 

 クラウスが言った。

 

「リーネさんの午後面談は?」

 

「中止。休養に変更」

 

「予定変更」

 

「必要な変更だ」

 

「嫌な変更じゃない」

 

「そうか」

 

「休みになる変更は、わりと歓迎」

 

「記録しておく」

 

「そこも?」

 

「予定変更の受け止めとして有用だ」

 

「書類の人、何でも拾う」

 

「必要なものだけだ」

 

「木彫り猫も拾った」

 

「必要だった」

 

 クラウスは真顔で言い切った。

 

 強い。

 

     ◇

 

 夕方、事件のざわめきはほとんど収まっていた。

 

 廊下の結界灯は取り外され、代わりに仮の灯りが置かれている。

 

 館の人たちは普通に動き始めている。

 

 でも、ボクは少し疲れていた。

 

 蒼銀を出していないのに。

 

 出さないようにするのに、かなり力を使ったらしい。

 

 寝台に座り、枕元の小箱を見る。

 

 雨雫。

 ミルの歯形。

 保留猫。

 

 保留猫は、今日もやる気がない。

 

 事件など知らない顔だ。

 

「保留猫、強い」

 

 ボクが言うと、セレスが隣で笑った。

 

「どうして?」

 

「何が起きてもこの顔」

 

「木彫りだからね」

 

「でも、ちょっと見習いたい」

 

「無理に全部を受け取らない顔?」

 

「そう。世界の半分くらいしか参加しない顔」

 

 セレスは少し考えてから頷いた。

 

「今のルシェルには、必要かもね」

 

「半分参加」

 

「全部に反応しなくていい、ということ」

 

「うん」

 

 雨雫を握る。

 

 今日は雨雫も仕事をした。

 

 いや、仕事をしていない。

 

 ボクが握っただけだ。

 

 でも、そこにあった。

 

 それでよかった。

 

「今日、蒼銀を出さなかった」

 

 ボクが言うと、レオンが扉の近くで頷いた。

 

「ああ」

 

「でも、何もしてないわけじゃない?」

 

「ああ」

 

「待った」

 

「そうだ」

 

「止まった」

 

「そうだ」

 

「それも、旅の一部?」

 

 レオンは少し考えた。

 

「たぶん」

 

「たぶん」

 

「前向きなたぶんだ」

 

 その返しに、少し笑った。

 

 レオンがボクの言葉を使った。

 

 もう完全に感染している。

 

     ◇

 

 夜。

 

 食堂ではなく、部屋で夕食を取った。

 

 今日は人のいる場所へ行く気になれなかった。

 

 ガルドが持ってきたパンとスープ、少しの乳酪。

 

 食べると、身体が少し戻る。

 

「ガルド」

 

「何だ」

 

「今日、待つのも動きって言ったでしょ」

 

「言った」

 

「あれ、よかった」

 

「そうか」

 

「生活格言部門、今日も本採用」

 

「戦士だ」

 

「兼任」

 

「……そうか」

 

 ガルドは少しだけ諦めたように頷いた。

 

 この人も、だいぶ受け入れてきている。

 

 食後、リーネが短く顔を出した。

 

 見習いの子は落ち着いていること。

 結界灯は他のものも点検すること。

 今日は休むこと。

 

 それだけ伝えて、すぐに帰った。

 

「ルシェルさん」

 

 帰り際、リーネが言った。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「ボク、何もしてない」

 

「待ってくれました」

 

 また、それ。

 

 待ったことへの礼。

 

 リーネは穏やかに頭を下げる。

 

「私が対応する場を、残してくれました」

 

 その言葉は、かなり不意打ちだった。

 

 自分が出なかったことで、リーネが対応できた。

 

 そういう見方。

 

「……そういう言い方、ずるい」

 

「すみません」

 

「いいです」

 

 リーネは少し笑って、部屋を出ていった。

 

     ◇

 

 夜、枕元の小箱を少しだけ位置調整する。

 

 雨雫を真ん中に。

 ミルの歯形を左に。

 保留猫を右に。

 

 保留猫が、やる気のない顔で横を向いている。

 

「おやすみ、雨雫。おやすみ、ミルの歯形。おやすみ、保留猫」

 

 セレスが灯りを落とす。

 

 部屋が暗くなる。

 

 廊下には仮の灯りがある。

 

 事件のあった廊下。

 

 でも、もう静かだ。

 

 レオンが扉の近くで言う。

 

「明日は予定を入れない」

 

「また休み?」

 

「ああ」

 

「事件の翌日だから?」

 

「そうだ」

 

「王都、休ませるの上手くなってきた」

 

「クラウスが書いた」

 

「書類の壁」

 

「ああ」

 

 ガルドが隣室から言う。

 

「寝ろ」

 

「はい」

 

「一回でいい」

 

「一回」

 

 いつものやり取りに、少し救われる。

 

 今日は事件が起きた。

 

 小さな事件。

 

 結界灯が割れた。

 瘴気が漏れた。

 誰かが咳き込んだ。

 リーネが対応した。

 ボクは出なかった。

 

 何かをしたわけではない。

 

 でも、待った。

 

 止まった。

 

 出さなかった。

 

 それが、今日の出来事。

 

 物語は、きっとこういうふうにも進むのだと思う。

 

 派手に光るだけではなく。

 

 剣を抜くだけでもなく。

 

 誰かが前に出て、誰かが下がり、誰かが待つ。

 

 その全部で、少しずつ進む。

 

「保留猫」

 

 暗闇の中で小さく言う。

 

「君、名前それでいいかもね」

 

 返事はない。

 

 やる気のない木彫り猫は、たぶん何でもいいのだろう。

 

 その感じが、今は少しだけ羨ましかった。

 

 ボクは目を閉じる。

 

 手のひらはもう熱くない。

 

 今日はもう、休業。

 

 ちゃんと休業。

 

 そう思いながら、眠りに落ちた。

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