TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝、保留猫はまだ保留猫だった。
名前は決まっていない。
雨雫。
ミルの歯形。
保留猫。
枕元の小箱に三つ並んでいる。
かなり奇妙な祭壇みたいになっているが、本人たちは全員無言なので問題ない。
「おはよう、雨雫。おはよう、ミルの歯形。おはよう、保留猫」
保留猫は、相変わらずやる気のない顔をしていた。
名前を求めている感じもない。
その無欲さ、見習いたい。
セレスが身支度をしながら笑う。
「名前、本当に保留猫になりそうね」
「本人が不服を言わないから」
「木彫りだからね」
「木彫りは寛容」
「そうかしら」
今日は外出なし。
予定表にも、そう書いてある。
『午前:休養。
午後:リーネによる短時間面談。
外出予定なし。』
外出なし。
木彫り猫も買った。
丘の村からも戻った。
昨日は市場へ行った。
今日は休む。
そう決まっている。
だから、少し気が抜けていた。
それがよくなかったのかもしれない。
◇
午前は穏やかだった。
部屋で休み、少しだけ食堂へ行き、戻ってくる。
ガルドは乳酪の残量を確認していた。
「保存分が減ってる」
ボクが言うと、ガルドは頷いた。
「食ったからな」
「当たり前のことを真顔で」
「食わなければ残る」
「哲学?」
「食料管理だ」
レオンは地図を見ていない。
剣の手入れもしていない。
椅子に座って、ただ窓の外を見ている。
休んでいるらしい。
レオンが休んでいるところを見るのは珍しい。
「レオンも休むんだ」
ボクが言うと、レオンはこちらを見た。
「休む」
「意外」
「人間だからな」
「真面目剣士も人間」
「そうだ」
「剣士って寝るの?」
「寝る」
「食べる?」
「食べる」
「雨雫より生物寄り」
「比べる相手がおかしい」
セレスが笑った。
そんな、普通の午前だった。
王都の部屋。
少しだけ馴染んだ食堂。
枕元の変な三点セット。
穏やかすぎて、少し眠くなるくらい。
◇
午後、リーネが来た。
予定通り。
白い外套ではなく、薄青の上着。
手には書類が少しだけ。
少しだけ、というのが大事だった。
「今日は、丘の村での体調と、次の予定について少しだけ確認します」
「少しだけ」
「はい。クラウスさんからも、長くしないようにと言われています」
「書類の人、休養管理が厳しい」
「そうですね」
リーネは穏やかに笑い、椅子に座った。
レオンは壁際。
セレスは隣。
ガルドは扉の近く。
いつもの配置。
リーネはまず、丘の村の話を聞いた。
境界石のこと。
端だけ浄化したこと。
止まれたこと。
翌日疲れたこと。
それから、山羊のことも聞いた。
「山羊も記録対象?」
ボクが聞くと、リーネは少し笑った。
「体調が緩んだ場面として」
「山羊、王都の支援記録に入る」
「支援記録ではありませんが」
「近い」
「近いかもしれません」
リーネは否定しきれない顔をした。
その時だった。
廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。
金属が石床に当たるような、鋭い音。
続いて、誰かの慌てた声。
「下がってください!」
部屋の空気が変わった。
レオンが即座に扉の方へ向く。
ガルドはすでに扉の前に立っていた。
セレスがボクの腕に触れない距離で、視線だけを向ける。
「ここにいて」
レオンが言った。
声は低い。
いつもの冗談を返す空気ではなかった。
「何?」
「確認する」
扉の外で、また声がした。
「結界灯が割れた! 触るな!」
結界灯。
王都の廊下に設置されている、小さな結界補助具。
夜間や非常時に通路を保護するための灯りだと、昨日クラウスが少し説明していた気がする。
それが割れた。
割れただけなら、大きな事件ではない。
でも、次の瞬間、手のひらの奥が熱くなった。
強い。
王都の結界塔ほどではない。
けれど、丘の境界石より鋭い。
廊下の向こうから、薄い濁りの気配が流れてくる。
「瘴気?」
ボクが言うと、リーネの表情が変わった。
「割れた結界灯に、濁りが混じっていたのかもしれません」
「混じるものなの?」
「古いものなら、まれに」
レオンが短く言う。
「ガルド、扉を開ける。人がこちらへ来ないように」
「分かった」
「ルシェルは出るな」
出るな。
はっきり言われた。
いつもなら少し反発したかもしれない。
でも、手の奥の熱が強すぎて、すぐには言い返せなかった。
廊下から、咳き込む声が聞こえる。
子供ではない。
若い職員か、見習いか。
「下がれって言ってるだろ!」
「でも、灯りが……」
ざわざわと人の気配が増える。
嫌な増え方だ。
市場の時のように、人目が集まる。
蒼銀が、手の中で起き上がる。
出ろ、と言われていないのに。
光りたがる。
「ルシェル」
セレスの声。
「手」
「起きてる」
「出さないで」
「分かってる」
分かっている。
でも、廊下の向こうで咳が続いている。
瘴気は小さい。
たぶん、小さい。
でも、近い。
館の中。
王都の中。
見習いも職員もいる場所。
ボクの手のひらが熱い。
できる。
そう思ってしまう。
「ボクが行けば」
「待て」
レオンの声が鋭かった。
廊下へ出かけた足が止まる。
「待て。状況が見えていない」
「でも」
「待て」
二度目。
短い。
強い。
責められているわけではない。
止められている。
ガルドが扉を少し開けた。
廊下の空気が流れ込む。
薄い黒灰の匂い。
焦げた金属のような匂い。
手が、勝手に光りかけた。
「営業開始しない」
ボクは胸元の雨雫を握った。
「営業開始しない。まだ見てない。まだ決めてない」
声に出す。
雨雫の重み。
机の上の保留猫。
ミルの歯形。
必要ではないものたち。
それらを思い出す。
ボクは蒼銀だけではない。
今はまだ、出さない。
リーネが立ち上がった。
「私が見ます」
「リーネさんが?」
「私は正式な浄化師です。まず私が対応します」
その言い方が、はっきりしていた。
ボクではない。
正式な浄化師。
リーネが扉へ向かう。
レオンが道を開ける。
ガルドが廊下側に立ち、部屋の中が見えすぎないように遮る。
扉の隙間から、廊下が見えた。
床に落ちた青白い結晶片。
割れた灯具。
その周囲に薄い黒い靄。
数人の職員が下がり、若い見習いらしき少女が壁際で咳き込んでいる。
市場ほど人は多くない。
でも、視線はある。
そして、その視線のいくつかが、こちらへ向きかけていた。
蒼銀の見習いがいる。
たぶん、そう思われた。
リーネが廊下へ出る。
「全員、下がってください。触らない。吸い込まない。水をかけない」
声が通る。
柔らかいけれど、強い。
リーネの手元に淡い青の浄化光が灯った。
蒼銀ではない。
もっと落ち着いた、清い水色。
彼女は割れた結界灯へ手をかざし、短い詠唱をした。
靄が少しずつ薄くなる。
咳き込んでいた少女を、別の職員が支えながら下がらせる。
ボクはそれを見ていた。
手のひらはまだ熱い。
でも、光は出ていない。
出していない。
「……ボクじゃなくても」
小さく呟く。
セレスが隣で言った。
「ええ」
「できる人がいる」
「いるわ」
「リーネさん、ちゃんと強い」
「正式な浄化師だもの」
当たり前のことだった。
でも、当たり前に見えていなかった。
瘴気が出たら、自分がやらなきゃいけない気がした。
蒼銀が反応したら、出さなきゃいけない気がした。
でも、リーネがいる。
王都には他にも浄化師がいる。
ボクは、まだ見習いだ。
手のひらの熱が、少しだけ引いた。
◇
廊下の瘴気は、すぐに収まった。
大きな事件ではなかった。
割れた結界灯の内部に溜まっていた濁りが、破損と同時に漏れたらしい。
被害は軽い咳と、廊下の一時封鎖。
リーネが初期対応し、あとから来た職員が破片を封じた箱に入れた。
けれど、部屋の中の空気はしばらく戻らなかった。
なぜなら、ボクの蒼銀が出かけたからだ。
出してはいない。
でも、出かけた。
それは自分でも分かった。
レオンも、セレスも、ガルドも、リーネも分かったと思う。
事件自体は小さい。
でも、ボクにとっては小さくなかった。
リーネが戻ってきた時、ボクは椅子に座っていた。
手を握っている。
雨雫を握っている。
「終わりました」
リーネが言う。
「大丈夫?」
ボクが聞くと、彼女は頷いた。
「はい。見習いの子も、少し咳き込んだだけです」
「よかった」
本当にそう思った。
そのあとに、別の感情が来た。
自分が行かなかったことへの、少しの焦り。
行かなくてよかったという、安堵。
自分じゃなくてもよかったという、軽さ。
そして、蒼銀が反応したことへの怖さ。
全部が一度にある。
「出そうになった」
ボクは言った。
リーネは椅子に座り直す。
「見えていました」
「止められた」
「ええ」
「でも、出そうになった」
「それも事実です」
リーネは声を落ち着かせた。
「今日のことは、事件としては小さいです。でも、ルシェルさんの反応を見るうえでは大事です」
「記録する?」
「します」
「やっぱり」
「ただし、責める記録ではありません」
リーネははっきり言った。
「廊下で小規模な濁りが発生。本人の蒼銀が反応。本人は雨雫を握り、声に出して発現を抑制。同行者の制止と、正式浄化師の対応により、本人は発現せずに待機できた」
すらすら出てきた。
もう書類みたいだった。
「それ、良い記録?」
ボクが聞くと、リーネは頷いた。
「良い記録です」
「出してないのに?」
「出さなかったからです」
その言葉で、胸の奥が少し止まった。
出さなかったから。
何かをしたからではなく。
しなかったことが、良い記録。
「でも、咳してる人がいた」
「私が対応しました」
「ボクもできたかもしれない」
「できたかもしれません。でも、今日は必要ありませんでした」
必要ありませんでした。
少し痛い。
でも、痛いのは悪い意味だけではなかった。
必要ではない。
それは役立たずという意味ではない。
今日は、別の人ができた。
だから、ボクが出なくてもよかった。
それだけ。
セレスが静かに言う。
「必要な時に出すことと、反応したから出すことは違うわ」
「……うん」
「今日は、反応したけれど出さなかった」
「うん」
ガルドが扉の近くから言った。
「待つのも動きだ」
また核心を突く。
「ガルド、今日それ言う?」
「事実だ」
「強い」
レオンが続ける。
「俺が待てと言って、君は止まった」
「レオンの声、強かった」
「強く言った」
「怒った?」
「怒っていない。止めた」
「そう」
「怒る場面ではない」
それも、少し助かった。
◇
事件のあと、館の中は少しざわついた。
廊下は一時的に封鎖され、割れた結界灯は回収された。
クラウスも来た。
やっぱり来た。
ただ、今日は部屋に入ってくる前に、廊下でリーネとかなり話していた。
その後、扉の前で名乗る。
「入っても?」
「いいです」
ボクが答えると、クラウスが入ってきた。
手には紙。
だが、いつもより少し少ない。
「まず、今回の件は事故として処理する」
「事故」
「古い結界灯の内部劣化だ。誰かが故意に起こしたものではない」
故意。
その言葉が、少しだけ廊下に冷たく落ちた。
クラウスは続ける。
「ただし、点検不足はある。こちらで対応する」
「見習いの子は?」
「医務室で休んでいる。軽症だ」
「よかった」
「ルシェル・ノア氏」
「はい」
「君の反応については、リーネ殿から聞いた」
「書く?」
「書く」
「ですよね」
「だが、評価は明確にする」
クラウスは紙を一枚見せた。
『本人、突発的な濁り発生時に発現衝動あり。同行者の制止に反応し、発現を保留。正式浄化師の対応を待機できた。今後、突発事案時は本人を第一対応者としないこと。本人に待機の役割を明示すること。』
読みながら、少し変な気持ちになった。
第一対応者としない。
待機の役割。
「待機も役割になるの?」
ボクが聞くと、クラウスは即答した。
「なる」
「ただ見てるだけでは?」
「状況による。今日の場合、君が発現すれば人目が集まり、別の混乱が起きた可能性がある。待機は妥当な判断だ」
「でも、ボクが判断したというより、止められた」
「止められて止まれた。十分だ」
クラウスは紙を机に置いた。
「むしろ、止まれない方が問題になる」
「止まれた記録」
「そうだ」
止まれた。
丘の境界石でもそうだった。
端だけで止まれた。
今日は、出さずに止まれた。
事件は進んだ。
けれど、ボクも少し進んだのかもしれない。
そう思うのは、少しだけ都合がいいだろうか。
「今日はもう面談なしだ」
クラウスが言った。
「リーネさんの午後面談は?」
「中止。休養に変更」
「予定変更」
「必要な変更だ」
「嫌な変更じゃない」
「そうか」
「休みになる変更は、わりと歓迎」
「記録しておく」
「そこも?」
「予定変更の受け止めとして有用だ」
「書類の人、何でも拾う」
「必要なものだけだ」
「木彫り猫も拾った」
「必要だった」
クラウスは真顔で言い切った。
強い。
◇
夕方、事件のざわめきはほとんど収まっていた。
廊下の結界灯は取り外され、代わりに仮の灯りが置かれている。
館の人たちは普通に動き始めている。
でも、ボクは少し疲れていた。
蒼銀を出していないのに。
出さないようにするのに、かなり力を使ったらしい。
寝台に座り、枕元の小箱を見る。
雨雫。
ミルの歯形。
保留猫。
保留猫は、今日もやる気がない。
事件など知らない顔だ。
「保留猫、強い」
ボクが言うと、セレスが隣で笑った。
「どうして?」
「何が起きてもこの顔」
「木彫りだからね」
「でも、ちょっと見習いたい」
「無理に全部を受け取らない顔?」
「そう。世界の半分くらいしか参加しない顔」
セレスは少し考えてから頷いた。
「今のルシェルには、必要かもね」
「半分参加」
「全部に反応しなくていい、ということ」
「うん」
雨雫を握る。
今日は雨雫も仕事をした。
いや、仕事をしていない。
ボクが握っただけだ。
でも、そこにあった。
それでよかった。
「今日、蒼銀を出さなかった」
ボクが言うと、レオンが扉の近くで頷いた。
「ああ」
「でも、何もしてないわけじゃない?」
「ああ」
「待った」
「そうだ」
「止まった」
「そうだ」
「それも、旅の一部?」
レオンは少し考えた。
「たぶん」
「たぶん」
「前向きなたぶんだ」
その返しに、少し笑った。
レオンがボクの言葉を使った。
もう完全に感染している。
◇
夜。
食堂ではなく、部屋で夕食を取った。
今日は人のいる場所へ行く気になれなかった。
ガルドが持ってきたパンとスープ、少しの乳酪。
食べると、身体が少し戻る。
「ガルド」
「何だ」
「今日、待つのも動きって言ったでしょ」
「言った」
「あれ、よかった」
「そうか」
「生活格言部門、今日も本採用」
「戦士だ」
「兼任」
「……そうか」
ガルドは少しだけ諦めたように頷いた。
この人も、だいぶ受け入れてきている。
食後、リーネが短く顔を出した。
見習いの子は落ち着いていること。
結界灯は他のものも点検すること。
今日は休むこと。
それだけ伝えて、すぐに帰った。
「ルシェルさん」
帰り際、リーネが言った。
「今日は、ありがとうございました」
「ボク、何もしてない」
「待ってくれました」
また、それ。
待ったことへの礼。
リーネは穏やかに頭を下げる。
「私が対応する場を、残してくれました」
その言葉は、かなり不意打ちだった。
自分が出なかったことで、リーネが対応できた。
そういう見方。
「……そういう言い方、ずるい」
「すみません」
「いいです」
リーネは少し笑って、部屋を出ていった。
◇
夜、枕元の小箱を少しだけ位置調整する。
雨雫を真ん中に。
ミルの歯形を左に。
保留猫を右に。
保留猫が、やる気のない顔で横を向いている。
「おやすみ、雨雫。おやすみ、ミルの歯形。おやすみ、保留猫」
セレスが灯りを落とす。
部屋が暗くなる。
廊下には仮の灯りがある。
事件のあった廊下。
でも、もう静かだ。
レオンが扉の近くで言う。
「明日は予定を入れない」
「また休み?」
「ああ」
「事件の翌日だから?」
「そうだ」
「王都、休ませるの上手くなってきた」
「クラウスが書いた」
「書類の壁」
「ああ」
ガルドが隣室から言う。
「寝ろ」
「はい」
「一回でいい」
「一回」
いつものやり取りに、少し救われる。
今日は事件が起きた。
小さな事件。
結界灯が割れた。
瘴気が漏れた。
誰かが咳き込んだ。
リーネが対応した。
ボクは出なかった。
何かをしたわけではない。
でも、待った。
止まった。
出さなかった。
それが、今日の出来事。
物語は、きっとこういうふうにも進むのだと思う。
派手に光るだけではなく。
剣を抜くだけでもなく。
誰かが前に出て、誰かが下がり、誰かが待つ。
その全部で、少しずつ進む。
「保留猫」
暗闇の中で小さく言う。
「君、名前それでいいかもね」
返事はない。
やる気のない木彫り猫は、たぶん何でもいいのだろう。
その感じが、今は少しだけ羨ましかった。
ボクは目を閉じる。
手のひらはもう熱くない。
今日はもう、休業。
ちゃんと休業。
そう思いながら、眠りに落ちた。