TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
王都浄化師団の記録室には、蒼銀に関する古い報告がいくつか保管されている。
数は多くない。
むしろ、驚くほど少ない。
蒼銀の浄化師は、王国史の中でも片手で足りるほどしか確認されていない。
文献によっては「天より降りた清浄」「結界を再編する光」「瘴気孔を鎮める稀色」と記されている。
美しい言葉ばかりだ。
だが、美しい言葉ほど、本人の輪郭を削りやすい。
リーネは古い記録を閉じ、机の上の新しい報告書へ視線を落とした。
『ルシェル・ノア。十五歳。見習い浄化師。蒼銀発現確認』
その下に、最近の記録が続く。
『王都到着直後、疲労あり』
『確認時、手のひら上で発現。範囲指定により安定』
『結界塔を外から見学。反応あり。ただし発現なし』
『市場にて小規模瘴気事案。短時間浄化。人目による負荷あり』
『東の丘の村、境界石表面の一部を短時間浄化。範囲拡大の感覚あり。停止可能』
『王都館内、結界灯破損。突発的濁りに反応。発現を保留。正式浄化師対応を待機』
並べると、よく分かる。
彼女は、弱いのではない。
むしろ逆だ。
反応が早すぎる。
瘴気を見れば、手が先に起きる。
結界を見れば、蒼銀が応じようとする。
境界石に触れずとも、古い流れを感じ取る。
小さな濁りにさえ、身体が働こうとする。
そして、働けてしまう。
市場で子供を助けた。
丘の境界石の濁りを、本当に端だけとはいえ薄めた。
結界灯の事故でも、もし止めなければ、彼女は廊下へ出ていただろう。
それは善意だ。
役目でもある。
浄化師として、間違ってはいない。
だからこそ、危ない。
リーネは小さく息を吐いた。
「蒼銀は、本人より先に呼ばれる」
そう言ったのはクラウスだった。
彼の言葉は事務的で、感情を削ったように聞こえることが多い。
けれど、時々、ひどく正確だった。
蒼銀。
その色が書類に乗った瞬間、周囲は彼女を見習いとして見なくなる。
十五歳の少女。
旅に疲れる身体。
馬車に酔いかける三半規管。
山羊を見て喜ぶ顔。
木彫り猫を買うかどうかで迷う手。
そういうものが、蒼銀という一語の後ろへ押しやられる。
蒼銀ならできるのではないか。
蒼銀なら試せるのではないか。
蒼銀なら王都の結界に役立つのではないか。
蒼銀なら、もう少しだけ。
もう少しだけ。
それが一番危ない。
ルシェルは、その「もう少しだけ」に応えてしまう子だ。
少なくとも、今までの様子を見る限りでは。
◇
クラウスは、別室で報告書をまとめていた。
机の上には、いくつもの紙が並んでいる。
王都浄化師団への報告。
結界局への共有。
丘の村への追加派遣要請。
館内結界灯の点検指示。
そして、ルシェル・ノアの行動記録。
若い書記官が、少し困った顔で言った。
「ここまで制限を明記すると、過保護に見えませんか」
クラウスは筆を止めなかった。
「見えるだろうな」
「では」
「見えることと、不要であることは違う」
若い書記官は黙った。
クラウスは一枚の紙を指で押さえる。
「彼女は、王都到着から数日で三度、予定外の刺激に反応している。結界塔、市場、結界灯だ」
「はい」
「丘の村では予定内だったが、範囲拡大の感覚があった」
「本人もそう言っていました」
「つまり、力が足りないから守るのではない。力が届きすぎるから、範囲を決める必要がある」
若い書記官は、少し目を見開いた。
クラウスは続けた。
「火の扱いと同じだ。小さな火なら、風から守る。大きな火なら、燃え広がらないよう囲う。蒼銀は後者に近い」
「彼女自身は、火というより……」
「まだ火の扱い方を覚えている途中の者だ」
クラウスは淡々と言った。
「しかも、その火を周囲が欲しがる」
若い書記官は、机の上の報告書を見た。
そこには、問い合わせの控えも置かれていた。
『蒼銀発現範囲の追加確認は可能か』
『結界塔近辺での反応を再測定できるか』
『小規模瘴気事案への同行可否』
『王都外郭結界との適性確認』
どれも、言葉だけ見ればもっともらしい。
王都を守るため。
結界を安定させるため。
浄化師団の今後のため。
希少な蒼銀を正しく把握するため。
正当な理由はいくらでも作れる。
だが、その中心にいる少女の疲労は、理由の中で簡単に小さくされる。
「ですから、先に書く」
クラウスは言った。
「本人疲労あり。発現時は短時間。人目による負荷あり。突発時は第一対応者としない。待機の役割を明示する」
「待機の役割……」
「動かさないためには、ただ『動くな』では弱い。彼女は、必要だと思えば動く。だから、待つことにも意味があると明示する」
「それが、先日の結界灯事故の記録ですか」
「そうだ」
クラウスは筆を置いた。
「彼女は、あの場で出なかった。これは重要だ」
「蒼銀を使わなかったことが、ですか」
「蒼銀を使える者が、使わずに待てた。王都にとっても、本人にとっても、重要な記録だ」
若い書記官は、少し考え込んだ。
「でも、外部の者には分かりづらいかもしれません。ただ休ませている、ただ囲っているように見える」
「だから、分かるように書く」
クラウスは新しい紙を取った。
そして、表題を書いた。
『ルシェル・ノア氏への対応方針について』
◇
レオンは、庭で剣を振っていた。
素振りは静かだった。
一振り。
一振り。
無駄のない動き。
そこへガルドが来た。
手にはパン。
「食うか」
「あとで」
「そうか」
ガルドは近くの石に座り、パンを食べ始めた。
しばらく、剣の音と咀嚼音だけがあった。
先に口を開いたのはレオンだった。
「俺は、強く止めすぎたか」
ガルドはパンを飲み込んでから言った。
「結界灯の時か」
「ああ」
「止まった」
「それはそうだが」
「ならよかった」
ガルドの答えは短い。
いつも通りだ。
レオンは剣を下ろした。
「怖がらせたかもしれない」
「怖い時は怖い声もいる」
「そうか」
「怒っていないと後で言ったんだろう」
「ああ」
「ならいい」
ガルドはまたパンを食べる。
レオンは庭の向こうを見た。
館の窓。
その向こうに、おそらくルシェルの部屋がある。
彼女は今頃、雨雫と木片と木彫り猫を並べているかもしれない。
そう思うと、少しだけ表情が緩みそうになった。
だが、すぐに真面目な顔へ戻る。
「彼女は、自分ができると思ったら動く」
「そうだな」
「自分が疲れているかどうかより、目の前で困っているものを優先する」
「そうだな」
「それを止めるのは、本人の意思を潰すことになるのか」
ガルドは少し黙った。
そして言った。
「止め方による」
レオンはガルドを見た。
「全部駄目と言えば潰す。何をどこまでやるか決めて止めるなら、支える」
「支える」
「丘の石では、端だけと決めた。あれは止めたのではなく、範囲を作った」
ガルドはパンの残りを見た。
「柵と同じだ」
「山羊のか」
「柵がなければ、山羊は畑へ行く。柵があれば、中で動ける」
レオンは少し黙った。
ガルドは真顔だった。
比喩としては妙に的確だった。
「ルシェルは山羊か」
「違う」
「だろうな」
「だが、境界はいる」
ガルドはパンを食べ終えた。
「境界石も、山羊の柵も、同じだ」
「昨日も言っていたな」
「事実だ」
レオンは剣を鞘へ戻した。
「過保護に見えるだろうな」
「見える」
「それでいいのか」
「倒れるよりいい」
「極端だな」
「倒れてからでは遅い」
ガルドの声は低く、動かなかった。
「重い荷は、持てる者が持つ。だが、持てるからといって全部持たせれば潰れる」
レオンは何も言わなかった。
その言葉は、戦士らしい。
そして、おそらく正しい。
◇
セレスは、リーネと二人で医務室の隣の小部屋にいた。
結界灯事故で咳き込んだ見習いの少女は、もう落ち着いている。
それでも念のため、今日は休ませているらしい。
セレスはリーネへ言った。
「ルシェルは、助けられなかったと思っているかもしれません」
「でしょうね」
リーネは静かに頷いた。
「でも、あの場で彼女が出ていたら、廊下の人たちは蒼銀を見ました」
「ええ」
「そうしたら、次から小さな濁りでも彼女を探す人が出るかもしれない」
「それが怖いところです」
リーネは机の上の記録を見た。
「蒼銀は、希少です。王都でも、実物を見た者はほとんどいません。見れば、強く印象に残る」
「助けてくれた光として」
「ええ。そして、助けてくれる光として期待される」
期待。
その言葉は、優しい顔をして重い。
「ルシェルは、期待されると笑って軽く流そうとします」
セレスが言った。
「変な言葉で、場をずらして、相手を困らせて、自分も少し逃げる」
「ええ」
「でも、本当に必要だと言われたら、逃げきれない」
リーネは視線を落とした。
「だから、周囲が先に逃げ道を作る必要がある」
「逃げ道」
「クラウスさんなら、帰路と言うでしょうね」
セレスは少し笑った。
「言いそうです」
リーネも笑った。
だが、すぐに表情を引き締めた。
「過保護に見えるのは、仕方ありません。でも、彼女はまだ自分の限界を測っている途中です。しかも、その限界が蒼銀の希少性によって外から押し広げられようとしている」
「本人が決める前に、周囲が『できる』と決めてしまう」
「そうです」
リーネは窓の外を見た。
廊下では、結界灯の点検をする職員が行き来している。
「今、彼女に必要なのは、強い訓練ではなく、止まっても世界が壊れない経験です」
セレスは静かに頷いた。
「自分が出なくても、誰かが対応する。自分が全部やらなくても、引き継げる。待つことも役割になる」
「ええ」
「その経験を積ませるための、過保護」
「私はそう考えています」
リーネは少し苦笑した。
「もっとも、本人は過保護と言われると嫌がるでしょうけれど」
「言い方を変えましょう」
「どう?」
「勤務管理」
リーネは一瞬きょとんとし、それから笑った。
「ルシェルさんの言葉ですね」
「ええ。蒼銀の勤務管理です」
◇
その日の夕方、クラウスの作成した対応方針は、関係者へ共有された。
内容は簡潔だった。
ただし、かなりはっきりしていた。
『ルシェル・ノア氏は、希少な蒼銀の発現者である。
蒼銀は王都結界および瘴気浄化において高い適性を持つ可能性があるが、本人は十五歳の見習い浄化師であり、現在は発現範囲・疲労・対人負荷を確認中である。
これまでの経過から、本人は瘴気・結界・境界石等に対し鋭敏に反応し、必要と判断した場合に自発的に行動しようとする傾向がある。
よって、本人の意思確認なく第一対応者として扱ってはならない。
突発事案時は、正式浄化師または担当者が初期対応を行うこと。
本人に対しては、発現する役割だけでなく、待機・観察・報告・撤退も正式な役割であると明示すること。
発現を求める場合は、場所・範囲・時間・撤退条件を事前に設定すること。
人目の多い場所での発現は避けること。
本人の私物および本人が安心材料として扱う物品を軽視しないこと。』
最後の一文を読んだ若い書記官は、少しだけ首を傾げた。
「私物、ですか」
クラウスは筆を片づけながら答えた。
「雨雫、木片、木彫り猫」
「それもですか」
「それもだ」
「理由は?」
「蒼銀ではないからだ」
若い書記官は、すぐには意味を掴めなかった。
クラウスは続けた。
「彼女が蒼銀以外のものを持つことに意味がある。役に立たないもの、本人が選んだもの、名前をつけるか迷っているもの。そういうものが、彼女を蒼銀だけにしない」
「蒼銀だけにしない……」
「過保護に見えるなら、それでいい」
クラウスは書類を揃えた。
「我々が守っているのは、蒼銀ではない。蒼銀を持つルシェル・ノア氏だ」
◇
同じ頃、ルシェルは部屋で保留猫を見ていた。
名前はまだ決まらない。
雨雫は雨雫だ。
ミルの歯形はミルの歯形だ。
でも、この猫はまだ保留猫。
「保留猫、君は何もしない天才だね」
猫は黙っていた。
やる気のない顔で。
ルシェルはその顔を見ながら、今日のことを思い出す。
割れた結界灯。
廊下の濁り。
咳き込む見習い。
リーネの光。
レオンの「待て」。
ガルドの「待つのも動きだ」。
クラウスの書類。
過保護だと思う。
たぶん、かなり。
でも、過保護にされている理由も、少しだけ分かる。
自分の手は、思ったより早く動こうとする。
自分の蒼銀は、思ったよりすぐ働こうとする。
そして、自分はまだ、それを完全には止められない。
だから、周りが止める。
範囲を作る。
帰る道を用意する。
待つ役割を渡す。
「……勤務管理」
ルシェルは小さく呟いた。
自分で言った言葉なのに、今は少し違って聞こえた。
蒼銀の勤務管理。
ボクの勤務管理。
働きすぎ防止。
それは少し情けない。
でも、少しありがたい。
枕元の小箱に、三つを並べ直す。
雨雫。
ミルの歯形。
保留猫。
蒼銀ではないものたち。
役に立たないものたち。
でも、ボクを蒼銀だけにしないものたち。
「過保護対策グッズみたいになってきた」
そう言って、少し笑う。
廊下の向こうでは、誰かが結界灯を点検している音がした。
王都は、今日の小さな亀裂を塞ごうとしている。
ルシェルも、少しだけ自分の手を見た。
今日は出さなかった手。
待てた手。
まだ少し頼りないけれど、昨日より少しだけ分かる手。
「明日も休業かな」
保留猫は答えない。
その顔は、相変わらず世界の半分くらいしか参加していなかった。
ルシェルは、その顔を見て少し安心した。