TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第2話 王都行きの馬車

 

 馬車という乗り物は、思っていたより揺れる。

 

 いや、知識としては分かっていた。

 舗装された道路を走る車とは違う。車輪は木製、道は土、たまに石。クッション性能に期待してはいけない。

 

 だが、知識と体験は別である。

 

「……これ、長時間乗るもの?」

 

 ボクが座席の縁を掴みながら言うと、向かいのセレスが小さく笑った。

 

「王都までは数日かかるわ」

 

「数日」

 

「ええ」

 

「馬車酔いとの長期戦が確定した」

 

「気分が悪い?」

 

「まだ大丈夫。大丈夫だけど、馬車がボクを試してる」

 

 セレスは困ったように眉を下げた。

 

 笑っていいのか、心配すべきなのか迷っている顔だった。

 

 こちらも、彼女をどう扱えばいいか分からない。

 

 王都から来た魔術師。

 柔らかく話す。

 距離の取り方は丁寧。

 けれど目がよく動く。こちらの顔色、指先、呼吸、手元の揺れまで見ている。

 

 悪い人ではなさそう。

 

 ただ、優しい人だからといって、全部を預けていいわけではない。

 

 ボクはまだ、この三人を知らない。

 

 たぶん向こうも同じだ。

 

 蒼銀の見習い浄化師。

 倒れて三日寝て、目覚めたら妙な言い回しをする少女。

 

 向こうからすれば、ボクもだいぶ測りにくい相手だと思う。

 

 馬車の外では、レオンが御者台の横に座っている。

 ガルドはさらにその隣。大柄なので、乗っているだけで御者台の半分が要塞に見える。

 

 ボクは窓から二人の背中を見た。

 

 剣士と戦士。

 

 この編成なら、前衛は固い。

 魔術師もいて、後衛支援もある。

 そして見習い浄化師が一人。

 

 ……ゲームなら、チュートリアル明けくらいのパーティだ。

 

「何か気になる?」

 

 セレスに聞かれた。

 

「ガルド、御者台から落ちたら地面が負けそうだなって」

 

「地面が?」

 

「うん」

 

 セレスは一拍置いて、肩を震わせた。

 

「本人に言ったら、たぶん困るわ」

 

「困るだけで済む?」

 

「たぶん」

 

「なら今度言ってみる」

 

「ほどほどにね」

 

 ほどほど。

 

 大事な言葉だ。

 

 ボクは外の景色に目を向けた。

 

 雨上がりの道はぬかるんでいる。

 車輪が水を跳ね、馬の蹄が湿った土を叩く。

 

 道の両脇には低い草地。遠くには森。

 雲の切れ間から光が落ちて、草の上の水滴がちらちら光っている。

 

 綺麗だ。

 

 知らない場所なのに、身体はこの景色を知っている。

 

 ルシェルとしての記憶が、ここは院の近くの街道だと教えてくれる。

 この先に小さな橋がある。橋の下は浅い川。

 さらに進むと、昼前に石造りの祠が見える。

 

 同時に、前の記憶の自分は、これはファンタジーの景色だと思っている。

 

 二つの感想が同時に出る。

 

 便利なようで、だいぶ疲れる。

 

「ルシェル」

 

 外からレオンの声がした。

 

「何?」

 

「もう少し行った先で休憩する」

 

「了解。馬車の試練、一時中断」

 

「……何の試練だ?」

 

「主に三半規管」

 

「さん?」

 

「気にしないで。身体の中の小さい審判みたいなもの」

 

 レオンはしばらく黙った。

 

「それは、大丈夫なのか」

 

「今はまだ公平な判定をしてる」

 

「そうか」

 

 レオンは真面目に頷いたようだった。

 

 セレスが口元を押さえている。

 

「レオンは、けっこう真面目?」

 

「かなり真面目よ」

 

「軽口の通訳が必要そう」

 

「そのうち慣れるわ」

 

「慣れるかな」

 

「ルシェルも、私たちに慣れる?」

 

 その問いは、何気ないようでいて、少しだけ奥があった。

 

 ボクはすぐに答えなかった。

 

 慣れる。

 

 王都から来た三人に。

 旅に。

 自分の中に増えた知らない記憶に。

 蒼銀の光に。

 

「……たぶん」

 

「たぶん?」

 

「いまのボクは、だいたい全部たぶんで運用してる」

 

「そう」

 

「不良品みたいに言わないで」

 

「言ってないわ」

 

「顔がちょっと優しかった」

 

「優しくてもだめ?」

 

「優しすぎると、逆に怖い時がある」

 

 言ってから、自分で少し驚いた。

 

 そんなことを言うつもりはなかった。

 

 セレスも少しだけ目を細めた。

 

 だが、深く踏み込んではこなかった。

 

「じゃあ、少しだけにしておくわ」

 

「優しさを?」

 

「ええ。少しずつ」

 

「調整式」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

 この人、案外流すのがうまい。

 

 少し助かる。

 

     ◇

 

 休憩地点は、小さな石橋の手前だった。

 

 馬車が止まると、ボクはセレスに続いて外へ降りた。

 

 足元が少しふらつく。

 

 すかさずレオンが手を出しかけ、途中で止めた。

 

「手を貸すか?」

 

 聞いてからにしたらしい。

 

 それは少し好印象だった。

 

「今は大丈夫」

 

「分かった」

 

 レオンは手を引いた。

 

 距離感はまだ硬い。

 向こうも、どう接すればいいか測っているのだろう。

 

 蒼銀の浄化師として丁重に扱うべきか。

 十五歳の見習いとして扱うべきか。

 目覚めたばかりの病み上がりとして扱うべきか。

 妙なことを言う同行者として扱うべきか。

 

 全部少しずつ正解で、全部少しずつ違う。

 

 ボク自身も、自分をどう扱えばいいか分かっていない。

 

 石橋の下を、水が流れている。

 

 浅い川だった。

 

 雨のあとだから少し増えているが、流れは穏やかだ。

 

 水面に空が映っている。

 

 ボクは少しだけ身を乗り出して見た。

 

「落ちるなよ」

 

 ガルドが言った。

 

「落ちないよ」

 

「足元がぬかるんでいる」

 

「現実的な心配」

 

「現実だからな」

 

「ガルドは現実担当?」

 

「知らん」

 

 返しが短い。

 

 でも、冷たいわけではない。

 

 ガルドは話が広がらないタイプだ。

 たぶん、無理に会話を続けるより、その方が落ち着く。

 

 レオンが荷袋から干し肉とパンを出した。

 

 セレスは水筒を確認している。

 

 完全に旅慣れている。

 

 ボクはパンを受け取りながら、ふと聞いた。

 

「三人は、ずっと一緒に旅してるの?」

 

 レオンが答える。

 

「何度か任務を組んだことはある」

 

「固定パーティではない?」

 

「固定?」

 

「いつも同じ面子って意味」

 

「ああ。そういうわけではない。今回は王都までの護衛として組まれた」

 

「なるほど。即席パーティ」

 

 ボクが頷くと、レオンが少し考えた。

 

「不安か?」

 

「不安というか、全員が全員を様子見してる感じがする」

 

 正直に言うと、セレスが目を丸くした。

 

 レオンは少し黙り、ガルドはパンをちぎる手を止めた。

 

「そう見えるか」

 

「見える。ボクも見てるし」

 

「俺たちを?」

 

「うん。剣士、魔術師、盾職。今のところ悪くなさそう。でも本採用はまだ」

 

「まだ仮採用なのか」

 

 レオンが真面目に言うので、セレスが笑った。

 

「レオン、そこは冗談よ」

 

「そうなのか?」

 

「半分くらい」

 

 ボクが答えると、レオンはさらに困った顔をした。

 

「半分」

 

「全部冗談より信用できるでしょ」

 

「そういうものか」

 

「たぶん」

 

 ガルドが低く言った。

 

「こちらも、お前を測っている」

 

「正直」

 

「隠すことでもない」

 

「何を?」

 

「どこまで歩けるか。どこで無理をするか。何を言えば止まるか」

 

 セレスが少しだけガルドを見た。

 

 言い方が直接すぎると思ったのかもしれない。

 

 でも、ボクは嫌ではなかった。

 

 むしろ分かりやすい。

 

「止める前提?」

 

「倒れたと聞いた」

 

「倒れた実績があると信用が落ちる」

 

「実績ではない」

 

「不名誉な実績」

 

「無理をするな、という話だ」

 

 ガルドはパンを食べた。

 

 それで話は終わりらしい。

 

 レオンが補足するように言う。

 

「君に負担をかけに来たわけじゃない」

 

「でも王都はボクの蒼銀を見たい」

 

「それはそうだ」

 

「正直」

 

「隠しても意味がない」

 

 レオンの声は硬い。

 

 ただ、嘘ではない。

 

 王都がボクの力を見たいのは事実。

 この三人はそのために来た。

 護衛でもあり、案内でもあり、たぶん観察役でもある。

 

 それでも、今のところ彼らは無理に手を引かない。

 勝手に触らない。

 光を出せとも言わない。

 

 保留。

 

 やはり、ひとまず保留だ。

 

「じゃあ、ボクも正直に言う」

 

 パンをちぎりながら言う。

 

「蒼銀がどういうものか、ボクもまだ分かってない」

 

 レオンの目が少し鋭くなった。

 

 セレスは静かにこちらを見る。

 

「昨日までは分かっていた?」

 

「分かってた、と思う。浄化する力。瘴気を祓う光。でも、倒れて起きたら、少し距離感が変になった」

 

「距離感?」

 

「自分の手なのに、ちょっと知らない手みたいな」

 

 手のひらを見る。

 

 白くて細い指。

 薬草で少し荒れた爪先。

 この身体はルシェルのものだ。

 

 でも、前の記憶の自分は、まだ少し慣れていない。

 

 そして蒼銀は、もっと慣れていない。

 

「だから、急に光れって言われると困る」

 

 そう言うと、レオンは真面目に頷いた。

 

「言わない」

 

「助かる」

 

「必要な時は?」

 

「必要な時は……やる」

 

 言ってから、少しだけ喉が詰まった。

 

 必要ならやる。

 

 それはルシェルの記憶が自然に出した言葉だった。

 

 瘴気があるなら浄化する。

 苦しんでいる人がいるなら動く。

 できるなら、やる。

 

 そこに迷いは少ない。

 

 少なすぎる。

 

 セレスが静かに言った。

 

「必要かどうかは、一緒に判断しましょう」

 

「ボクが判断するんじゃなくて?」

 

「あなた一人で背負わなくていい、という意味」

 

「背負ってるつもりはないけど」

 

「そういう人ほど背負っていることがあるわ」

 

「魔術師、たまに刺してくるね」

 

「ごめんなさい」

 

「謝るほどではない。ちょっと当たっただけ」

 

 セレスは少しだけ笑った。

 

 レオンはパンを包み直す。

 

「出発する。次の宿場まで、今日は浄化予定はない」

 

「ないの?」

 

「道が荒れている。無理に寄り道はしない」

 

「慎重」

 

「病み上がりがいる」

 

「誰だろう」

 

「君だ」

 

「知ってた」

 

 ガルドが荷を担ぐ。

 

「乗れ」

 

「命令形」

 

「馬車が出る」

 

「はいはい」

 

「はいは一回でいい」

 

「お父さんみたいなこと言う」

 

「何だそれは」

 

「家庭内上位職」

 

 ガルドは分からない顔をした。

 

 レオンも分からない顔をした。

 

 セレスだけが、意味は分からないけれど面白い、という顔をしていた。

 

     ◇

 

 午後になると、空は晴れた。

 

 馬車の揺れにも少し慣れ、ボクは窓枠に頬杖をついて外を見ていた。

 

 森が近づいている。

 

 高い木々。

 薄暗い影。

 木漏れ日。

 

 綺麗だが、同時に少し重い。

 

 ルシェルの記憶が教える。

 森の中には瘴気が溜まりやすい。

 

 湿った場所。

 光の届かない場所。

 古い祠。

 打ち捨てられた井戸。

 

 そういうところに、濁りは溜まる。

 

 馬車が森の入口に差しかかった時、手のひらが微かに熱を持った。

 

「……ん」

 

 ボクは手を見る。

 

 蒼銀は出ていない。

 

 だが、奥で何かが反応している。

 

 セレスがすぐに気づいた。

 

「どうしたの?」

 

「手が、ちょっと」

 

 外からレオンの声。

 

「瘴気か?」

 

「たぶん。薄いと思う」

 

 馬車が止まった。

 

 早い。

 

 レオンがこちらを振り返る。

 

「見られるか?」

 

「見るだけなら」

 

 馬車から降りる。

 

 森の入口に立つと、空気の匂いが少し変わった。

 

 湿った葉。

 古い土。

 それに混じって、ほんのわずかな焦げたような匂い。

 

 瘴気。

 

 目には見えない。

 

 けれど、蒼銀がそれを嫌がっている。

 

 ボクは森の奥を見た。

 

 木々の間に、小さな祠がある。

 苔むした石造り。半分崩れている。

 

「あそこ」

 

 指差すと、レオンが剣に手をかけた。

 

「魔物は?」

 

「いないと思う。濁りだけ」

 

「近づけるか?」

 

「近づくだけなら」

 

 そう言いながら歩き出しかけ、ガルドに盾で道を塞がれた。

 

「先に俺が行く」

 

「盾職」

 

「戦士だ」

 

「そこ大事?」

 

「大事だ」

 

 ガルドが前に出る。

 

 その後ろにレオン。

 セレスがボクの横に並ぶ。

 

「無理に浄化しなくていいわ」

 

「まだ何もしてないのに止められた」

 

「予防よ」

 

「予防線が早い」

 

「あなた、歩き方がもう少し前のめり」

 

 そんなことまで見ているのか。

 

 ボクは少しだけ足を緩めた。

 

 祠の前に着くと、瘴気の気配がはっきりした。

 

 小さい。

 けれど、確かに濁っている。

 

 祠の割れ目に、黒ずんだ靄がたまっていた。

 

 村や街道に影響するほどではない。

 放っておいてもすぐには問題にならない。

 

 でも、ここを通る旅人が体調を崩すくらいはあるかもしれない。

 

「小さいね」

 

 ボクが言うと、レオンがこちらを見る。

 

「浄化できるか?」

 

「できると思う」

 

「体調は?」

 

「微妙」

 

「なら、やめるか」

 

 即答だった。

 

 少し意外で、ボクはレオンを見た。

 

「いいの?」

 

「急ぐほどではないんだろう」

 

「そうだけど」

 

「なら宿場へ知らせる。明日、別の浄化師に依頼してもいい」

 

 それは正しい。

 

 正しいが、胸の奥が少し落ち着かない。

 

 できる。

 たぶん、簡単にできる。

 

 小さな瘴気溜まりだ。

 手をかざして、光を流せば終わる。

 

 できるのに、やらない。

 

 それが少し、気持ち悪い。

 

 ボクは手を開いた。

 

 蒼銀が、指先にわずかに灯る。

 

「ルシェル」

 

 セレスの声が静かに止める。

 

「やるとは言ってない」

 

「でも光が出ているわ」

 

「営業準備中」

 

「休業して」

 

 言い方が少し面白くて、力が抜けた。

 

 蒼銀が消える。

 

 ガルドが祠を見た。

 

「小さいなら、後でいい」

 

「ガルドまで」

 

「倒れられる方が面倒だ」

 

「理由が雑」

 

「本音だ」

 

 ボクは祠を見た。

 

 黒い靄が、割れ目に沈んでいる。

 

 気になる。

 

 でも、今のボクは自分の蒼銀を少し持て余している。

 

 ここで無理に使って、また三日寝たら笑えない。

 

 いや、少しは笑うかもしれないけど、周囲が笑わない。

 

「……分かった。今日はやめる」

 

 言うと、レオンが小さく息を吐いた。

 

「助かる」

 

「そんなに心配?」

 

「まだ君を知らないからな」

 

 正直だった。

 

「知らない相手が無理をしようとしたら、止める」

 

「知ってる相手なら?」

 

「もっと止めるかもしれない」

 

「面倒な剣士」

 

「よく言われる」

 

「言われるんだ」

 

 セレスが少し笑った。

 

 ガルドは祠の周囲に簡単な目印を置く。

 

「宿場へ伝える」

 

「うん」

 

 ボクはもう一度だけ祠を見た。

 

 瘴気は小さい。

 

 でも、胸の奥の蒼銀はまだそれを見ている。

 

 浄化したがっている。

 

 誰の意思なのか、少し分からない。

 

 ボクの意思か。

 ルシェルの習慣か。

 蒼銀そのものの性質か。

 

 分からないまま、森を離れた。

 

     ◇

 

 夕方、宿場に着いた。

 

 石造りの小さな宿。

 入口には乾いた香草が吊るされている。

 馬小屋の方から、干し草と獣の匂いがした。

 

 宿の主人は、レオンたちを見るなり慌てて頭を下げた。

 

「王都の方々で?」

 

「一晩泊まる。四人だ」

 

 レオンが淡々と言う。

 

 主人の視線がボクに向いた。

 

 銀髪。

 白い外套。

 見習い浄化師の印。

 

「ああ、浄化師様で」

 

 その呼び方に、少しだけ肩が固まる。

 

 様。

 

 見習いなのに。

 

「見習いです」

 

 ボクは言った。

 

「まだ仮運用中」

 

「かり……?」

 

「気にしないでください」

 

 主人は戸惑いながらも頷いた。

 

 セレスがそっと横に立つ。

 

「この子は病み上がりなの。静かな部屋をお願いできる?」

 

「もちろんです」

 

 その言い方は自然だった。

 

 守るというほど大げさではなく、でも必要なことを通している。

 

 ボクは何も言わずに見ていた。

 

 宿の部屋は二つだった。

 

 ボクとセレスが同室。

 レオンとガルドが隣室。

 

 いかにも旅の配置。

 

 部屋に入ると、ボクは寝台に腰を下ろした。

 

「疲れた」

 

「でしょうね」

 

「馬車と森と瘴気と人間で、今日は情報が多い」

 

「人間も?」

 

「人間も」

 

 セレスは荷物を置いた。

 

「夕食まで少し休みましょう」

 

「セレスは疲れないの?」

 

「疲れるわよ」

 

「見えない」

 

「見せないだけ」

 

「大人だ」

 

「あなたも、見せない方?」

 

 返事に詰まった。

 

 自分では分からない。

 

 ルシェルはたぶん、見せない方だった。

 痛い時も、疲れた時も、必要なら黙って動く。

 

 前の記憶の自分も、似たところがあった気がする。

 

 大丈夫なふりは、どの人生でも便利なのだろう。

 

「……見せ方が分からない方」

 

 ようやくそう答えると、セレスは頷いた。

 

「なら、練習ね」

 

「何の?」

 

「疲れた時に疲れたと言う練習」

 

「地味」

 

「地味なことは大事よ」

 

「魔術師なのに地味推し」

 

「派手な魔術ほど、地味な準備がいるの」

 

「それっぽい」

 

 セレスは笑った。

 

 その笑い方は柔らかい。

 

 怖くない程度に。

 

     ◇

 

 夜。

 

 食堂で夕食を取ったあと、レオンが宿の主人に森の祠のことを伝えた。

 

 小さな瘴気溜まりがあること。

 すぐに大きな害はないこと。

 明日以降、近くの浄化師へ知らせること。

 

 主人は何度も頭を下げた。

 

「ありがとうございます、浄化師様」

 

「だから見習い」

 

 ボクが言うと、主人はまた慌てた。

 

「失礼しました、見習い浄化師様」

 

「様が残った」

 

 レオンが横で少しだけ笑った。

 

「諦めろ」

 

「早い」

 

「宿場では浄化師はそう呼ばれる」

 

「職業敬称」

 

「そうだ」

 

「慣れない」

 

「そのうち慣れる」

 

「慣れるかな」

 

「たぶん」

 

 レオンが「たぶん」を使った。

 

 ボクは少し驚いて見た。

 

「レオンがたぶんを覚えた」

 

「君がよく使うからな」

 

「感染した」

 

「悪いのか」

 

「便利だからいいと思う」

 

 レオンは少しだけ口元を緩めた。

 

 完全に打ち解けたわけではない。

 

 まだ、お互いに様子見だ。

 

 でも、昨日より少しだけ、言葉の置き場所が分かってきた気がした。

 

 部屋へ戻る前、宿の裏庭に出た。

 

 夜風が冷たい。

 

 空には星が出ている。

 

 見慣れない星座。

 いや、ルシェルとしては見慣れている星座。

 

 前の記憶と今の記憶が、また少しずれる。

 

「眠れそうか?」

 

 レオンが隣に来た。

 

 近すぎない距離で立つ。

 

「たぶん」

 

「また、たぶんか」

 

「確定事項が少ないので」

 

「そうか」

 

 沈黙。

 

 気まずくはないが、まだ少し硬い。

 

 レオンは空を見たまま言った。

 

「森の祠、浄化したかったのか」

 

「うん」

 

「なぜ」

 

「できそうだったから」

 

「それだけか?」

 

 それだけ。

 

 そう言いかけて、止まった。

 

 できるなら、やる。

 必要なら、やる。

 放っておく理由がない。

 

 でも、それだけではない気もした。

 

 瘴気を見ると、手の奥が反応する。

 蒼銀が動きたがる。

 

 自分の意思と力の性質が、まだ分かれていない。

 

「……できそうだったから、やらないと落ち着かない」

 

 正直に言うと、レオンは少し考えた。

 

「落ち着かなくても、やめられた」

 

「止められたからね」

 

「止められなかったら?」

 

「たぶん、やってた」

 

「そうか」

 

 レオンは責めなかった。

 

 ただ、覚えるように頷いた。

 

「次は、早めに止める」

 

「宣言された」

 

「必要なら」

 

「必要なら、ね」

 

「嫌か?」

 

 ボクは少し考えた。

 

「嫌ではない。けど、止められるのに慣れてない」

 

「そうなのか」

 

「たぶん」

 

「じゃあ、こちらも慣れる」

 

「止めるのに?」

 

「君がどう止まるかに」

 

 変な言い方だった。

 

 でも、悪くなかった。

 

 ボクは星空を見上げる。

 

「レオン」

 

「何だ」

 

「ボク、たぶん面倒だよ」

 

「だろうな」

 

「即答」

 

「今さら隠すことでもない」

 

「失礼だけど正直」

 

「正直に言えと言ったのは君だ」

 

「言ってない」

 

「似たようなことは言った」

 

「記憶改変」

 

 レオンは少し笑った。

 

 本当に少しだけ。

 

 真面目な顔が崩れると、意外と年相応に見える。

 

「まあ、面倒同士、しばらくよろしく」

 

 ボクが言うと、レオンは一瞬こちらを見た。

 

「俺も面倒なのか」

 

「真面目すぎる人はだいたい面倒」

 

「そうか」

 

「褒めてる」

 

「本当か?」

 

「半分くらい」

 

「また半分か」

 

 その返しが少し自然になっていて、ボクは笑った。

 

 夜風が髪を揺らす。

 

 蒼銀は出ていない。

 

 けれど、胸の奥にはまだ小さな熱がある。

 

 森の祠。

 小さな瘴気。

 できそうだった浄化。

 

 今日はやらなかった。

 

 やらないことを選んだ、というより、選ばされたに近い。

 

 でも、止まれた。

 

 それはたぶん、悪くない。

 

「明日は?」

 

「朝に出る。王都へ向かう道中、市がある」

 

「市?」

 

「ああ。小さいが、旅道具や食料は揃う」

 

「市場イベント」

 

「何か欲しいものがあるのか?」

 

「今は特に」

 

 そう答えた。

 

 本当に、まだ何もない。

 

 役に立つものなら必要に応じて買えばいい。

 薬草、布、保存食、紐、小瓶。

 

 役に立たないものを欲しいと思う感覚は、まだ薄い。

 

 レオンはそれ以上聞かなかった。

 

「明日、見てから決めればいい」

 

「買わないかもしれない」

 

「それでもいい」

 

「レオン、意外と買い物に寛容」

 

「買う前から厳しくしてどうする」

 

「正論」

 

 その時のボクはまだ知らなかった。

 

 明日、市で、小さな灰青色の飾り石を見ること。

 

 それを、自分では買わないこと。

 

 レオンが、何でもないようにそれを贈ってくれること。

 

 そして、その役に立たない石に、いつか名前をつけること。

 

「寒くなってきたな」

 

 レオンが言った。

 

「戻る?」

 

「ああ」

 

「了解」

 

 宿へ戻る。

 

 扉の前で、ガルドがこちらを一瞥した。

 

「遅い」

 

「門番みたい」

 

「見張りだ」

 

「ほぼ門番」

 

「寝ろ」

 

「はいはい」

 

「はいは一回でいい」

 

「本日二回目」

 

 ガルドは首を傾げた。

 

 セレスが部屋の中から笑う声がした。

 

 ボクは少しだけ肩の力を抜いた。

 

 まだ、お互いをよく知らない。

 

 信頼というには早い。

 仲間というにも、まだ照れくさい。

 

 でも、同じ馬車に乗り、同じ道を進み、同じ宿で夜を越す。

 

 それくらいの関係なら、今日一日で始まったのかもしれない。

 

 部屋に入り、寝台に横になる。

 

 窓の外では、星が静かに光っていた。

 

 蒼銀とは違う、遠くて冷たい光。

 

 目を閉じる直前、森の祠の黒い靄を思い出した。

 

 手のひらが少し熱を持つ。

 

「……今日は休業」

 

 小さく呟くと、熱はゆっくり引いていった。

 

 自分の力が、自分の言葉を聞いたのか。

 

 ただの偶然か。

 

 分からない。

 

 けれど、眠るには十分だった。

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