TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
王都の朝には、少し慣れた。
鐘の音。
石畳を歩く人の足音。
食堂から上がる湯気。
窓の外に薄くかかる外郭結界の光。
最初は、空に天井があるみたいで息苦しかった。
今でも、そう感じる日はある。
けれど、毎朝それを見上げるたびに、少しずつ別の見え方も混ざってきた。
この街は守られている。
誰かが結界を整え、誰かが結界灯を点検し、誰かが瘴気の流れを記録している。
そこに、ボクも少しずつ関わり始めていた。
「おはよう、雨雫。おはよう、ミルの歯形。おはよう、保留猫」
枕元の小箱に挨拶する。
雨雫は、いつも通り黙っている。
ミルの歯形も、当然黙っている。
保留猫は、やる気のない顔で世界の半分くらいしか見ていない。
名前は、結局そのまま保留猫になりつつあった。
保留とは何だったのか。
「保留が長すぎると名称になる」
ボクが呟くと、セレスが隣で髪をまとめながら笑った。
「今日もその子たちに挨拶するのね」
「日課なので」
「浄化訓練の前にも?」
「むしろ前だから」
今日は、王都内での浄化訓練がある。
場所は、浄化師団の中庭。
大きなものではない。
古い結界石の欠片にまとわりついた、ごく薄い濁りを払う練習。
最初の頃なら、それだけでも部屋中がざわついたかもしれない。
でも、今は違う。
訓練日。
範囲。
時間。
撤退条件。
見守る人。
全部が事前に決められている。
口を出すのは、セレスとリーネだけ。
レオン、ガルドは近くにいるが、浄化そのものには何も言わない。
緊急時以外は見守り。
それが最近の決まりになっていた。
「手は?」
セレスが聞く。
「軽く起床」
「熱は?」
「少し。出勤前の顔」
「働きすぎないように」
「勤務管理、了解」
セレスは頷いた。
このやり取りも、だいぶ自然になった。
◇
浄化師団の中庭は、朝の光がよく入る場所だった。
石畳の中央に低い台があり、その上に今日の訓練用の結界石片が置かれている。
欠片、と言っても拳二つ分ほどの大きさはある。
表面には古い紋様が残り、その溝に薄い黒灰色の靄が絡んでいた。
周囲には人が少ない。
リーネ。
セレス。
クラウス。
記録係が一人。
それから、少し離れてレオンとガルド。
必要以上の見物人はいない。
それだけで、手のひらの熱が暴れにくい。
「今日の目的を確認します」
リーネが言った。
声は穏やかだが、訓練の時は少しだけ芯が強くなる。
「結界石片表面の濁りを、手のひらの範囲で薄めること。石全体に流し込まないこと。時間は一回につき十呼吸まで。三回まで。途中で疲労、引かれる感覚、視界の揺れがあれば中止」
「了解」
ボクは頷いた。
「営業範囲、手のひら正面。石の表面だけ。内部侵入禁止」
リーネが少し笑う。
「その言い方でいいです」
セレスが隣から言う。
「呼吸を数えるわ。こちらの声だけ聞いて」
「うん」
少し離れたところで、レオンは何も言わない。
ガルドも腕を組んで見ているだけだ。
以前なら、レオンも「短く」とか「手のひらだけ」と言ってくれていた。
それは助かった。
けれど今は、違う段階に入っている。
浄化の場では、浄化を知る者が口を出す。
護衛は、危険が来た時に動く。
見守る役割も、ちゃんと分かれてきた。
それが少しだけ、嬉しい。
「始めます」
手をかざす。
蒼銀が灯る。
最初の頃より、光は細い。
弱いのではない。
細く出せるようになった。
蒼銀は、以前より言うことを聞く。
いや、言うことを聞くというより、こちらが声のかけ方を少し覚えた。
「一」
セレスの声。
光を石の表面へ近づける。
黒灰の靄が揺れる。
「二」
濁りの端がほどける。
まだ石の中には入れない。
「三」
手の奥が少し引かれる。
でも、強くない。
「四」
リーネが言う。
「少し右へ。濁りの薄いところから」
言われた通りにする。
濃い部分へ突っ込まない。
薄い部分から。
「五」
靄が細くほどけ、朝の空気に溶ける。
「六」
ここで止めてもいい。
まだ十呼吸ではない。
でも、目的は時間を使い切ることではない。
「ここで止める」
ボクは手を下ろした。
蒼銀が消える。
リーネが頷く。
「いい判断です」
「早い?」
「早く止まれました」
セレスも微笑む。
「呼吸も乱れていないわ」
「よし」
自分で小さく言う。
離れたところで、レオンがわずかに頷いた。
何も言わない。
でも、見ている。
その沈黙が、今はちゃんと届いた。
◇
訓練は三回行われた。
一回目は六呼吸。
二回目は八呼吸。
三回目は五呼吸。
三回目で少し手の奥が重くなったので、そこで終えた。
「今日はここまで」
リーネが言った。
「まだできそう」
つい言ってしまった。
リーネは首を横に振る。
「できそうなところで終える練習です」
セレスも続ける。
「余力を残すのも、浄化師の技術よ」
「余力を残す技術」
「ええ」
「正式な浄化師っぽい」
リーネが静かに頷いた。
「そうです。正式な浄化師は、力を出し切る人ではありません。次の現場に歩いて戻れる人です」
その言葉に、少し黙った。
歩いて戻れる人。
丘の村から戻った日を思い出す。
戻る道も旅。
レオンの言葉。
たぶん、浄化も同じなのだ。
終わってから戻るところまでが浄化。
「じゃあ、今日のボクは?」
聞くと、リーネは言った。
「見習い浄化師として、とても良い訓練でした」
見習い浄化師として。
少し前なら、それで十分だった。
でも、今日はその言葉に、少しだけ別の響きが混ざった。
いつまでも見習いではない。
いつか、正式な浄化師になる道がある。
それはまだ遠い。
でも、道そのものは見え始めている。
◇
訓練の後、ガルドが水筒を渡してきた。
「飲め」
「はい」
「一回でいい」
「今日も安定」
レオンは少し離れたまま、こちらへ歩いてきた。
「お疲れ」
「珍しく短い」
「浄化には口を出さない決まりだ」
「守ってたね」
「ああ」
「言いたくならなかった?」
「少し」
「何を?」
「無理するな、と」
「定番」
「だが、セレスとリーネが見ていた」
「任せた?」
「そうだ」
レオンがそう言ったことが、少し嬉しかった。
任せる。
それは、ただ黙るのとは違う。
信じて見守ることだ。
「レオン、見守り部門も成長」
「評価される側なのか」
「長期審査なので」
「まだ続いているのか」
「かなり終盤」
「そうか」
レオンは少しだけ笑った。
ガルドが横から言う。
「食え」
「今度は食料部門」
「訓練後だ」
「はい」
「一回でいい」
変わらないやり取り。
けれど、少しずつ変わっている。
みんながボクを止めるだけではなくなった。
ボクも、止まることを覚え始めた。
レオンたちも、見守ることを覚えている。
パーティらしくなってきたのかもしれない。
◇
それから数日、王都での日々は続いた。
午前は休養か軽い訓練。
午後は記録確認、短い講義、または外出。
浄化は少しずつ増えた。
結界石片。
古い灯具。
小祠の札。
王都外縁の小さな瘴気溜まり。
どれも短く、範囲を決めて、セレスとリーネだけが指示を出した。
レオンとガルドは見守った。
何も言わないことに慣れていった。
ただし、緊急時にはすぐ動いた。
一度、訓練場の外から迷い込んだ子犬が石片へ近づきかけた時、ガルドは驚くほど速く子犬を回収した。
「犬も回収できるんだ」
ボクが言うと、ガルドは子犬を抱えたまま言った。
「危ない」
「子犬対応部門」
「戦士だ」
子犬はガルドの腕の中で尻尾を振っていた。
その日、保留猫の横に子犬の毛が一本つき、セレスに笑われた。
また別の日、王都の外縁にある小さな祠で、ボクは初めて正式な浄化記録の補助欄に名前を書いた。
補助。
まだ正式担当ではない。
でも、見学者でもない。
見習いとして、浄化に関わった者。
クラウスが書類を見せながら言った。
「ここに署名する」
「ボクが?」
「そうだ」
「字、震えたら?」
「震えても署名だ」
「書類の人、今日も強い」
筆を持つ手は、少しだけ震えた。
けれど、名前を書いた。
ルシェル・ノア。
紙の上の名前が、以前より少し自分のものに見えた。
◇
パーティとの距離も、少し変わった。
朝、レオンは何も言わずに水筒を渡すようになった。
ボクは何も言わずに受け取る。
それから、あとで思い出したように言う。
「ありがとう」
レオンはいつも通り答える。
「どういたしまして」
セレスは、ボクが疲れたと言う前に寝台を整えることがあった。
「顔色?」
「今日は肩」
「肩まで見られてる」
「力が入っているわ」
「観察師、範囲拡大」
「必要な範囲です」
ガルドは、食事量を見る。
少ないと、無言でパンを半分置いてくる。
「圧がある」
「食え」
「食べます」
「一回でいい」
「今のは一回ではないのでは」
「食え」
「二回目」
そういうことを言い合えるようになった。
冗談が、ちゃんと冗談として積み重なっていく。
仮採用の話も、ある日とうとう終わった。
食堂で、ガルドの買ってきた焼き菓子を分けていた時だ。
「レオン」
「何だ」
「本採用」
突然言ったので、レオンは少し固まった。
「何が」
「パーティ」
セレスが目を丸くする。
ガルドも焼き菓子を持ったまま止まった。
「長期審査の結果、レオン、セレス、ガルドは本採用です」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも、取り消さない。
レオンはしばらく黙ってから、真面目な顔で言った。
「光栄だ」
「真面目に返されると困る」
「本採用なのだろう」
「そうだけど」
セレスは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、ルシェル」
「こちらこそ?」
「ええ」
ガルドは焼き菓子を差し出した。
「食え」
「本採用祝い?」
「そうだ」
「雑だけど分かりやすい」
「大事だ」
その日、保留猫の前に焼き菓子の欠片を置こうとして、セレスに止められた。
木彫り猫に菓子は不要らしい。
◇
そして、王都の外での実地浄化訓練の日が来た。
場所は、王都北東の小さな林道。
古い結界標が並ぶ道で、近頃、道端に薄い瘴気が溜まりやすくなっているという。
危険度は低い。
人通りも少ない。
王都から馬車で一時間ほど。
訓練内容は、結界標の周辺に溜まった瘴気を、三か所だけ短く浄化すること。
同行は、リーネ、セレス、レオン、ガルド。
クラウスは王都で待機し、記録を受ける。
いつも通り、範囲は決まっていた。
口を出すのはリーネとセレスだけ。
レオンとガルドは見守り。
そういう予定だった。
「今日の目的は三か所」
馬車の中でリーネが確認する。
「一か所につき十呼吸以内。濁りが薄い部分から。結界標本体には流し込まない。疲労が出たら二か所で終了」
「了解」
「終わった後は、王都へ戻って休養」
「寄り道なし?」
「なしです」
「保留猫にお土産は?」
「なしです」
「厳しい」
セレスが笑う。
「今日は訓練日だからね」
「勤務日」
「ええ」
馬車の外では、林道が近づいていた。
木漏れ日。
細い道。
低い石標。
空気は王都より軽い。
丘の村ほどではないが、外の匂いがする。
手のひらは、少し温かい。
でも、制御できる範囲だった。
◇
一か所目は、問題なく終わった。
低い結界標の根元に溜まった黒灰色の靄。
リーネが範囲を示し、セレスが呼吸を数える。
ボクは手をかざし、蒼銀を細く流す。
「一」
薄いところから。
「二」
根元だけ。
「三」
結界標には入れない。
「四」
靄がほどける。
「五」
止める。
「終わり」
手を下ろす。
リーネが頷く。
「良いです。かなり安定しています」
「五呼吸で終わった」
「早く済んだのではなく、必要な分で止められました」
「表現がいい」
セレスも言う。
「呼吸も大丈夫」
「うん」
レオンは少し離れて周囲を見ている。
ガルドも黙っている。
予定通り。
二か所目も、問題はなかった。
少しだけ濁りが濃かったが、七呼吸で終えた。
手の奥に重さはある。
でも、まだ続けられる。
「三か所目、行けますか」
リーネが聞く。
「行ける」
セレスが顔を見る。
「疲れは?」
「少し。でも三か所目までは大丈夫」
「終わったらすぐ休む」
「了解」
三か所目は、林道の少し奥にあった。
木々の影が濃くなり、道が細くなる。
結界標は倒れてはいないが、やや傾いていた。
その周囲に、薄い瘴気が絡んでいる。
量は多くない。
ただ、少し嫌な絡み方だった。
「ここは慎重に」
リーネが言った。
「結界標が傾いています。無理に整えようとせず、周囲の濁りだけ」
「了解」
ボクは手を上げた。
その時。
馬の蹄の音がした。
林道の向こうから、複数の馬。
レオンが即座に振り向く。
ガルドが一歩前に出る。
リーネの表情が硬くなった。
「予定外ですね」
セレスが静かに言う。
蹄の音は近づいてくる。
やがて、林の向こうから数騎の騎馬と、小さな馬車が現れた。
先頭にいたのは、派手な外套をまとった若い男だった。
年は二十代半ばほど。
胸元には貴族家の紋章。
王都で何度か見たものではない。
だが、相手が貴族であることは、態度だけで分かった。
「ここにいたか」
男は馬上からこちらを見下ろした。
視線が、まっすぐボクへ向く。
「蒼銀の見習い浄化師とは、君だな」
空気が止まった。
レオンがすぐに前へ出る。
「現在、王都浄化師団の実地訓練中です。許可のない接近はご遠慮ください」
男はレオンを見た。
「護衛か。下がれ。私はローディン伯爵家の縁者、エリオット・ローディンだ」
ローディン。
その名に、リーネの表情がわずかに変わった。
貴族院で、蒼銀に関心を示していた家名。
ボクはそれを知らない。
でも、空気がよくないことは分かった。
「王都結界のため、蒼銀の適性を確認する必要がある」
エリオットは言った。
「訓練中なら都合がいい。こちらで用意した結界具に、少し光を通してもらおう」
「お断りします」
答えたのはリーネだった。
声は穏やかではなかった。
正式な浄化師の声。
「本日の訓練範囲に含まれていません。ルシェルさんへの追加発現要請は認められません」
「君に決定権があるのか?」
「現場責任者です」
「私は貴族院側から――」
「正式な通達書をお持ちですか」
リーネが遮った。
エリオットの顔が少し歪む。
「急ぎの確認だ」
「では、お断りします」
早い。
リーネは一歩も引かない。
セレスもボクの隣に立つ。
浄化について口を出すのは二人だけ。
そして今、二人が止めている。
レオンは剣には手をかけていない。
だが、いつでも動ける位置にいる。
ガルドは完全に壁だった。
馬の前に立つだけで、道が狭く見える。
「蒼銀は王都のために必要だ」
エリオットが言う。
「見習いが少し疲れる程度で、確認を遅らせる余裕はない」
その言葉で、手のひらが熱くなった。
怒りか。
蒼銀の反応か。
分からない。
見習いが少し疲れる程度。
その言い方が、胸の奥で硬く引っかかった。
リーネの声が低くなる。
「少し疲れる程度ではありません」
「ならば、蒼銀を持つ意味がない」
その瞬間、レオンの雰囲気が変わった。
剣は抜かない。
でも、目が冷えた。
ガルドの足が半歩前に出る。
セレスがボクの方を見ずに言う。
「ルシェル、今は発現しない」
短い。
指示。
「はい」
ボクは答えた。
「一回でいい、は今言わない」
自分で言って、少しだけ息を吐く。
手の熱が少し下がる。
リーネが続ける。
「本日の訓練は中止します」
「逃げるのか」
エリオットが馬上で笑った。
「蒼銀を囲って、何を隠している?」
その言葉と同時に、彼の後ろにいた従者が箱を開けた。
中から、黒く濁った結界具が見えた。
わざと持ってきた。
そう分かった。
訓練中の小さな濁りではない。
王都の管理外にある、濁った結界具。
それが開かれた瞬間、瘴気がふわりと漏れた。
馬が怯える。
林道の空気が重くなる。
手のひらが、強く熱くなった。
「閉じてください!」
リーネが叫ぶ。
エリオットは動じない。
「蒼銀なら、この程度――」
言い終わる前に、ガルドが動いた。
馬の前へ踏み込み、従者と箱の間に大盾を叩き込む。
箱が地面に落ちる。
蓋が半開きになり、さらに瘴気が漏れる。
レオンがボクの前へ入る。
「下がれ」
緊急時。
今度は、レオンが動く場面だった。
けれど、浄化に関する声は出さない。
リーネが即座に叫ぶ。
「ルシェルさん、発現しないで! セレス、遮断を!」
「はい!」
セレスが結界を張る。
薄い魔力の膜が、ボクと漏れた瘴気の間に立つ。
蒼銀は出たがっていた。
ものすごく。
目の前に濁りがある。
しかも、人為的に持ち込まれたもの。
馬が怯え、従者が咳き込み、森の空気が重くなる。
できる。
ボクなら払える。
そう思ってしまう。
でも。
「今は、リーネさんの指示だけ」
ボクは自分で言った。
雨雫を握る。
「今は、セレスとリーネさんだけ」
リーネがこちらを一瞬見た。
そして、頷いた。
「そのまま待機!」
「はい!」
リーネが箱へ向かう。
セレスは結界を保つ。
ガルドは従者を下がらせ、レオンはエリオットとボクの間に立つ。
エリオットが怒鳴った。
「邪魔をするな! 蒼銀を出せ!」
レオンは静かに言った。
「これ以上近づけば、王都浄化師団の訓練妨害および危険物持ち込みとして拘束する」
「護衛風情が」
「護衛です」
レオンの声は冷たい。
「だから、守ります」
リーネの浄化光が箱を包む。
蒼銀ではない。
水色の光。
だが、確実に瘴気を押さえ込んでいる。
セレスが補助し、箱の周囲に封じの膜を重ねる。
ボクは見ていた。
出さない。
出したくなる。
でも出さない。
蒼銀が手の奥で暴れる。
それを、握りしめる。
雨雫の角が指に当たる。
痛くない。
ただ、そこにある。
「待機も役割」
小さく言う。
誰に聞かせるでもなく。
自分へ。
ガルドが低く言った。
「そうだ」
緊急時だから、彼は言った。
その声が、地面みたいに重かった。
◇
箱の瘴気は、リーネとセレスによって封じられた。
完全な浄化ではない。
封印。
持ち帰り、王都で処理するための応急対応。
ボクは蒼銀を出さなかった。
一度も。
手はまだ熱い。
でも、光は出ていない。
エリオットの顔は怒りで赤くなっていた。
「貴様ら、自分たちが何をしているか分かっているのか」
リーネが封じられた箱の前に立つ。
「分かっています。危険物を訓練現場に持ち込み、見習い浄化師へ予定外の発現を強要しようとした行為を止めました」
「私は王都のために――」
「王都のためなら、王都の手続きを通してください」
リーネは一歩も引かなかった。
「本件は、浄化師団および結界局へ報告します」
レオンが言う。
「同行をお願いします」
「断る」
エリオットが吐き捨てる。
その瞬間、ガルドが馬車の進路を塞いだ。
大盾を構えている。
完全に道が塞がった。
「通れない」
短い。
圧がすごい。
セレスが静かに補足する。
「こちらには危険物があります。逃走されると、周辺への二次被害が出ます」
レオンはエリオットを見たまま言った。
「これは緊急時です。護衛として、あなた方を王都まで同行させます」
護衛が、守る。
ボクを。
訓練を。
そして、たぶんこの場そのものを。
エリオットは何か言おうとしたが、リーネの冷たい視線とガルドの盾を見て、言葉を飲み込んだ。
◇
帰りの馬車の中、ボクはほとんど喋らなかった。
手はまだ少し熱い。
蒼銀を出していないのに、疲れている。
いや、出さなかったから疲れているのかもしれない。
セレスが隣で聞く。
「手は?」
「熱い。でも引いてきた」
「気分は?」
「怒ってる。怖い。疲れた。出さなかった」
「うん」
リーネが向かいで言う。
「出さなくてよかったです」
「出したら、早かったかも」
「早かったでしょう。でも、相手の思う通りでした」
その言葉に、胸が少し冷えた。
相手の思う通り。
蒼銀を出させるために、濁った結界具を持ち込んだ。
事故ではない。
事件。
ボクの蒼銀関連の事件。
「ボクを試したかった?」
リーネは少し間を置いてから答えた。
「そう見えました」
「蒼銀を?」
「はい」
セレスが静かに言う。
「だから、出さなかったことに意味があるわ」
「待機の役割」
「ええ」
前の結界灯事故とは違う。
今回は、偶然ではない。
誰かが、ボクの蒼銀を出させようとした。
そのために、瘴気を持ち込んだ。
それが怖かった。
そして、腹が立った。
レオンとガルドは別の馬車で、エリオットたちを監視している。
浄化については言わない。
でも、護衛として動いている。
それが心強い。
「リーネさん」
「はい」
「次、同じことがあったら?」
「まず、私か正式浄化師が対応します。セレスさんが遮断。あなたは待機。必要な場合だけ、こちらから範囲を指定します」
「うん」
「ただし、危険が直接あなたへ向いた場合は、護衛が動きます」
「レオンとガルド」
「はい」
役割が分かれている。
浄化の指示は、リーネとセレス。
護衛は、レオンとガルド。
ボクは、蒼銀を持つ見習いで、正式な道を進み始めた浄化師。
でも、誰かの都合で光らされる道具ではない。
「……腹立つ」
小さく言うと、セレスが少し驚いた顔をした。
それから、柔らかく笑った。
「うん。怒っていいと思う」
「蒼銀、出さなかったけど、怒ってる」
「それでいいわ」
雨雫を握る。
保留猫を持ってくればよかった。
あのやる気のない顔が、今は少し欲しい。
でも、雨雫がある。
胸元に、小さな石。
ボクが名前をつけた石。
「王都に戻ったら」
ボクは言った。
「保留猫に報告する」
セレスが少し笑う。
「そうね」
リーネも、緊張の残る顔で少しだけ微笑んだ。
「それは大事かもしれません」
◇
王都へ戻ると、クラウスは門で待っていた。
早い。
早すぎる。
けれど、今回はその早さが頼もしかった。
報告を受けたクラウスの表情は、ほとんど変わらなかった。
ただ、目だけが少し冷たくなった。
「危険物持ち込み。訓練妨害。予定外発現の強要」
淡々と並べる。
「記録する」
「強く?」
ボクが聞くと、クラウスはこちらを見た。
「強く書く」
その一言だけで、少し救われた。
エリオットたちは別室へ連れて行かれた。
リーネとセレスは正式な報告へ向かう。
レオンとガルドは護衛記録を提出する。
ボクは、部屋へ戻された。
休め、ではなく。
戻された。
今日は、そのくらいでちょうどよかった。
◇
部屋に戻ると、枕元の小箱があった。
雨雫。
ミルの歯形。
保留猫。
ボクは保留猫を手に取った。
やる気のない顔。
世界の半分くらいしか参加していない顔。
「ただいま、保留猫」
言うと、猫は当然黙っていた。
「今日、蒼銀を出させようとされた」
猫は黙っている。
「でも、出さなかった」
猫は黙っている。
「怒ってる」
猫は黙っている。
その黙り方が、少しよかった。
セレスがあとから部屋に戻ってきて、静かに言う。
「リーネさんが、今日は面談なしで休養にすると」
「うん」
「クラウスさんは、かなり強く書くそうよ」
「聞いた」
「レオンとガルドは、少し遅くなるわ」
「うん」
ボクは保留猫を小箱に戻す。
雨雫の隣。
ミルの歯形の隣。
蒼銀ではないものたち。
ボクを蒼銀だけにしないものたち。
「セレス」
「なに?」
「ボク、正式な浄化師になる道を進んでるんだよね」
「ええ」
「でも、ああいう人から見たら、蒼銀なんだね」
セレスは少し黙った。
「そう見る人もいるわ」
「嫌だね」
「ええ」
「でも、出さなかった」
「ええ」
ボクは手を見る。
まだ少し熱が残っている。
でも、蒼銀は出ていない。
「今日のボク、見習い浄化師としては?」
セレスは静かに答えた。
「よく耐えた」
「正式な浄化師になる道としては?」
「大事な一歩だったと思う」
その言葉は、少し重かった。
でも、嫌ではなかった。
事件は起きた。
物語は進んだ。
王都の外で、蒼銀を出させようとする手が伸びてきた。
ボクは、そこで出さなかった。
それが、今日の一歩。
「保留猫」
ボクは小さく言った。
「名前、もう少し保留で」
木彫り猫は、やる気のない顔で黙っていた。
今は、その保留が少し羨ましかった。
まだ決めなくていいものがある。
決めずに置いておけるものがある。
それを見ながら、ボクはようやく息を吐いた。