TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第21話 綻びは静かに開く

 

 正式確認まで、あと二日。

 

 王都の朝は、いつも通りだった。

 

 鐘が鳴る。

 食堂から湯気が上がる。

 廊下の結界灯が淡く光る。

 窓の外に、外郭結界の薄い膜が見える。

 

 昨日より少しだけ、空が白い。

 

 けれど、それも王都では珍しくないらしい。

 

「おはよう、雨雫。おはよう、ミルの歯形。おはよう、保留猫」

 

 枕元の小箱に並んだ三つへ挨拶する。

 

 雨雫は黙っている。

 ミルの歯形も黙っている。

 保留猫は、やる気のない顔で半分だけ世界を見ている。

 

 今日も変わらない。

 

 それだけで、少し安心する。

 

「正式確認まであと二日です」

 

 ボクは保留猫に言った。

 

 保留猫は答えない。

 

「君は公開確認されないからいいね」

 

 やはり答えない。

 

 その無言が、今朝は少しだけ頼もしかった。

 

 セレスが隣で髪を結びながら笑う。

 

「今日も猫に相談?」

 

「猫は秘密保持能力が高い」

 

「木彫りだからね」

 

「あと、意見を押しつけてこない」

 

「それは大事ね」

 

「かなり」

 

 今日は外出なし。

 

 午前は休養。

 午後に、リーネと短い確認。

 夜は早めに休む。

 

 クラウスの予定表は相変わらず簡潔だった。

 

『二日前。

 浄化発現なし。

 休養中心。

 不安、疲労、違和感があれば報告。』

 

「違和感があれば報告、って書いてある」

 

 ボクが紙を見せると、セレスは頷いた。

 

「昨日の件があったからでしょうね」

 

「違和感って難しい」

 

「何となく嫌、でもいいわ」

 

「それも報告?」

 

「ええ」

 

「王都、ついに何となくも書類化」

 

「大事なことよ」

 

 何となく嫌。

 

 それを報告していい。

 

 そう言われても、実際に言えるかは別だ。

 

 何となくは、言葉になる前に消えてしまう。

 

 でも、紙に書かれていると、少しだけ捕まえやすい。

 

     ◇

 

 朝食は食堂で取った。

 

 今日は人が少ない時間を選んだ。

 

 配膳係の娘が、いつものようにスープを置いてくれる。

 

「今日は味、迷子になってませんか?」

 

「まだ道の上」

 

「よかったです」

 

「でも、道幅は細い」

 

「それは危ないですね。甘いもの、つけます?」

 

「つけます」

 

 小さな焼き菓子が一つ増えた。

 

 ガルドが隣で頷く。

 

「いい判断だ」

 

「甘いもの部門から承認された」

 

「食える時に食え」

 

「出た」

 

 レオンは食堂の入口側に座っている。

 

 セレスは隣。

 

 ガルドは背中側。

 

 配置はいつも通り。

 

 でも、今日は少しだけ視線が多かった。

 

 食堂の奥。

 窓際。

 配膳台のそば。

 

 露骨ではない。

 

 けれど、こちらを見て、すぐ逸らす人がいる。

 

 昨日までもあった。

 

 でも、今日は少し違う。

 

「見られてる」

 

 ボクが小さく言うと、セレスが視線を動かさずに答えた。

 

「ええ」

 

「噂?」

 

「たぶん」

 

「味が迷子になりそう」

 

「無理なら戻りましょう」

 

「まだ食べる」

 

「ええ」

 

 スープを一口飲む。

 

 味はある。

 

 迷子にはなっていない。

 

 ただ、視線のせいで少し薄く感じる。

 

 レオンは何も言わない。

 

 けれど、入口側に座る背中がいつもより硬い。

 

 ガルドはパンを割りながら、自然に視線を遮る位置へ椅子を少しずらした。

 

 浄化のことは口に出さない。

 

 でも、護衛の動きは静かにある。

 

 それも、もう分かる。

 

     ◇

 

 食後、廊下を歩いている時だった。

 

 結界灯が、ふっと瞬いた。

 

 一度だけ。

 

 青白い光が、細く揺れる。

 

 ボクは足を止めた。

 

「どうした?」

 

 レオンが聞く。

 

「今、灯りが揺れた」

 

 セレスがすぐに結界灯を見る。

 

 リーネではない。

 

 でも、セレスは魔術師として異常を見られる。

 

「……少しだけね」

 

「よくある?」

 

「古い灯りならある。でも、昨日点検したばかりのはず」

 

 レオンが廊下の先を見る。

 

 人通りは少ない。

 

 ガルドが後ろを確認する。

 

「戻るか」

 

 ボクは少し迷った。

 

 ただの瞬きかもしれない。

 

 でも、クラウスの紙には書いてあった。

 

 違和感があれば報告。

 

「報告する」

 

 言うと、レオンは頷いた。

 

「分かった」

 

 そのまま部屋へ戻り、セレスが職員を呼んだ。

 

 結界灯の担当者が来て確認すると、異常は見つからなかった。

 

「揺れた痕跡はありませんね」

 

 担当者は申し訳なさそうに言った。

 

「気のせいだったかも」

 

 ボクが言うと、セレスがすぐに首を横に振る。

 

「見えたのは事実よ」

 

 担当者も丁寧に頭を下げた。

 

「念のため交換しておきます。報告ありがとうございました」

 

 報告ありがとうございました。

 

 何もなかったのに。

 

 そう言われると、少し不思議だった。

 

「空振りでもいいの?」

 

 担当者が去ったあと、ボクが聞くと、レオンは答えた。

 

「空振りの方がいい」

 

「そういうもの?」

 

「ああ」

 

 ガルドも言う。

 

「当たってからでは遅い」

 

「今日の生活格言」

 

「事実だ」

 

 その通りだ。

 

 でも、胸の奥に小さな違和感が残った。

 

 結界灯の瞬き。

 

 一瞬だけだった。

 

 気のせいではない。

 

 でも、異常もない。

 

 何となく、布の裏側に指が触れたような感じ。

 

 表面には何も出ていない。

 

 けれど、どこかで糸がほつれている。

 

     ◇

 

 午前は部屋で休んだ。

 

 休んだ、というより、休むことになっていた。

 

 ボクは保留猫を机の上に置いて、しばらく眺めていた。

 

「保留猫、違和感ってどうやって報告する?」

 

 猫は黙っている。

 

「今の結界灯、嫌な感じだった」

 

 猫は黙っている。

 

「でも何もなかった」

 

 猫は黙っている。

 

「何もないのに嫌なの、面倒だね」

 

 猫は、相変わらずやる気のない顔だった。

 

 その顔を見ると、少し肩の力が抜ける。

 

 世界に全部反応しなくていい顔。

 

 今日はその顔を見習いたい。

 

 セレスは窓際で本を読んでいた。

 

 しかし、ページはあまり進んでいない。

 

 レオンは扉の外。

 

 ガルドは廊下の角。

 

 護衛の密度が上がっている。

 

 その事実も、部屋の空気を少し重くしていた。

 

「セレス」

 

「なに?」

 

「今日、静かだけど静かじゃないね」

 

 セレスは本を閉じた。

 

「そうね」

 

「何か起きそう?」

 

「分からない」

 

「分からないって言ってくれるの助かる」

 

「分からないことは、分からないもの」

 

「王都、分からないこと多い」

 

「ええ」

 

 外から、廊下を歩く足音が聞こえる。

 

 一人。

 二人。

 

 遠ざかる。

 

 また静かになる。

 

 静かなのに、静かではない。

 

     ◇

 

 午後、リーネが来た。

 

 予定通りの短い確認。

 

 ただし、彼女の顔も少し硬かった。

 

「今日、廊下の結界灯が揺れたと聞きました」

 

「うん。異常はなかったらしい」

 

「交換済みです。念のため、他の灯りも確認しています」

 

「リーネさんも変だと思う?」

 

「今の時期ですから、変だと思うことにします」

 

「疑い深い」

 

「必要な疑いです」

 

 リーネは椅子に座り、紙を出す。

 

 いつもの訓練確認ではない。

 

 今日は、正式確認へ向けた心身の確認だけ。

 

「手の熱は?」

 

「朝は少し。今は普通」

 

「蒼銀が出そうになる感じは?」

 

「ない」

 

「不安は?」

 

「ある」

 

「どんな不安?」

 

 ボクは少し考えた。

 

「正式確認も怖いけど、それより、誰かがまた勝手に何かするかもしれないのが嫌」

 

「はい」

 

「ボクがどうするかを決める前に、周りが勝手に蒼銀を出させようとするのが嫌」

 

「はい」

 

「今日の灯りも、何もなかったけど、そういうものに見えた」

 

 リーネは記録する。

 

 否定しない。

 

 それが少し助かる。

 

「正式確認の会場は、浄化師団の内側に変更しました」

 

「変更?」

 

「はい。より安全な部屋です。出入口は二つ。片方は護衛用。結界具は事前に全部確認します」

 

「また予定変更」

 

「嫌な変更ですか?」

 

「……安全なら、嫌ではない」

 

「分かりました」

 

 リーネはそれも書いた。

 

「正式確認の内容は変わりません。範囲指定、停止、引き継ぎ判断」

 

「うん」

 

「発現は最小限です」

 

「うん」

 

「口を出すのは、私とセレスさんだけ」

 

「うん」

 

「護衛は見守り。ただし緊急時は即時対応」

 

「うん」

 

 何度も確認する。

 

 同じことを繰り返す。

 

 それが今は必要だった。

 

     ◇

 

 リーネが帰ったあと、廊下の向こうでまた足音がした。

 

 今度は少し速い。

 

 レオンが扉の外で誰かと短く話している。

 

 声は低く、内容までは聞こえない。

 

 少しして、彼が部屋へ入ってきた。

 

「クラウスからだ」

 

 紙を渡される。

 

 簡単な連絡。

 

『貴族院側より、正式確認への立ち会い要請あり。拒否済み。

 館周辺の出入りを制限。

 不要な移動を控えること。

 違和感は継続して報告。』

 

「立ち会い要請、もう来たの」

 

「早いな」

 

 レオンの声は硬い。

 

「拒否済み」

 

「そうだ」

 

「また怒る?」

 

「怒るだろう」

 

「王都、怒る人が多い」

 

「そうだな」

 

 ガルドが部屋の外から言った。

 

「怒るなら外で怒ればいい」

 

「ガルド、正論が雑」

 

「中へ入れるな」

 

「強い」

 

 少し笑えた。

 

 でも、紙の文字は重い。

 

 立ち会い要請。

 

 拒否済み。

 

 出入り制限。

 

 不要な移動を控えること。

 

 だんだん、部屋の外が狭くなっていく。

 

     ◇

 

 夕方、食堂へ行く予定は取りやめになった。

 

 配膳係の娘が、部屋まで食事を運んできてくれた。

 

「今日は部屋食だそうです」

 

「王都の安全都合」

 

「みたいですね」

 

 彼女は少し心配そうな顔をしていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫ではないけど、食べる」

 

「それは大事です」

 

「ガルドみたいなこと言う」

 

「ガルドさんに教わりました」

 

「感染してる」

 

 配膳係の娘は小さく笑った。

 

 その笑いが、少しだけ普通だった。

 

 彼女が去ったあと、部屋で食事を取る。

 

 パン。

 スープ。

 少しの肉。

 甘い焼き菓子。

 

 ガルドは当然のように食事量を確認している。

 

「食え」

 

「食べてる」

 

「足りない」

 

「今日は圧が強い」

 

「明日も休むために食え」

 

「ガルド、休養にも食を絡める」

 

「動くにも休むにも食う」

 

「真理」

 

 レオンは食事中も扉側を気にしていた。

 

 セレスは窓を見ている。

 

 窓には警戒術。

 

 でも、外は普通の夕方だ。

 

 普通の夕方なのに、普通に見えない。

 

 そのことが、少し嫌だった。

 

     ◇

 

 夜になった。

 

 王都の鐘が鳴る。

 

 部屋の灯りを落とす前に、セレスが窓の術を確認した。

 

 レオンとガルドは、今日から二人とも近くにいる。

 

 交代ではなく、しばらく二人体制。

 

 少し大げさだ。

 

 でも、昨日までなら大げさと言えたものが、今日は言い切れない。

 

「保留猫」

 

 小箱の前で言う。

 

「今日は本当に保留したい日だった」

 

 猫は黙っている。

 

「正式確認まであと二日」

 

 猫は黙っている。

 

「何も起きないといいね」

 

 猫は黙っている。

 

 その時、廊下の結界灯が一斉に瞬いた。

 

 青白い光が、一度だけではない。

 

 二度。

 

 三度。

 

 そして、すぐ戻る。

 

 部屋の空気が凍った。

 

 レオンが扉へ向かう。

 

 ガルドがすでに立っていた。

 

 セレスが窓ではなく、部屋の四隅を見る。

 

「これは……」

 

 彼女の声が途中で止まった。

 

 壁に貼られていた警戒術の紙片が、一枚だけ黒く滲んでいた。

 

 外からではない。

 

 内側から。

 

「セレス?」

 

「術が、内側で揺れた」

 

「内側?」

 

 レオンが扉を開けないまま、外へ声をかける。

 

「異常は?」

 

 外の職員の声が返る。

 

「廊下灯が一時的に揺れました。確認中です」

 

 その声は少し遠い。

 

 廊下には人がいる。

 

 でも、なぜか遠く感じる。

 

 セレスがボクの前に立った。

 

「ルシェル、雨雫を持って」

 

「うん」

 

 手を伸ばす。

 

 雨雫を握る。

 

 保留猫が小箱の中で倒れた。

 

 かたん。

 

 小さな音。

 

 その音が妙に大きく聞こえた。

 

 次の瞬間、部屋の床に薄い紋様が浮かんだ。

 

 見たことのない紋様。

 

 王都の結界術式に似ている。

 

 けれど、違う。

 

 もっと歪んでいる。

 

 セレスが叫ぶ。

 

「転移陣!」

 

 レオンが一気に扉を開けようとする。

 

 だが、扉が開かない。

 

 ガルドが体当たりする。

 

 扉は軋むが、動かない。

 

 外からも声がする。

 

「扉が開きません!」

 

 内側から閉じ込められた。

 

 いや、部屋ごと切り離されている。

 

 床の紋様が青黒く光る。

 

 蒼銀ではない。

 

 濁った結界光。

 

 手のひらが熱くなる。

 

 反応している。

 

 でも、これは浄化対象ではない。

 

 術式。

 

 罠。

 

「ルシェル、出さないで!」

 

 セレスの声。

 

 でも、床の紋様がボクの足元へ伸びる。

 

 蒼銀に反応している。

 

 ボクを探している。

 

 雨雫を握る。

 

「出さない。出さない」

 

 けれど、手の奥が熱い。

 

 術式が、こちらの蒼銀に食いつくように輝く。

 

 レオンが剣を抜いた。

 

 緊急時。

 

 もう、見守りではない。

 

 彼は床の紋様を断とうと剣を振るう。

 

 だが、刃は光を裂けなかった。

 

 ガルドが盾を床へ叩きつける。

 

 衝撃で机が揺れ、小箱が落ちる。

 

 雨雫は手の中。

 

 ミルの歯形と保留猫が床へ転がる。

 

「保留猫!」

 

 思わず叫んだ。

 

 その瞬間、術式が強く光った。

 

 名前ではない。

 

 でも、声に反応した。

 

 セレスが振り返る。

 

「声を――」

 

 言い終わる前に、部屋の空気が歪んだ。

 

 身体が引かれる。

 

 床がなくなるような感覚。

 

 レオンがこちらへ手を伸ばす。

 

「ルシェル!」

 

 ガルドが盾を捨てるようにして踏み込む。

 

 セレスが腕を伸ばす。

 

 届きそうで、届かない。

 

 雨雫を握る指に力が入る。

 

 でも、足元の術式が先に動いた。

 

 視界が青黒く染まる。

 

 耳元で、誰かの声がした。

 

 知らない声。

 

「蒼銀、確保」

 

 冷たい言葉。

 

 その瞬間、王都の部屋が消えた。

 

     ◇

 

 レオンの手は、空を掴んだ。

 

 そこにいたはずのルシェルはいない。

 

 床の術式は焼け焦げたように消え、部屋には焦げた結界石の匂いだけが残った。

 

 小箱が床に落ちている。

 

 ミルの歯形が転がっている。

 

 保留猫が横倒しになっている。

 

 雨雫だけがない。

 

 ルシェルと一緒に消えた。

 

 セレスが膝をつき、床の術式跡へ手をかざす。

 

 顔が青ざめている。

 

「転移の残滓……王都式を偽装してる。でも、違う。外部からじゃない。館内のどこかを経由して……」

 

 レオンは扉へ向かった。

 

 今度は開いた。

 

 外の職員が倒れてはいない。

 

 ただ、廊下の灯りが全部揺れていた。

 

 クラウスが走ってくる。

 

 息を切らしている。

 

 彼が走るところを、誰も見たことがなかった。

 

「ルシェル氏は」

 

 レオンは答えた。

 

「攫われた」

 

 クラウスの顔から、色が消えた。

 

 リーネも遅れて駆け込んでくる。

 

 部屋を見て、床を見て、小箱を見て、息を呑んだ。

 

 ガルドが床に落ちた保留猫を拾い上げた。

 

 木彫り猫は、やる気のない顔のままだった。

 

 ただ、そこにルシェルはいない。

 

 レオンは剣を握ったまま、低く言った。

 

「探す」

 

 クラウスがすぐに顔を上げた。

 

「館を封鎖。全結界灯を停止。出入口を閉じろ。転移残滓を追う」

 

 リーネがセレスの横へ膝をつく。

 

「セレスさん、術式を見せて」

 

「はい」

 

 声が震えていた。

 

 でも、手は動いている。

 

 ガルドは保留猫を机に戻さず、掌に握った。

 

「これは残す」

 

 レオンが見る。

 

 ガルドは低く言った。

 

「あいつのものだ」

 

 誰も否定しなかった。

 

     ◇

 

 同じ頃。

 

 ルシェルは、冷たい石床の上で目を開けた。

 

 暗い。

 

 どこかの地下。

 

 湿った空気。

 

 古い結界具の匂い。

 

 手首が重い。

 

 身体がうまく動かない。

 

 けれど、右手には雨雫があった。

 

 強く握りしめたまま、離していなかった。

 

「……雨雫」

 

 声は掠れていた。

 

 返事はない。

 

 でも、そこにある。

 

 遠くで、扉の開く音がした。

 

 誰かが近づいてくる。

 

 複数人。

 

 知らない声。

 

「蒼銀は?」

 

「反応は抑えられている。だが、間違いない」

 

「ローディン様へ報告を」

 

 ルシェルは、雨雫を握った。

 

 手のひらは熱い。

 

 蒼銀が起きている。

 

 怖い。

 

 でも、まだ出さない。

 

 出したら、きっと相手の思う通りだ。

 

「……営業、しない」

 

 小さく呟いた。

 

 暗闇の中で、雨雫の角が指に触れる。

 

 保留猫はいない。

 

 ミルの歯形もない。

 

 レオンも、セレスも、ガルドもいない。

 

 リーネも、クラウスもいない。

 

 それでも、雨雫だけはある。

 

 働かない石。

 

 役に立たないはずの石。

 

 ボクを、蒼銀だけにしない石。

 

 ルシェルは、それを握ったまま、近づいてくる足音を聞いた。

 

 第一章の夜が、ここから始まった。

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