TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第22話 削られる名前

 

 最初に奪われたのは、時間だった。

 

 どれくらい眠ったのか。

 どれくらい意識を失っていたのか。

 今が朝なのか、夜なのか。

 

 何も分からない。

 

 地下らしい部屋には窓がなかった。

 

 壁は古い石。

 床も石。

 天井は低く、ところどころに古い結界灯が埋め込まれている。

 

 灯りは青白い。

 

 王都の館の結界灯に似ている。

 

 けれど、少し違う。

 

 光が濁っている。

 

 きれいな水に、薄い灰を混ぜたような色。

 

「……王都式の偽物」

 

 声に出してから、喉が痛いことに気づいた。

 

 叫んだ記憶はない。

 

 でも、転移の瞬間に声を出したのかもしれない。

 

 レオンが手を伸ばしていた。

 

 セレスが叫んでいた。

 

 ガルドが踏み込んでいた。

 

 保留猫が床に転がった。

 

 そこまでは覚えている。

 

 それから。

 

 暗い床。

 

 知らない声。

 

 蒼銀、確保。

 

 ボクは右手を握った。

 

 雨雫がある。

 

 それだけはある。

 

 紐は切れて、首からは外れていた。

 でも、転移の時に握っていたからか、右手の中に残っていた。

 

 灰青色の小さな石。

 

 役に立たない石。

 

 働かない石。

 

「雨雫」

 

 呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 それでいい。

 

 返事があったら、それはそれで怖い。

 

 ボクは体を起こそうとした。

 

 手首に違和感。

 

 右手ではない。

 

 左手首に、細い金属の輪がついている。

 

 鎖ではない。

 壁につながっているわけでもない。

 

 ただの輪。

 

 表面に細かな術式が刻まれている。

 

 手を動かすと、手の奥の蒼銀が少し鈍った。

 

「……抑制具」

 

 見習い浄化師でも分かる。

 

 浄化師の発現を鈍らせるもの。

 

 完全に封じるものではない。

 

 けれど、力の立ち上がりを遅くする。

 

 手のひらが熱い。

 

 でも、光は出ない。

 

 出ないというより、出そうとすると泥の中を歩くみたいに重い。

 

「営業妨害」

 

 言ってみる。

 

 声がかすれる。

 

 笑えない。

 

 でも、言わないと怖かった。

 

 怖い。

 

 かなり怖い。

 

 雨雫を握る。

 

「営業、しない。今はしない。相手の思う通りにしない」

 

 小さく繰り返す。

 

 手の奥の熱が少しだけ落ちる。

 

 その時、扉が開いた。

 

     ◇

 

 入ってきたのは、三人だった。

 

 一人は黒い外套の男。

 一人は灰色の服を着た女。

 もう一人は、記録係らしい若い男。

 

 誰も顔を隠していない。

 

 隠す必要がないと思っているのかもしれない。

 

 黒外套の男が、ボクを見下ろした。

 

「目が覚めたか」

 

 ボクは答えなかった。

 

 男は少しだけ笑った。

 

「安心していい。君を傷つけるつもりはない」

 

 その言い方が、一番信用できなかった。

 

 傷つけるつもりはない。

 

 そういう人ほど、たいてい別の名前で傷つける。

 

 確認。

 検査。

 保護。

 王都のため。

 

 昨日から、そういう言葉が増えすぎている。

 

「ルシェル・ノア」

 

 男が名前を呼んだ。

 

 身体が少し固まる。

 

 水鏡を思い出す。

 

 名前を呼ばれて、引かれた感覚。

 

 これは違う。

 

 でも、嫌だ。

 

「返事は?」

 

 男が聞く。

 

 ボクは雨雫を握った。

 

「見習い浄化師です」

 

 返事の代わりに、そう言った。

 

 男の眉が少し動く。

 

「そうか。では、見習い浄化師として協力してもらおう」

 

「嫌です」

 

 声は小さかった。

 

 でも、言えた。

 

 嫌です。

 

 その二文字で、少し息ができた。

 

 男はすぐには怒らなかった。

 

 代わりに、灰色の服の女へ目を向ける。

 

 女は手元の板に何かを書いた。

 

「拒否反応あり」

 

 記録係の男も書く。

 

 拒否反応。

 

 嫌です、ではなく。

 

 拒否反応。

 

 その言い換えが、少しだけ胸に刺さった。

 

 ボクの言葉が、症状みたいに扱われる。

 

「嫌です」

 

 もう一度言う。

 

 女は書く。

 

「拒否継続」

 

 ボクは口を閉じた。

 

 言葉を使うほど、相手の紙に吸われる。

 

 そんな感じがした。

 

 男が少し近づいた。

 

「君の蒼銀は、王都の結界に大きく寄与する可能性がある。正式な場では、周囲が過保護に囲い込んでいるようだが、こちらは君を正しく評価したいだけだ」

 

 正しく評価。

 

 まただ。

 

 正しい、という言葉の後ろで、何かが削られる。

 

「王都の正式確認があります」

 

 ボクは言った。

 

「二日後。非公開。浄化師団と結界局の正式手続きで」

 

「それでは遅い」

 

「遅くない」

 

「遅いかどうかを決めるのは、君ではない」

 

 その言葉で、喉が詰まった。

 

 君ではない。

 

 誰が決めるのか。

 

 蒼銀を欲しがる人たちか。

 

 王都の偉い人たちか。

 

 目の前の知らない男か。

 

「ボクの力です」

 

 なんとか言った。

 

「君の力であり、王都の資産になり得る力だ」

 

「資産じゃない」

 

「今はな」

 

 男は穏やかに言った。

 

 穏やかなのが、嫌だった。

 

「まずは確認する。手のひらに発現させろ」

 

「嫌です」

 

「小さくでいい」

 

「嫌です」

 

「見習いなら、指示に従う訓練も必要だ」

 

「あなたの指示は受けません」

 

 男の目が、初めて少し冷えた。

 

 女がまた書く。

 

「指示受容困難」

 

 違う。

 

 違う。

 

 ボクは、あなたの指示が嫌なだけだ。

 

 でも、それは紙にはならない。

 

 指示受容困難。

 

 言葉が削られる。

 

 ボクの意思が、扱いやすい記録に変えられていく。

 

 これが一つ目だと思った。

 

 尊厳は、一気に壊されるのではない。

 

 まず、言葉を言い換えられる。

 

     ◇

 

 次に奪われたのは、姿勢だった。

 

 座れ、と言われた。

 

 拒むと、灰色の服の女が別の言葉で言った。

 

「体力保持のためです」

 

 体力保持。

 

 それなら、断りにくい。

 

 立っているほどの余力もなかった。

 

 部屋の中央に椅子が置かれた。

 

 背もたれの硬い椅子。

 

 座る。

 

 左手の抑制具が重い。

 

 雨雫は右手に握ったまま。

 

 女がそれを見る。

 

「それを預かります」

 

 ボクの身体が固まった。

 

「嫌です」

 

「検査の邪魔になります」

 

「嫌です」

 

「危険物ではないか確認します」

 

「ただの石です」

 

「ならば確認しても問題ないでしょう」

 

 論理がずれている。

 

 ただの石だから、渡せる。

 

 ただの石だから、持っていていい。

 

 同じ言葉で、逆の結論へ持っていかれる。

 

 ボクは右手を胸元へ寄せた。

 

「これはボクのものです」

 

 男が言う。

 

「君自身の安全のためだ」

 

「ボクのものです」

 

「一時的に預かるだけだ」

 

「嫌です」

 

 また女が書く。

 

「私物への執着あり」

 

 執着。

 

 違う。

 

 大事にしている。

 

 ただ、それだけなのに。

 

 雨雫を大事にすることが、執着に変えられる。

 

 言葉がまた削られる。

 

 女が近づく。

 

 ボクは椅子から立とうとした。

 

 左手の抑制具が重く光る。

 

 身体がふらつく。

 

 男が言う。

 

「無理に動くな」

 

 女がボクの右手に触れようとした。

 

 瞬間、手の奥が熱くなった。

 

 蒼銀が出そうになる。

 

 でも、抑制具が重い。

 

 雨雫を握る。

 

 出さない。

 

 出したら、相手の思う通り。

 

「触らないで」

 

 声が出た。

 

 女の手が止まる。

 

 少しの沈黙。

 

 男が目を細めた。

 

「……その石が発現抑制に関与している可能性がある」

 

「違う」

 

 反射で言った。

 

 雨雫は魔法の道具じゃない。

 

 雨雫は、ただの石。

 

 レオンが買ってくれた、使わなくていいもの。

 

 ボクが名前をつけたもの。

 

 だから、落ち着く。

 

 それだけ。

 

「関与記録」

 

 女が書く。

 

「違う」

 

「観察上、握った直後に発現反応が低下」

 

「違う」

 

「石を回収」

 

「嫌です!」

 

 叫んだ。

 

 喉が痛んだ。

 

 男が少しだけ手を上げた。

 

「今日はよい。無理に回収するな」

 

 女は手を引いた。

 

 雨雫は残った。

 

 でも、残っただけだ。

 

 守れた感じはしなかった。

 

 雨雫をただの石として持つ権利が、相手の許可で一時的に残されたみたいだった。

 

 それが、悔しかった。

 

     ◇

 

 発現は、させられなかった。

 

 正確には、させなかった。

 

 男たちは何度か言葉を変えた。

 

「小さくでいい」

「痛みはない」

「王都のためだ」

「君の価値を証明する」

「協力すれば早く帰れる」

 

 どれも嫌だった。

 

 特に、早く帰れる、が嫌だった。

 

 帰りたい。

 

 すごく帰りたい。

 

 レオンとセレスとガルドがいる部屋へ。

 

 保留猫とミルの歯形がある小箱へ。

 

 食堂のスープへ。

 

 クラウスの紙へ。

 

 リーネの声へ。

 

 帰りたい。

 

 だからこそ、その言葉に乗ったらだめだと思った。

 

 ボクは雨雫を握り続けた。

 

「営業しない」

 

 何度も小さく言った。

 

 女は記録した。

 

「自己暗示様発言」

 

 もう、何でも記録される。

 

 でも、いい。

 

 紙の上でどう書かれても、ボクの中では違う。

 

 これは、勤務管理。

 

 蒼銀の休業宣言。

 

 ボクが決めるための言葉。

 

 誰かが決める前に、ボクが決めるための言葉。

 

「今日はここまでだ」

 

 男が言った。

 

 疲れていた。

 

 何もしていないのに。

 

 蒼銀も出していないのに。

 

 ただ、拒んで、握って、座っていただけで、体の芯が削られたように疲れた。

 

「次は、もう少し協力的であることを望む」

 

 協力的。

 

 嫌な言葉。

 

 ボクは答えなかった。

 

 答えなければ、何も紙にされないと思った。

 

 でも、女は書いた。

 

「沈黙」

 

 沈黙まで、記録された。

 

 扉が閉まる。

 

 鍵の音。

 

 部屋に一人。

 

 ボクは椅子から床へずるずると降りた。

 

 雨雫を握ったまま、石床に座る。

 

「……帰りたい」

 

 小さく言った。

 

 その言葉だけは、誰にも書かれなかった。

 

 たぶん。

 

     ◇

 

 王都の館では、夜が来なかった。

 

 いや、時間としての夜は来ていた。

 

 鐘も鳴った。

 食堂では夕食も出た。

 結界灯も灯った。

 

 けれど、ルシェルがいた部屋には、夜も朝も関係なく、人が出入りしていた。

 

 床の転移陣跡。

 結界灯の残滓。

 警戒術の滲み。

 扉に残った封鎖の痕。

 

 セレスは床に膝をついたまま、何度も術式を追っていた。

 

 目の下に影がある。

 

 リーネが横で補助する。

 

「ここ、王都式に見せかけていますが、接続が違います」

 

「館内の結界灯を経由した?」

 

「おそらく。朝に揺れた灯りが最初の試しだったのかもしれません」

 

 セレスの声が震えた。

 

「気づいたのに」

 

 リーネはすぐに言った。

 

「報告しました。交換もしました」

 

「でも、止められなかった」

 

「私たち全員です」

 

 セレスは唇を噛んだ。

 

 昨日、ルシェルは言った。

 

 違和感がある、と。

 

 結界灯が揺れた、と。

 

 ちゃんと報告した。

 

 なのに、攫われた。

 

 その事実が、セレスの胸を締めつけていた。

 

「雨雫がありません」

 

 リーネが小箱を見た。

 

 床に落ちていたものは、ミルの歯形と保留猫だけ。

 

 雨雫はない。

 

「持っていったのね」

 

 セレスが言う。

 

「握っていたから」

 

「それなら、少なくとも……」

 

 リーネは言いかけて、止めた。

 

 少なくとも、何か。

 

 安心材料になる。

 

 そう言いたかった。

 

 でも、それはあまりに小さい希望だった。

 

 雨雫はただの石だ。

 

 魔法具ではない。

 

 守護具ではない。

 

 ただ、ルシェルが大事にしているもの。

 

 だからこそ、今はそれが残ったことだけが救いのように思えた。

 

     ◇

 

 クラウスは、別室で指示を飛ばしていた。

 

 いつもの淡々とした声ではない。

 

 速い。

 

 短い。

 

 容赦がない。

 

「館を完全封鎖。出入り記録を過去三日分まで遡れ。結界灯の交換担当者を全員確認。ローディン家関連の出入りは別紙へ。貴族院への連絡はまだ出すな。浄化師団長へ先に回す」

 

 若い書記官が青い顔で筆を走らせる。

 

「転移先は」

 

「追跡中だ。残滓が薄い。館内中継を使われている」

 

「内部協力者が?」

 

 クラウスの手が止まった。

 

「可能性はある」

 

 部屋の空気がさらに冷えた。

 

 内部協力者。

 

 王都の館。

 

 保護のためにいた場所。

 

 その内側に、綻びがあったかもしれない。

 

 クラウスは机を軽く叩いた。

 

「全員を疑え。ただし、外へ漏らすな」

 

「はい」

 

「ルシェル氏の私物は?」

 

「雨雫のみ消失。他の木片と木彫り猫は残っています」

 

「雨雫を持っていったのか、本人が握っていたのか」

 

「おそらく後者です」

 

「なら、記録しておけ」

 

 書記官が一瞬迷う。

 

「記録、ですか」

 

「そうだ。本人が安心材料として扱う私物を保持している可能性あり」

 

 クラウスは目を伏せた。

 

「それが、今どれほど重要か分からないなら、書け」

 

「はい」

 

 クラウスは怒っていた。

 

 だが、その怒りを荒らす余裕はなかった。

 

 今必要なのは、怒鳴ることではない。

 

 追うこと。

 

 塞ぐこと。

 

 戻すこと。

 

 紙の上に情報を集め、矛盾を潰し、道を見つけること。

 

 書類の城壁は、破られた。

 

 なら、今度は書類で道を掘る。

 

     ◇

 

 レオンは、ルシェルの部屋の前に立っていた。

 

 剣は抜いていない。

 

 だが、誰も近づけなかった。

 

 廊下の職員が何度か通りかかり、そのたびに足早に去っていく。

 

 ガルドは部屋の中で、床に落ちていた保留猫を握っていた。

 

 しばらくして、レオンが入ってくる。

 

「ガルド」

 

「何だ」

 

「それは」

 

「ルシェルのものだ」

 

「ああ」

 

「落ちていた」

 

「ああ」

 

 ガルドの声はいつもより低かった。

 

 保留猫は、やる気のない顔のままだ。

 

 それが、かえって胸にくる。

 

 数日前、ルシェルはこの猫を買った。

 

 自分で選んだ。

 自分で払った。

 名前はまだ保留だと言っていた。

 

 その小さな選択の証拠が、今は床に落ちていた。

 

 ルシェルだけがいない。

 

「俺が扉を壊せていれば」

 

 ガルドが言った。

 

 レオンはすぐに否定しなかった。

 

 軽い慰めでは届かない。

 

「俺の剣も届かなかった」

 

「守れなかった」

 

「ああ」

 

 二人の間に、重い沈黙が落ちた。

 

 守るためにいた。

 

 見守るためにいた。

 

 緊急時には動くと決めていた。

 

 動いた。

 

 それでも、攫われた。

 

 その事実が、二人を静かに曇らせていく。

 

 レオンは机の上の小箱を見た。

 

 ミルの歯形。

 

 保留猫。

 

 雨雫の空いた場所。

 

「あいつは、雨雫を持っている」

 

 レオンが言った。

 

 ガルドが頷く。

 

「持っている」

 

「なら、まだルシェルだ」

 

 その言葉に、ガルドが顔を上げた。

 

 レオンは自分に言い聞かせるように続ける。

 

「蒼銀だけにされていない。まだ、雨雫を持っている」

 

 そう思うしかなかった。

 

 そうでなければ、足が止まりそうだった。

 

     ◇

 

 深夜、転移残滓の解析が進んだ。

 

 セレスとリーネ、そして結界局の技官が、薄い痕跡を追った。

 

 直接の転移先は隠されている。

 

 だが、中継された結界灯の一つに、王都北西区の古い貴族屋敷で使われる術式癖が残っていた。

 

 ローディン家の所有ではない。

 

 だが、ローディン家と縁の深い古い家の別邸。

 

 今は使われていないはずの屋敷。

 

「ここです」

 

 セレスが地図を指した。

 

 声は擦れていた。

 

 クラウスが確認する。

 

「確度は」

 

「七割。いえ、八割」

 

 リーネが続ける。

 

「地下に古い結界室がある可能性があります。蒼銀を試すには、外部から見えにくい」

 

 レオンはすぐに言った。

 

「行く」

 

 クラウスが顔を上げる。

 

「待て。令状と人員を――」

 

「待てない」

 

 声が低い。

 

 しかし、クラウスも引かなかった。

 

「無策で踏み込めば、移される。もしくは、彼女に何かさせられる」

 

 レオンの手が拳になる。

 

 ガルドが隣で言った。

 

「準備して行く」

 

 短い。

 

 だが、その通りだった。

 

 セレスが立ち上がる。

 

「私も行きます」

 

 リーネも頷く。

 

「私も。相手が蒼銀を発現させようとしているなら、浄化師が必要です」

 

 クラウスは一瞬だけ目を閉じた。

 

 そして、机の上に紙を叩きつけるように置いた。

 

「なら、正式な救出隊として行く。王都浄化師団、結界局、護衛。貴族院には事後報告だ」

 

 若い書記官が息を呑む。

 

「事後でよろしいのですか」

 

「今、彼らに話せば漏れる」

 

 クラウスの声は冷たかった。

 

「ルシェル・ノア氏を取り戻す。最優先だ」

 

     ◇

 

 その頃、地下室では、ルシェルが雨雫を握ったまま壁にもたれていた。

 

 眠れない。

 

 灯りは消えない。

 

 時間が分からない。

 

 左手の抑制具は重い。

 

 右手の中の雨雫だけが、まだ自分のものだった。

 

 扉の向こうで、足音がする。

 

 また誰かが来る。

 

 次は、何を削られるのだろう。

 

 言葉。

 姿勢。

 持ち物。

 

 次は、何。

 

 怖い。

 

 怖いけれど、蒼銀はまだ出していない。

 

 それだけを、心の中で数える。

 

「出してない」

 

 小さく言う。

 

「まだ、出してない」

 

 雨雫を握る。

 

 雨雫は答えない。

 

 でも、そこにある。

 

 扉が開く。

 

 青白い灯りが、さらに強くなる。

 

 黒外套の男が立っていた。

 

「休めたか」

 

 ルシェルは答えなかった。

 

 男は少しだけ笑った。

 

「次は、少し方法を変えよう」

 

 その言葉で、手の中の雨雫が冷たく感じた。

 

 夜は、まだ終わらない。

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