TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第24話 雨雫が砕ける日

 

 音が近づいていた。

 

 重いものが壊れる音。

 石の扉が軋む音。

 誰かが怒鳴る声。

 足音。

 

 来ている。

 

 誰かが、来ている。

 

 レオンかもしれない。

 ガルドかもしれない。

 セレスかもしれない。

 リーネかもしれない。

 

 違うかもしれない。

 

 でも、今はそう思わないと、息ができなかった。

 

「移す。今すぐだ」

 

 黒外套の男が言った。

 

 老人が抑制具に手を伸ばす。

 

 ルシェルは身体を引いた。

 

「嫌!」

 

 声が裂けた。

 

 蒼銀が跳ねる。

 

 左手首の抑制具が鈍く光り、手の奥の熱を押し潰すように重くなる。

 

 それでも、蒼銀は出ようとした。

 

 部屋の外で、また大きな音がした。

 

 近い。

 

 本当に近い。

 

 あと少し。

 

 あと少しで。

 

「ルシェル!」

 

 聞こえた。

 

 確かに聞こえた。

 

 扉の向こう、石壁の向こう、遠いのに、まっすぐ届いた声。

 

 レオンの声。

 

 ルシェルは顔を上げた。

 

「レオン!」

 

 叫んだ瞬間、床の術式が開いた。

 

 青黒い光。

 

 嫌な結界式。

 

 王都式に似せた、歪んだ転移陣。

 

 セレスが前に言っていた。

 

 転移陣。

 

 足元が沈む。

 

 老人が抑制具を掴む。

 黒外套の男が腕を引く。

 灰色の女が記録板を抱える。

 

 ルシェルは雨雫を握った。

 

 強く。

 

 強く。

 

 手のひらが痛むほどに。

 

 扉が砕ける音がした。

 

 眩しい光が差し込む。

 

 誰かが踏み込む気配。

 

 でも、遅かった。

 

 ほんの、少しだけ。

 

「嫌だ、待って、待って!」

 

 ルシェルの声は転移光に呑まれた。

 

 最後に見えたのは、剣を抜いたレオンの顔だった。

 

 怒りでも、焦りでもなく。

 

 何かが崩れる寸前の顔。

 

 そして、世界が消えた。

 

     ◇

 

 次に落とされた場所は、さらに暗かった。

 

 同じ地下ではない。

 

 空気が違う。

 

 古い石と湿気。

 金属。

 薬草。

 濁った結界具の匂い。

 

 ルシェルは床に膝をついた。

 

 吐きそうだった。

 

 転移の揺れで、身体の中身がずれたみたいだった。

 

 右手には雨雫。

 

 まだある。

 

 まだ、ある。

 

「……雨雫」

 

 呼ぶ。

 

 石は答えない。

 

 答えないのに、そこにある。

 

 それだけで、ルシェルは息をした。

 

 しかし、すぐに腕を掴まれた。

 

 黒外套の男ではない。

 

 別の者。

 

 白い作業衣のような服を着た男と女が数人。

 

 その動きは、荒々しくはなかった。

 

 むしろ、淡々としていた。

 

 だから余計に怖かった。

 

「対象、転移後意識あり」

 

「抑制具、作動継続」

 

「蒼銀反応、不安定」

 

 対象。

 

 ルシェルではない。

 

 見習い浄化師でもない。

 

 対象。

 

「やめて」

 

 言った。

 

 誰も止まらなかった。

 

「やめてください」

 

 丁寧に言っても、止まらなかった。

 

 白衣の女が言う。

 

「身体状態を確認します。抵抗しないでください」

 

「嫌です」

 

「確認です」

 

「嫌です」

 

「記録。身体検査への拒否あり」

 

 また、記録。

 

 嫌です、が拒否になる。

 

 怖い、が項目になる。

 

 ルシェルは雨雫を握った。

 

「触らないで」

 

「安全確認です」

 

「触らないで」

 

「蒼銀と身体状態の関連を確認します」

 

 蒼銀と身体。

 

 その言葉が、嫌な冷たさで肌に触れた。

 

「浄化師には女性が多い。蒼銀はさらに稀だ。身体的特徴との関係を調べる必要がある」

 

 老人の声だった。

 

 先ほどの地下室にいた老人。

 

 彼は、ルシェルを見ていない。

 

 見ているのは、蒼銀だった。

 

 身体を通して蒼銀を見ている。

 

「嫌」

 

 ルシェルは言った。

 

「嫌です」

 

 誰も怒鳴らない。

 

 誰も殴らない。

 

 ただ、淡々と進む。

 

 それが怖かった。

 

 怖いと言っても、止まらない。

 

 嫌だと言っても、止まらない。

 

 身体の状態が確認される。

 

 瞳の色。

 肌の色。

 女性的身体特徴。

 痕。

 皺。

 骨格。

 呼吸。

 反応。

 

 具体的な言葉は、ルシェルの耳に入ってはこぼれた。

 

 理解したくなかった。

 

 自分の身体が、自分のものではなくなっていく。

 自分のものではないかのように見られ、触られ、確認される。

 記録されるたびに、少しずつ遠くなる。

 

「瞳、暗灰。蒼銀発現時、縁に反応なし」

 

「皮膚反応、過敏。羞恥様あり。」

 

「抑制具接触部、発現遅延あり」

 

「女性的特徴と発現強度の相関、要継続観察」

 

 ルシェルは泣いていた。

 

 いつから泣いていたのか分からない。

 

 声を出さないようにしていた。

 

 でも、涙は勝手に落ちた。

 

「涙あり」

 

 白衣の女が書いた。

 

 涙あり。

 

 それだけ。

 

 なぜ泣いているのかは、書かれない。

 

 怖いから。

 嫌だから。

 触られたくないから。

 自分の身体を、自分のものとして扱ってほしいから。

 

 それは書かれない。

 

 涙あり。

 

 それだけが残る。

 

     ◇

 

 王都の古い別邸で、レオンの剣は空を切った。

 

 転移光が消えたあと、そこには誰もいなかった。

 

 石床に、焦げた術式跡だけが残っている。

 

 レオンは一歩踏み込んだまま、動けなかった。

 

 今、声が聞こえた。

 

 ルシェルの声。

 

 自分の名を呼んだ。

 

 届いた。

 

 間に合ったと思った。

 

 それなのに、目の前で消えた。

 

「レオン!」

 

 セレスが叫ぶ。

 

 彼女は床へ膝をつき、残滓を追う。

 

 指先が震えている。

 

「まだ追えます。薄いけど、まだ……」

 

 リーネが隣へ滑り込む。

 

「転移先は?」

 

「複数中継されています。地下水路、古い結界支柱、北の外壁……違う、また偽装……!」

 

 セレスの声が崩れそうになる。

 

 クラウスが背後で怒鳴る。

 

「全員、屋敷を封鎖! 術式媒体を押収しろ! 記録係を逃がすな!」

 

 ガルドは、倒れていた灰色の服の男を押さえつけていた。

 

 その男は震えながら言う。

 

「知らない、私は中継の準備だけで」

 

 ガルドの手に力が入る。

 

 レオンが振り向いた。

 

「ガルド」

 

 低い声。

 

 ガルドは止まった。

 

 押さえつけるだけに戻す。

 

 殺してはいけない。

 

 今は、情報がいる。

 

 クラウスが男の前にしゃがむ。

 

 その顔は、紙のように白く、目だけが冷たかった。

 

「どこへ移した」

 

「知らない、本当に」

 

「誰が主導した」

 

「ローディン家ではない、いや、関係はあるが、直接では」

 

「名前を言え」

 

 男は震えた。

 

 クラウスは続ける。

 

「今言えば、君は証人だ。黙れば共犯だ」

 

 その声には、書類の余地がなかった。

 

 男は、ようやく一つの名を吐いた。

 

 古い浄化研究会。

 

 王都結界局の外縁にいた者たち。

 

 蒼銀の再現を目指して、過去に解散させられた研究派閥。

 

 ローディン家は、彼らに資金と場所を与えていた。

 

 クラウスの顔が、さらに冷えた。

 

「……まだ残っていたのか」

 

 リーネが振り返る。

 

「まさか、旧処置棟系統ですか」

 

 クラウスは答えなかった。

 

 答えないことが答えだった。

 

     ◇

 

 ルシェルは椅子に座らされていた。

 

 座っているというより、座らされている。

 

 背中が冷たい。

 

 手首が重い。

 

 身体が震えている。

 

 雨雫はまだ右手にある。

 

 ただし、白衣の女がずっとそれを見ている。

 

 嫌な予感がした。

 

 老人が言った。

 

「次に、瘴気反応素材を確認する」

 

「素材?」

 

 誰かが聞いた。

 

 老人は淡々と答える。

 

「髪。血。爪。涙。蒼銀発現者の身体由来のものが、瘴気にどの程度反応するか」

 

 ルシェルは息を止めた。

 

 雨雫を握る手が強張る。

 

「嫌です」

 

 声はほとんど出なかった。

 

「少量だ」

 

「嫌です」

 

「研究用だ」

 

「嫌です」

 

「記録。採取拒否」

 

 採取。

 

 その言葉で、身体の奥が冷えた。

 

 白衣の女が近づく。

 

 手には小さな道具。

 

 具体的には見たくなかった。

 

 見ない。

 

 床を見る。

 

 でも、逃げられない。

 

 髪に触れられる。

 

 ルシェルは肩を跳ねさせた。

 

「やめて」

 

「動かないでください」

 

「嫌、やめて、お願い」

 

「記録。接触時、強い拒否。涙増加」

 

 誰かが髪を束ねる。

 

 何かが擦れる音。

 

 重さが変わる。

 

 頭の後ろが急に軽くなる。

 

 肩口に、切られた髪の先が触れた。

 

 長かった髪が、肩のあたりで途切れている。

 

 ルシェルは声が出なかった。

 

 髪そのものより、何かが勝手に決められたことが苦しかった。

 

 自分の形が、相談もなく変えられた。

 

「採取完了。長さ、肩口程度まで短縮」

 

 白衣の女が書く。

 

 短縮。

 

 違う。

 

 切られた。

 

 奪われた。

 

 でも、紙には短縮と残る。

 

 次に、別の採取が行われた。

 

 痛みは小さかった。

 

 けれど、痛みの大小ではなかった。

 

 身体から何かが取られ、小さな容器に入れられる。

 

 それが、研究のためと言われる。

 

 ルシェルは泣いた。

 

 声を出さないようにしても、喉から小さな音が漏れた。

 

「血液採取時、蒼銀反応微弱」

 

「髪束、瘴気近接で淡反応」

 

「涙、反応不明。要再検」

 

「対象、震えあり」

 

 対象。

 

 対象。

 

 対象。

 

 ルシェルではない。

 

 ルシェル・ノアではない。

 

 ボクではない。

 

「ボクは」

 

 声が出た。

 

 誰も止まらなかった。

 

「ボクは、ものじゃない」

 

 老人が少しだけこちらを見た。

 

「もちろん、人だ。だから記録している」

 

 違う。

 

 そういうことではない。

 

 そういうことでは、ない。

 

     ◇

 

 救出隊は、二つ目の拠点へ向かっていた。

 

 夜を越え、朝が来て、また夜が近づいた。

 

 攫われてから、すでに一日以上が経っている。

 

 クラウスは眠っていない。

 

 セレスもほとんど眠っていない。

 

 リーネは無理やり薬湯を飲み、また術式解析へ戻った。

 

 レオンは、会話が減った。

 

 必要なことだけを言う。

 

 それ以外は、前を見ている。

 

 ガルドは食料を配る。

 

「食え」

 

 セレスに言う。

 

「今は」

 

「食え」

 

 リーネにも言う。

 

「私は大丈夫です」

 

「大丈夫ではない。食え」

 

 クラウスにも差し出す。

 

「時間が」

 

「食え」

 

 その短い圧に、全員が少しずつ食べた。

 

 ルシェルがいたら笑っただろう。

 

 食料部門が強い、と。

 

 だが、笑う者はいなかった。

 

 ガルドは自分も食べながら、内袋の保留猫を確認した。

 

 木彫り猫は、変わらない顔をしている。

 

 それが腹立たしいほど、いつも通りだった。

 

 だが、そのいつも通りを持って帰らなければならない。

 

 ルシェルへ。

 

 そのために、進む。

 

     ◇

 

 二日目。

 

 三日目。

 

 ルシェルは、時間を数えられなくなっていた。

 

 眠ったと思ったら起こされる。

 

 水を飲む。

 

 記録される。

 

 質問される。

 

 拒否する。

 

 記録される。

 

 沈黙する。

 

 記録される。

 

 泣く。

 

 記録される。

 

 髪は短いまま。

 

 触れるたびに、誰かの手を思い出して身体が震える。

 

 左手首の抑制具は外れない。

 

 右手の雨雫だけが、まだある。

 

 しかし、それも見られ続けていた。

 

「石への依存が強い」

 

「発現抑制の心理的支柱か」

 

「除去時反応を確認する必要あり」

 

 嫌な言葉が聞こえる。

 

 除去。

 

 雨雫を。

 

「嫌」

 

 呟く。

 

 誰も聞いていないふりをする。

 

 四日目。

 

 誰かが、ルシェルに数字を聞いた。

 

「名前は?」

 

 ルシェルは黙った。

 

 名前を答えたくなかった。

 

 この人たちの紙に、自分の名前を載せたくなかった。

 

「名称応答なし」

 

 記録。

 

「役割は?」

 

 役割。

 

 浄化師。

 

 見習い浄化師。

 

 ルシェル・ノア。

 

 どれを言っても、削られそうだった。

 

 だから黙った。

 

「役割応答なし」

 

 記録。

 

「蒼銀発現者か?」

 

 ルシェルは雨雫を握る。

 

 黙る。

 

「蒼銀への応答なし」

 

 記録。

 

 何も言わなくても、紙にされる。

 

 それでも、言わない方がまだ少しだけ守れる気がした。

 

     ◇

 

 五日目。

 

 王都側は、ようやく三つ目の拠点を突き止めた。

 

 だが、そこは空だった。

 

 焦げた結界陣。

 捨てられた容器。

 切られた灰銀の髪が、床にわずかに残っていた。

 

 セレスはそれを見た瞬間、膝から崩れかけた。

 

 リーネが支える。

 

 レオンは動かなかった。

 

 動けなかった。

 

 ガルドが一歩前に出て、床の髪を布で包んだ。

 

 誰も何も言わなかった。

 

 クラウスが震える声を押し殺して言う。

 

「証拠として保全」

 

 その言葉を言うこと自体が、彼には苦痛だった。

 

 証拠。

 

 ルシェルの髪が、証拠になっている。

 

 リーネの目から涙が落ちた。

 

 しかし、彼女は拭わなかった。

 

「生きています」

 

 セレスが言った。

 

 声が震えている。

 

「ここに、蒼銀の反応があります。弱いけれど、消えていない。移動しています」

 

 レオンがようやく言った。

 

「追う」

 

 その一言だけだった。

 

     ◇

 

 六日目。

 

 雨雫が取られた。

 

 きっかけは、些細なものだった。

 

 ルシェルが眠りかけた時。

 

 右手の力が少し緩んだ。

 

 白衣の女が、静かに指を入れた。

 

 気づいた時には、雨雫が手の外にあった。

 

「返して」

 

 声が出た。

 

 久しぶりに、はっきりと。

 

「返して!」

 

 手を伸ばす。

 

 抑制具が重く光る。

 

 身体が椅子に戻される。

 

「返して、返して、雨雫、返して!」

 

 声が壊れる。

 

 女は記録する。

 

「私物除去により激しい反応」

 

 老人が雨雫を手に取る。

 

「これが支柱か」

 

「返して!」

 

「ただの石に見える」

 

「ただの石です! だから返して!」

 

「ただの石なら、壊しても問題はない」

 

 時間が止まった。

 

 ルシェルは息を忘れた。

 

「やめて」

 

 声が小さくなる。

 

「やめてください」

 

 老人は雨雫を濁った結界具の上に置いた。

 

 薄い黒灰の靄が、石にまとわりつく。

 

 灰青色が濁る。

 

「やめて」

 

 小さな道具で、石の表面が削られた。

 

 かり、と音がした。

 

 ルシェルの中で、何かが裂けた。

 

「やめて、やめて、お願い、返して、雨雫、雨雫、やめて!」

 

 もう言葉にならなかった。

 

 幼い子どものような声が出た。

 

 みっともないとか、恥ずかしいとか、考えられなかった。

 

 ただ、雨雫が汚されている。

 

 削られている。

 

 ボクが名前をつけた石が。

 

 働かない石が。

 

 使わなくていいからよかった石が。

 

 レオンが買ってくれた石が。

 

 ボクを蒼銀だけにしない石が。

 

「返してえ!」

 

 老人は淡々と観察していた。

 

「反応上昇」

 

 白衣の女が記録する。

 

「涙、叫声、姿勢保持困難」

 

 石が、さらに削られる。

 

 そして、細い音を立てて割れた。

 

 雨雫が、二つに欠けた。

 

 その瞬間。

 

 ルシェルの中で、堰が切れた。

 

 蒼銀が爆ぜたわけではない。

 

 むしろ逆だった。

 

 力を出すことも、抑えることも、全部が壊れた。

 

 ただ泣いた。

 

 幼子のように。

 

 床に崩れ、手を伸ばし、言葉にならない声で喚いた。

 

「やだ、やだ、あめ、あめしずく、かえして、やだ、やだあ!」

 

 誰かが身体を押さえる。

 

 誰かが抑制具を確認する。

 

 誰かが記録する。

 

「決壊。私物破壊により感情制御不能」

 

「蒼銀発現、乱れあり。強発現には至らず」

 

「言語、幼児化傾向」

 

「対象、床上で泣叫」

 

 雨雫の欠片が、濁った台の上にあった。

 

 ルシェルの手は届かない。

 

 届かない。

 

 届かない。

 

 それが、六日目だった。

 

     ◇

 

 七日目。

 

 ルシェルは、ほとんど言葉を失っていた。

 

 問いかけられても、答えない。

 

 時々、雨雫、とだけ呟く。

 

 雨雫は壊れた。

 

 欠片は回収され、研究用の小皿に置かれている。

 

 返されない。

 

 髪は肩口で揺れ、見るたびに知らない誰かのようだった。

 

 左手首は重い。

 

 蒼銀は奥で濁ったように眠っている。

 

 いや、眠っていない。

 

 動けない。

 

 ルシェルは床に座り、膝を抱えていた。

 

 白衣の女が記録する。

 

「七日目。反応低下。自発発話減少」

 

「私物名の反復あり」

 

「発現要求への反応鈍化」

 

「食事摂取少量」

 

 ルシェルは聞いていない。

 

 聞こえているけれど、意味が遠い。

 

 レオン。

 

 セレス。

 

 ガルド。

 

 リーネ。

 

 クラウス。

 

 名前を思い出す。

 

 でも、声に出すと取られそうで怖い。

 

 だから、口の中だけで呼ぶ。

 

 保留猫。

 

 ミルの歯形。

 

 雨雫。

 

 雨雫。

 

 雨雫。

 

 壊れた。

 

 ボクが守れなかった。

 

     ◇

 

 王都側は、七日目の深夜に最後の転移先を突き止めた。

 

 王都外縁、旧処置棟。

 

 かつて浄化師の研究施設として使われ、事故後に封鎖された場所。

 

 記録上は廃棄済み。

 

 しかし、地下区画の一部が生きていた。

 

 クラウスが地図を広げる。

 

「八日目の明朝に踏み込む。夜間は相手の結界が強い。明朝、外郭結界の切り替わりで隙ができる」

 

「待つのか」

 

 レオンの声は低かった。

 

「待たなければ、また逃げられる」

 

「もう七日だ」

 

「分かっている」

 

 クラウスの声が割れた。

 

「分かっている!」

 

 部屋が静まる。

 

 クラウスは息を整えた。

 

「……だから、次で終わらせる」

 

 セレスは黙って術式を見ている。

 

 目は赤い。

 

 リーネは浄化具を確認している。

 

 手が震えていた。

 

 ガルドは保留猫を内袋に入れたまま、盾を持った。

 

「連れて帰る」

 

 彼は言った。

 

 誰も返事をしなかった。

 

 返事をする必要はなかった。

 

     ◇

 

 八日目の明朝。

 

 空が白む直前。

 

 旧処置棟の地下で、ルシェルは目を開けていた。

 

 眠れなかった。

 

 雨雫の欠片は、少し離れた小皿に置かれている。

 

 手を伸ばしても届かない。

 

 届かない距離に置かれている。

 

 わざとだ。

 

「……あめ」

 

 声が出た。

 

 それだけ。

 

 その時、遠くで鐘のような音がした。

 

 王都の外郭結界が切り替わる音。

 

 老人が顔を上げる。

 

「時間か」

 

 白衣の女が記録板を持つ。

 

 黒外套の男が扉の方を見る。

 

 次の瞬間。

 

 建物全体が揺れた。

 

 今までで一番大きな音。

 

 外部結界が破られる音。

 

 続いて、足音。

 

 複数。

 

 速い。

 

 迷いがない。

 

 誰かが叫んだ。

 

「王都浄化師団だ! 全員動くな!」

 

 ルシェルは顔を上げた。

 

 何が起きているのか、すぐには分からなかった。

 

 でも、白衣の女が慌てた。

 

 老人が術式具へ手を伸ばした。

 

 黒外套の男がルシェルを見る。

 

「移す――」

 

 その言葉は最後まで続かなかった。

 

 扉が砕けた。

 

 朝の光ではない。

 

 剣の閃き。

 

 盾の衝撃。

 

 浄化光。

 

 結界解除の音。

 

 レオンがいた。

 

 ガルドがいた。

 

 セレスがいた。

 

 リーネがいた。

 

 後ろにクラウスもいた。

 

 ルシェルは、最初、それを現実だと分からなかった。

 

 夢かと思った。

 

 何度も想像したから。

 

 でも、レオンが名前を呼んだ。

 

「ルシェル」

 

 蒼銀ではなく。

 

 対象でもなく。

 

 役割でもなく。

 

 ルシェル。

 

 その一言で、ルシェルの顔が歪んだ。

 

 声が出ない。

 

 涙だけが出た。

 

 セレスが駆け寄る。

 

 触れる前に止まる。

 

「ルシェル、セレスよ。触っていい?」

 

 ルシェルは答えられない。

 

 ただ、小さく頷いた。

 

 セレスの手が、震えながら背中に触れた。

 

 優しい手だった。

 

 記録する手ではない。

 

 調べる手ではない。

 

 戻す手だった。

 

 ルシェルは、崩れるように泣いた。

 

「……あめ、しずく」

 

 かすれた声で言う。

 

 セレスが小皿を見る。

 

 欠けた雨雫。

 

 リーネの表情が凍る。

 

 ガルドが無言でその欠片を回収した。

 

 レオンは黒外套の男を見た。

 

 剣を握る手が震えている。

 

 それでも、斬らなかった。

 

 斬らずに、低く言った。

 

「拘束しろ」

 

 クラウスが前へ出る。

 

 声は冷たかった。

 

「全員、王都法および浄化師保護規定違反で拘束する」

 

 老人が何か言おうとした。

 

 クラウスは遮った。

 

「黙れ」

 

 その一言に、部屋が凍った。

 

     ◇

 

 ルシェルは、セレスの腕の中で震えていた。

 

 髪は肩口で途切れている。

 手首には抑制具。

 顔には涙の跡。

 瞳は焦点が合いきらない。

 

 けれど、生きている。

 

 そこにいる。

 

 レオンは膝をついた。

 

 近づきすぎない距離で。

 

「ルシェル」

 

 もう一度呼ぶ。

 

 ルシェルの唇が震える。

 

「れおん」

 

「ああ」

 

「……おそい」

 

 その言葉は、責めるようでもあり、甘えるようでもあり、ただの事実のようでもあった。

 

 レオンは顔を歪めた。

 

「ああ。遅かった」

 

 ルシェルは泣いた。

 

 幼い子どものように。

 

 言葉にならない声で。

 

 セレスが抱きしめる。

 

 リーネが抑制具を解除する準備をする。

 

 ガルドが内袋から保留猫を取り出し、ルシェルの見える場所に置いた。

 

「持ってきた」

 

 ルシェルの目が、かすかに動く。

 

 保留猫。

 

 やる気のない顔。

 

 世界の半分くらいしか参加していない顔。

 

 ルシェルの口元が、泣きながら少しだけ歪んだ。

 

「……ほりゅ、う、ねこ」

 

「ああ」

 

 ガルドは短く頷いた。

 

「帰るぞ」

 

 その言葉に、ルシェルはまた泣いた。

 

 八日目の明朝。

 

 ルシェル・ノアは、ようやく見つかった。

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