TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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間話 奪還する者たち

 

 八日目の明朝、旧処置棟の空は白かった。

 

 夜明け前の冷えた空気。

 草の湿り気。

 遠くで切り替わる王都外郭結界の低い振動。

 

 その音を合図に、クラウスは懐中時計を閉じた。

 

「今だ」

 

 声は小さかった。

 

 だが、その場にいた全員が動いた。

 

 王都浄化師団の外套が、まだ暗い敷地を走る。

 結界局の技官が、封鎖用の杭を四方へ打ち込む。

 リーネが術式封じの札を展開する。

 セレスが両手で結界の継ぎ目を探る。

 ガルドが大盾を構え、正面扉へ向かう。

 

 レオンは、一番前にいた。

 

 剣はまだ抜いていない。

 

 抜けば、踏み込みたくなる。

 踏み込めば、崩すかもしれない。

 

 今は、崩してはいけない。

 

 ここまで七日かかった。

 

 長すぎた。

 

 あまりに長すぎた。

 

 だが、次に逃がせば、もう追えないかもしれない。

 

 レオンは息を殺し、セレスの合図を待った。

 

「正面扉、罠あり」

 

 セレスが低く言う。

 

「転移ではない。足止め。触れた者を結界で絡める術です」

 

「解除は」

 

「三呼吸ください」

 

 彼女の声は掠れていた。

 

 眠っていない声だった。

 

 それでも、指先は正確に動いている。

 

 リーネが隣で補助する。

 

「右の継ぎ目を押さえます」

 

「お願いします」

 

 一呼吸。

 二呼吸。

 三呼吸。

 

 セレスが顔を上げた。

 

「今」

 

 ガルドが前に出た。

 

 大盾を扉へ叩きつける。

 

 古い木と結界補強が、鈍い音を立てて割れた。

 

 その音で、旧処置棟の朝が壊れた。

 

     ◇

 

 中は暗かった。

 

 廃棄されたはずの施設。

 

 だが、通路の結界灯は生きていた。

 

 青白い光が、壁沿いに点々と灯っている。

 

 その色を見て、リーネの顔が硬くなった。

 

「濁っています」

 

「全部か」

 

 クラウスが聞く。

 

「はい。ここ全体が、古い術式で覆われています」

 

 クラウスは即座に指示を出す。

 

「灯りには触れるな。技官、記録。リーネ殿、浄化は最小限。セレスさん、転移の兆候を優先して見てください」

 

「はい」

 

 レオンは通路の奥を見る。

 

 人の声はない。

 

 だが、空気が動いている。

 

 誰かがいる。

 

 ルシェルがいる。

 

 そう思った瞬間、足が先に出そうになった。

 

 ガルドが肩を掴む。

 

 強い力だった。

 

「まだだ」

 

 レオンは歯を食いしばった。

 

「ああ」

 

 分かっている。

 

 分かっているのに、身体が先へ行こうとする。

 

 七日。

 

 あの子が、七日間ここにいたかもしれない。

 

 その事実だけで、頭の中が白くなる。

 

 けれど、ガルドの手が肩にある。

 

 重い。

 

 地面みたいに重い。

 

 それが、レオンを辛うじて止めていた。

 

     ◇

 

 最初の部屋には、誰もいなかった。

 

 代わりに、机があった。

 

 紙束。

 器具。

 小さな容器。

 記録板。

 封じられた結界具。

 

 クラウスが部屋を見た瞬間、表情を消した。

 

「全て押収」

 

 声は静かだった。

 

 静かすぎて、怒鳴るより怖かった。

 

 若い書記官が震える手で記録する。

 

「この部屋は」

 

 リーネが紙束の一枚を見て、息を止めた。

 

 そこには、ルシェルの名がなかった。

 

 代わりに、こう書かれていた。

 

『蒼銀対象』

 

 リーネの手が震える。

 

「……対象」

 

 セレスがその言葉を見て、顔を歪めた。

 

 クラウスは紙を受け取り、目を通す。

 

 喉の奥で、何かを押し殺したような息が漏れた。

 

「今は読まない」

 

 彼は言った。

 

「全部持ち帰る。ここで止まるな」

 

 その通りだった。

 

 ここで怒りに足を取られてはいけない。

 

 でも、紙の一語が全員の胸に沈んだ。

 

 蒼銀対象。

 

 ルシェルではない。

 

 ルシェル・ノアではない。

 

 見習い浄化師ですらない。

 

 それが、この場所の呼び方だった。

 

 レオンは剣の柄に手を置いた。

 

 まだ抜かない。

 

 まだ。

 

     ◇

 

 地下へ続く階段で、最初の抵抗があった。

 

 白い作業衣の男が二人、術式具を抱えて逃げようとしていた。

 

 ガルドが一歩で前へ出る。

 

 盾の縁で通路を塞ぎ、男たちの進路を消す。

 

「止まれ」

 

 短い声。

 

 男の一人が術式具を起動しようとした。

 

 レオンが動いた。

 

 剣が抜かれる。

 

 術式具だけを弾き飛ばす。

 

 刃は男に触れない。

 

 だが、床に落ちた術式具は、真っ二つに割れていた。

 

「抵抗すれば拘束する」

 

 レオンの声は低い。

 

 男は腰を抜かした。

 

 もう一人が叫んだ。

 

「私たちは命令されただけだ!」

 

 クラウスが前へ出る。

 

「誰に」

 

「研究長に、ローディン家の――」

 

「名前を言え」

 

 男は答えた。

 

 その名を、書記官が記録する。

 

 クラウスは続ける。

 

「ルシェル・ノア氏はどこだ」

 

「地下二層、観察室。いや、今朝、移す準備を――」

 

 レオンの息が止まった。

 

 移す。

 

 また。

 

 セレスが顔を上げる。

 

「急いでください。下で転移準備の反応があります」

 

 今度は、誰も止まらなかった。

 

 ガルドが先頭で階段を下りる。

 

 レオンが続く。

 

 セレス、リーネ、クラウスが後ろ。

 

 足音が、石の階段に響いた。

 

     ◇

 

 地下二層の扉は、分厚い石でできていた。

 

 普通の施設の扉ではない。

 

 外から入る者を防ぐ扉。

 

 中にいる者を逃がさない扉。

 

 セレスが触れる前に、扉の表面が青黒く光った。

 

「転移封じではなく、転移準備です」

 

「中から逃げるためか」

 

 クラウスが問う。

 

「はい。もう起動しかけています」

 

 リーネが前に出る。

 

「私が濁りを押さえます。セレスさん、術式の芯を」

 

「はい」

 

 レオンは扉の向こうを見た。

 

 見えるはずがない。

 

 それでも、声が聞こえた気がした。

 

 嫌だ、と。

 

 小さな、かすれた声。

 

 実際に聞こえたのか、頭の中で作ったのかは分からない。

 

 でも、レオンはもう待てなかった。

 

「何呼吸だ」

 

 セレスが歯を食いしばる。

 

「二呼吸」

 

「一呼吸にしろ」

 

「やります」

 

 リーネの浄化光が扉を包む。

 

 蒼銀ではない。

 

 けれど、確かな水色の光。

 

 濁った術式が少し緩む。

 

 セレスが両手を押し当てる。

 

「今!」

 

 ガルドが盾を構えた。

 

 レオンも剣を振るう。

 

 盾の衝撃と剣の軌跡が重なる。

 

 石扉が砕けた。

 

     ◇

 

 中にいた者たちは、驚愕していた。

 

 黒外套の男。

 白衣の女。

 老人。

 数人の研究員。

 

 そして、部屋の奥。

 

 椅子の近くに、ルシェルがいた。

 

 肩口で途切れた髪。

 左手首の抑制具。

 焦点の合いきらない瞳。

 頬に乾いた涙の跡。

 床に投げ出された細い身体。

 

 レオンは、一瞬、息を忘れた。

 

 七日前に見たルシェルではなかった。

 

 でも、ルシェルだった。

 

 ルシェル・ノアだった。

 

 黒外套の男が叫ぶ。

 

「移せ!」

 

 老人が術式具へ手を伸ばす。

 

 セレスが叫ぶ。

 

「転移陣、足元!」

 

 リーネが即座に浄化光を走らせる。

 

「セレスさん、右側を!」

 

「はい!」

 

 浄化の指示は二人だけ。

 

 約束は、こんな場面でも守られた。

 

 レオンは老人へ向かった。

 

 ガルドは黒外套の男を壁へ押し込む。

 

 クラウスが背後で怒鳴る。

 

「記録係を逃がすな! 術式具を押収!」

 

 老人の手が術式具に触れる寸前、レオンの剣がそれを砕いた。

 

 金属片が床へ散る。

 

 老人が叫ぶ。

 

「貴様、王都の未来を――」

 

 レオンは答えなかった。

 

 剣の柄で老人の手元を打ち、膝を崩させる。

 

 斬らない。

 

 斬りたい衝動を、歯を食いしばって押さえる。

 

 ルシェルを戻す。

 

 今は、それが先だ。

 

     ◇

 

 セレスはルシェルの前で止まった。

 

 駆け寄りたかった。

 

 抱きしめたかった。

 

 けれど、止まった。

 

 七日間、何をされたか分からない。

 

 突然触れれば、それも怖いかもしれない。

 

 だから、膝をついた。

 

 視線を低くする。

 

「ルシェル」

 

 名前を呼ぶ。

 

 蒼銀ではなく。

 対象ではなく。

 役割ではなく。

 

 ルシェル。

 

 少女の瞳が、わずかに動いた。

 

 セレスの方へ向く。

 

 焦点が合うまで、少し時間がかかった。

 

「……せ、れす」

 

 声は、ほとんど息だった。

 

 セレスの胸が裂けそうになる。

 

 それでも、声を乱さないようにする。

 

「セレスよ。触ってもいい?」

 

 ルシェルはすぐには答えられなかった。

 

 唇が震える。

 

 小さく、小さく頷く。

 

 それを確認してから、セレスは手を伸ばした。

 

 背中に触れる。

 

 骨が分かるほど細い。

 

 服越しなのに、身体が震えているのが分かる。

 

「もう、記録しない」

 

 思わず、そう言っていた。

 

 ルシェルの瞳が揺れる。

 

「ここでは、あなたを記録しない。戻ろう」

 

 ルシェルの顔が崩れた。

 

 声にならない泣き声。

 

 セレスはそっと抱き寄せる。

 

 リーネが抑制具を確認する。

 

「外します。ルシェルさん、今から左手首の輪に触れます」

 

 ルシェルの身体が強く震えた。

 

 リーネはすぐに手を止める。

 

「触っていいですか」

 

 返事はない。

 

 ルシェルは泣いている。

 

 セレスが囁く。

 

「リーネさんよ。外すため。嫌なら待つ」

 

 ルシェルは必死に息を吸った。

 

 そして、ほとんど聞こえない声で言った。

 

「……とって」

 

 リーネの目に涙が浮かんだ。

 

「はい」

 

 彼女は抑制具へ術式をかける。

 

 無理に壊さない。

 

 丁寧に、丁寧に外す。

 

 金属の輪が外れた瞬間、ルシェルの手が落ちた。

 

 蒼銀は出なかった。

 

 ただ、身体から大きな力が抜けた。

 

     ◇

 

 ガルドは、部屋の奥の小皿を見つけた。

 

 そこに、欠けた灰青色の石があった。

 

 濁りに汚れ、表面が削られ、二つに割れている。

 

 雨雫。

 

 彼は一瞬、何も言えなかった。

 

 これを見せてはいけないと思った。

 

 でも、隠してもいけないと思った。

 

 これはルシェルのものだ。

 

 壊されても、ルシェルのものだ。

 

 ガルドは布を取り出し、欠片を慎重に包んだ。

 

 大きな手に似合わないほど、ゆっくりと。

 

 その横で、リーネが息を呑んだ。

 

「それは……」

 

「持って帰る」

 

 ガルドは言った。

 

「壊れていても」

 

 リーネは唇を噛んで頷いた。

 

「はい」

 

 ガルドはさらに、内袋から保留猫を出した。

 

 やる気のない顔の木彫り猫。

 

 ルシェルの視界に入る位置へ置く。

 

「持ってきた」

 

 短い言葉。

 

 ルシェルの泣き声が、少しだけ変わった。

 

 彼女の瞳が、猫へ向く。

 

「……ほりゅ、ねこ」

 

「ああ」

 

 ガルドは頷く。

 

「帰るぞ」

 

 その言葉で、ルシェルはさらに泣いた。

 

 子どものように。

 

 でも、それは地下で記録された泣き方とは違った。

 

 誰かに届いている泣き声だった。

 

     ◇

 

 クラウスは、黒外套の男の前に立っていた。

 

 男は拘束されている。

 

 それでも、まだ言い訳をしようとした。

 

「これは王都のための研究だ。蒼銀の価値を正しく――」

 

「黙れ」

 

 クラウスは一言で切った。

 

 いつものクラウスなら、相手に喋らせた。

 

 言質を取るために。

 記録するために。

 逃げ道を塞ぐために。

 

 だが、今はその声をルシェルに聞かせたくなかった。

 

 王都のため。

 研究。

 価値。

 確認。

 

 それらの言葉が、この部屋でどれほど汚されたのか、彼は床に散らばる記録で理解していた。

 

 若い書記官が、押収物を確認している。

 

 手が震えている。

 

 クラウスは彼へ言った。

 

「全部持ち帰れ」

 

「はい」

 

「ただし、ルシェル氏の前で読み上げるな」

 

「はい」

 

「この場で分類するな」

 

「はい」

 

 それから、クラウスは部屋の全員へ告げた。

 

「本施設を王都結界局および浄化師団の共同管理下に置く。関係者は全員拘束。押収物は封印。負傷者確認後、撤収」

 

 声は事務的だった。

 

 だが、その事務性は、今度は守るためにあった。

 

 この部屋で勝手に名づけられ、記録され、削られたものを、これ以上ここに置かないために。

 

     ◇

 

 レオンは、セレスに抱えられたルシェルの前で膝をついた。

 

 近づきすぎない。

 

 剣はしまっている。

 

 手は見える位置に置く。

 

「ルシェル」

 

 彼女がゆっくり顔を向ける。

 

 目が赤い。

 

 焦点が揺れている。

 

 髪が短い。

 

 その事実が、胸を刺した。

 

 だが、顔に出しすぎてはいけない。

 

 彼女をこれ以上、傷つけたくない。

 

「遅くなった」

 

 言うと、ルシェルの唇が震えた。

 

「……おそい」

 

「ああ」

 

「おそい」

 

「ああ」

 

「おそい、よ」

 

 言葉が幼く崩れている。

 

 責めているのか、泣いているのか、分からない。

 

 たぶん、どちらでもある。

 

 レオンは頷いた。

 

「遅かった。すまない」

 

 謝るしかなかった。

 

 言い訳はない。

 

 探していた。

 必死だった。

 間に合わなかった。

 

 全部、事実だ。

 

 でも、彼女の七日間の前では、どれも小さい。

 

「帰ろう」

 

 レオンは言った。

 

「王都の館へ。セレスもいる。ガルドもいる。リーネも、クラウスもいる。保留猫も持ってきた」

 

 ルシェルの目から、また涙がこぼれた。

 

「……あめ、しずく」

 

 レオンは息を止めた。

 

 ガルドが布包みを見せる。

 

「ある」

 

 ルシェルの視線がそこへ動く。

 

 欠けていることは、もう分かっている。

 

 それでも、ある。

 

 壊れていても、取り戻した。

 

 ルシェルは手を伸ばそうとして、途中で止まった。

 

 触るのが怖いのかもしれない。

 

 もう一度壊れるのが怖いのかもしれない。

 

 ガルドは無理に渡さず、布包みをセレスの近くへ置いた。

 

「持って帰る」

 

 それだけ言った。

 

     ◇

 

 撤収は慎重に行われた。

 

 ルシェルは歩けなかった。

 

 セレスが支え、リーネが結界で周囲の刺激を遮る。

 

 レオンとガルドが前後を守る。

 

 クラウスが進路を確保する。

 

 誰も急かさない。

 

 急ぎたい。

 

 今すぐここから出したい。

 

 だが、急かさない。

 

 この七日間、彼女は嫌だと言っても進められた。

 

 だから今は、一つずつ聞く。

 

「立てますか」

 

 小さく首を振る。

 

「抱えてもいい?」

 

 長い沈黙のあと、小さく頷く。

 

 ガルドが前へ出かけたが、ルシェルの身体が震えた。

 

 ガルドはすぐに止まる。

 

 セレスが聞く。

 

「私が抱える?」

 

 ルシェルはセレスの服を掴んだ。

 

 それが答えだった。

 

 セレスは静かに抱き上げる。

 

 軽かった。

 

 あまりに軽かった。

 

 セレスは泣きそうになったが、泣かなかった。

 

 今は、腕を震わせてはいけない。

 

 ルシェルを落とさない。

 

 それだけを考える。

 

 旧処置棟の外へ出ると、朝の光があった。

 

 白い光。

 

 八日目の明朝。

 

 ルシェルは目を細めた。

 

 外の空気が入る。

 

 その瞬間、彼女はセレスの胸元に顔を隠した。

 

 眩しかったのか、怖かったのか、分からない。

 

 セレスはただ、背中に手を添えた。

 

「外よ」

 

 小さく言う。

 

「外に出たわ」

 

 ルシェルは泣いた。

 

 声は小さい。

 

 それでも、地下の泣き声とは違った。

 

     ◇

 

 帰路の馬車には、余計な人を乗せなかった。

 

 ルシェル。

 セレス。

 リーネ。

 

 そして、布に包まれた雨雫の欠片と、保留猫。

 

 レオンとガルドは外で護衛についた。

 

 クラウスは別馬車で拘束者と押収物を管理する。

 

 馬車が動き出す。

 

 ルシェルはセレスに寄りかかったまま、ほとんど目を閉じていた。

 

 時々、震える。

 

 そのたびに、セレスは確認する。

 

「ここにいるわ」

 

 リーネが水を差し出す時も、必ず聞いた。

 

「飲みますか。無理なら置きます」

 

 ルシェルは小さく頷く時もあれば、動かない時もあった。

 

 動かない時は、置いた。

 

 誰も無理に飲ませない。

 

 誰も記録板を目の前に出さない。

 

 リーネは必要な医療記録を、ルシェルから見えない位置で最低限だけ書いた。

 

 名前を一番上に書いた。

 

『ルシェル・ノア』

 

 対象ではない。

 

 蒼銀ではない。

 

 ルシェル・ノア。

 

 それだけは、最初に書いた。

 

     ◇

 

 レオンは馬車の外を走る護衛馬の上で、前を見ていた。

 

 守れなかった。

 

 その言葉は消えない。

 

 見つけた。

 

 取り戻した。

 

 それでも、守れなかった七日間は消えない。

 

 だが、今はその罪悪感に沈む時間ではない。

 

 馬車の中に、ルシェルがいる。

 

 彼女は生きている。

 

 戻る道の途中にいる。

 

 なら、守る。

 

 今度こそ。

 

 ガルドが隣を走る。

 

 彼も何も言わない。

 

 ただ、時折、馬車の窓を見る。

 

 中は見えない。

 

 それでも見る。

 

 レオンは低く言った。

 

「帰るまでが旅だったな」

 

 ガルドが少しだけ顔を向ける。

 

「ああ」

 

「あいつが言うだろうか」

 

「今は言わない」

 

「そうだな」

 

「いつかでいい」

 

 いつか。

 

 その言葉が、今は遠い。

 

 だが、必要だった。

 

 いつか、またルシェルが変な言葉で返してくる日。

 

 保留猫に話しかける日。

 

 ガルドに「食料部門」と言う日。

 

 レオンに「真面目剣士」と言う日。

 

 その日が来るかどうかは、分からない。

 

 でも、来るように守る。

 

 今度は、時間をかけて。

 

     ◇

 

 王都の門が見えた時、クラウスは初めて深く息を吐いた。

 

 終わってはいない。

 

 むしろ、ここからが始まりだ。

 

 ローディン家。

 旧研究派閥。

 内部協力者。

 押収記録。

 貴族院への対応。

 そして、ルシェルの保護と回復。

 

 やるべきことは山ほどある。

 

 だが、まず一つ。

 

 ルシェル・ノアを王都へ戻した。

 

 彼女を、蒼銀対象ではなく、ルシェル・ノアとして。

 

 それだけは、取り戻した。

 

 クラウスは書類束を抱え直した。

 

 紙は、人を削るためにも使われる。

 

 この七日間、それを思い知らされた。

 

 ならば、今度は紙で戻す。

 

 名前を戻す。

 意思を戻す。

 嫌だったことを、嫌だったこととして残す。

 涙を、ただの涙ありで終わらせない。

 

 彼は、最初の一文を頭の中で決めていた。

 

『ルシェル・ノア氏は、本人の同意なく拉致され、蒼銀発現を目的とした不当な取扱いを受けた。以下の記録は、本人の尊厳回復と加害事実の立証のために作成する。』

 

 対象ではない。

 

 研究材料ではない。

 

 ルシェル・ノア氏。

 

 そこから始める。

 

     ◇

 

 館へ着くと、食堂の配膳係の娘が廊下の端にいた。

 

 職員に止められて、それ以上近づけない。

 

 彼女は泣いていた。

 

 それでも、声を出さなかった。

 

 ルシェルが刺激されないように。

 

 セレスに抱えられたルシェルが通る。

 

 肩口で切れた髪。

 小さく震える身体。

 閉じかけた瞳。

 

 配膳係の娘は、両手で口を押さえた。

 

 そして、小さく、本当に小さく言った。

 

「おかえりなさい」

 

 ルシェルが反応したかは分からない。

 

 でも、セレスはその言葉を聞いた。

 

 リーネも聞いた。

 

 レオンも、ガルドも、クラウスも聞いた。

 

 おかえりなさい。

 

 それは、記録ではなかった。

 

 検査でも、確認でもなかった。

 

 ただ、戻ってきた人へ向ける言葉だった。

 

 セレスはルシェルを抱え直し、静かに答えた。

 

「ただいま」

 

 ルシェルの代わりに。

 

 今はまだ、彼女が言えないから。

 

 間話 ルシェル奪還。

 

 これは、奪い返した日の記録である。

 

 ただし、取り戻すべきものは、まだいくつも残っている。

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