TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
一日目 昏睡
ルシェル・ノアは、王都の館へ戻ってきたあと、一度も目を覚まさなかった。
医務室の奥、結界を柔らかく落とした部屋。
窓には厚い布がかけられ、灯りは最低限に抑えられている。
廊下の結界灯も、一時的に別系統のものへ交換された。
人の出入りは、医務担当、リーネ、セレス、クラウス、そして護衛のレオンとガルドに限定された。
ルシェルは寝台の上で眠っていた。
眠っている、というより、身体が意識を閉じているようだった。
呼吸はある。
熱も高くはない。
けれど、何度呼びかけても反応は薄い。
肩口で途切れた髪。
左手首に残った抑制具の痕。
泣き腫らした目元。
握るものを失った右手。
セレスは、その右手を見つめていた。
触れていいか聞くこともできない。
彼女は眠っている。
許可を取れない。
だから、セレスは寝台の横に座り、触れずに名前だけを呼んだ。
「ルシェル」
反応はない。
「帰ってきたわ」
反応はない。
「ここは王都の館よ。セレスがいる。レオンも、ガルドも、リーネさんも、クラウスさんもいる」
反応はない。
ただ、呼吸だけが小さく続いている。
ガルドは部屋の隅に立ち、布に包まれた雨雫の欠片と、保留猫を小さな箱に入れていた。
雨雫は、欠けていた。
汚れはリーネが慎重に払ったが、削られた跡は戻らない。
元の灰青色は、ところどころ曇っていた。
それでも、ガルドは欠片を捨てなかった。
壊れていても、ルシェルのものだから。
保留猫は、その隣に置かれた。
相変わらず、やる気のない顔をしている。
レオンは窓際に立っていた。
剣を外している。
医務室に武器を持ち込む必要はない、と言われたからだ。
だが、空の腰が落ち着かない。
何も守れなかった腰だった。
クラウスは扉の外で、誰にも聞こえない声で書記官に指示を出していた。
「本人の許可なく、詳細な身体記録を読み上げるな」
「押収資料は封印。分類は私とリーネ殿の立ち会いで行う」
「加害者側の用語を、そのまま使用するな。『対象』ではない。必ず氏名で記せ」
書記官が頷く。
クラウスは一度だけ医務室の中を見た。
昏睡するルシェル。
その小さな身体を見て、表情を消した。
怒りも、悔恨も、今は紙の上へ押し込めるしかなかった。
第一日。
ルシェルは眠り続けた。
誰も、起こそうとはしなかった。
今は、意識を閉じることすら、彼女の身体が選んだ避難なのだと、全員が理解していた。
◇
二日目 目覚め
二日目の昼過ぎ、ルシェルは目を開けた。
最初に気づいたのはセレスだった。
彼女は椅子から身を起こし、すぐに近づきすぎない距離で止まった。
「ルシェル」
名前を呼ぶ。
少女の瞳は、ぼんやりと天井を見ていた。
焦点が合わない。
まるで、今いる場所がどこなのか、身体がまだ判断していないようだった。
「ルシェル、セレスよ。ここは王都の館。医務室」
ルシェルの唇が小さく動いた。
声は出ない。
セレスは水を差し出そうとして、止まった。
「水、飲む?」
ルシェルは水の入った杯を見た瞬間、身体を小さく縮めた。
セレスはすぐに杯を下げた。
「置くわね。飲まなくていい」
その言葉に、ルシェルの瞳が少しだけ揺れた。
飲まなくていい。
それを理解するのに、時間がかかっているようだった。
リーネが呼ばれた。
医務担当も来た。
だが、全員が距離を取った。
記録板は見えない位置に置かれた。
クラウスの指示だった。
ルシェルはしばらく無言だった。
やがて、小さな声が漏れた。
「あめ」
セレスの胸が詰まった。
「雨雫ね」
ガルドが箱を持ってきた。
だが、すぐに渡さなかった。
壊れている。
見せれば、また崩れるかもしれない。
リーネが静かに言う。
「今は、保留猫を先に」
ガルドは頷き、保留猫だけを寝台の横に置いた。
ルシェルの視線がゆっくり動く。
木彫り猫を見る。
やる気のない顔。
世界の半分くらいしか参加していない顔。
ルシェルの目に涙が浮かんだ。
「ほ、りゅ」
「保留猫だ」
ガルドが言った。
「持ってきた」
ルシェルは手を伸ばそうとして、途中で止まった。
自分の手を見て、怖がるように引っ込める。
セレスは言った。
「触ってもいい。触らなくてもいい」
ルシェルはしばらく迷い、やがて震える指先で保留猫に触れた。
ほんの少し。
それだけで、涙がこぼれた。
「ねこ」
「ええ。猫よ」
「ほりゅ、ねこ」
「うん」
言葉は幼かった。
記憶も混ざっていた。
そのあと、ルシェルはレオンを見て「おそい」と言い、次に「どこ」と言い、次に「かえる」と言った。
文脈はつながらない。
現在と、地下と、救出の瞬間が入り混じっている。
レオンは膝をつき、低く答えた。
「帰ってきた。ここにいる」
「おそい」
「ああ。遅かった」
「かえる」
「ああ。もう帰っている」
「やだ」
「ここでは、嫌と言っていい」
その言葉に、ルシェルは泣いた。
泣き方は幼かった。
声も、呼吸も、十数歳の少女のそれではない。
もっと小さな子どもが、怖かったことを言葉にできずに泣くような泣き方だった。
医務担当は記録した。
ただし、クラウスが後で文面を直した。
『目覚め後、記憶混濁あり。幼児退行様の反応。加害環境から帰還したことの確認を繰り返し要する』
決して、対象とは書かせなかった。
◇
三日目 蒼銀という言葉
三日目の朝、ルシェルは短く眠って、短く起きることを繰り返した。
起きるたびに、同じ確認が必要だった。
「ここは?」
「王都の館」
「だれ」
「セレスよ」
「ねこ」
「ここにある」
「レオン」
「扉の外にいる」
「ガルド」
「いる」
「リーネ」
「いるわ」
誰かの名前を確かめる。
物の位置を確かめる。
ここが地下ではないことを確かめる。
それだけで、かなりの力を使っているようだった。
午後、事件は起きた。
医務担当の一人が、うっかり言ったのだ。
「蒼銀反応は落ち着いています」
その瞬間、ルシェルの身体が跳ねた。
目が見開かれる。
呼吸が乱れる。
右手が何かを探すように空を掴む。
「ちがう、しない、しない、えいぎょうしない、やだ、やだ」
声が幼く崩れる。
セレスがすぐに近づき、しかし触れる前に声をかける。
「ルシェル、ここでは出さなくていい。出さない。今は何もしない」
「しない、しない、あお、やだ」
蒼銀という言葉を言えない。
聞くことにも耐えられない。
リーネの顔が青ざめた。
「その語を、本人の前で使わないでください」
医務担当はすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません」
ルシェルは泣きながら保留猫を掴んだ。
掴むというより、縋るように。
セレスは繰り返した。
「ここでは出さない。誰も求めない。ここでは休む」
レオンは扉の外で、その声を聞いていた。
拳を握りしめる。
入っていきたい。
だが、今はセレスとリーネが対応している。
浄化に関すること、発現に関することは、二人が口を出す。
そう決めた。
だから、レオンは扉の外で待った。
待つことが、これほど苦しいとは思わなかった。
ガルドは隣に立ち、低く言った。
「待つ」
レオンは目を閉じた。
「ああ」
中で、ルシェルが泣いている。
それでも、待つ。
それが三日目だった。
以降、医務室内ではその語を避けることが決められた。
必要な時は、リーネとセレスだけが、本人の状態を見ながら慎重に扱う。
クラウスは記録に書いた。
『特定語への強い恐怖反応あり。加害環境で当該語が役割化・対象化の語として使用された可能性が高い。本人の前で不用意に使用しないこと』
◇
四日目 固執
四日目、ルシェルは人を探すようになった。
セレスが席を立つと、目で追う。
扉の外でレオンの足音が遠ざかると、呼吸が乱れる。
ガルドが食料を取りに行こうとすると、保留猫を握ったまま震える。
「いく?」
かすれた声で聞く。
ガルドは止まった。
「食い物を取りに行く」
「いく?」
「ああ。戻る」
「もどる?」
「戻る」
「すぐ?」
「すぐだ」
ルシェルは黙る。
しかし、目は不安でいっぱいだった。
ガルドは少し考え、内袋から乾いた菓子を出した。
「これを置いていく」
「……がるど?」
「俺のだ。戻ったら食う」
ルシェルは菓子を見る。
「もどる?」
「それを食いに戻る」
ずいぶん乱暴な約束だった。
けれど、ルシェルには届いた。
彼女は小さく頷いた。
ガルドはその菓子を小皿に置き、本当にすぐ戻った。
戻ると、ルシェルは泣きそうな顔で彼を見た。
「もどった」
「ああ」
「たべる?」
「食う」
ガルドはその場で菓子を食べた。
ルシェルはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
レオンも同じだった。
部屋を離れる必要がある時は、必ず言う。
「扉の外にいる」
「戻る」
「鐘が一つ鳴る前に戻る」
最初は、それでも泣いた。
次第に、言葉を握るようになった。
戻る。
すぐ。
扉の外。
言葉が、彼女の中で細い糸になる。
セレスへの固執は、さらに強かった。
セレスが手を離すと、ルシェルは保留猫を抱えたまま固まる。
眠る時も、セレスが椅子にいることを何度も確認する。
「いる?」
「いるわ」
「ねる?」
「ここにいる」
「いなくならない?」
「今はここにいる」
「いま」
「ええ。今はここ」
永遠にいるとは言わない。
嘘になるから。
でも、今はここにいる。
その言葉を、何度も渡した。
リーネは少し離れて、それを見守っていた。
「固執というより、確認ですね」
クラウスが記録用紙を持って言う。
「失ったものが多すぎた」
「はい」
「なら、人が戻ることを何度も確認する必要がある」
クラウスは書いた。
『第四日。特定の同行者への強い確認行動あり。見捨てられ不安ではなく、拉致環境で喪失・分離を経験した後の安全確認と考えられる。離室時は必ず行き先と戻る条件を告げること』
その文面を、クラウスはいつもより長く見つめていた。
記録は、人を削ることもある。
だから、戻すために正確でなければならない。
◇
五日目 食べる
五日目の朝、ルシェルは初めて自分から「水」と言った。
セレスはすぐに動かなかった。
急がない。
杯を見せ、尋ねる。
「この杯でいい?」
ルシェルは少しだけ水面を見て、すぐ目を逸らした。
「みない」
「見なくていい。縁だけ見て」
「うん」
小さく頷き、ルシェルは水を飲んだ。
少しだけ。
それでも、飲めた。
次はスープだった。
食堂の配膳係の娘が作った、具の少ない薄いスープ。
彼女は医務室へ直接は入れなかった。
だが、扉の外で小さく言った。
「味が迷子にならないように、薄めです」
ルシェルが反応した。
ぼんやりしていた目が、少しだけ動く。
「まいご」
セレスが微笑む。
「そう。味が迷子にならないように、だって」
「……しょくどう」
「食堂の子よ」
「おかえり、の」
「うん。その子」
ルシェルはスープを見た。
怖い。
でも、知っている言葉がある。
迷子。
食堂。
おかえり。
少しずつ、地下ではないものが混ざる。
ガルドが部屋の端で腕を組んでいた。
圧を出さないようにしているのに、存在感がある。
セレスが小さく笑った。
「ガルドが見ているわ」
ルシェルは彼を見る。
ガルドは短く言った。
「一口でいい」
いつもの「食え」ではない。
今は、一口でいい。
ルシェルはスプーンを持つ手を震わせた。
セレスが聞く。
「手伝う?」
ルシェルは少し迷い、首を横に振る。
自分で口へ運ぶ。
一口。
飲み込む。
それだけで、部屋の空気が少し変わった。
ガルドが頷く。
「よし」
ルシェルの目に涙が浮かぶ。
「よし?」
「ああ。よしだ」
「いっかい?」
「一回でいい」
その言葉に、ルシェルは泣きながら少し笑った。
五日目。
ルシェルは、ほんの少しだけ食事を取れるようになった。
医務記録にはこう書かれた。
『第五日。本人の意思で水分摂取。薄いスープを一口摂取。食事場面において、同行者の馴染みある言葉が安心材料として機能』
◇
六日目 外
六日目、ルシェルは医務室の外へ出た。
最初は扉の前まで。
次に廊下の角まで。
その次に、窓のある短い通路まで。
外、といっても、館の中だ。
それでも、ルシェルにとっては大きな外だった。
セレスが隣。
リーネが少し後ろ。
レオンが前方。
ガルドが後方。
全員が近すぎず、遠すぎず。
誰も急かさない。
廊下の結界灯は、別系統に交換されている。
それでも、ルシェルは一つ目の灯りの前で止まった。
肩が震える。
セレスが言う。
「戻る?」
ルシェルはしばらく黙った。
保留猫を両手で抱えている。
雨雫の欠片は、今は小箱の中だ。
まだ触れない。
見ることもできない日がある。
でも、保留猫は抱ける。
「れおん」
ルシェルが言った。
レオンが振り返る。
「ここにいる」
「がるど」
「後ろだ」
「せれす」
「隣よ」
「りーね」
「います」
確認。
全員いる。
それを確かめてから、ルシェルは一歩進んだ。
結界灯の下を通る。
何も起きない。
誰も出せと言わない。
誰も記録板を出さない。
ただ、通った。
その瞬間、セレスは息を吐いた。
本人より周囲の方が緊張していたかもしれない。
窓の前まで来ると、ルシェルは外を見た。
中庭。
朝の光。
石畳。
風に揺れる草。
彼女の目が眩しそうに細くなる。
「そと」
「ええ」
「そと、ある」
「あるわ」
当たり前のこと。
けれど、六日目のルシェルには、確認が必要だった。
外はある。
館はある。
仲間はいる。
戻る道はある。
その日は、窓の前で終わった。
外へは出なかった。
でも、廊下を歩けた。
仲間となら。
◇
七日目 戻る言葉
七日目、ルシェルの発語は少しずつ戻り始めた。
まだ幼い響きは残っている。
記憶も時々混ざる。
けれど、短い文が出るようになった。
「水、ください」
セレスが微笑む。
「はい」
「……見ないで飲む」
「うん。縁だけ見よう」
「スープ、少しなら」
ガルドが頷く。
「少しでいい」
「ガルド、やさしい」
「普通だ」
「雑にやさしい」
その言葉に、部屋の空気が止まった。
戻ってきた。
完全ではない。
でも、確かにルシェルの言葉だった。
ガルドは一瞬だけ黙り、低く言った。
「そうか」
声が少し詰まっていた。
レオンとの会話も、少し戻った。
「レオン」
「何だ」
「本採用、取り消さない」
レオンは目を閉じた。
ほんの一瞬。
それから答える。
「光栄だ」
「真面目」
「ああ」
「困る」
「すまない」
「謝らなくていい」
以前のような軽さにはまだ届かない。
だが、形は戻り始めていた。
セレスはそれを聞いて、静かに涙を拭った。
リーネは医務記録に書いた。
『第七日。発語は徐々に回復。本人固有の言い回しが一部再出現。対人確認は継続するが、短文での要求表明が可能』
クラウスはその記録を読み、少しだけ肩の力を抜いた。
そして、別紙に追記した。
『今後も、本人の言葉を矯正せず、意味を確認しながら受け取ること』
◇
八日目 暴走
八日目の明朝。
それは、本当に偶然だった。
医務室から少し離れた廊下。
ルシェルは、セレス、レオン、ガルドと一緒に、窓のある通路まで歩く練習をしていた。
リーネは少し後ろで医務担当と話している。
クラウスは、押収資料の確認のため別室へ向かう途中だった。
その時、拘束された犯人の一人が、移送のために廊下を通された。
本来なら、ルシェルのいる区画とは別の通路を使うはずだった。
しかし、連絡の行き違いがあった。
ほんの数秒。
角を曲がった先に、白衣の女がいた。
あの記録係だった。
ルシェルが最初に固まった。
足が止まる。
保留猫を抱く手が強くなる。
セレスがすぐに気づく。
「ルシェル?」
白衣の女も気づいた。
一瞬、目が合った。
その瞬間、ルシェルの中で何かが跳ねた。
記録。
涙あり。
拒否継続。
私物除去。
髪。
血。
雨雫。
壊れる音。
全部が戻った。
「いや」
最初は、小さな声だった。
「いや」
次に、呼吸が乱れた。
「いや、やだ、やだ、こないで」
セレスが前に出る。
「ルシェル、見なくていい。こっちを見て」
だが、もう遅かった。
蒼銀が、防衛反応として立ち上がった。
手のひらからではない。
身体の奥から。
部屋の訓練で細く出していた光とは違う。
拒絶するような蒼銀。
近づけるな。
触るな。
記録するな。
奪うな。
その意志だけが、光になった。
廊下の結界灯が一斉に弾けるように揺れた。
窓の外の外郭結界が淡く震える。
セレスが叫ぶ。
「リーネさん!」
リーネが駆け寄る。
浄化に関する声は、二人だけ。
レオンとガルドは即座に動いたが、ルシェルへは声をかけない。
レオンは犯人の視線を遮る位置へ入る。
ガルドは移送担当ごと白衣の女を廊下の奥へ押し戻す。
だが、白衣の女は震えながらも、目を見開いていた。
恐怖ではない。
歓喜だった。
「やはり」
彼女は呟いた。
「やはり、間違っていなかった」
ガルドの顔が険しくなる。
女は蒼銀の光を見て、頬を紅潮させた。
「あの反応……身体記録と一致する。防衛刺激でこれほどの発現……私たちは、間違っていなかった。やはり蒼銀は――」
ガルドが低く言った。
「黙れ」
それでも女は笑っていた。
「記録しなければ」
その言葉が、ルシェルに届いた。
蒼銀がさらに揺れる。
廊下の空気が軋む。
セレスがルシェルの正面で膝をつく。
「ルシェル、セレスよ。ここは館。記録しない。誰も触らない」
リーネが横から声を重ねる。
「発現を止めなくていい。まず、範囲を狭めましょう。あなたを守るための光です。でも、ここには味方がいます」
「やだ、やだ、こないで、やだ」
「来ない。近づけない。レオンさんとガルドさんが止めています」
レオンは黙って立っている。
剣は抜かない。
ただ、犯人とルシェルの間にいる。
ガルドは白衣の女を完全に視界の外へ押し出した。
クラウスが走ってくる。
状況を見て、一瞬で理解した。
「移送経路を変えた者を調べろ。今すぐだ」
声は氷のようだった。
白衣の女はまだ笑っている。
「見ましたか、あれを。やはり恐怖刺激による発現は――」
クラウスが彼女の前に立った。
「その発言も証拠として記録する」
女の顔が一瞬だけ明るくなった。
記録という言葉に反応したのかもしれない。
だが、クラウスは続けた。
「ただし、君の研究成果としてではない。加害の継続意思としてだ」
女の笑みが止まった。
クラウスは移送担当へ言った。
「連れて行け。彼女の視界に二度と入れるな」
◇
蒼銀は、しばらく収まらなかった。
ルシェルは廊下の真ん中で震え、泣きながら保留猫を抱えていた。
セレスとリーネだけが声をかけ続けた。
「ここは館」
「今は触らない」
「範囲を小さく」
「息を吸う」
「出さなくていい」
「でも、怖かったことは間違いではない」
「守ろうとした光です」
その最後の言葉で、ルシェルの泣き声が少し変わった。
「まもる?」
かすれた声。
リーネが頷く。
「はい。あなたを守ろうとした光です」
「ぼうそう?」
「暴走しかけました。でも、あなたが悪いわけではありません」
「わるく、ない?」
「悪くありません」
何度も言う。
何度でも言う。
蒼銀が、少しずつ手のひらの方へ戻っていく。
廊下全体へ広がっていた光が、小さくなる。
最後には、ルシェルの胸元で淡く震えるだけになった。
そして消えた。
ルシェルは力を失い、セレスに倒れ込んだ。
レオンが一歩出かけ、止まる。
セレスが抱き留める。
リーネが脈と呼吸を確認する。
「意識はあります。医務室へ」
ガルドが道を開ける。
レオンは何も言わず、前を歩いた。
その背中は、静かに怒っていた。
◇
その日の記録を、クラウスは自分で書いた。
『第八日明朝。加害者の一人が移送経路の不備により本人の視界に入る。本人、強い恐怖反応を示し、防衛反応として蒼銀が急発現。発現は攻撃目的ではなく、接近拒否・自己防衛の性質を持つものと判断。リーネ殿およびセレス氏の声かけにより範囲縮小。本人に責任なし』
クラウスはそこで一度、筆を止めた。
そして、別紙を取った。
『加害者は当該反応を見て「間違っていなかった」と発言。恐怖刺激による発現を研究成果として捉える発言であり、反省は見られない。今後、本人の前に加害者を移送・提示することを厳禁とする』
さらに、もう一枚。
『本件により、本人の回復過程に重大な再刺激が生じた。関係部署の移送管理責任を問う』
書き終えたクラウスは、筆を置いた。
怒りで手が震えていた。
だが、文字は乱れていない。
乱してはいけない。
これは、ルシェルを守るための記録だから。
◇
医務室で、ルシェルは眠っていた。
暴走のあと、身体が耐えきれず落ちるように眠った。
セレスは寝台の横に座っている。
リーネもいる。
レオンは扉の外。
ガルドは廊下の角。
保留猫は、ルシェルの手の近くに置かれている。
雨雫の欠片は、まだ小箱の中。
今日、見せるには早すぎた。
セレスが小さく言った。
「守ろうとした光だった」
リーネが頷く。
「はい」
「でも、あの人は喜んだ」
「はい」
「許せない」
リーネは答えなかった。
許せない。
それ以外の言葉が見つからなかった。
廊下の外で、レオンは目を閉じていた。
中で蒼銀が暴れた時、彼は声を出さなかった。
約束を守った。
セレスとリーネに任せた。
だが、あの女が笑った瞬間、剣を抜きたくなった。
それでも抜かなかった。
抜かないことも、守ることだった。
ガルドが隣で言った。
「食うか」
レオンは目を開ける。
「今か」
「今だ」
「食える気がしない」
「なら、半分」
差し出された硬いパンを、レオンは受け取った。
ルシェルなら何と言っただろう。
食料部門。
生活格言。
雑に優しい。
その言葉を思い出すと、胸が痛んだ。
でも、レオンはパンを食べた。
帰ってきたルシェルの前で、自分たちが倒れるわけにはいかない。
◇
八日目の夕方、ルシェルは一度だけ目を開けた。
セレスがすぐに声をかける。
「ルシェル」
ルシェルはぼんやりとセレスを見た。
「……こわかった」
「うん」
「ひかった」
「うん」
「わるい?」
セレスは首を横に振った。
「悪くない」
リーネも近づきすぎない距離で言う。
「あなたを守ろうとした反応です。怖かったから、守ろうとした。それは悪いことではありません」
ルシェルの目に涙が浮かぶ。
「でも、あのひと、わらった」
「それは、あの人が間違っています」
リーネははっきり言った。
「あなたではありません」
「まちがい?」
「はい。あなたではなく、あの人たちが間違っています」
ルシェルは小さく息を吸った。
そして、保留猫へ手を伸ばす。
指先が触れる。
「ほりゅ、ねこ」
「いるわ」
「せかい、はんぶん」
「うん。半分くらいでいい」
セレスが答えると、ルシェルは少しだけ目を閉じた。
また眠る。
今度の眠りは、昏睡ではなかった。
疲れ果てた身体が、ほんの少しだけ安心して落ちる眠りだった。
八日目。
回復は、まっすぐではなかった。
戻ったと思えば崩れ、言葉が出たと思えば奪われた記憶が戻る。
それでも、周囲は一つずつ覚え直していた。
ルシェルは蒼銀ではない。
防衛反応すら、研究成果ではない。
怖かったことは、怖かったこととして扱う。
嫌だったことは、嫌だったこととして残す。
そして、彼女がまた自分の言葉で言えるようになるまで、何度でも言い直す。
あなたは悪くない。
ここは館。
仲間はいる。
もう、誰もあなたを対象とは呼ばない。