TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
彼女にとって、泣き声は情報だった。
震えは反応だった。
拒否は傾向だった。
沈黙は観察項目だった。
だから、あの少女が「嫌です」と言った時も、彼女はまず紙に書いた。
『拒否継続』
それが、彼女の仕事だった。
少なくとも、彼女はそう信じていた。
◇
白衣の女――ミレーヌ・サージュは、もともと王都結界局の末端研究員だった。
正規の浄化師ではない。
浄化光を持たず、結界術も補助程度。
だが、記録と観察には自信があった。
誰よりも正確に、誰よりも淡々と、誰よりも感情を挟まずに書ける。
それが彼女の能力だった。
王都の浄化師たちは、すぐに感情を挟む。
疲れている。
怖がっている。
本人の同意が必要。
今日はやめた方がいい。
ミレーヌには、それが甘さに見えた。
歴史的に稀な蒼銀が現れた。
王都結界の維持は年々難しくなっている。
外縁の瘴気孔は増え、古い結界塔は疲弊している。
それなのに、関係者は十五歳の少女だからと囲い込み、休ませ、猫だの石だのに意味を与えている。
馬鹿げている。
そう思った。
蒼銀は、王都全体に関わる。
ならば、個人の感情より優先されるべきものがある。
ミレーヌは、その考えを疑わなかった。
だから、旧研究派閥に声をかけられた時も、彼女は迷わなかった。
「君の観察記録が必要だ」
そう言われた。
必要。
その言葉は、彼女にとって甘美だった。
王都結界局では、彼女の記録は細かすぎると言われた。
本人の反応ばかり拾いすぎると、かえって現場が動きづらくなる、と。
けれど、旧研究会の老人は違った。
「感情を挟まず、反応だけを見る目がいる」
そう言った。
ミレーヌは、自分がようやく正しく評価されたのだと思った。
◇
最初に蒼銀の少女を見た時、ミレーヌは驚いた。
もっと神秘的なものを想像していた。
文献にある蒼銀。
王都結界を震わせる稀色。
瘴気をほどく異常な清浄光。
だが、そこにいたのは、石を握って震える少女だった。
肩を丸め、椅子に座らされ、声をかすれさせて「嫌です」と言う。
拍子抜けした。
同時に、興味が湧いた。
この弱々しい身体のどこに、蒼銀が宿っているのか。
どういう刺激で反応するのか。
恐怖か。
所有物への執着か。
身体接触か。
瘴気濃度か。
抑制具の強度か。
調べなければ分からない。
分からないものは、記録するしかない。
だから彼女は書いた。
『拒否反応あり』
『私物への執着あり』
『接近刺激に反応』
『私物喪失示唆で反応増大』
少女は何度も「違う」と言った。
ミレーヌには、その「違う」の意味が分からなかった。
違うと言われても、実際に反応は出ている。
石を握れば落ち着く。
石を取ろうとすれば蒼銀が跳ねる。
濁った結界具を近づければ手の奥が熱を持つ。
身体状態を確認すれば涙が出る。
記録すべき事実が、次々に現れる。
ならば書く。
それだけだった。
◇
身体検査の時、少女は泣いた。
ミレーヌは、それを見て少しだけ苛立った。
泣けば、周囲は手を止める。
泣けば、リーネのような浄化師は「今日はここまで」と言う。
泣けば、セレスのような者は毛布をかけ、名前を呼び、安心させようとする。
だから進まない。
だから分からない。
ミレーヌはそう思っていた。
涙は反応であって、結論ではない。
泣いたから中止するのではなく、泣いた時に何が起きるかを見るべきだ。
そうでなければ、蒼銀の全体像は掴めない。
彼女は紙に書いた。
『涙あり』
それだけでは足りないと、後から思った。
涙の量。
呼吸の乱れ。
蒼銀の揺らぎ。
抑制具の反応。
もっと細かく取るべきだった。
少女が泣いている理由には、興味が薄かった。
理由は主観だ。
記録すべきは、主観ではなく反応。
少なくとも、その時のミレーヌは、そう信じていた。
◇
雨雫を壊した時。
あれは、重要な転換点だった。
少女の反応は、これまでで最も大きかった。
私物除去。
汚染。
表面削剥。
破損。
それぞれの段階で、反応が変わった。
最初は拒否。
次に懇願。
次に混乱。
破損時、感情制御が崩壊。
蒼銀は強発現には至らなかったが、深部で大きな乱れがあった。
ミレーヌは、震えるほど興奮した。
これだ、と思った。
蒼銀は、単に瘴気へ反応するのではない。
本人の情動、所有物、安心材料の喪失とも連動している。
浄化師に女性が多い理由。
身体的特徴と発現の関係。
感情刺激と蒼銀の立ち上がり。
発現者本人の「大事なもの」と力の制御。
すべてが繋がり始めた気がした。
少女は床で泣いていた。
幼い子どものように、言葉にならない声で。
ミレーヌは記録した。
『決壊』
その一語は、正確だと思った。
あの瞬間、何かが決壊した。
少女の感情も。
蒼銀の制御も。
そして、研究の壁も。
彼女は本気でそう思っていた。
◇
救出隊が来た時、ミレーヌは初めて恐怖を覚えた。
扉が砕ける音。
盾の衝撃。
剣の光。
浄化師団の声。
老人が術式具へ手を伸ばし、黒外套の男が移送を命じる。
けれど、間に合わなかった。
今度は、彼らが。
レオンという剣士の目を見て、ミレーヌは息を呑んだ。
あの目は、研究対象を見る目ではない。
奪われたものを取り返しに来た者の目だった。
ガルドという戦士は、何も言わずに道を塞いだ。
セレスは少女の前で膝をつき、まず名前を呼んだ。
「ルシェル」
その瞬間、ミレーヌは奇妙な違和感を覚えた。
名前。
そんなものが、今さら何になるのか。
蒼銀は蒼銀だ。
反応は反応だ。
記録は記録だ。
そう思うのに、少女はその名前に反応した。
対象、と呼ばれた時とは違う。
蒼銀、と呼ばれた時とも違う。
ルシェル。
その音で、少女の顔が崩れた。
泣いた。
ミレーヌは、記録したいと思った。
名前への反応。
味方識別による情動変化。
接触許可を求められた際の安全反応。
観察したい。
書きたい。
だが、その手は拘束されていた。
彼女は、その時初めて思った。
記録できないことが、こんなに苦しいのか、と。
◇
拘束され、王都へ戻されても、ミレーヌは自分が間違ったとは思わなかった。
乱暴だったことは認める。
手続きに反していたことも認める。
だが、得られたものは大きかった。
蒼銀は、恐怖刺激で防衛的に立ち上がる。
私物の喪失で制御が崩れる。
身体状態と発現には何らかの関係がある。
髪や血は瘴気に微弱反応を示す。
抑制具の強度調整により、発現を遅延させられる。
これらは王都にとって重要な情報だ。
誰かがやらなければならなかった。
自分たちは、その誰かだった。
そう考えれば、恐怖は薄れた。
罪悪感もなかった。
ただ、ひとつ気になったのは、クラウスの言葉だった。
「その発言も証拠として記録する。ただし、君の研究成果としてではない。加害の継続意思としてだ」
加害。
その言葉だけが、少し引っかかった。
ミレーヌにとって、自分は加害者ではなかった。
観察者だった。
記録者だった。
必要な情報を集める者だった。
けれど、王都側は違う言葉で記録するらしい。
拉致。
不当取扱い。
同意なき検査。
私物破壊。
尊厳侵害。
再刺激。
同じ出来事が、違う言葉で書かれていく。
そのことに、彼女は初めて不快感を覚えた。
記録は中立であるべきだ。
なのに、彼らは感情を入れる。
少女が嫌だったことを、嫌だったこととして書く。
涙の理由を書く。
拒否を意思として扱う。
ミレーヌには、それが歪みに見えた。
そして、自分の記録こそが正しいと思った。
◇
八日目の朝。
移送中の廊下で、偶然ルシェルを見た。
本当に偶然だった。
経路の不備。
数秒の交差。
だが、その数秒は、ミレーヌにとって啓示だった。
少女は立っていた。
まだ弱々しい。
肩口で切られた髪。
抱えた木彫り猫。
周囲を囲む仲間たち。
ミレーヌと目が合った瞬間、少女の顔が凍った。
そして、蒼銀が立ち上がった。
凄まじい反応だった。
訓練の発現ではない。
儀式でもない。
防衛。
拒絶。
恐怖による発火。
廊下の結界灯が揺れ、外郭結界まで微かに震えた。
ミレーヌは、その光を見て理解した。
やはり、間違っていなかった。
恐怖刺激は、蒼銀の深部発現と関係している。
私物喪失後も、防衛反応は残っている。
仲間の存在下では暴走が外部へ向かいにくい。
これは、極めて重要な観察だった。
彼女は思わず呟いた。
「やはり、間違っていなかった」
その瞬間、ガルドが前に出た。
「黙れ」
凄まじい低音だった。
だが、ミレーヌは止まれなかった。
「記録しなければ」
本心だった。
今、これを記録しなければ失われる。
蒼銀の反応が。
恐怖と防衛の相関が。
あの七日間の意味が。
クラウスが立ちはだかった。
彼の目は冷たかった。
「その発言も証拠として記録する」
ミレーヌは一瞬、安堵した。
記録される。
なら、残る。
しかし、続く言葉で、その安堵は砕かれた。
「ただし、君の研究成果としてではない。加害の継続意思としてだ」
加害。
また、その言葉。
ミレーヌは初めて、強く反発した。
「違う。これは成果です。王都のための――」
「連れて行け」
クラウスは聞かなかった。
移送担当が彼女の腕を引く。
視界から、ルシェルが消える。
最後に見えたのは、セレスとリーネが少女へ声をかけている姿だった。
発現を止めろとは言っていない。
範囲を狭めよう。
あなたを守るための光です。
ここには味方がいます。
ミレーヌには理解できなかった。
あれほど貴重な反応を前にして、なぜ彼女たちは慰めるのか。
なぜ、記録しないのか。
なぜ、測らないのか。
なぜ、今の光を「成果」と呼ばないのか。
◇
独房に戻されてから、ミレーヌは頭の中で記録を組み立て続けた。
『第八日。被験者、加害者視認により防衛性蒼銀急発現』
いや、被験者という語は、彼らに否定されるだろう。
『ルシェル・ノア、当方視認により――』
違う。
名前を入れると、記録が曇る。
蒼銀反応を扱うなら、個人名より状態名の方が正確だ。
彼女は壁を見た。
紙も筆もない。
記録できない。
それが、ひどく苦しい。
初めて、彼女は自分の手が空であることに耐えられなかった。
記録できなければ、出来事は他者の言葉で残る。
クラウスの言葉で。
リーネの言葉で。
セレスの言葉で。
ルシェルの言葉で。
嫌だった。
怖かった。
奪われた。
壊された。
傷つけられた。
そんな言葉で残される。
ミレーヌは唇を噛んだ。
「違う」
独房の中で呟く。
「私たちは、間違っていない」
だが、その声を記録する者はいなかった。
誰も書かない。
誰も拾わない。
誰も、彼女の言葉を成果として残さない。
その沈黙の中で、ミレーヌは初めて、記録されない側に立った。
それでも彼女は、自分が加害者であるとは思わなかった。
ただ、理解されていないだけだと思った。
蒼銀の価値を。
王都の危機を。
必要な犠牲を。
そして何より、あの少女が泣きながら放った光の意味を。
ミレーヌは、まだ信じていた。
あの七日間は無駄ではなかった。
雨雫が砕けた瞬間の決壊も。
廊下での防衛発現も。
すべて、蒼銀を理解するために必要だったのだと。
だからこそ、彼女は最後まで悔やまなかった。
悔やまないことそのものが、彼女の罪であるとも知らずに。