TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第26話 戻った声と戻らない光

 

 暴走の翌日、ルシェルは熱を出した。

 

 高熱ではない。

 

 けれど、身体の奥に残った蒼銀の揺れが、まだ消えていないような熱だった。

 

 医務室の灯りは落とされ、窓には薄い布がかけられている。

 結界灯は刺激の少ないものに替えられたまま。

 廊下を通る者は、足音を抑えるようになっていた。

 

 セレスは寝台の横で、薬湯の器を持っていた。

 

「飲めそう?」

 

 ルシェルは枕に頬を預けたまま、片目だけ開けた。

 

「……飲めそうか飲めなさそうかで言うと、飲めたら偉い寄り」

 

 セレスの手が止まった。

 

 その言い回し。

 

 少しだけ戻ってきた。

 

「じゃあ、偉くなってみる?」

 

「偉くなる予定はなかった」

 

「予定変更ね」

 

「クラウスさん案件」

 

 声はかすれている。

 

 語尾も弱い。

 

 それでも、確かにルシェルの軽口だった。

 

 セレスは笑いそうになって、少しだけ泣きそうにもなった。

 

 どちらも飲み込み、器を近づける。

 

「一口でいいわ」

 

「ガルド構文」

 

「便利だから」

 

「感染が深刻」

 

 ルシェルは器の水面を見ないように、縁だけを見て薬湯を飲んだ。

 

 一口。

 

 顔をしかめる。

 

「まずい」

 

「薬だからね」

 

「薬、味への配慮がない」

 

「効能重視ね」

 

「王都書類みたい」

 

 セレスは今度こそ少し笑った。

 

「かなり戻ってきたわね」

 

 ルシェルは目を伏せた。

 

「戻ってきたのかな」

 

 軽口のあとに、ぽつりと落ちる声。

 

 セレスはすぐには答えなかった。

 

 戻ってきた。

 

 けれど、全部ではない。

 

 戻らないものもある。

 

 言葉も、眠りも、身体も、少しずつ戻ってきている。

 

 でも、髪は肩口で途切れたままだ。

 

 雨雫は欠けたままだ。

 

 瞳の奥には、前のような細い悪戯っぽさが戻りきっていない。

 

「少しずつ戻ってきてる」

 

 セレスは言った。

 

「全部いっぺんじゃなくていいわ」

 

「分割納品」

 

「そうね」

 

「ボク、納品物だった?」

 

「違うわ」

 

「じゃあ回復の方」

 

「ええ。回復の方」

 

 ルシェルは小さく息を吐いた。

 

「なら、分割で」

 

     ◇

 

 その日の午後、リーネが髪の変化に気づいた。

 

 最初は、光の加減だと思った。

 

 短くなった髪が、窓から入る薄い朝光を受けて、ところどころ淡く光って見える。

 

 だが、違った。

 

 灰銀の髪の内側に、ほんのわずかに蒼銀が混じっている。

 

 一本一本が強く光るわけではない。

 

 けれど、角度を変えると、霧の中に細い青白い糸が紛れたように見える。

 

 リーネは、息を止めた。

 

 言うべきか。

 

 今言うべきではないか。

 

 彼女は医務担当を呼ばなかった。

 

 記録板も出さなかった。

 

 まず、セレスに目で合図した。

 

 セレスもそれを見て、表情を固くした。

 

 ルシェルは寝台の上で保留猫を撫でている。

 

「どうしたの」

 

 気づいた。

 

 声は軽い。

 

 でも、目は笑っていない。

 

 リーネは一歩近づき、座る前に聞いた。

 

「少し、髪を見てもいいですか。触れません。見るだけです」

 

 ルシェルの指が保留猫の背中で止まった。

 

 髪。

 

 その言葉は、まだ危うい。

 

 部屋の空気が薄く張りつめる。

 

 セレスが静かに言う。

 

「嫌なら見ない。今じゃなくていい」

 

 ルシェルはしばらく黙った。

 

 それから、小さく言った。

 

「見るだけなら」

 

「はい。触れません」

 

 リーネは距離を保ったまま、髪を見る。

 

 やはり、混じっている。

 

 暴走前にはなかった色。

 

 昨日の防衛反応。

 

 蒼銀が身体の奥から立ち上がったあの瞬間以降、髪にごく薄く残ったのだろう。

 

 リーネは言葉を選んだ。

 

「少し、色が変わっています」

 

 ルシェルは目を伏せた。

 

「どんな」

 

「灰銀の中に、ほんの少しだけ、蒼銀に近い光が混じっています」

 

 沈黙。

 

 ルシェルは保留猫を抱える手に力を入れた。

 

「……また、蒼銀」

 

「はい」

 

 リーネは逃げなかった。

 

「でも、今は発現していません。髪が光っているというより、色が少し残っている状態です」

 

「残り香みたいな?」

 

 ルシェルの声が、無理に軽くなった。

 

「蒼銀の残業」

 

 セレスが小さく息を吸う。

 

 リーネは頷いた。

 

「そう表現してもいいかもしれません」

 

「残業代、出る?」

 

 ルシェルが言った。

 

 セレスが少し笑った。

 

 リーネも、ほんの少し笑った。

 

「クラウスさんに請求しましょうか」

 

「書類で勝てない」

 

「たぶん、項目を作ってくれます」

 

「蒼銀残業手当」

 

 ルシェルはそう言って、少しだけ笑った。

 

 けれど、その瞳には光がなかった。

 

 冗談は戻ってきている。

 

 言葉も戻ってきている。

 

 でも、目の奥が笑っていない。

 

 以前の半目は、眠そうで、少し不思議で、時々悪戯っぽかった。

 

 今の半目は、ただ光を受け取っていない。

 

 そこにあるものを見ているのに、奥まで届いていない。

 

 セレスは、そのことに気づいていた。

 

 リーネも気づいていた。

 

 誰も、今は言わなかった。

 

     ◇

 

 クラウスは報告を受け、医務室の扉の前でしばらく黙った。

 

「髪に蒼銀が混じった」

 

 リーネが頷く。

 

「はい。暴走後からだと思われます。ただし、発現状態ではありません。刺激せず経過観察が必要です」

 

「本人には」

 

「伝えました。触れていません」

 

「記録は私が書く」

 

 クラウスの声は硬かった。

 

 リーネはその意味を理解した。

 

 加害者たちは、髪を研究材料にした。

 

 だから今、髪の変化を記録すること自体が危うい。

 

 同じ出来事でも、書き方で意味が変わる。

 

 クラウスは紙を取り、ゆっくり書いた。

 

『第九日。暴走後、髪色に微細な蒼銀色の混入を確認。本人へ説明済み。本人の同意なく接触・採取・詳細検査を行わないこと。現時点では治療上必要な観察に留める』

 

 少し考え、さらに追記した。

 

『本変化を研究対象として扱うことを禁ずる。本人の身体的変化であり、尊厳回復を妨げない範囲で対応する』

 

 筆を置く。

 

 そして、小さく呟いた。

 

「もう、誰にも同じ言葉を使わせない」

 

 記録。

 

 観察。

 

 確認。

 

 それらの言葉が、彼女を削る道具になった。

 

 なら、今度は同じ言葉で守らなければならない。

 

     ◇

 

 夕方、ルシェルは部屋の鏡を見た。

 

 大きな鏡ではない。

 

 手のひらほどの小さな鏡。

 

 セレスが持つ前に、必ず聞いた。

 

「見る?」

 

 ルシェルは頷いた。

 

「見ないと、たぶん頭の中で勝手に増える」

 

「怖さが?」

 

「うん。盛られる」

 

「じゃあ、一緒に見よう」

 

「ホラー鑑賞会?」

 

「違うわ」

 

「違った」

 

 軽口を言いながら、ルシェルは保留猫を膝に置いた。

 

 セレスが鏡を向ける。

 

 そこに映った自分を、ルシェルはしばらく見つめた。

 

 肩口で切れた髪。

 

 その内側に、細い蒼銀の筋。

 

 目元はまだ赤い。

 

 瞳は暗い。

 

 光がない。

 

 ルシェルは鏡の中の自分を見て、少し首を傾げた。

 

「……誰」

 

 セレスの胸が痛んだ。

 

 けれど、ルシェルはすぐに続けた。

 

「いや、ボクか。だいぶ仕様変更されたけど」

 

 セレスは静かに言う。

 

「仕様変更じゃないわ」

 

「じゃあ、強制アップデート?」

 

「それも違う」

 

「不具合修正なし?」

 

「それは少し近いかも」

 

 ルシェルは小さく笑った。

 

 でも、鏡の中の瞳は笑わない。

 

「髪、蒼銀混じってるね」

 

「ええ」

 

「これ、あの人たちが見たら喜びそう」

 

 セレスの表情が固まる。

 

 ルシェルは鏡を見たまま言った。

 

「だから嫌」

 

「うん」

 

「でも、切れない」

 

「切らなくていい」

 

「また切られたら嫌」

 

「ここでは、あなたの許可なく触らない」

 

「うん」

 

 ルシェルは鏡から目を逸らした。

 

「目、変だね」

 

 セレスは答えに迷った。

 

 ルシェルは自分で言った。

 

「光がない」

 

 その言葉は、淡々としていた。

 

 悲しいというより、確認するようだった。

 

「前から半目だったけど、これは違う」

 

 セレスは静かに頷いた。

 

「違うわね」

 

「戻る?」

 

「分からない」

 

「分からない、助かる」

 

「でも、今すぐ戻らなくても、あなたがここにいることは変わらない」

 

「セレス、そういうのうまい」

 

「本当のことよ」

 

 ルシェルは保留猫を撫でた。

 

「保留猫はいいな。目がずっと同じ」

 

「やる気がないものね」

 

「安定した無気力」

 

「それ、褒めてる?」

 

「かなり」

 

 少し笑う。

 

 けれど、やはり瞳は暗いままだった。

 

     ◇

 

 レオンがその変化を見たのは、夜だった。

 

 医務室へ入る前に、セレスから説明を受けていた。

 

 髪に蒼銀が混じっている。

 本人は知っている。

 触れない。

 反応を大きくしない。

 必要以上に見つめない。

 

 分かった、と答えた。

 

 だが、実際に見た時、胸が詰まった。

 

 短く切られた髪に、薄い蒼銀が混じっている。

 

 きれいだった。

 

 そう思ってしまったことが、許せなかった。

 

 あれは、彼女が望んだ変化ではない。

 

 暴走のあとに残ったもの。

 

 恐怖と防衛の痕。

 

 それを美しいなどと思うこと自体が、加害者たちの目と何が違うのか。

 

 レオンは視線を少し下げた。

 

 ルシェルは気づいた。

 

「レオン、見た?」

 

「……ああ」

 

「きれい?」

 

 問いが鋭かった。

 

 軽口の形をしているが、奥に刃がある。

 

 レオンは逃げなかった。

 

「きれいに見える。だが、それを喜びたくはない」

 

 ルシェルは少し目を開いた。

 

 光のない瞳が、レオンを見る。

 

「真面目剣士、回答が重い」

 

「すまない」

 

「いや、たぶん正解」

 

「そうか」

 

「きれいって言われたら嫌だった。でも、きれいじゃないって嘘つかれても嫌だった」

 

「難しいな」

 

「ボクが難問化してる」

 

「それは前からだ」

 

「ひどい」

 

 口元だけが少し笑った。

 

 レオンは、泣きそうになった。

 

 だが、泣かなかった。

 

 今ここで泣くのは、彼の役割ではない。

 

「目は?」

 

 ルシェルが聞いた。

 

 レオンは息を止める。

 

「変?」

 

「変というより」

 

「光がないでしょ」

 

「ああ」

 

「知ってる」

 

 ルシェルは保留猫を抱え直した。

 

「でも、見えてはいる」

 

「そうか」

 

「レオンも見えてる」

 

「俺が?」

 

「うん。ちゃんといる」

 

 レオンはその言葉に、返事が遅れた。

 

「いる」

 

「よし」

 

「一回でいい、とは言わないのか」

 

「今日はボクのよし」

 

「そうか」

 

 それだけの会話だった。

 

 それでも、レオンには十分すぎるほど大きかった。

 

     ◇

 

 ガルドは、変化を聞いてから、しばらく何も言わなかった。

 

 医務室に入ると、いつも通り食べ物を持っていた。

 

 薄いパン。

 柔らかい煮野菜。

 少し甘い菓子。

 

「食えそうか」

 

 ルシェルは寝台の上で彼を見た。

 

「今日の食料部門、優しいラインナップ」

 

「硬いものはまだ早い」

 

「気遣いが見える」

 

「見せている」

 

「認めた」

 

 ガルドは皿を置き、髪を見た。

 

 見たが、何も言わない。

 

 ルシェルが先に聞いた。

 

「ガルド、髪のコメントは?」

 

「短い」

 

「そこ?」

 

「蒼銀が混じっている」

 

「うん」

 

「飯には関係ない」

 

 ルシェルは一瞬固まり、それから小さく笑った。

 

「ガルド、最強かもしれない」

 

「食うか」

 

「食う」

 

「よし」

 

「そのよし、好き」

 

 彼は本当にそれ以上言わなかった。

 

 美しいとも、痛ましいとも、変わったとも言わなかった。

 

 ただ、食事を置いた。

 

 今のルシェルには、それがとても助かった。

 

     ◇

 

 夜。

 

 ルシェルは、保留猫を枕元に置き、雨雫の欠片が入った小箱を少し離れた机に置いてもらった。

 

 まだ、近くには置けない。

 

 見たい日と、見られない日がある。

 

 触りたいのに、触れない。

 

 それでも、部屋にある。

 

 返ってきた。

 

 壊れているけれど、返ってきた。

 

 セレスが灯りを落とす前に聞く。

 

「髪、気になる?」

 

「なる」

 

「隠す?」

 

「今日はいい」

 

「分かった」

 

「でも、明日は分からない」

 

「明日、また聞くわ」

 

「分割対応」

 

「ええ」

 

 ルシェルは少しだけ安心したように頷いた。

 

「目、光ないけど」

 

「うん」

 

「眠そうには見える?」

 

 セレスは少し考えた。

 

「眠そうというより、今は疲れて見える」

 

「正直」

 

「嘘は嫌でしょう?」

 

「嫌」

 

「じゃあ、疲れて見える」

 

「そっか」

 

 ルシェルは天井を見る。

 

 光のない瞳が、暗い部屋の薄い灯りを映している。

 

 映しているのに、奥で跳ね返らない。

 

「いつもの口調、戻ってきた?」

 

「かなり」

 

「じゃあ中身も戻ったことにしていい?」

 

 セレスは首を横に振った。

 

「口調が戻ったから全部戻った、とはしない」

 

 ルシェルは黙った。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「セレス、ずるい」

 

「どうして?」

 

「そこ、戻ったことにされたら楽だったかもしれない」

 

「そうね」

 

「でも、違うもんね」

 

「ええ」

 

 ルシェルは目を閉じた。

 

「違うって言ってくれるの、助かる」

 

 セレスは静かに頷いた。

 

「おやすみ、ルシェル」

 

 ルシェルは少し間を置いてから、小さく言った。

 

「おやすみ、セレス。おやすみ、保留猫。おやすみ、遠い雨雫」

 

 そして、さらに小さく付け足した。

 

「蒼銀は、今日は休業」

 

 セレスは灯りを落とした。

 

 その夜、ルシェルは短い眠りを何度も繰り返した。

 

 髪には、仄かな蒼銀が混じっている。

 

 瞳には、まだ光がない。

 

 それでも、声は少しずつ戻っていた。

 

 軽口も、皮肉も、変な言葉も。

 

 戻ったものと、戻らないもの。

 

 その両方を抱えたまま、ルシェルの回復は続いていく。

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