TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第3話 役に立たないもの

 

 市は、思っていたより小さかった。

 

 王都へ続く街道沿いの宿場町。

 石造りの宿と、木組みの店と、屋台がいくつか。

 道の両側には布の日除けが張られ、干し肉、焼き菓子、薬草、旅道具、古い本、色石の飾りなんかが雑多に並んでいる。

 

 人の声。

 馬の鼻息。

 車輪の音。

 香辛料の匂い。

 焼いたパンの匂い。

 どこかで鳴っている金属の小さな音。

 

「情報量が多い」

 

 ボクが呟くと、隣のセレスが頷いた。

 

「少し歩いたら、馬車に戻りましょうか」

 

「いや、まだ大丈夫。市は見たい」

 

「気分は?」

 

「馬車よりはまし」

 

「比較対象が低いわね」

 

「馬車は強敵」

 

 セレスは笑った。

 

 レオンは前を歩いている。

 ガルドは後ろ。

 自然に、ボクとセレスを挟む形になっていた。

 

 護衛としては正しい。

 

 ただ、挟まれている側としては少し落ち着かない。

 

「これ、護送感ない?」

 

 小声で言うと、セレスが首を傾げた。

 

「護送?」

 

「悪い人を運ぶ感じ」

 

「そんなふうには見えないと思うわ」

 

「ガルドが後ろにいると圧がすごい」

 

 後ろから低い声がした。

 

「聞こえている」

 

「聞こえるように言った」

 

「そうか」

 

「圧はある」

 

「そうか」

 

 否定しないらしい。

 

 レオンが振り返る。

 

「人が多い。離れるな」

 

「了解。迷子になると面倒だし」

 

「面倒で済まない」

 

「じゃあ大事件」

 

「大事件だ」

 

「真面目」

 

「君が軽い」

 

「軽量化に成功してるので」

 

「何がだ」

 

「会話」

 

 レオンは少し眉を寄せた。

 

 まだボクの言葉に慣れていない顔だ。

 

 でも昨日よりは、いちいち深く追及しなくなった気がする。

 

 適応が早い。

 

 真面目な人間は、一度「これはこういうもの」と分類すると対応が安定するのかもしれない。

 

 ボクは屋台を見ながら歩いた。

 

 薬草屋では、乾燥させた葉が束ねて吊るされている。

 小瓶の中には粉末や油。

 隣の店では、革紐や針、火打ち石、携帯用の小鍋。

 少し離れたところには、古道具らしきものが並んでいた。

 

 旅道具は見ていて飽きない。

 

 前の記憶では、こういうのはゲームや小説の中のものだった。

 でも今は本当に使うものだ。

 

 火打ち石は火を起こすため。

 水袋は水を運ぶため。

 小瓶は薬を入れるため。

 布は包帯にも目隠しにも、鍋掴みにもなる。

 

 役に立つものは分かりやすい。

 

 必要かどうかを判断しやすい。

 

 だから安心する。

 

「薬草を見る?」

 

 セレスが聞いた。

 

「見る」

 

 薬草屋の前で足を止める。

 

 店主の老婆がこちらを見た。

 

「浄化師の子かい?」

 

「見習いです」

 

「そうかい。喉にいい葉ならあるよ。顔色がまだ白いね」

 

「顔色は標準装備かもしれない」

 

「何だい、それは」

 

「気にしないでください」

 

 老婆は笑って、乾いた葉をいくつか出した。

 

 セレスが状態を確かめる。

 

「悪くないわ」

 

「買う?」

 

「少しだけ」

 

 セレスが財布を出そうとすると、レオンが横から言った。

 

「旅費から出す」

 

「これはボク用じゃないの?」

 

「旅に必要な薬草だ」

 

「経費」

 

「そうだ」

 

「経費で落ちる薬草」

 

 少し感動した。

 

 前の記憶の何かが、経費という言葉に反応している。

 

 レオンは意味が分からなさそうだったが、真面目に代金を払った。

 

 薬草を受け取ったセレスが、こちらを見る。

 

「欲しいものはある?」

 

「薬草は買った」

 

「薬草以外で」

 

「必要なもの?」

 

「必要なものでも、そうでないものでも」

 

 そうでないもの。

 

 その言い方に、少し引っかかった。

 

 必要ではないものを買う。

 

 飾り。

 菓子。

 色石。

 小物。

 

 市にはそういうものもたくさんある。

 

 でも、見てもあまり自分のものとして考えられない。

 

 綺麗だと思う。

 面白いと思う。

 でも、だから買うという発想があまり出てこない。

 

「今は特に」

 

「そう」

 

 セレスはそれ以上聞かなかった。

 

 それがありがたいような、少し物足りないような、不思議な感じだった。

 

     ◇

 

 焼き菓子の屋台の前で、ガルドが止まった。

 

 正確には、ガルドが止まったせいで後ろの空気が壁になった。

 

「どうしたの」

 

「買う」

 

「ガルドが?」

 

「そうだ」

 

 屋台には、丸い焼き菓子が並んでいる。

 蜂蜜と木の実を練り込んだものらしい。

 

 ガルドは大きな手で銅貨を置き、焼き菓子を四つ買った。

 

 そして、一つをボクに差し出す。

 

「食え」

 

「命令形」

 

「食うか?」

 

「訂正された」

 

「食うか?」

 

「食べる」

 

 受け取る。

 

 まだ温かい。

 

 かじると、外は少し硬く、中はしっとりしていた。

 蜂蜜の甘さと、木の実の香ばしさ。

 

「うま」

 

 思わず声が出た。

 

 ガルドは頷いた。

 

「そうか」

 

「ガルド、甘いもの好き?」

 

「嫌いではない」

 

「それ、好きな人の言い方」

 

「そうか」

 

 ガルドは自分の分を黙々と食べた。

 

 レオンも受け取っている。

 セレスも小さくかじって、微笑んだ。

 

「おいしいわね」

 

「旅の糖分、大事」

 

「疲れた時にいいわ」

 

「経費?」

 

 レオンがこちらを見た。

 

「これはガルドの私費だ」

 

「私費焼き菓子」

 

「何でも分類するな」

 

「分類すると落ち着く」

 

「そうなのか」

 

「たぶん」

 

 焼き菓子を食べながら歩く。

 

 甘いものを食べると、少し気持ちが軽くなる。

 

 それは前の記憶でも、今の身体でも同じらしい。

 

 人間、糖分には弱い。

 

     ◇

 

 市の奥に、小さな飾り屋があった。

 

 屋台というより、布を敷いた台の上に細々したものを並べただけの店だ。

 

 色石。

 貝殻。

 金属の輪。

 木彫りの小鳥。

 細い革紐。

 旅人向けの安い飾り。

 

 足を止めたのは、なんとなくだった。

 

 そこに必要なものはない。

 

 でも、色石が陽に当たって、少し綺麗だった。

 

「見るか?」

 

 レオンが聞く。

 

「見るだけ」

 

「分かった」

 

 店主は中年の女性だった。

 

「旅の子かい。飾り紐なら安くするよ」

 

「見習い浄化師です」

 

「なら、お守りに一つどうだい」

 

「お守り」

 

 並んだ石を見る。

 

 赤、緑、白、黒。

 どれも小さくて、傷も多い。

 

 高価なものではないのだろう。

 

 その中に、灰青色の石があった。

 

 透明ではない。

 宝石というほど綺麗でもない。

 丸く磨かれているが、端に少し欠けがある。

 

 雨上がりの空みたいな色だった。

 

 ボクは指先で、それを軽くつついた。

 

「それが気になるのかい?」

 

 店主が聞く。

 

「色が、ちょっと」

 

「地味だろ」

 

「地味だけど、悪くない」

 

「そういう地味なのが好きな人もいるね」

 

 好き。

 

 そう言われると、少し困る。

 

 好きかどうかは分からない。

 

 ただ、目が止まった。

 

 手に取りたいと思った。

 

 それだけだ。

 

「買うの?」

 

 セレスが聞いた。

 

「いや」

 

 すぐに答えた。

 

「別に使わないし」

 

 石は薬草ではない。

 火打ち石でもない。

 水袋でもない。

 食べられない。

 浄化に必要でもない。

 

 買う理由がない。

 

 ボクが手を引こうとした時、レオンが店主に聞いた。

 

「いくらだ?」

 

「これなら銅貨二枚でいいよ。紐をつけるなら三枚」

 

「紐も頼む」

 

「ちょっと待って」

 

 ボクはレオンを見た。

 

「何で買う流れになったの」

 

「気にしていただろう」

 

「見ただけ」

 

「手に取っていた」

 

「触っただけ」

 

「欲しくないのか?」

 

 欲しくない。

 

 そう言おうとして、止まった。

 

 欲しいと言うには大げさだ。

 でも、いらないと言うには少し違う。

 

 困る。

 

 とても困る。

 

「……役に立たないよ」

 

 結局、そんな言葉が出た。

 

 レオンは少し首を傾げた。

 

「飾りだからな」

 

「だから、買う理由がない」

 

「使わなくていい。だからいいんじゃないか」

 

 何でもないように言われた。

 

 店主が紐を選んでいる音が、やけに大きく聞こえた。

 

 使わなくていい。

 

 だからいい。

 

 それは、少し変な言葉だった。

 

 ボクの中にあるルシェルの記憶は、必要なものを優先する。

 浄化院の生活は豊かではなかった。

 旅に余分な荷物は持てない。

 役に立たないものを持つ余裕は、あまりなかった。

 

 前の記憶の自分も、似たようなものだった気がする。

 

 必要か。

 有用か。

 意味があるか。

 

 そういう基準で考える癖がある。

 

 だから、使わなくていいものを、ただ持っていていいという発想に、少し詰まった。

 

「……変なの」

 

「そうか?」

 

「変だよ。使わないからいいって」

 

「全部使うために持つわけじゃないだろう」

 

「そうなの?」

 

 思わず聞き返すと、レオンは少しだけ驚いた顔をした。

 

 セレスが何か言いかけて、やめる。

 

 ガルドは黙って焼き菓子の包みを持っている。

 

 店主が革紐を通した石を差し出した。

 

「はいよ。簡単な紐だけど、旅ならこれくらいが丈夫だ」

 

 レオンが代金を払う。

 

 そして、石をボクに差し出した。

 

「いらないなら、俺が持つ」

 

「買ってから言う?」

 

「いるか?」

 

 ボクは石を見た。

 

 灰青色。

 丸くて、小さい。

 紐がついて、首から下げられるようになっている。

 

 役に立たない。

 

 でも、手放したくない感じがした。

 

 とても面倒な感情だ。

 

「……いる」

 

 小さく答えると、レオンは頷いた。

 

「なら持っていればいい」

 

 石を受け取る。

 

 軽い。

 

 びっくりするほど軽い。

 

 なのに、手のひらに置くと、妙に存在感があった。

 

「名前、つけるのかい?」

 

 店主が笑って聞いた。

 

「名前?」

 

「旅のお守りにする子は、よく名前をつけるよ」

 

 名前。

 

 ボクは石を見た。

 

 灰青色。

 雨上がり。

 雫みたいな形。

 

「……雨雫」

 

 自然に出た。

 

 店主が頷く。

 

「いい名前だね」

 

 セレスも微笑む。

 

「綺麗ね」

 

 レオンは少しだけ目を細めた。

 

「雨雫か」

 

「うん」

 

「気に入ったのか」

 

「仮で」

 

「また仮か」

 

「本採用は持ち歩いてから判断」

 

 そう言いながら、ボクは石を首にかけた。

 

 外套の内側に入れる。

 

 胸元に、小さな重みができた。

 

 役に立たない重み。

 

 でも、不思議と悪くなかった。

 

     ◇

 

 市を出る頃には、昼が近くなっていた。

 

 馬車へ戻る道すがら、レオンが少しだけこちらを見た。

 

「疲れたか?」

 

「少し」

 

「馬車に戻ったら休め」

 

「はいはい」

 

「はいは一回」

 

「ガルド語が移った」

 

 レオンは小さく笑った。

 

 ほんの少し。

 

 セレスがこちらの胸元を見る。

 

「雨雫、しまっておく?」

 

「落とすと嫌だから、内側に入れる」

 

「それがいいわ」

 

「役に立たないのに、落とすと嫌なの変だね」

 

「大事なら、変ではないと思うわ」

 

「大事」

 

 その言葉は、まだ早い気がした。

 

 買ったばかりの石だ。

 銅貨三枚。

 どこにでもありそうな安物。

 

 でも、レオンが買った。

 ボクが受け取った。

 名前をつけた。

 

 その時点で、ただの石ではなくなった気がする。

 

 少し厄介だ。

 

 ものに意味がつくと、失くすのが怖くなる。

 

 そこまで考えて、ボクは首を横に振った。

 

 まだ失くしていないものの心配をしても仕方ない。

 

 胸元の石を指で押さえる。

 

「雨雫、初日から職務はなし」

 

「飾りだからな」

 

 レオンが言う。

 

「仕事しなくていいの、羨ましい」

 

「君も今日は仕事なしだ」

 

「浄化業務なし?」

 

「ああ」

 

「完全休業」

 

「市を歩いた」

 

「それは観光業務」

 

「業務なのか」

 

「なんでも業務にすると偉い感じが出る」

 

 レオンはまた困った顔をした。

 

 でも、昨日よりは少しだけ慣れてきた気がする。

 

     ◇

 

 午後の馬車は、眠かった。

 

 焼き菓子。

 市のざわめき。

 新しい石。

 揺れる馬車。

 

 全部が混ざって、まぶたが重くなる。

 

 セレスが向かいで本を読んでいる。

 

 レオンとガルドは外。

 

 ボクは胸元の雨雫に触れた。

 

 冷たい。

 小さい。

 

 それだけで、少しだけ意識がはっきりする。

 

「気に入ったのね」

 

 セレスが本から目を上げずに言った。

 

「まだ仮」

 

「仮でも、触っているわ」

 

「確認作業」

 

「何の?」

 

「あるかどうか」

 

 言ってから、自分で少し不思議に思った。

 

 あるかどうか。

 

 それを確認したくなるほど、もう気にしているらしい。

 

 面倒だ。

 

 面倒だけど、悪くない。

 

 ボクは外套の内側で石を握った。

 

「セレス」

 

「なに?」

 

「役に立たないものって、持ってていいのかな」

 

 セレスは本を閉じた。

 

 すぐに答えない。

 

 少し考えてから、優しく言った。

 

「いいと思うわ」

 

「理由は?」

 

「理由がなくても、持っていていいものもあるから」

 

「そういうもの?」

 

「そういうもの」

 

 ボクは少しだけ唇を尖らせた。

 

「みんな、簡単に言う」

 

「難しい?」

 

「難しい。必要ないものを持つのは、なんか贅沢な感じがする」

 

「贅沢でもいいじゃない」

 

「見習い浄化師なのに」

 

「見習い浄化師でも」

 

「病み上がりなのに」

 

「病み上がりでも」

 

「前世の記憶が混ざってて自己認識がふわふわしてても?」

 

 言ってから、しまった、と思った。

 

 セレスの目が少しだけ細くなる。

 

「前世?」

 

 ボクは窓の外を見た。

 

「今のは言葉の綾」

 

「そう」

 

 セレスはそれ以上聞かなかった。

 

 聞こうと思えば聞けたはずだ。

 

 でも聞かなかった。

 

「ふわふわしていても、持っていていいわ」

 

 代わりに、そう言った。

 

 ボクは雨雫を握る。

 

「そっか」

 

「ええ」

 

「じゃあ、そういうことにしておく」

 

「うん」

 

 馬車が揺れる。

 

 胸元で雨雫が小さく当たった。

 

 ころん、と。

 

 それは本当に小さな音だった。

 

 でも、なぜか耳に残った。

 

     ◇

 

 夕方近く、馬車は丘の道に差しかかった。

 

 空は薄く曇っている。

 

 遠くに森。

 その向こうに、王都へ続く街道。

 

 レオンが外から声をかけた。

 

「もう少しで次の宿場だ」

 

「了解」

 

 返事をして、窓から顔を出しかけた時だった。

 

 風が変わった。

 

 湿った土の匂い。

 それに混じる、苦い匂い。

 

 昨日の森の祠より少し濃い。

 

 手のひらの奥が、じわりと熱くなる。

 

「……瘴気」

 

 ボクが呟くと、馬車がすぐに止まった。

 

 レオンが振り返る。

 

「どこだ」

 

 ボクは森の方を見る。

 

 奥ではない。

 街道脇、倒れた木の根元。

 

 そこに黒い靄が絡んでいた。

 

「近い」

 

 レオンの表情が変わる。

 

 ガルドが盾を下ろす。

 

 セレスも馬車から降りた。

 

 昨日と違う。

 

 これは街道にかかっている。

 

 旅人が通れば、触れるかもしれない。

 

「ルシェル、できそう?」

 

 セレスが聞いた。

 

 できる。

 

 そう思った。

 

 今度は昨日より、迷いが少なかった。

 

 いや、少ないのではない。

 

 必要性が分かりやすい。

 

 街道にある。

 人が通る。

 なら、浄化した方がいい。

 

 ボクは胸元の雨雫に触れた。

 

 冷たい石。

 

 役に立たないもの。

 

 でも、触ると少し落ち着いた。

 

「短くやる」

 

 そう言うと、レオンが頷いた。

 

「無理なら止める」

 

「止める前提」

 

「昨日決めた」

 

「決めてたんだ」

 

「俺が」

 

「独断」

 

「必要なら止める」

 

 真面目な顔。

 

 昨日なら少し反発したかもしれない。

 

 今日は、なぜかそこまで嫌ではなかった。

 

「分かった。じゃあ、短時間営業」

 

 セレスが少し笑う。

 

「営業開始ね」

 

「すぐ閉店予定」

 

 ボクは倒木の根元へ向かった。

 

 ガルドが先に周囲を確認する。

 レオンが少し後ろ。

 セレスが横。

 

 近づくと、黒い靄がざわりと動いた。

 

 嫌な感じ。

 

 胸の奥の蒼銀が、それをほどきたがる。

 

 ボクは手をかざした。

 

 蒼銀の光が、手のひらに灯る。

 

 昨日より自然だった。

 

 細く息を吐く。

 

「えっと……」

 

 詠唱は知っている。

 

 この身体が覚えている。

 

 浄化院で何度も習った言葉。

 

 でも、口に出す前に、ふと胸元の雨雫が揺れた。

 

 ころん、と。

 

 小さな音。

 

 ボクは一瞬だけ、意識をそこへ向けた。

 

 役に立たない石。

 

 使わなくていいもの。

 

 それが胸元にある。

 

 そのことが、なぜか蒼銀の熱を少し落ち着かせた。

 

「……痛みを責めず、濁りをほどき、還る道を開く」

 

 言葉と共に、光が流れる。

 

 強くはない。

 

 細く、静かに。

 

 倒木の根元に絡んだ黒い靄へ、蒼銀が染み込む。

 

 靄は少し抵抗するように揺れ、やがて薄くなった。

 

 焦げた匂いが消える。

 

 湿った土と草の匂いだけが残る。

 

 終わった。

 

 手を下ろす。

 

 少し息が上がっている。

 

 けれど、倒れそうではない。

 

「終わり」

 

 ボクが言うと、レオンがすぐに近づきすぎない距離で止まった。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫。たぶん」

 

「たぶんか」

 

「今のは前向きなたぶん」

 

 セレスが肩の力を抜いた。

 

「顔色は悪くないわ」

 

「初仕事としては?」

 

「上出来」

 

「褒められた」

 

 ガルドが倒木の根元を確認する。

 

「残っていない」

 

「盾職からも確認いただきました」

 

「戦士だ」

 

「はいはい」

 

「はいは一回」

 

「三回目」

 

 ガルドは少しだけ目を細めた。

 

 笑ったのかもしれない。

 

 分かりにくい。

 

 ボクは胸元の雨雫を握った。

 

「雨雫、意外と仕事したかも」

 

 レオンが首を傾げる。

 

「石が?」

 

「ボクが勝手に落ち着いただけだけど」

 

「なら、持っていてよかったな」

 

 何でもないように言う。

 

 レオンはたぶん、本当に何でもないと思っている。

 

 でも、ボクには少し不思議だった。

 

 役に立たないものが、役に立ったような気がする。

 

 いや、役に立ったと言うと違う。

 

 仕事をしたわけではない。

 

 ただ、そこにあった。

 

 それだけ。

 

「……変なの」

 

「またそれか」

 

「変だけど、悪くない」

 

 レオンは頷いた。

 

「ならいい」

 

     ◇

 

 その夜、宿場の部屋で、ボクは雨雫を机の上に置いた。

 

 小さな灰青色の石。

 

 昼間、市で買ってもらったもの。

 名前をつけたもの。

 役に立たないはずのもの。

 

 灯りの下で見ると、やはり高価には見えない。

 

 でも、少し綺麗だった。

 

 セレスが髪をほどきながら言う。

 

「寝る時は外しておく?」

 

「うん。首に絡まると困る」

 

「机の上でいい?」

 

「見えるところがいい」

 

「分かった」

 

 セレスはそれ以上何も言わない。

 

 ボクは雨雫を指先で軽く転がした。

 

 ころん、と小さな音。

 

 市のざわめき。

 レオンの「使わなくていい」。

 街道脇の瘴気。

 手のひらの蒼銀。

 

 今日一日だけで、いろいろ増えた。

 

 まだ、レオンたちをよく知らない。

 

 向こうも、ボクをよく知らない。

 

 でも、知らないままでも少しずつ何かは増えるらしい。

 

 言葉とか。

 焼き菓子とか。

 役に立たない石とか。

 

「ルシェル」

 

 セレスが灯りを少し落とす。

 

「疲れた?」

 

「疲れた」

 

「それは言えるのね」

 

「練習の成果」

 

「早いわね」

 

「成長株なので」

 

 セレスが笑った。

 

 ボクは寝台に潜り込む。

 

 机の上の雨雫が、小さく光を受けていた。

 

 蒼銀とは違う。

 

 ただの石の、ただの反射。

 

 それでも目がそこへ行く。

 

「おやすみ、雨雫」

 

 言ってから、少し恥ずかしくなった。

 

 セレスが聞こえないふりをしてくれた。

 

 ありがたい。

 

 窓の外では、夜風が静かに吹いている。

 

 明日はまた王都へ近づく。

 

 蒼銀を見たい人たちがいる場所へ。

 

 まだ知らない街。

 まだ知らない役目。

 まだ測りきれない仲間たち。

 

 胸の奥に少しだけ不安がある。

 

 けれど、机の上には雨雫がある。

 

 使わなくていいもの。

 

 だから、持っていていいもの。

 

 その意味はまだよく分からない。

 

 でも、眠るには十分だった。

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