TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第27話 迷い石と灯った光

 

 雨雫のことは、乗り越えられなかった。

 

 少なくとも、ルシェル自身はそう思っていた。

 

 壊れたものは、壊れたままだ。

 欠けたところは戻らない。

 削られた跡は消えない。

 灰青色だった石には、まだわずかに濁りの痕が残っている。

 

 それを見ても泣かない日が増えた。

 

 触れる日も、少しずつ増えた。

 

 でも、平気になったわけではない。

 

 ただ、壊れた雨雫を、壊れた雨雫として置いておけるようになった。

 

 それは、乗り越えるというより、受け入れるに近かった。

 

「おはよう、保留猫。おはよう、ミルの歯形。おはよう、雨雫」

 

 朝、ルシェルは枕元の小箱に声をかける。

 

 順番は、日によって違う。

 

 雨雫を最後にする日もあれば、最初にする日もある。

 

 今日は最後だった。

 

 布の上に置かれた雨雫の欠片は、二つ並んでいる。

 

 元の形には戻らない。

 

 けれど、二つともここにある。

 

「今日も壊れてるね」

 

 ルシェルは小さく言った。

 

 セレスが少しだけ視線を向ける。

 

 ルシェルは続けた。

 

「でも、いる」

 

「ええ」

 

「壊れてるけど、いる」

 

「うん」

 

「それで、今日はよし」

 

 その声は、まだ少し震えていた。

 

 けれど、泣き崩れることはなかった。

 

 セレスは何も足さなかった。

 

 癒えたとは言わない。

 大丈夫とも言わない。

 前に進めたとも言わない。

 

 ただ、そこにある雨雫と、それを見ているルシェルを、そのままにした。

 

     ◇

 

 髪は、整えられた。

 

 肩口で不揃いに切られていた髪を、リーネとセレスが相談し、王都の静かな美容師を呼んだ。

 

 もちろん、何度も確認した。

 

 触っていいか。

 どこまで切るか。

 途中で止められるか。

 鏡を見るか。

 見ないか。

 

 ルシェルは最初、椅子に座ったまま固まっていた。

 

 けれど、美容師の女性は急がなかった。

 

「今日は整えるだけです。長さを奪うのではなく、今ある長さを扱いやすくします」

 

 その言い方が少しだけよかった。

 

 奪うのではなく、整える。

 

 同じ鋏でも、意味が違う。

 

 ルシェルは保留猫を膝に乗せたまま、小さく頷いた。

 

 そうして、髪は短く整えられた。

 

 以前の長い髪ではない。

 

 肩の少し上でふわりと揺れる短い髪。

 

 毛先は軽く、頬の横に少しだけ残した髪が、ルシェルの幼い輪郭を包んでいる。

 

 そして、その中に仄かな蒼銀が混じっていた。

 

 強く光るわけではない。

 

 ただ、角度によって、灰銀の髪の奥に淡い青白さが見える。

 

「……短い」

 

 鏡を見て、ルシェルは言った。

 

「ええ」

 

「知らない子」

 

 少し間が空く。

 

 セレスがそっと言う。

 

「でも、ルシェルよ」

 

 ルシェルは鏡の中の自分を見つめた。

 

 短い髪。

 蒼銀の混じる毛先。

 まだ光の薄い瞳。

 

「ルシェル、短髪仕様」

 

「仕様ではないけれど」

 

「じゃあ、暫定フォーム」

 

「それなら少し」

 

「保留猫と同じく、保留フォーム」

 

 少しだけ笑った。

 

 それは、完全に戻った笑顔ではない。

 

 でも、笑おうとして作った顔でもなかった。

 

 その日から、ルシェルは少しずつ鏡を見るようになった。

 

 見る日と、見られない日がある。

 

 でも、見られる日は増えた。

 

     ◇

 

 王都市場へ行く話が出たのは、それから数日後だった。

 

 誰かが強く勧めたわけではない。

 

 食堂の配膳係の娘が、いつものようにスープを置きながら言っただけだ。

 

「市場の焼き菓子屋さん、季節の蜂蜜菓子を出してましたよ」

 

 ルシェルの手が止まった。

 

「市場」

 

 声が小さい。

 

 レオンが視線だけを向ける。

 

 セレスは何も言わない。

 

 ガルドはパンを割る手を止めた。

 

 配膳係の娘は、しまったという顔をした。

 

「あ、ごめんなさい。無理にという意味では」

 

「ううん」

 

 ルシェルは首を横に振った。

 

「市場、あるんだ」

 

「あります」

 

「前と同じ?」

 

「だいたい同じです。木彫り屋さんも、多分います」

 

「保留猫の実家」

 

 配膳係の娘が少し笑った。

 

「そうですね」

 

 ルシェルはスープを見た。

 

 味は迷子になっていない。

 

 でも、胸の奥が少しざわついた。

 

 市場。

 

 人がいる場所。

 

 視線がある場所。

 

 けれど、木彫り猫を買った場所でもある。

 

 雨雫を買った市場とは別だが、役に立たないものを見つけられる場所。

 

「……前みたいに歩けるかな」

 

 ぽつりと言った。

 

 レオンは答えなかった。

 

 浄化ではない。

 護衛の話でもない。

 でも、すぐ答えるには重い言葉だった。

 

 セレスが言う。

 

「前とまったく同じには、歩けないかもしれない」

 

「うん」

 

「でも、今のルシェルとして歩くことはできるかもしれない」

 

「今のボク」

 

 ルシェルは短い髪に触れかけ、途中で手を止めた。

 

 まだ、自分から触るのにも迷うことがある。

 

「市場、仮予定?」

 

 レオンが言った。

 

 ルシェルは少し目を開いた。

 

「真面目剣士から仮予定が出た」

 

「使い方は合っているか」

 

「だいぶ合ってる」

 

「なら、仮予定だ。行くかどうかは当日決めればいい」

 

 ガルドが言う。

 

「行くなら、朝だ」

 

「混む前?」

 

「ああ」

 

「食料部門、計画性あり」

 

「食うためにも歩く」

 

「理由が強引」

 

 軽口は戻ってきている。

 

 けれど、その奥に緊張があるのは、全員が分かっていた。

 

     ◇

 

 市場へ行ったのは、三日後の朝だった。

 

 晴れていた。

 

 空は青く、王都の結界は薄い膜のように光っている。

 

 ルシェルは黒い外套を羽織り、首元に柔らかい布を巻いていた。

 

 髪は短く整えられている。

 

 灰銀の中に、淡い蒼銀。

 

 リーネがそれを隠すための布も用意したが、ルシェルは少し迷ってから首を振った。

 

「今日は、出しておく」

 

「髪を?」

 

「うん。隠したい日もあるけど、今日は出してみる」

 

「分かった」

 

 セレスはそれ以上言わなかった。

 

 保留猫は持っていかない。

 

 落としたら嫌だから。

 

 雨雫も持っていかない。

 

 まだ、外に出すには早いから。

 

 代わりに、ルシェルは小さな空の布袋を持った。

 

「何か入れるの?」

 

 セレスが聞くと、ルシェルは少し肩をすくめた。

 

「分からない。空袋」

 

「空袋」

 

「何も入らなくてもいい」

 

「いいと思うわ」

 

 レオンは横に立ち、ガルドは少し後ろ。

 

 市場への道は、以前よりずっと長く感じた。

 

 人の声。

 石畳。

 馬車の音。

 店の匂い。

 

 全部が少し強い。

 

 でも、ルシェルは歩いた。

 

 速くはない。

 

 途中で何度も止まった。

 

 それでも、戻らなかった。

 

 市場に入る。

 

 朝の市場は、まだ人が少ない。

 

 焼き菓子屋の甘い匂い。

 

 木彫り屋の老人。

 

 布屋の鮮やかな色。

 

 色硝子の光。

 

 ルシェルは周囲を見た。

 

「市場、まだある」

 

 セレスが頷く。

 

「あるわ」

 

「ボクがいない間も、あった」

 

「ええ」

 

「ちょっと腹立つ」

 

 レオンが少しだけ眉を動かした。

 

「腹立つのか」

 

「うん。世界、勝手に進んでる」

 

「そうだな」

 

「でも、止まってたらそれはそれで怖い」

 

「難しいな」

 

「難問化してるので」

 

 そう言って、ルシェルは少し笑った。

 

 瞳にはまだ薄い影がある。

 

 けれど、市場の光を少しだけ受け取っているように見えた。

 

     ◇

 

 木彫り屋の老人は、ルシェルを見ると、すぐに大声を出さなかった。

 

 ただ、軽く頭を下げた。

 

「また来たね」

 

「保留猫の実家確認に」

 

「元気かい、あの猫は」

 

「相変わらずやる気がない」

 

「いい猫だ」

 

「かなり」

 

 老人は何かを聞きたそうにした。

 

 短い髪のことか。

 しばらく来なかったことか。

 護衛の空気のことか。

 

 けれど、何も聞かなかった。

 

 代わりに、小さな木彫りの鳥を見せた。

 

「今日はこういうのもある」

 

「鳥」

 

「飛ばない鳥だ」

 

「木だから」

 

「そうだね」

 

 ルシェルは少し笑った。

 

 買わなかった。

 

 でも、見た。

 

 見て、戻した。

 

 それだけでよかった。

 

 次に、焼き菓子屋へ行った。

 

 蜂蜜菓子を一つ買った。

 

 ガルドが二つ買った。

 

「ガルド、多い」

 

「保存分だ」

 

「菓子にも保存分がある」

 

「ある」

 

「食料管理の幅が広い」

 

 少しずつ、普通の会話が戻る。

 

 普通というより、ルシェルたちの会話。

 

 変で、軽くて、少しずつ支えになる言葉。

 

     ◇

 

 その帰り道だった。

 

 市場の端、古道具と小物が混ざった露店の隅に、小さな石が並んでいた。

 

 宝石ではない。

 

 価値のある鉱石でもない。

 

 形も揃っていない。

 

 売り物というより、他の品物の隙間に置かれた迷子みたいな石たちだった。

 

 ルシェルは足を止めた。

 

 レオンも止まる。

 

 セレスも、何も言わずに隣へ立った。

 

 石。

 

 灰色。

 青み。

 白い筋。

 丸いもの。

 欠けたもの。

 

 その中に、一つだけ、不思議な色の石があった。

 

 灰色とも青とも言えない。

 

 雨の直前の空のような色。

 

 けれど、雨雫とは違う。

 

 雨雫ほど澄んでいない。

 

 少し濁っていて、形も歪んでいて、片側が平たく欠けている。

 

「……迷子」

 

 ルシェルが呟いた。

 

 露店の女主人が顔を上げる。

 

「石かい?」

 

「この石、何ですか」

 

「さあね。仕入れの箱に紛れてたんだよ。きれいでもないし、使い道もないし、でも捨てるには少し気になるから置いてる」

 

「捨てるには少し気になる」

 

「そう」

 

 ルシェルは石を見た。

 

 触らなかった。

 

 手を伸ばしかけて、止めた。

 

 レオンは黙っている。

 

 セレスも黙っている。

 

 ガルドも何も言わない。

 

 誰も、買うかとは聞かなかった。

 

 ルシェルはしばらく見て、やがて一歩下がった。

 

「帰る」

 

 声は小さかった。

 

 セレスが頷く。

 

「帰りましょう」

 

 レオンも頷く。

 

 ガルドは人の流れを遮るように立ち、帰路を作った。

 

 その日、ルシェルは石を買わなかった。

 

 石のことも、帰るまでほとんど話さなかった。

 

     ◇

 

 夜。

 

 ルシェルは保留猫を膝に置き、雨雫の欠片が入った小箱を見ていた。

 

 市場で見た石のことは、誰も聞かなかった。

 

 聞かれないから、逆に頭に残る。

 

 あの石。

 

 迷子みたいな石。

 

 雨雫とは違う。

 

 代わりではない。

 

 雨雫の穴を埋めるものでもない。

 

 そんなことは分かっている。

 

 分かっているのに、気になる。

 

「保留猫」

 

 ルシェルは呟いた。

 

「迷い石、いたね」

 

 保留猫は黙っている。

 

「ほしいわけじゃない。たぶん」

 

 保留猫は黙っている。

 

「でも、帰ってきてからもいる」

 

 頭の中に。

 

 目の奥に。

 

 あの灰青の、少し濁った石。

 

「困る」

 

 保留猫は困っていない顔だった。

 

 その夜、ルシェルは雨雫に触れなかった。

 

 でも、小箱を少しだけ近くに置いて眠った。

 

     ◇

 

 翌日は何も言わなかった。

 

 その次の日も、何も言わなかった。

 

 三日目の昼。

 

 食堂でスープを飲んでいる時、ルシェルは急に言った。

 

「ほしいかも」

 

 全員が顔を上げた。

 

 セレスが聞く。

 

「何を?」

 

 ルシェルはスプーンを見つめたまま言った。

 

「市場の、迷い石」

 

 沈黙。

 

 レオンは少しだけ目を伏せた。

 

 ガルドはパンを割る手を止めない。

 

 セレスは静かに頷いた。

 

「見に行く?」

 

「うん」

 

「買う?」

 

「分からない」

 

「見に行って、決めればいいわ」

 

「うん」

 

 ルシェルは少しだけ息を吐いた。

 

「雨雫の代わりじゃない」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 それは、とても大事な言葉だった。

 

「代わりにしたら、雨雫に悪い」

 

 セレスが言う。

 

「代わりではなく、別の石として見に行きましょう」

 

「うん」

 

 レオンは何も言わなかった。

 

 ただ、静かに頷いた。

 

     ◇

 

 再び市場へ行ったのは、その翌朝だった。

 

 前より少しだけ足取りは軽い。

 

 それでも、ルシェルは何度も立ち止まった。

 

 石の露店へ近づくにつれて、口数が減る。

 

 セレスは隣を歩く。

 

 レオンは少し前。

 

 ガルドは後ろ。

 

 露店はまだあった。

 

 石も、あった。

 

 迷い石も、まだ隅に置かれていた。

 

「いた」

 

 ルシェルが小さく言う。

 

 露店の女主人が笑った。

 

「また来たね」

 

「この石、まだ迷子でした」

 

「そうだね。誰も連れていかなかった」

 

 ルシェルは石を見る。

 

 今日は触れた。

 

 指先で、少しだけ。

 

 冷たい。

 

 軽い。

 

 雨雫とは違う重み。

 

 表面がざらついている。

 

 片側が平たく欠けている。

 

 完璧ではない。

 

 きれいとも言い切れない。

 

 でも、捨てるには少し気になる石。

 

「……戻したくないかは、まだ分からない」

 

 ルシェルは言った。

 

 ガルド理論。

 

 持って、戻したくなければ買う。

 

 けれど、今はそこまで分からない。

 

 ルシェルは石を台へ戻そうとした。

 

 その時。

 

 横から硬貨の音がした。

 

 レオンだった。

 

 彼は露店の女主人に代金を渡していた。

 

 ルシェルが目を見開く。

 

「え」

 

 レオンは女主人から石を受け取る。

 

 そして、ルシェルへ差し出した。

 

「使わなくていい」

 

 同じ言葉だった。

 

 市場で、雨雫を買ってくれた時の。

 

「だから、いいんじゃないか」

 

 ルシェルの顔が歪んだ。

 

「レオン」

 

「代わりではない」

 

 彼は続けた。

 

「雨雫の代わりではない。新しい石だ」

 

「何も、言ってない」

 

「ほしいかも、と言った」

 

「それだけ」

 

「ああ」

 

「それだけで買ったの」

 

「前もそうだった」

 

「前は、ボク、いるって言った」

 

「今回は、まだ言えないように見えた」

 

 その言葉で、ルシェルの目から涙が落ちた。

 

 泣いているのに、口元は少し笑っていた。

 

 泣き笑い。

 

 うまく息ができない顔。

 

「真面目剣士、また勝手に石を買う」

 

「嫌だったか」

 

「嫌じゃない」

 

「そうか」

 

「嫌じゃない。困る。うれしい。ずるい。雨雫の代わりじゃない。なのに、うれしい。どうしたらいいの、これ」

 

 レオンは少し困った顔をした。

 

「持てばいい」

 

 ガルドが言った。

 

 ルシェルは振り返る。

 

 ガルドはいつも通りだった。

 

「戻したくなければ持て」

 

「もう買われてる」

 

「なら持て」

 

「雑」

 

「大事だ」

 

 セレスが泣きそうに笑っていた。

 

「ルシェル」

 

 彼女は優しく言う。

 

「今、うれしいなら、うれしいでいいと思う」

 

「雨雫に悪くない?」

 

「悪くない」

 

「壊れた雨雫がいるのに」

 

「雨雫は雨雫。これは別の石」

 

「別の石」

 

「ええ」

 

 ルシェルは、レオンの手の上の迷い石を見た。

 

 小さくて、不格好で、少し濁っている。

 

 でも、そこにある。

 

 雨雫とは違う。

 

 違うから、持てるのかもしれない。

 

 ルシェルは両手で石を受け取った。

 

 冷たい。

 

 でも、手の中に収まる。

 

 涙が落ちる。

 

 けれど、口元は笑っている。

 

「……迷い石」

 

 名前のように言った。

 

 セレスが微笑む。

 

「名前?」

 

「仮名称」

 

「正式名称は?」

 

「保留」

 

 ガルドが言う。

 

「また保留か」

 

「保留は大事です」

 

 ルシェルは涙を拭かずに笑った。

 

「保留猫の同僚」

 

「石だぞ」

 

「石部門」

 

「そうか」

 

 レオンは静かに見ていた。

 

 ルシェルは迷い石を握り、胸元へ寄せる。

 

 泣いている。

 

 笑っている。

 

 そして、その瞳に、ほんの少し光が戻っていた。

 

 市場の朝の光が、瞳の奥でかすかに跳ねた。

 

 セレスがそれに気づき、息を呑んだ。

 

 リーネがいれば、たぶん泣いただろう。

 

 レオンも気づいた。

 

 ガルドも気づいた。

 

 誰も大げさに言わなかった。

 

 言えば、消えてしまいそうだったから。

 

     ◇

 

 帰り道、ルシェルは迷い石を小袋に入れず、手の中に持って歩いた。

 

 時々見て、時々握る。

 

 泣き止んだあとも、目元は赤い。

 

 けれど、瞳の奥にほんの細い光がある。

 

 以前と同じではない。

 

 あの眠そうで、少し悪戯っぽい半目とは違う。

 

 けれど、完全な暗さではない。

 

 戻ったのではない。

 

 新しく灯った。

 

 そういう光だった。

 

「レオン」

 

「何だ」

 

「これ、賄賂?」

 

「何への」

 

「本採用維持」

 

「必要なのか」

 

「不要です。すでに本採用です」

 

「なら賄賂ではない」

 

「じゃあ、何?」

 

 レオンは少し考えた。

 

「贈り物だ」

 

 ルシェルはまた泣きそうになった。

 

「真っ直ぐ言うな」

 

「曲げる理由がない」

 

「真面目剣士、情緒に強攻撃」

 

「すまない」

 

「謝らなくていい」

 

 前にも言った言葉。

 

 でも、今日は少し響きが違った。

 

     ◇

 

 館へ戻ると、リーネとクラウスが待っていた。

 

 報告を受けていたのだろう。

 

 クラウスはルシェルの手元を見た。

 

「新しい石か」

 

「迷い石です」

 

「迷い石」

 

「仮名称。正式名称は保留」

 

「記録するか?」

 

 ルシェルは少し考えた。

 

 以前なら、木彫り猫の時に「書くの?」と驚いていた。

 

 今は、少し違う。

 

「してもいいです」

 

 クラウスの表情がわずかに変わった。

 

「いいのか」

 

「うん。ただし、研究記録じゃなくて」

 

「もちろんだ」

 

 クラウスは紙を取り出さなかった。

 

 代わりに、静かに言った。

 

「では、経過記録に残す。本人が市場にて迷い石を受け取り、保持を希望。雨雫の代替ではなく、別個の私物として扱う」

 

 ルシェルは頷いた。

 

「それならいい」

 

「分かった」

 

 リーネはルシェルの瞳を見て、目を潤ませた。

 

「ルシェルさん」

 

「何ですか」

 

「少し、目に光が戻っています」

 

 言われて、ルシェルは瞬きをした。

 

「ほんと?」

 

「はい」

 

「蒼銀関係?」

 

「いいえ」

 

 リーネははっきり言った。

 

「たぶん、あなた自身の光です」

 

 ルシェルは困ったように笑った。

 

「リーネさん、今日ちょっと詩人」

 

「たまには」

 

「王都、詩人が増える」

 

 クラウスが言う。

 

「記録には残さない」

 

「残してもいいのに」

 

「詩は専門外だ」

 

「書類の人の限界」

 

 その場に、小さな笑いが落ちた。

 

     ◇

 

 夜、ルシェルは鏡の前に立った。

 

 短く整えた髪。

 

 灰銀の中に、仄かな蒼銀。

 

 肩の上で軽く揺れる毛先。

 

 以前とは違うシルエット。

 

 そして、瞳。

 

 まだ暗さはある。

 

 完全に戻ったわけではない。

 

 けれど、市場へ行く前とは違った。

 

 奥に細い光がある。

 

 迷い石を握っている自分が映っている。

 

「……ボクver2だね」

 

 ルシェルは言った。

 

 セレスが隣で首を傾げる。

 

「ばーじょん?」

 

「仕様変更後のボク」

 

「また仕様にする」

 

「じゃあ、暫定新フォーム」

 

「そっちの方がいいわ」

 

「ボクver2、強そう?」

 

 そう言って、ルシェルははにかむように笑った。

 

 短い仄かな蒼銀混じりの髪が、灯りを受けて少しだけ光る。

 

 瞳にも、細い光がある。

 

 強そうかと聞きながら、その笑顔はまだ少し脆い。

 

 でも、確かに笑っていた。

 

 セレスは泣きそうになりながら笑った。

 

「強そう」

 

「ほんと?」

 

「ええ。でも、強くなくてもいい」

 

「そこまでセットで言うの、セレスだね」

 

「必要だから」

 

 レオンが扉の近くで言う。

 

「強そうだ」

 

 ルシェルは振り返る。

 

「真面目剣士も?」

 

「ああ」

 

「どのへんが?」

 

「立っているところ」

 

 ルシェルは少し黙った。

 

 それから、照れたように目を伏せた。

 

「回答が重い」

 

「すまない」

 

「謝らなくていい」

 

 ガルドが菓子を置く。

 

「強いなら食え」

 

「強さと食料を結びつける」

 

「食わなければ弱る」

 

「正論」

 

 ルシェルは迷い石を小箱に置いた。

 

 保留猫。

 ミルの歯形。

 雨雫の欠片。

 そして、迷い石。

 

 並べると、少し不思議だった。

 

 壊れたもの。

 残ったもの。

 新しく来たもの。

 

 どれも、ルシェルを蒼銀だけにしないもの。

 

「おやすみ、保留猫。おやすみ、ミルの歯形。おやすみ、雨雫。おやすみ、迷い石」

 

 雨雫は壊れている。

 

 それは変わらない。

 

 でも、そこに迷い石が増えた。

 

 代わりではなく。

 

 別のものとして。

 

 ルシェルは灯りの中で、自分の短い髪に少し触れた。

 

 今日は、触れられた。

 

「蒼銀は、今日は残業なし」

 

 小さく言う。

 

 そして、少しだけ笑う。

 

「ボクver2、初日終了」

 

 その瞳には、確かに光が戻り始めていた。

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