TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
王都の人々にとって、蒼銀の少女は噂から始まった。
最初は、ただの珍しい話だった。
王都へ、蒼銀の見習い浄化師が来たらしい。
まだ十五歳らしい。
正式な浄化師ではないらしい。
けれど、手のひらに稀な光を灯したらしい。
市場の者たちは、少し好奇心を持った。
食堂の職員たちは、少し心配した。
浄化師団の見習いたちは、少し緊張した。
貴族たちは、かなり強く関心を持った。
蒼銀。
その言葉は、本人より先に王都を歩いた。
けれど、実際に彼女を見た者は、少し首を傾げた。
その少女は、文献にあるような神秘そのものではなかった。
食堂でスープの味を迷子にし、山羊の話で少しだけ目を明るくし、木彫り猫を買うかどうかで真剣に悩む。
半目で、眠そうで、時々妙な言い回しをする。
「見習いです」と訂正する。
「営業範囲」と言う。
「仮予定」と言う。
蒼銀の少女というより、蒼銀を持ってしまった少女だった。
王都の下働きの娘は、そう思っていた。
◇
彼女は館の食堂で働いていた。
名はエマという。
配膳係の一人で、特別な役職はない。
浄化師でもない。
結界局の者でもない。
貴族でもない。
だから、最初にルシェルを見た時も、遠くから皿を運ぶだけだった。
小柄な少女。
黒い外套の護衛たちに囲まれて、少し居心地悪そうに座っている。
スープを前にして、食べるのを忘れたような顔をしていた。
エマは、思わず声をかけた。
「味、迷子になってませんか?」
少女は少し驚いて、それから小さく笑った。
「かなり迷子です」
その返事が妙におかしくて、エマは覚えた。
蒼銀ではなく。
味が迷子になる少女として。
◇
それから、噂は変わっていった。
丘の村へ行ったらしい。
境界石を少しだけ浄化して、全部はやらずに帰ってきたらしい。
市場で木彫り猫を買ったらしい。
館の廊下で結界灯が割れた時、蒼銀を出さずに待てたらしい。
エマの耳に届くそれらの話は、どれも断片だった。
けれど、断片の中のルシェルは、少しずつ王都に馴染み始めているように見えた。
食堂へ来ると、まだ視線を気にする。
それでも、スープを飲む。
焼き菓子を少し食べる。
ガルドという大柄な戦士に「食料部門」と言って、戦士が真顔で「食料は大事だ」と返す。
エマは、そのやり取りを少し楽しみにしていた。
王都は、蒼銀を欲しがっている。
でも、食堂の中では、ルシェルはただ食事をする一人だった。
少なくとも、エマはそう扱いたかった。
◇
空気が変わったのは、王都の外で事件が起きた翌日だった。
貴族が訓練現場へ現れ、濁った結界具を持ち込み、蒼銀を出させようとした。
その話は、正式には伏せられていた。
だが、館の中で働く者には分かる。
護衛が増えた。
廊下の結界灯が点検された。
クラウス書記官がいつもより速く歩いていた。
リーネ浄化師の顔が硬かった。
レオンとガルドが食堂へ来る時、入口と窓を先に確認するようになった。
そして、ルシェルは部屋食になった。
エマは食事を運んだ。
「今日は部屋食だそうです」
そう言うと、ルシェルは少し疲れた顔で笑った。
「王都の安全都合」
「みたいですね」
「大丈夫ですか」と聞いた。
すると、彼女は少し考えてから言った。
「大丈夫ではないけど、食べる」
それが、エマの知っている最後の、普通に近いルシェルだった。
◇
その夜、館の結界灯が一斉に揺れた。
エマは食堂の片づけをしていた。
天井の灯りが二度、三度と瞬き、食器棚の硝子がかすかに鳴った。
誰かが叫んだ。
「灯りから離れて!」
次に、廊下の向こうから走る足音。
護衛の怒鳴り声。
結界局の職員が駆け抜ける。
エマは食堂から出ようとして、止められた。
「部屋へ戻ってください!」
「何が」
「戻って!」
その声が、ただ事ではなかった。
しばらくして、館の一部が封鎖された。
ルシェルの部屋のある区画だった。
エマは、その時点で悟った。
何かが起きた。
そして、たぶんルシェルに起きた。
◇
翌朝、館は眠っていない顔をしていた。
クラウスは目元に影を作り、書類を抱えて歩いていた。
セレスは白い顔で術式紙を握っていた。
リーネは一度だけ食堂の前を通ったが、何も食べなかった。
ガルドだけは、食料を大きな袋に詰めていた。
「持っていくんですか」
エマは思わず聞いた。
ガルドは頷いた。
「必要だ」
「ルシェルさんは」
言いかけて、止まった。
聞いていいことか分からなかった。
ガルドは短く言った。
「連れて帰る」
それだけだった。
その言葉で、エマはすべてを理解した。
攫われたのだ。
あの子は。
蒼銀の少女ではなく、食堂で味を迷子にしていたあの子が。
◇
それからの七日間、王都の館は別の建物になった。
表では普段通りを装った。
食堂も開いた。
来客の対応もした。
結界灯も点いた。
けれど、内側は違った。
夜遅くまで灯る会議室。
出入りする浄化師。
押収物を運ぶ結界局職員。
眠らないクラウス。
戻ってはまた出ていく救出隊。
エマは、食事を作った。
できることは、それくらいだった。
レオンはほとんど食べなかった。
ガルドが無理に食べさせた。
セレスは器を持ったまま固まることがあった。
リーネは薬湯だけで済ませようとして、ガルドに睨まれてパンを食べた。
クラウスは書類を読みながら食べるので、何を食べたか分かっていなかった。
エマは、彼らを見ていた。
ルシェルには、こんなにも帰りを待つ人がいるのだと思った。
そして同時に、そんな人たちがいても守りきれなかったのだと思った。
それが怖かった。
◇
五日目の夜、救出隊が戻った時、空気がさらに悪くなった。
ルシェルはいなかった。
代わりに、何かが布に包まれていた。
ガルドがそれを持っていた。
セレスは泣いていないのに、泣いたあとのような顔だった。
レオンは誰とも目を合わせなかった。
エマは厨房の影から、それを見ていた。
後で聞いた。
ルシェルの髪が見つかったのだと。
切られた髪。
その瞬間、エマは吐き気を覚えた。
髪。
ただの髪ではない。
誰かの身体の一部。
誰かが勝手に切っていいものではない。
エマは、厨房の布巾を握りしめた。
蒼銀の研究だとか、王都のためだとか、そんな言葉は知らない。
でも、それが間違っていることだけは分かった。
◇
八日目の朝、館の鐘が鳴るより早く、救出隊は出ていった。
エマは厨房で湯を沸かしていた。
何を作ればいいか分からなかった。
戻ってくるのか。
連れて帰れるのか。
食べられる状態なのか。
分からない。
それでも、スープを作った。
具は少なく、味は薄く、温かいもの。
味が迷子にならないように。
そう思って、鍋をかき混ぜた。
昼前、館の門が騒がしくなった。
誰かが叫んだ。
「戻った!」
エマは鍋の火を止め、廊下へ出た。
職員に止められた。
「近づかないでください」
「分かっています」
分かっている。
近づいてはいけない。
刺激してはいけない。
けれど、見ずにはいられなかった。
廊下の端から、セレスに抱えられたルシェルが見えた。
一瞬、誰だか分からなかった。
髪が短い。
肩口で途切れている。
顔は青白く、目は焦点が合っていない。
身体は小さく、布に包まれて、震えていた。
レオンは横を歩いていた。
ガルドは何か小さなものを大事そうに持っていた。
リーネは泣きそうな顔で、周囲を見張っていた。
クラウスは真っ白な顔で書類を抱えていた。
エマは、両手で口を押さえた。
泣きそうになった。
泣いてはいけないと思った。
泣けば、ルシェルが怖がるかもしれない。
だから、声を小さくした。
「おかえりなさい」
ルシェルが聞こえたかは分からない。
でも、セレスがこちらを見た。
そして、ルシェルの代わりに言った。
「ただいま」
その声で、エマは泣いた。
◇
奪還後のルシェルは、すぐには戻らなかった。
一日目、眠り続けた。
二日目、目覚めたが、記憶は混ざっていた。
三日目、ある言葉に怯えた。
四日目、仲間が離れることを怖がった。
五日目、一口だけスープを飲んだ。
六日目、廊下の窓まで歩いた。
七日目、少しだけ軽口が戻った。
八日目、犯人の一人を見て、蒼銀が暴れた。
エマは、そのほとんどを直接見ていない。
ただ、食事を運び、扉の外で待ち、戻ってきた器の中身を見るだけだった。
残っているスープの量。
少し減ったパン。
半分だけ食べられた焼き菓子。
それが、エマにとっての回復の記録だった。
ある日、スープが一口分減っていた。
次の日、三口分減っていた。
さらに次の日、焼き菓子の端が欠けていた。
エマは厨房でそれを見て、小さく泣いた。
誰にも見られないように。
◇
やがて、ルシェルは食堂へ戻ってきた。
完全にではない。
セレスが隣にいる。
レオンとガルドが入口側と背中側にいる。
リーネが少し離れた席に座ることもある。
それでも、自分の足で食堂へ来た。
髪は短く整えられていた。
灰銀の中に、仄かな蒼銀が混じっている。
その色を見て、周囲が少し息を呑んだ。
けれど、誰も何も言わなかった。
言わないように、館全体が学んでいた。
ルシェルの瞳には、まだ光がなかった。
言葉は戻り始めている。
「味、迷子じゃない?」
エマが聞くと、ルシェルはスープを見て答えた。
「今日は、道案内あり」
「よかったです」
「焼き菓子の案内標識も希望」
「つけます」
「食堂、対応が早い」
軽口だった。
エマは笑った。
笑ったあと、胸が痛くなった。
口調は戻ってきている。
でも、瞳はまだ暗い。
それでも、戻ってきたのだ。
食堂へ。
スープの前へ。
味が迷子かどうかを言える場所へ。
◇
雨雫のことを、エマは後から知った。
壊された石。
ルシェルが大事にしていた、役に立たない石。
レオンが以前、市場で買ってくれたもの。
その欠片が戻ってきて、小箱に置かれていること。
ルシェルが日によって見られたり、見られなかったりすること。
それを聞いた時、エマは思った。
回復とは、壊れたものを直すことではないのかもしれない。
少なくとも、今のルシェルにとっては。
壊れたものを壊れたまま、そこに置ける日が増えること。
見られない日は布をかけること。
触れる日は少し触ること。
それを誰も急かさないこと。
そういうことなのだと思った。
◇
そして、迷い石の日が来た。
エマは直接、市場には行っていない。
けれど、戻ってきたルシェルを見た。
その日、彼女は短く整えた髪を隠していなかった。
仄かな蒼銀が、光を受けて柔らかく混じっている。
手には、小さな石を持っていた。
灰青の、少し濁った、不格好な石。
レオンが贈ったのだと、あとから聞いた。
雨雫の代わりではない。
新しい石。
ルシェルは泣いたらしい。
泣きながら笑ったらしい。
それを聞いたエマは、厨房でしばらく動けなかった。
泣き笑い。
それは、戻ってきた証のように思えた。
ただ泣くのではなく。
ただ笑うのでもなく。
どちらも一緒に出せるようになった。
苦しいけれど、うれしい。
悲しいけれど、受け取れる。
そういう複雑なものを、もう一度自分の中に置けるようになったのだ。
◇
その夜、エマは食堂でルシェルを見かけた。
ほんの短い時間だった。
正式な食事ではなく、温かい飲み物を受け取りに来ただけ。
セレスが隣にいて、レオンが少し離れて立っていた。
ガルドは当然のように菓子を確認していた。
ルシェルは短い髪に手をやり、少しだけ照れたように笑っていた。
「ボクver2だね」
そう言ったのが聞こえた。
エマには、意味はよく分からなかった。
でも、セレスが笑い、レオンが真面目に頷き、ガルドが菓子を差し出したので、きっと大事な言葉なのだと思った。
ルシェルは少しはにかんで言った。
「強そう?」
その時、エマは気づいた。
瞳に光が戻っている。
完全ではない。
以前と同じではない。
けれど、暗いままではない。
食堂の灯りが、彼女の瞳の奥で小さく跳ねた。
エマは泣きそうになり、慌てて厨房の方を向いた。
泣いてはいけない。
今日は、泣くよりも焼き菓子を用意する方がいい。
◇
王都は、すべてを見ていたわけではない。
地下で何が行われたか。
ルシェルが何を失ったか。
どんな言葉で削られたか。
雨雫が壊れた瞬間、彼女がどんなふうに泣いたか。
それを、外の者は完全には知らない。
知ってはいけない部分もある。
けれど、戻ってきたあとを見ていた者たちはいる。
眠り続ける部屋の前を通った者。
食べられなかったスープを下げた者。
廊下の結界灯を交換した者。
移送経路の不備に怒るクラウスを見た者。
短くなった髪を見ても、何も言わずに目を伏せた者。
市場へ出る彼女を、遠くから見送った者。
彼らは知っている。
ルシェルは、蒼銀だから戻ってきたのではない。
ルシェル・ノアとして戻され、ルシェル・ノアとして少しずつ戻ってきた。
壊れた雨雫をなかったことにせず。
新しい迷い石を代わりにせず。
保留猫に挨拶し、ミルの歯形を残し、短い髪に仄かな蒼銀を混ぜたまま。
そして、いつかのように、少し変な言葉で笑った。
「ボクver2」
その言葉は、食堂の片隅まで届いた。
エマはその日、帳簿の隅に小さく書いた。
『蜂蜜菓子、一つ余分に用意。ルシェルさん用』
正式な記録ではない。
クラウスの書類にも、浄化師団の報告にも載らない。
けれど、エマにとっては大事な記録だった。
蒼銀の少女ではなく。
味を迷子にしながら、少しずつ戻ってきた少女のための、小さな記録。
王都はまだ騒がしい。
貴族たちはまだ争うだろう。
旧研究派閥の罪も、これから裁かれる。
けれど、その夜の食堂では、温かい飲み物と焼き菓子が用意された。
それを見て、エマは思った。
奪還とは、地下から連れ戻すことだけではない。
戻ってきたあと、食卓に席を残しておくこと。
味が迷子にならないよう、薄いスープを作ること。
新しい石を持った彼女に、前と同じように声をかけること。
そして、変わってしまった姿にも、変わらず「おかえりなさい」と言うこと。
それもまた、奪還の続きなのだと。