TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
実地業務。
その言葉を聞いた時、ルシェルは少しだけ背筋を伸ばした。
実地。
業務。
つまり、ただの散歩ではない。
正式な見習い浄化師としての仕事である。
しかも行き先は、あの丘の村。
山羊がいる。
境界石がある。
ミルがいる。
たぶん、柵もまだかじられている。
ルシェルは書類を両手で持ち、真剣な顔をした。
「つまり、山羊確認業務ですね」
クラウスは即座に訂正した。
「石の浄化確認業務だ」
「山羊の村に行くのに?」
「境界石の確認だ」
「山羊がいるのに?」
「主目的は石だ」
「副目的に山羊」
「記録上は不要だ」
「王都書類、山羊に厳しい」
クラウスは筆を置いた。
「山羊は記録外で確認してよい」
「勝った」
「勝ってはいない」
リーネが横で微笑んだ。
セレスはもう笑いをこらえていなかった。
ガルドは荷物の中に保存食を入れている。
レオンは、いつもの真面目な顔で護衛経路を確認していた。
この面々で、再び丘の村へ行く。
以前とは少し違う。
ルシェルの髪は短く、仄かに蒼銀が混じっている。
小袋には迷い石。
雨雫の欠片は、今日は館の部屋に置いていく。
保留猫も留守番。
ミルの歯形だけは、持っていくか少し迷ったが、結局持っていかないことにした。
「現地のミル本人に会うので、歯形の代理出張は不要」
ルシェルはそう説明した。
ガルドが頷く。
「合理的だ」
「ガルドに合理的って言われると、勝った気がする」
「勝っている」
「勝った」
レオンが真面目に言った。
「出発前に勝敗を決めるな」
「真面目剣士、今日も通常運転」
ルシェルは軽く笑った。
その笑いに、セレスの胸がふわりと温かくなる。
最近のルシェルはよく笑うようになった。
以前とまったく同じではない。
けれど、その少し照れたような、油断するとすぐ引っ込んでしまいそうな笑いが、どうにも愛おしい。
セレスは表情を整える。
ここで「かわいい」と言うと、ルシェルは間違いなく半目で抗議する。
でも、かわいい。
非常に。
◇
出発の日。
馬車に乗る前、ルシェルは短い髪を指先で少し整えた。
灰銀の中に混じる蒼銀が、朝の光で淡くきらめく。
本人は無意識だったのだろう。
ただ、少し跳ねていた毛先を直しただけ。
だが、周囲は反応した。
セレスは胸を押さえた。
リーネは微笑みを深くした。
ガルドは無言で菓子袋を一つ増やした。
レオンは一瞬だけ目を逸らした。
クラウスは書類に視線を落としたが、筆先が止まっていた。
ルシェルは気づいた。
「待って」
全員が平静を装った。
「何だ」
レオンが答える。
「今、何か反応したよね」
「していない」
「した」
「髪を整えただけだろう」
「そう。髪を整えただけです。それに対して、何か空気が動いた」
セレスが優しく言う。
「気のせいじゃない?」
「セレスの優しい嘘、最近精度が落ちてる」
「そう?」
「そう」
ガルドが菓子袋を背後へ隠した。
ルシェルの目が細くなる。
「ガルド、今何を増やした?」
「保存食だ」
「かわいい行動一回につき保存食が増える仕組み?」
「必要量の再計算だ」
「絶対違う」
クラウスが咳払いした。
「時間だ。出発する」
「クラウスさん、逃がした」
「進行管理だ」
「全員、何のことだか分からない顔がうまい」
ルシェルはぶつぶつ言いながら馬車へ乗った。
その小さな背中を見て、セレスはまた胸を押さえた。
隣でリーネが小声で言う。
「分かります」
「分かりますよね」
「はい」
ルシェルが振り返る。
「何が?」
二人は同時に微笑んだ。
「何でもないわ」
「何でもありません」
「絶対何かある」
◇
馬車の中では、以前よりずっと穏やかに時間が流れた。
ルシェルは窓際に座り、外の景色を見ている。
道。
畑。
小川。
遠くの森。
その横顔は、少し緊張しているが、以前のように張りつめてはいない。
「馬車、今日は人類側が優勢」
ルシェルが言った。
セレスが微笑む。
「揺れは大丈夫?」
「三半規管が労働争議を起こしていない」
「よかったわ」
「でも、油断すると労働組合が結成される」
ガルドが干し果物を出した。
「食え」
「労働組合対策?」
「そうだ」
「雑に効きそう」
ルシェルは干し果物を受け取る。
指先でつまみ、少し眺めてから口に入れた。
小動物みたいだった。
その場の全員が、ほんの一瞬だけ沈黙した。
小さく噛んでいる。
真剣に味を確認している。
半目で、少し頬を動かしている。
かわいい。
言ってはいけない。
言えば抗議される。
だが、かわいい。
レオンは窓の外を見た。
ガルドは追加の干し果物を用意した。
セレスは口元を押さえた。
リーネは目を細めた。
ルシェルは咀嚼を止めた。
「……今、また何かあった」
「何も」
レオンが言う。
「レオン、目が外向いてる」
「警戒だ」
「干し果物食べただけで警戒態勢になる護衛、怖い」
ガルドが追加を差し出す。
「もう一つ食うか」
「やっぱり増えた!」
「必要だ」
「何に?」
「旅に」
「旅、便利に使われすぎ」
◇
丘の村へ近づくと、ルシェルの表情が少しずつ明るくなった。
村の入口。
柵。
低い屋根。
遠くに見える丘。
そして。
「メェ」
山羊の声。
ルシェルは馬車の窓に両手をついた。
「山羊!」
その声が、あまりにも素直だった。
全員の心が一斉にやられた。
セレスは完全に負けた。
リーネも負けた。
ガルドは保存食の袋をさらに一つ確認した。
レオンは口元を引き締めたが、目元が少し緩んだ。
クラウスは同行していないのに、もしここにいたら確実に記録しただろう。
ルシェルは振り返る。
「今のは仕方ないよね?」
レオンが答える。
「何がだ」
「みんなの過剰反応」
「山羊がいた」
「そう。山羊がいたからボクが反応した。そこまでは自然」
「自然だな」
「でも、そのあと全員が『山羊を見つけて喜ぶルシェル』に反応した」
セレスは優しく首を傾げた。
「そうだったかしら」
「そうだった」
「かわいかったからでは?」
リーネが思わず小さく言った。
空気が止まった。
ルシェルの顔が赤くなる。
「リーネさん!?」
リーネははっとした。
「失礼しました」
「今、正直だった」
「はい」
「はいじゃないです!」
セレスが横を向いて笑いをこらえている。
ガルドは真顔で言った。
「事実だ」
「ガルドまで!」
レオンは少し迷ったあと、低く言った。
「否定は難しい」
「レオンも参戦しないで!」
ルシェルは馬車の中で両手をばたつかせた。
それがまたかわいい。
全員がさらに耐えた。
「その耐えてる顔やめて!」
◇
村長は、ルシェルを見るなり目を丸くした。
「おお、ルシェルさん。よく来てくださいました」
「お久しぶりです。見習い浄化師、業務で来ました」
「それはそれは。髪が短くなられましたな」
その場の空気が一瞬だけ固まった。
だが、村長の声に悪意はない。
ルシェルは一拍置いて、自分の髪に触れた。
「はい。ボクver2です」
村長は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「それはまた、よくお似合いです」
ルシェルは少し照れた。
「ありがとうございます。強そうですか?」
「ええ。以前より、少し凛々しい」
ルシェルはさらに照れた。
頬が赤い。
目が少し泳ぐ。
セレスは心の中で両手を合わせた。
かわいい。
村長、良い仕事をした。
ガルドは干し果物を出しかけて止めた。
今出すと露骨すぎる。
レオンは静かに視線を逸らした。
リーネは微笑みすぎないように頑張っていた。
ルシェルは全員を見た。
「また過剰反応してる」
セレスが言う。
「していないわ」
「してる」
リーネも言う。
「していません」
「リーネさん、さっき正直に言った後だから信用が薄い」
「以後、気をつけます」
「気をつける対象が違う」
◇
山羊小屋へ向かうと、ミルがいた。
白い山羊。
柵をかじることで有名な山羊。
以前、ルシェルにミルの歯形という不思議な記念品をもたらした存在。
ミルはルシェルを見た。
そして、特に感動もなく草を噛んだ。
ルシェルは胸に手を当てた。
「この温度差。安心する」
セレスが笑った。
「覚えていないのかしら」
「山羊は過去に縛られない生き物」
ミルが近づいてきた。
ルシェルはしゃがむ。
しゃがむ前に、レオンが足元を確認し、ガルドが背後に立ち、セレスが外套の裾を支え、リーネが山羊との距離を見た。
ルシェルは半目で固まった。
「待って」
「何だ」
「山羊と再会するだけで護衛体制がすごい」
「山羊は頭突きする」
ガルドが言う。
「ミルは柵をかじる」
「歯も強い」
「山羊を危険生物扱いしないで」
ミルが「メェ」と鳴いた。
ルシェルはミルの額にそっと手を伸ばす。
触れる前に、ミルの方から鼻先を寄せた。
ルシェルの指先に、山羊の柔らかい息がかかる。
「……ミル」
声が少し柔らかくなった。
その瞬間、周囲の心がまたやられた。
セレスはもう完全に表情管理に失敗しかけた。
リーネは目元を押さえた。
ガルドは保存食ではなく山羊用の草を取り出した。
レオンは静かに息を吐いた。
ルシェルが振り返る。
「今度は何」
ガルドが草を差し出す。
「ミルにやれ」
「草が出てきた」
「用意した」
「山羊用保存食まで!?」
「必要だ」
「いや、これは嬉しいけど、準備が過剰!」
ミルは草を見て、すぐに寄ってきた。
ルシェルは草を差し出す。
ミルが食べる。
ルシェルの顔がふにゃっと緩んだ。
「食べた」
全員、無言で悶えた。
「だから、その無言が一番分かりやすい!」
◇
本来の業務は、丘の境界石の浄化確認だった。
山羊だけで終わるわけにはいかない。
ルシェルは名残惜しそうにミルへ手を振った。
「また後で。業務なので」
ミルは草を食べていた。
「この反応の薄さ、見習いたい」
レオンが言う。
「見習うのか」
「人類はもう少し山羊を見習うべき」
「どの点をだ」
「過剰に反応しないところ」
全員が、何のことだか分からないという顔をした。
ルシェルは諦めた。
「はいはい。行きます」
丘へ上る道は、以前と同じようで少し違った。
風が気持ちいい。
草の匂いがする。
村の音が遠ざかる。
ルシェルは途中で一度止まり、振り返った。
村が見える。
山羊小屋も見える。
レオンが聞く。
「戻るか」
「ううん。見ただけ」
「そうか」
「今のは見ただけです。検査ではありません」
リーネが静かに頷いた。
「はい。見るだけです」
セレスも続ける。
「見て、進むか決めるだけ」
ルシェルは少しだけ笑った。
「みんな、言葉の扱いが丁寧になった」
レオンが言う。
「必要だからな」
「そこは過保護って言わない」
「そうか」
「これは助かる」
レオンは少しだけ表情を緩めた。
ルシェルが前を向き直る。
短い髪が風で揺れる。
蒼銀が陽に透ける。
その後ろ姿を見て、セレスは思った。
強そうかと聞いたあの日より、少しだけ本当に強く見える。
でも、強くなくてもいい。
そうも思う。
強くても、弱くても、照れても、抗議しても、山羊に頬を緩めても。
全部がルシェルなのだと。
◇
境界石は、丘の上にあった。
以前、ルシェルが「寝不足の大先輩」と呼んだ石。
あれから定期的に村の簡易点検はされていたが、王都側の確認は今回が初めてだった。
リーネが前に出る。
「今日は確認だけです。必要があれば、ごく小さな補助を行います」
ルシェルは頷いた。
「営業範囲は?」
「まず観察のみ」
「出さない勤務」
「はい」
「得意になりつつある」
リーネは微笑む。
「とても大事な得意です」
ルシェルは少し照れた。
「褒め方が直球」
セレスが隣で言う。
「本当のことだから」
「セレスまで」
ガルドが低く言う。
「待てるのは強い」
「ガルドも参戦」
レオンが続けた。
「以前より、判断が安定している」
「レオンまで真面目褒めを投入しないで」
ルシェルの耳が少し赤い。
全員、それを見てさらに内心で崩れた。
かわいい。
褒められると照れる。
照れを隠そうとして口を尖らせる。
でも、少し嬉しそう。
これは危険だ。
非常に危険だ。
ルシェルは境界石を見る。
「……みんな、今また変な空気出した」
「出していない」
レオンが答える。
「レオン、嘘が下手」
「嘘ではない」
「自覚がないだけかもしれない」
◇
確認作業は、拍子抜けするほど穏やかだった。
リーネが結界石の表面を確認する。
セレスが周囲の流れを見る。
ルシェルは十歩離れた位置で、手を出さずに観察する。
レオンとガルドは護衛。
ただし、以前より少しだけ緊張が薄い。
山羊の村だからかもしれない。
空気が明るいからかもしれない。
ルシェルが、自分で立っているからかもしれない。
「どうですか、リーネさん」
「安定しています。前回、端だけ整えた効果が残っていますね」
「大先輩、ちゃんと寝た?」
リーネが石を見て微笑む。
「前よりは、よく眠れているようです」
「石にも睡眠評価」
「ルシェルさんの表現を借りました」
「王都浄化師団に浸透している」
セレスが言う。
「周囲の濁りも薄いわ。今日は補助なしでよさそう」
ルシェルはぱっと顔を明るくした。
「つまり、何もしない成功?」
「はい」
「出さないで済んだ?」
「済みました」
ルシェルは小さく両手を握った。
「勝った」
その仕草。
小さく拳を握り、控えめに喜ぶ。
全員がまたやられた。
リーネは一瞬、胸元に手を当てた。
セレスは完全に笑顔になった。
ガルドは「よし」と言いかけて止めたが、止めきれずに言った。
「よし」
レオンは静かに頷いた。
ルシェルは振り返る。
「今の『勝った』に対する反応、過剰!」
セレスは言う。
「いい成功だったから」
「成功を喜ぶのはいいけど、なんか目が優しすぎる」
「優しい目はだめ?」
「だめではないけど、照れる!」
言ってから、ルシェルは自分で顔を赤くした。
照れる、と言ってしまった。
周囲の空気がさらに柔らかくなる。
「今のなし!」
レオンが首を傾げる。
「今のとは」
「照れるって言ったこと!」
「事実では」
「事実でも撤回したい!」
ガルドが言う。
「撤回不可」
「なぜ」
「聞いた」
「記録しないで!」
リーネは微笑んで言う。
「記録はしません」
「本当に?」
「はい」
セレスが小さく言う。
「心には残るけれど」
「セレス!」
◇
丘を下りる頃には、ルシェルは少し疲れていた。
だが、嫌な疲れではない。
歩いて、山羊を見て、業務をして、出さないで済んだ疲れ。
普通の疲れ。
「人類側、今日はかなり優勢」
ルシェルが言った。
ガルドが頷く。
「食えばさらに優勢」
「出た、食料理論」
「村で乳酪がある」
「強い」
村では、以前と同じように乳酪とパンが出された。
ルシェルは椅子に座り、少しだけ背筋を伸ばした。
「業務後の食事、正式感がある」
村長が笑う。
「よく確認してくださいました」
「何もしない成功でした」
「それは何よりです」
「山羊も確認しました」
「そちらも重要ですな」
「村長、分かっている」
ミルが遠くで鳴いた。
ルシェルはそちらを見て、また少し頬を緩めた。
周囲が反応しかける。
ルシェルが即座に手を上げた。
「今のは反応禁止」
全員が止まった。
止まったこと自体が反応だった。
「止まり方が不自然!」
セレスが笑ってしまった。
リーネも笑った。
レオンは口元を押さえた。
ガルドは乳酪を切り分けながら、少しだけ肩を揺らしていた。
「ガルドも笑ってる!」
「笑っていない」
「肩!」
「乳酪を切っている」
「乳酪でごまかさないで」
◇
食後、村の子どもがルシェルへ近づいてきた。
以前、ミルの歯形の木片をくれた少年だった。
「あの」
「はい」
「髪、きれいです」
まっすぐな言葉だった。
ルシェルは固まった。
周囲も少し緊張した。
髪の話は慎重に扱う。
けれど、少年の声に悪意はない。
ただ、短い髪に混じる淡い蒼銀を見て、素直にそう言っただけ。
ルシェルは少しだけ目を伏せた。
それから、はにかむように笑った。
「ありがとう。ボクver2です」
少年は首を傾げた。
「ばーじょん?」
「新しい感じ」
「強そうです」
ルシェルの顔が赤くなる。
「そ、そう?」
「はい」
少年は真剣に頷いた。
ルシェルは完全に照れた。
周囲は完全にやられた。
セレスは内心で声にならない声を上げた。
リーネは目を潤ませた。
レオンは静かに空を見る。
ガルドは乳酪を追加で包み始めた。
ルシェルは全員を見た。
「今、全員まとめて過剰反応した」
セレスが言う。
「していないわ」
「してる」
リーネが言う。
「とても良い場面でした」
「認めた!」
ガルドが包みを差し出す。
「持って帰る」
「なぜ乳酪が増えた」
「必要だ」
「照れたら食料が増えるの、本当に何?」
◇
帰りの馬車で、ルシェルは少し眠そうにしていた。
窓の外を見ながら、こくり、と首が揺れる。
セレスが外套をそっと膝にかける。
ルシェルは目を薄く開けた。
「過保護」
「寒くなるから」
「まだ寒くない」
「これから寒くなるかもしれない」
「未来過保護」
そう言いながら、外套をどけない。
セレスは微笑む。
「眠っていいわ」
「業務報告が」
「クラウスさんには、戻ってからで大丈夫」
「山羊確認も?」
「それは非公式で」
「重要なのに」
声が小さくなっていく。
迷い石の小袋を手で確認し、ルシェルは少し丸くなった。
その姿が、またあまりにも愛おしい。
レオンは正面で静かに見守る。
ガルドは馬車の揺れが少ない位置へ荷を移す。
リーネは毛布の端を整える。
全員、無言で動く。
ルシェルは半分眠りながら呟いた。
「……みんな、またやってる」
セレスが小声で聞く。
「何を?」
「周囲ver2」
それだけ言って、ルシェルは眠った。
馬車の中に、柔らかな沈黙が落ちる。
レオンが小さく言った。
「今日は、良い日だったな」
ガルドが頷く。
「ああ」
リーネが微笑む。
「何もしない成功でした」
セレスは眠るルシェルの短い髪を見た。
触れない。
ただ見るだけ。
灰銀の中に仄かな蒼銀。
陽を受けて、やさしく光っている。
「ええ」
セレスは小さく答えた。
「とても良い日でした」
◇
王都の館へ戻ると、クラウスが出迎えた。
「確認結果は」
レオンが答える。
「境界石は安定。補助不要」
リーネが続ける。
「周辺の濁りも薄く、経過良好です」
クラウスは頷き、ルシェルを見る。
「本人は」
ルシェルは馬車から降り、少し眠そうにしながら言った。
「山羊、健在。ミル、柵より草を優先。境界石、大先輩は睡眠改善傾向。業務、何もしない成功。乳酪、確保」
クラウスは一拍置いた。
「正式報告に入れられる部分が限られる」
「山羊も?」
「山羊は別紙だな」
「別紙が出た」
ルシェルは満足そうに頷いた。
クラウスはその顔を見て、筆を持っていない手を軽く握った。
かわいい。
いや、落ち着け。
彼は書記官である。
職務中である。
しかし、山羊確認を正式報告に入れようとするルシェルの真剣さは、かなり危険だった。
「クラウスさん?」
「何でもない」
「今、何か耐えた顔をした」
「していない」
「書類の人も嘘が下手になってきた」
クラウスは咳払いした。
「報告は明日でよい。今日は休むように」
「休業命令」
「業務完了後の休息指示だ」
「言い方が硬い」
「休め」
「急にガルド寄り」
ガルドが頷く。
「休め」
「本家が来た」
◇
その夜。
ルシェルは小箱の前に座り、今日の報告をした。
「おやすみ、保留猫。今日は山羊を見ました」
木彫り猫は無反応。
「おやすみ、ミルの歯形。ミル本人は元気でした。草を食べました。柵被害は未確認」
セレスが後ろで笑いをこらえる。
「おやすみ、雨雫。境界石、大丈夫でした。今日は出さないで済んだ」
少しだけ声が柔らかくなる。
「おやすみ、迷い石。君は山羊の村初参加でした」
迷い石を指先で撫でる。
ルシェルはそのあと、自分の短い髪に触れた。
「ボクver2、実地業務完了」
セレスが言う。
「お疲れさま」
「何もしない成功だった」
「ええ」
「山羊もいた」
「ええ」
「みんな過剰反応した」
「そうかしら」
「した」
ルシェルは布団に入る。
少し照れたように、でも満足そうに。
「……でも、悪くなかった」
セレスは灯りを落とす。
「よかった」
「次は、みんな過剰反応控えめで」
「努力するわ」
「努力目標は信用が薄い」
セレスは笑った。
「おやすみ、ルシェル」
「おやすみ、セレス」
少し間を置いて、ルシェルは小さく付け足した。
「周囲ver2も、おやすみ」
廊下の外で、レオンが少しだけ笑った。
ガルドが乳酪の保存を確認していた。
リーネが今日の確認記録に「本人、終始安定。山羊との接触時、笑顔あり」と書いて、少しだけ筆を止めた。
クラウスは別紙にこう書いた。
『山羊確認、本人にとって良好な外出体験となる』
そして、少し迷ってから追記した。
『ミル、健在』
正式記録には入らないかもしれない。
だが、今日のルシェルにとっては、きっと重要だった。
山羊がいた。
石は安定していた。
何もしないで済んだ。
ルシェルは笑った。
周囲は過剰に反応した。
そして、彼女は抗議しながらも、少しだけ嬉しそうだった。
それは、実地業務としても、日常としても、十分すぎる成功だった。