TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第4話 名前を呼ぶ水鏡

 

 王都へ近づくにつれて、街道は少しずつ賑やかになった。

 

 馬車の数が増える。

 旅人が増える。

 荷を背負った商人、修道服の巡礼者、護衛つきの小さな隊商。

 

 道そのものも、だんだん整っていく。

 

 ぬかるみの深い土道から、踏み固められた街道へ。

 ところどころ石が敷かれ、馬車の揺れも少しだけましになった。

 

 少しだけ。

 

「馬車、昨日より優しい」

 

 ボクが窓枠にもたれながら言うと、セレスが笑った。

 

「道がよくなってきたからね」

 

「馬車側が改心したわけじゃなかった」

 

「馬車に意思はないと思うわ」

 

「油断してると裏切るかもしれない」

 

「裏切る馬車は嫌ね」

 

「ボクも嫌」

 

 胸元には雨雫がある。

 

 昨日、市でレオンに買ってもらった灰青色の石。

 役に立たない飾り。

 けれど、気づくと指先がそこに行く。

 

 ころん、と外套の内側で小さく鳴る。

 

 音というほどの音ではない。

 

 でも、あると分かる。

 

「また触ってる」

 

 セレスが言った。

 

「確認作業」

 

「なくならないわよ」

 

「なくなるかもしれない」

 

「今は?」

 

「ある」

 

「なら大丈夫」

 

「大丈夫判定が雑」

 

「雑でも、今はあるでしょう?」

 

 そう言われると、まあ、そうだった。

 

 雨雫はある。

 

 胸元にある。

 

 それだけで、少し落ち着く。

 

 不思議だ。

 役に立たないのに。

 

     ◇

 

 昼前、馬車は街道沿いの古い祠のそばで止まった。

 

 休憩するにはちょうどいい場所だった。

 

 大きな木が一本あり、根元に石の腰掛けがある。

 近くには細い湧き水。

 旅人がよく使う場所らしく、踏み固められた地面には焚き火の跡もあった。

 

 ただ、空気が少し重い。

 

 瘴気ではない。

 

 それに似ているけれど、もっと薄く、冷たい。

 

 ボクは馬車から降りる前に、手のひらを見た。

 

 蒼銀は出ていない。

 

 でも、奥が少しだけざわつく。

 

「ルシェル?」

 

 レオンが気づいた。

 

「何かいる?」

 

「いるというか……なんかある」

 

「瘴気か?」

 

「違うと思う。臭くない」

 

「臭いで分かるのか?」

 

「感覚的に」

 

 レオンは祠の方を見る。

 

 ガルドも盾を背負い直した。

 

「確認する」

 

「ボクも行く」

 

「無理はするな」

 

「まだ見てない」

 

「見てから無理するな」

 

「先回りされた」

 

 セレスが隣に来る。

 

「私も行くわ」

 

 四人で祠に近づいた。

 

 古い石造りの祠だった。

 

 屋根の端は欠け、苔が張り付いている。

 中には、小さな丸い鏡が置かれていた。

 

 金属の鏡ではない。

 

 水を張った皿のようなものだ。

 

 石の台に浅い器がはまり、その中に透明な水がたたえられている。

 風もないのに、水面だけがかすかに揺れていた。

 

「水鏡ね」

 

 セレスが言った。

 

「何それ」

 

「古い旅人の祠に時々あるわ。道の安全を占ったり、迷った人の行方を探したりするためのもの」

 

「便利アイテム」

 

「ただし、古いものはあまり覗き込まない方がいい」

 

「便利アイテムじゃなかった」

 

 ガルドが祠の周囲を見た。

 

「瘴気ではないのか」

 

 セレスは眉を寄せる。

 

「瘴気ではないけれど、少し乱れているわね。長い間、手入れされていないみたい」

 

 レオンがボクを見る。

 

「反応してるのか」

 

「ちょっとだけ」

 

「近づかない方がいいか?」

 

 そう言われると、逆に気になる。

 

 水鏡。

 

 名前を聞くだけなら、神秘的な旅の道具だ。

 

 けれど、ボクの手の奥は少し落ち着かない。

 

 警戒なのか、興味なのか、蒼銀の反応なのか。

 

 分からない。

 

「見るだけ」

 

「また見るだけか」

 

「見るだけ詐欺はしない予定」

 

「予定」

 

「予定は大事」

 

 ボクは祠の前に立った。

 

 水面を覗き込む。

 

 そこには、空が映っていた。

 

 青い空。

 流れる雲。

 祠の屋根の影。

 

 それから、ボクの顔。

 

 白に近い銀髪。

 少し幼い顔。

 灰色の瞳。

 

 自分の顔を見るのは、まだ慣れない。

 

 ルシェルとしては当然の顔。

 でも、前の記憶の自分には知らない顔。

 

 水面の中の少女が、こちらを見ている。

 

「……やっぱり、まだ違和感ある」

 

 小さく呟いた。

 

 その瞬間、水面が揺れた。

 

 風ではない。

 

 水の奥に、影が落ちる。

 

 ボクの顔ではない。

 知らない部屋。

 白い天井。

 黒い画面。

 雨の音。

 

 前の記憶が、一瞬だけ水の奥に浮かんだ。

 

「え」

 

 身を引こうとした。

 

 だが、水面の奥から、声がした。

 

 ――ルシェル。

 

 呼ばれた。

 

 耳ではなく、頭の内側で。

 

 ひどく近い声。

 

 自分の名を、間違いなく呼んでいる。

 

「ルシェル?」

 

 レオンの声もした。

 

 だが、それとは別に、水鏡の奥からもう一度。

 

 ――ルシェル。

 

 ぞわり、と背中が冷えた。

 

 名前。

 

 呼ばれると、返事をしそうになる。

 

 それが、ひどく自然だった。

 

「……今、呼んだ?」

 

 ボクが聞くと、レオンが眉を寄せた。

 

「俺は今呼んだ」

 

「その前」

 

「呼んでない」

 

 セレスの顔色が変わった。

 

「水鏡から?」

 

「たぶん」

 

 水面がまた揺れる。

 

 今度は、ボクの顔が薄く歪んだ。

 

 水の中の少女が、こちらより少し遅れて瞬きをする。

 

 そして、口だけが動いた。

 

 ――ルシェル。

 

 手のひらが熱くなる。

 

 蒼銀が指先に滲んだ。

 

「離れろ」

 

 レオンが言った。

 

 しかし、足が一瞬動かなかった。

 

 名前を呼ばれている。

 

 返事をしなければ、という感覚がある。

 

 誰かに呼ばれたら返事をする。

 

 それは当たり前だ。

 

 でも、なぜだろう。

 

 この声には返してはいけない気がする。

 

「ルシェル、下がって」

 

 セレスの声がした。

 

 今度はちゃんと耳に届いた。

 

 ボクは息を吸う。

 

「うん」

 

 一歩下がる。

 

 その瞬間、水面が大きく跳ねた。

 

 水がこぼれるはずなのに、こぼれない。

 

 代わりに、水の中から細い糸のようなものが伸びた。

 

 透明な水の糸。

 

 それが、ボクの手首へ向かって伸びる。

 

「危ない」

 

 レオンが剣を抜いた。

 

 ガルドが盾を前に出す。

 

 セレスが短く呪文を唱え、淡い紫の膜を張った。

 

 水の糸は膜に触れ、ぱちんと弾けた。

 

 だが、水面はまだ揺れている。

 

 ――ルシェル。

 

 また呼ぶ。

 

 今度は少し強く。

 

 胸の奥が引っ張られる。

 

 名前を呼ばれているのに、返事をしないのは失礼だ。

 

 そんな妙な思考が浮かぶ。

 

 違う。

 

 これは、そういうものじゃない。

 

「名前で引いてる」

 

 セレスが言った。

 

「古い水鏡が、通った人の名を拾っているのかもしれないわ」

 

「名前を拾うって何」

 

 ボクは後ろへ下がりながら言った。

 

「怖いんだけど」

 

「怖がって正解よ」

 

「正解したくない」

 

 水面の中で、ボクの顔がまた歪む。

 

 今度は、前の記憶の景色が混ざった。

 

 雨の道。

 街灯。

 見知らぬ文字。

 白い光。

 

 胸が気持ち悪い。

 

 自分がどちらなのか、一瞬分からなくなる。

 

 ルシェル。

 

 そう呼ばれるたび、今の自分の方へ引き戻される。

 でも同時に、水の奥へ引かれる。

 

 名前が、紐みたいになっている。

 

「ルシェル」

 

 レオンの声。

 

 水鏡の声とは違う。

 硬くて、真面目で、少し焦っている声。

 

「俺を見ろ」

 

「命令形」

 

「今は命令形だ」

 

「了解」

 

 ボクはレオンを見た。

 

 黒髪。

 剣。

 真面目な顔。

 

 水面ではない。

 

 今、ここにいる人。

 

 少しだけ足元が戻る。

 

 レオンは言った。

 

「名前を呼ばれても、返事しなくていい」

 

「返事しなくていい?」

 

「いい」

 

「失礼では」

 

「相手が水鏡なら失礼ではない」

 

「理屈が強い」

 

「いいから下がれ」

 

「はい」

 

 今度は一歩、ちゃんと下がれた。

 

 ガルドが盾で祠の正面を塞ぐ。

 

 水鏡の声が、少し遠くなった。

 

 セレスが杖を構える。

 

「封じるわ。ルシェル、蒼銀は出さなくていい」

 

「出てるけど」

 

 指先に淡い蒼銀が灯っていた。

 

「勝手に出てる」

 

「なら握って」

 

「握る」

 

 手を握る。

 

 蒼銀は弱くなるが、完全には消えない。

 

 胸元の雨雫が、外套の内側で小さく揺れた。

 

 ころん。

 

 その感触に、少しだけ意識が落ち着く。

 

 名前を呼ばれている。

 でも、胸元には雨雫がある。

 

 この石には、ボクが名前をつけた。

 

 呼ばれた名前ではなく、自分でつけた名前。

 

 その違いが、なぜか今は大きかった。

 

「……雨雫」

 

 小さく呟く。

 

 水鏡の声が、一瞬だけ途切れた。

 

 セレスがその隙に呪文を結ぶ。

 

「古き水、道を閉じ、影を返しなさい」

 

 紫の光が水面に落ちた。

 

 水が大きく震え、祠全体がきしむ。

 

 水面の中の顔が、いくつも重なった。

 

 ボクの顔。

 知らない誰かの顔。

 前の記憶の景色。

 そして、またボクの顔。

 

 ――ルシェル。

 

 最後にもう一度、呼ばれた。

 

 ボクは返事をしなかった。

 

 その代わり、胸元の石を握った。

 

 水面が静かになった。

 

     ◇

 

 祠の前に、しばらく沈黙が落ちた。

 

 水鏡はただの水に戻っていた。

 

 空を映している。

 雲を映している。

 ボクの顔はもう映っていない。

 

 いや、近づけば映るのだろうけれど、近づきたくはなかった。

 

「終わった?」

 

 ボクが聞くと、セレスが息を吐いた。

 

「ひとまずは」

 

「ひとまず」

 

「古い術が絡んでいたみたい。完全に壊すより、眠らせた方がよさそうね」

 

「壊すとまずい?」

 

「道の祠だから、無理に壊すと周囲に影響が出るかもしれない」

 

「扱いが難しい」

 

「そうね」

 

 セレスは疲れた顔で笑った。

 

 レオンが剣を納める。

 

「怪我は?」

 

「ない」

 

「気分は」

 

「悪い」

 

 正直に答えると、レオンが少しだけ驚いた。

 

 どうやら、いつもの軽口でごまかすと思われていたらしい。

 

「座るか」

 

「座る」

 

 ガルドが近くの石へ外套を敷いた。

 

「座れ」

 

「ガルド、準備が早い」

 

「倒れる前に座れ」

 

「はい」

 

「はいは一回でいい」

 

「今日のはい、一回だった」

 

「そうか」

 

 座ると、膝から力が抜けた。

 

 少し遅れて怖くなる。

 

 名前を呼ばれた。

 

 ただそれだけなのに、足が動かなかった。

 

 返事をしそうになった。

 

 水の奥に、引っ張られそうになった。

 

 名前とは、そんなに危ないものだったのか。

 

「水鏡って、みんなああなの?」

 

 ボクが聞くと、セレスは首を横に振った。

 

「普通は違うわ。古いものに、誰かが余計な術を重ねたのかもしれない」

 

「誰か?」

 

「昔の術師か、旅人か、あるいは祠そのものが長く放置されて歪んだか」

 

「つまり不明」

 

「ええ」

 

 不明。

 

 便利で怖い言葉だ。

 

 レオンが少し離れた場所に立ったまま言う。

 

「王都で報告する」

 

「大ごと?」

 

「道沿いの祠が名前を呼ぶなら、大ごとだ」

 

「確かに」

 

 ガルドが祠の方を見ている。

 

「名を呼ばれたら、返す者は多い」

 

「うん。普通は返す」

 

「だから危ない」

 

「そうだね」

 

 普通のことが危ない。

 

 名前を呼ばれる。

 返事をする。

 近づく。

 

 それだけで、引かれることがある。

 

 ボクは胸元の雨雫を握った。

 

「レオン」

 

「何だ」

 

「さっき、名前呼んだでしょ」

 

「ああ」

 

「水鏡の声と違った」

 

「そうか」

 

「うん。なんか、こっちだった」

 

 うまく言えない。

 

 水鏡の声は、名前だけを引っ張った。

 

 レオンの声は、ボクをこちらに戻そうとした。

 

 同じ名前なのに、違う。

 

「助かった」

 

 そう言うと、レオンは少しだけ目を伏せた。

 

「ならよかった」

 

「ただし命令形が多い」

 

「緊急時だった」

 

「まあ、緊急時なら仕方ない」

 

「平常時は気をつける」

 

「真面目」

 

「悪いか」

 

「悪くはない」

 

 セレスがくすりと笑った。

 

 ガルドは祠から目を離さずに言う。

 

「次から水面は覗き込むな」

 

「全水面?」

 

「怪しいものだけだ」

 

「怪しいかどうか分からない場合は?」

 

「先に言え」

 

「見たいって?」

 

「そうだ」

 

「申告制」

 

「そうだ」

 

「了解」

 

 こうして、ボクの旅ルールに「怪しい水面は事前申告」が追加された。

 

 だいぶ限定的なルールだ。

 

 でも、たぶん大事。

 

     ◇

 

 休憩は長めになった。

 

 セレスは祠に簡単な封じを重ね、レオンは周囲を調べ、ガルドは街道側で見張りをした。

 

 ボクは石に座ったまま、水筒の水を少し飲んだ。

 

 水は普通だった。

 

 普通の水まで怖くなったらどうしようかと思ったが、今のところ大丈夫らしい。

 

 ただ、水面は見たくない。

 

 水筒の中は覗かないことにした。

 

「顔色、戻ってきたわね」

 

 セレスが戻ってきて言った。

 

「顔色でいろいろ判断されてる」

 

「分かりやすいから」

 

「顔色にもプライバシーがほしい」

 

「難しいわね」

 

「ですよね」

 

 セレスは隣に腰を下ろした。

 

 少しだけ距離を空けて。

 

「前世、という言葉」

 

 唐突に言われ、喉が止まった。

 

 昨日の馬車で、うっかり口にした言葉。

 

「覚えてたんだ」

 

「聞こえたから」

 

「聞かなかったのに」

 

「聞かないことと、聞こえなかったことは違うわ」

 

「魔術師、言葉の扱いが細かい」

 

「大事なことだから」

 

 ボクは雨雫を握る。

 

 話すべきか。

 

 話さないべきか。

 

 分からない。

 

 前の記憶。

 違う身体。

 違う生活。

 違う常識。

 

 それを言えば、たぶん説明しなければならない。

 

 でも、説明できるほど整理できていない。

 

「まだ、言語化できない」

 

 ボクはそう言った。

 

 セレスは頷く。

 

「今は、それでいいわ」

 

「聞かないの?」

 

「聞いたら困るでしょう?」

 

「かなり」

 

「なら、聞かない」

 

「優しさの調整がうまい」

 

「少しずつって言ったでしょう」

 

 この人は、本当に少しずつにしてくれるらしい。

 

 それが少し怖くて、少しありがたい。

 

「ただ、一つだけ」

 

「何?」

 

「自分がどちらか分からなくなった時は、言って」

 

 セレスの声は静かだった。

 

「今日の水鏡みたいに、名前や記憶が絡むものは危ないわ。あなたの蒼銀は、たぶんそういうものに反応しやすい」

 

「蒼銀って、瘴気を祓うだけじゃないの?」

 

「普通は、そう説明されるわ」

 

「普通じゃない可能性?」

 

「まだ分からない」

 

「分からないものが多い」

 

「ええ」

 

 セレスは水鏡の方を見る。

 

「だから、急がない方がいい」

 

「王都は急がない?」

 

「王都は急ぐかもしれない」

 

「正直」

 

「でも、私たちは急がせないようにする」

 

「仮採用パーティなのに?」

 

「仮でも、同行者でしょう」

 

 同行者。

 

 仲間と言うには早い。

 でも、知らない人ではなくなってきている。

 

 そのくらいの言葉だった。

 

「そっか」

 

 ボクは雨雫を握った。

 

「じゃあ、同行者として、怪しい水面は報告します」

 

「お願いします」

 

     ◇

 

 祠を離れる前、レオンが水鏡に布をかけた。

 

 直接覗かないように。

 

 ガルドが祠の周囲に簡単な木札を立てる。

 

 近づくな、という印らしい。

 

「これで旅人は避ける?」

 

 ボクが聞くと、ガルドは頷いた。

 

「普通はな」

 

「普通じゃない人は?」

 

「いる」

 

「いるのか」

 

「だから王都へ報告する」

 

 レオンが言った。

 

「巡回が来るまでは、宿場にも伝える」

 

「祠、けっこう大ごと」

 

「名を呼ぶものは危険だ」

 

 レオンの声は少し硬かった。

 

 さっき、ボクが動けなくなったのを見たからだろう。

 

「レオン」

 

「何だ」

 

「名前って、そんなに危ない?」

 

「使い方による」

 

「普通は呼ぶだけでしょ」

 

「普通はな」

 

「普通じゃない呼び方がある」

 

「ある」

 

 レオンは一度言葉を切った。

 

「相手を縛る呼び方。誘う呼び方。術に結ぶ呼び方。王都なら、そういう術も調べられている」

 

「名前のセキュリティ意識が必要」

 

「何?」

 

「気にしないで」

 

 でも、本当にそうだ。

 

 名前はただの音ではない。

 

 少なくとも、この場所では。

 

 ルシェル。

 

 そう呼ばれれば、ボクは振り向く。

 

 それは当たり前で、だからこそ危うい。

 

 ボクは胸元の石を指で押さえた。

 

「雨雫は、自分でつけた名前だから大丈夫かな」

 

 何気なく言ったつもりだった。

 

 レオンがこちらを見る。

 

「さっき、それを言っていたな」

 

「うん。なんか、落ち着いた」

 

「なぜ?」

 

「分からない」

 

 分からない。

 

 でも、水鏡に呼ばれた名前と、自分で石につけた名前は違った。

 

 呼ばれて引かれる名前。

 自分で呼んで戻る名前。

 

 その差は、まだうまく言えない。

 

「分からないけど、役に立たない石が今日もちょっと役に立った」

 

「なら、やっぱり持っていてよかったな」

 

 レオンはまた、何でもないように言った。

 

 その何でもなさが、少しだけ救いだった。

 

     ◇

 

 馬車に戻ると、ボクはすぐ座席に沈んだ。

 

 どっと疲れた。

 

 浄化はしていない。

 戦ってもいない。

 ただ、名前を呼ばれて、水面を見ただけ。

 

 それだけなのに、身体が重い。

 

「寝ていいわよ」

 

 セレスが言う。

 

「寝ると馬車に負けた気がする」

 

「勝負していたの?」

 

「していたらしい」

 

「今日は引き分けでいいんじゃない?」

 

「馬車と和解」

 

 目を閉じる。

 

 外でレオンとガルドが何か話している。

 

 祠の報告。

 宿場への連絡。

 王都での対応。

 

 真面目な話だ。

 

 ボクはそこへ入らない。

 

 入らなくていい気がした。

 

 今日は少し、疲れた。

 

 胸元の雨雫を握る。

 

 冷たい。

 

 小さい。

 

 役に立たない石。

 

 でも、今はそこにある。

 

「ルシェル」

 

 セレスが呼ぶ。

 

 水鏡の声ではない。

 

 ここにいる人の声。

 

「眠って大丈夫よ。着いたら起こすわ」

 

「うん」

 

 返事をした。

 

 今度は、返事をしても大丈夫だった。

 

 その違いを、身体が少しずつ覚えていく。

 

 呼ばれる名前が、全部危ないわけではない。

 

 でも、全部安全なわけでもない。

 

 面倒だ。

 

 けれど、旅はたぶん、そういう面倒なものを一つずつ分類していく作業なのだろう。

 

 水鏡。

 名前。

 蒼銀。

 前の記憶。

 雨雫。

 同行者。

 

 まだ、分からないことばかりだ。

 

 でも、今は眠い。

 

「……馬車、今日は引き分け」

 

 小さく呟くと、セレスがまた笑った。

 

 馬車が揺れる。

 

 胸元で雨雫が、ころんと小さく鳴った。

 

 その音を聞きながら、ボクは眠りに落ちた。

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