TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第35話 保留という返答

 

 翌日。

 

 貴族院から届いた紙は、朝の光を受けて白く見えた。

 

 ただの紙だ。

 

 少し質がよく、端が揃っていて、貴族院記録局の小さな印が入っているだけ。

 

 なのに、ルシェルはその一枚を前にして、腕を組んでいた。

 

「……圧がある」

 

 クラウスが言った。

 

「紙だ」

 

「紙の顔をした制度」

 

「制度の芽だな」

 

「芽って言った。育つ気配がある」

 

 セレスが隣で微笑む。

 

「育つなら、悪いことではないかもしれないわ」

 

「悪いことじゃない制度ほど、気づいたら大きくなる」

 

 レオンは扉近くで静かに立っていた。

 

「使わなければいい」

 

「それはそう」

 

「使いたい時だけ使えばいい」

 

「それもそう」

 

 ルシェルは紙を見下ろした。

 

 まっさらな空白。

 

 そこに、何を書いてもいい。

 

 何も書かなくてもいい。

 

 保留、とだけ書いてもいい。

 

 それが、返答として扱われるかもしれない。

 

「……怖いくらい、助かる」

 

 ぽつりと出た。

 

 誰も大きく反応しなかった。

 

 最近、皆の慎重喜びは上達している。

 

 だが、空気が少しだけ柔らかくなる。

 

 ルシェルは半目になった。

 

「今のは、許可」

 

 セレスが笑う。

 

「ありがとう」

 

「許可制の喜び、変な文化になってる」

 

 クラウスが筆を取る。

 

「では、試験運用への返答を書く」

 

「こっちから?」

 

「貴族院は、こちらの反応を待っている」

 

「王都の紙が、ボクの返事待ち」

 

「そうだ」

 

 ルシェルは、少し考えた。

 

 そして、紙を一枚引き寄せた。

 

「じゃあ、最初の保留、書く」

 

 クラウスが止まる。

 

「何を保留にする」

 

「貴族院を信じるかどうか」

 

 静かになった。

 

 重すぎない沈黙。

 

 でも、軽くもない。

 

 ルシェルは紙に、少し震える字で書いた。

 

『貴族院を信じるかどうか:保留』

 

 その下に、少し迷ってから続ける。

 

『ただし、昨日の紙は助かりました』

 

 さらに迷う。

 

『山羊別紙を守ったことは評価します』

 

 クラウスが目を伏せた。

 

「……最後の一文は?」

 

「重要」

 

「重要だな」

 

 ルシェルが顔を上げる。

 

「認めた」

 

「認める」

 

「書類の人、山羊側に一歩」

 

「山羊側ではない」

 

     ◇

 

 昼前。

 

 その返答を届けた使いが戻るより早く、王都館に別の報せが入った。

 

 貴族院記録局で、保留回答の試験運用について反発が出ている。

 

 クラウスがそれを読み上げた時、ルシェルは瞬きをした。

 

「もう?」

 

「早いな」

 

「芽、踏まれてる」

 

 セレスの顔が少し引き締まる。

 

「どんな反発?」

 

 クラウスは紙を見る。

 

「『回答拒否を制度として認めれば、聴取の実効性が下がる』」

 

 ルシェルの肩が少し固まった。

 

「聴取」

 

 レオンが一歩動く。

 

「嫌な言葉だな」

 

「レオン、顔」

 

「出た」

 

「鬼が」

 

「出た」

 

 ガルドが食堂から戻ってきて、話の途中だけ聞いたらしい。

 

「誰が聴取する」

 

「まだ誰も」

 

「なら、今のうちに潰せ」

 

「ガルド、政治向きじゃないけど分かりやすい」

 

 クラウスは続けた。

 

「一方で、ミーナ書記官側は『保留を許可しない記録は、正確性を失う』と反論している」

 

 ルシェルは顔を上げた。

 

「正確性」

 

「本人が答えられない状態で無理に答えさせれば、その記録は歪む、という主張だ」

 

 セレスが小さく息を吐く。

 

「いい反論ね」

 

 ルシェルは黙った。

 

 自分の保留が、貴族院の中で議題になっている。

 

 怖い。

 

 恥ずかしい。

 

 でも。

 

「……ミーナさん、戦ってる?」

 

 クラウスが頷く。

 

「少なくとも、押し返している」

 

 ルシェルは紙を見つめた。

 

「ボクの保留で?」

 

「そうだ」

 

 ルシェルは顔をしかめた。

 

「重い」

 

 レオンが言う。

 

「嫌か」

 

「嫌。怖い。でも」

 

 少し間。

 

「……ちょっと、助かる」

 

 ガルドが低く言った。

 

「なら、食え」

 

「今そこ?」

 

「戦ってる人間がいる時は、食う」

 

「理屈が荒い」

 

「倒れるな」

 

「それは正しい」

 

     ◇

 

 午後。

 

 ミーナ本人から短い書簡が届いた。

 

 字は昨日より少し硬い。

 

『ルシェル・ノア氏へ。

 

 いただいた返答は確認しました。

 「信じるかどうか:保留」

 この表記は、記録局内で有効な回答例として扱います。

 

 現在、保留回答の扱いについて異論があります。

 ですが、私はこれを取り下げません。

 

 理由は簡単です。

 答えられないことを答えられないまま残せる記録でなければ、その人の記録ではなく、尋ねる側に都合のよい記録になるからです。

 

 山羊別紙は引き続き閲覧制限を守ります。

 

 ミーナ・エルディア』

 

 読み終わった後、誰もすぐには話さなかった。

 

 ルシェルは、手紙を見たまま固まっている。

 

「……強い」

 

 小さく言った。

 

 セレスが頷く。

 

「強い人ね」

 

「山羊別紙の守護者」

 

 クラウスが言う。

 

「そこだけではない」

 

「分かってる」

 

 ルシェルは手紙をもう一度見た。

 

「尋ねる側に都合のよい記録」

 

 その言葉は、胸に残った。

 

 かつて、自分の意思ではなく、役割として見られた時の冷たさ。

 

 蒼銀だから。

 

 見習い浄化師だから。

 

 珍しいから。

 

 使えるから。

 

 そこに、ルシェル本人の返事が入る余地はなかった。

 

 でも今、遠い貴族院の部屋で、誰かが「その人の記録」と言っている。

 

 怖い。

 

 でも。

 

「……返事、書く」

 

 クラウスが筆を差し出した。

 

 ルシェルは首を横に振る。

 

「自分で書く」

 

 紙を引き寄せる。

 

 手は少し震えた。

 

 でも、書いた。

 

『ミーナさんへ。

 

 保留を取り下げないでくれて、ありがとうございます。

 怖いです。

 でも、助かります。

 

 貴族院を信じるかどうかは、まだ保留です。

 でも、ミーナさんの記録は少し信じたいです。

 

 山羊別紙を守ってくれてありがとうございます。

 

 ルシェル・ノア』

 

 書いたあと、ルシェルは机に突っ伏した。

 

「無理。これ以上は無理。好意受付窓口が爆発する」

 

 セレスが笑いながら背中をさすろうとして、止まる。

 

「触っていい?」

 

「今は無理。声だけ」

 

「分かったわ」

 

 ガルドが皿を置く。

 

「焼き菓子」

 

「声だけって言ったのに食料が来た」

 

「食料は別枠」

 

 レオンが静かに言う。

 

「よく書いた」

 

 ルシェルは机に突っ伏したまま、片手を上げた。

 

「真面目褒め、今は防御不能」

 

「分かった」

 

「でも取り消さないで」

 

「取り消さない」

 

「そういうところ!」

 

     ◇

 

 夕方。

 

 事態は思ったより早く動いた。

 

 貴族院記録局の反対派が、王都館へ追加の確認を要求してきた。

 

 内容は硬い。

 

 文面は丁寧。

 

 だが、にじむものはあった。

 

『保留回答の試験運用について、当該本人が制度的意味を理解しているか確認する必要がある』

 

 ルシェルは文面を見て、目を細めた。

 

「……つまり?」

 

 クラウスが言い換える。

 

「君が本当に分かって保留を書いたのか、疑っている」

 

「なるほど」

 

 ルシェルは椅子に座ったまま、ふっと笑った。

 

 明るい笑いではない。

 

 セレスがすぐに気づく。

 

「ルシェル」

 

「大丈夫」

 

 大丈夫ではない声だった。

 

 レオンが半歩近づく。

 

「距離」

 

「すまない」

 

「今は許可」

 

 レオンが止まる。

 

 ガルドが腕を組む。

 

「会わせる必要はない」

 

 クラウスが言う。

 

「こちらから拒否はできる。ただし、今後の関係構築を考えるなら、押し返し方を選ぶ必要がある」

 

「関係構築」

 

 ルシェルは文面を見る。

 

 疑われている。

 

 理解していないと思われている。

 

 保留すら、自分のものではないと見られそうになっている。

 

 怖い。

 

 腹が立つ。

 

 でも、前と違うこともある。

 

 こちらには紙がある。

 

 条件がある。

 

 門番がいる。

 

 ミーナさんも、向こう側にいる。

 

「……返す」

 

 セレスが聞く。

 

「手紙で?」

 

「うん」

 

 クラウスが頷く。

 

「それがいい」

 

 ルシェルは紙を引き寄せた。

 

 少し考えて、書く。

 

『保留の意味は理解しています。

 

 今答えると、自分を守るための言葉ではなく、相手を満足させるための言葉になりそうな時。

 怖くて、でも黙ることも怖い時。

 まだ結論にしたくない時。

 

 その時に、保留と書きます。

 

 これは逃げではなく、あとで戻るための場所です。

 

 確認要求への返答:保留。

 理由:今は怖いので、直接確認には応じません。

 

 ルシェル・ノア』

 

 書き終わると、ルシェルは震えていた。

 

 でも、紙から手を離さなかった。

 

 クラウスが文面を読んだ。

 

 しばらく沈黙してから、静かに言う。

 

「強い返答だ」

 

 ルシェルは目を伏せた。

 

「怖いよ」

 

「怖くても、強い」

 

 セレスが言う。

 

「とてもルシェルらしいわ」

 

「泣きそうになる言い方やめて」

 

 レオンが低く言う。

 

「同席不要で押し返せる」

 

「紙防衛線」

 

「ああ」

 

 ガルドが短く言った。

 

「よし」

 

「そのよしは……許可」

 

     ◇

 

 その返答は、クラウスの補足書とともに貴族院へ送られた。

 

 補足書には、こう記された。

 

『本人は保留の意味を明確に理解している。

 また、本件確認要求に対し、本人は保留を選択した。

 したがって、試験運用における実例として、当該返答を記録する。

 直接確認は不要。』

 

 クラウスは最後に一文を加えた。

 

『本人の恐怖を増やしてまで記録精度を下げることは、本末転倒である。』

 

 ルシェルは覗き込んで言った。

 

「クラウスさん、怒ってる?」

 

「怒っていない」

 

「怒ってる文章」

 

「整えた」

 

「整えた怒り」

 

 セレスが笑った。

 

「頼もしいわね」

 

 クラウスは咳払いした。

 

「書類上の必要表現だ」

 

「書類の人、今日かなり味方」

 

「今日も、だ」

 

 ルシェルは少し驚いてクラウスを見た。

 

 クラウスは視線を逸らす。

 

「……言いすぎた」

 

「いや」

 

 ルシェルは小さく笑った。

 

「記録しないけど、覚えた」

 

「覚えなくていい」

 

     ◇

 

 その夜。

 

 ルシェルの部屋にいたのは、セレスだけだった。

 

 レオンは扉の外。

 

 ガルドはまだ食堂にいる。

 

 クラウスは貴族院への控えを整理している。

 

 リーネは浄化師団へ行っている。

 

 部屋は静かだった。

 

 ルシェルは小箱の前に、今日書いた下書きの一枚を置いた。

 

「今日の報告」

 

 保留猫は無反応。

 

「保留、揉めました」

 

 無反応。

 

「ミーナさんが、取り下げないって言いました」

 

 セレスは静かに聞いている。

 

「怖かったけど、返事を書きました」

 

 ルシェルは紙を撫でた。

 

「反対派から確認要求が来ました」

 

 少し間。

 

「返答、保留にしました」

 

 セレスが柔らかく言う。

 

「うん」

 

「逃げじゃなくて、あとで戻るための場所」

 

「うん」

 

「自分で書いた」

 

「うん」

 

 ルシェルは布団に入った。

 

 目元が少し赤い。

 

 でも、泣き崩れてはいない。

 

「セレス」

 

「なあに」

 

「貴族院、怖い」

 

「うん」

 

「でも、向こうにも味方未満みたいな人がいる」

 

「そうね」

 

「ミーナさんは、味方未満から一歩進んだかも」

 

「仮味方?」

 

「仮味方」

 

 セレスが小さく笑った。

 

「いい言葉ね」

 

 扉の外から、レオンの声がした。

 

「俺は、仮ではない」

 

 ルシェルは布団の中で跳ねた。

 

「聞いてた!?」

 

「最後だけ」

 

「最後だけ聞くの禁止!」

 

 セレスが笑っている。

 

 ルシェルは顔を赤くしながら布団を被った。

 

「レオンは……本味方」

 

 扉の外が静かになった。

 

 セレスも止まった。

 

 ルシェルは自分の発言に遅れて気づく。

 

「今のなし!」

 

 レオンの声が、いつもより少しだけ柔らかくなる。

 

「なしにしない」

 

「する!」

 

「しない」

 

「静音型激重本味方!」

 

「……それは、いい称号なのか」

 

「知らない!」

 

 セレスがとうとう笑った。

 

 ルシェルは布団に潜ったまま、保留猫をぎゅっと抱く。

 

「明日は控えめで」

 

 セレスが答える。

 

「努力するわ」

 

 扉の外からレオンも言う。

 

「努力する」

 

「信用が薄い」

 

 でも、声は少し軽かった。

 

     ◇

 

 同じ夜。

 

 貴族院記録局。

 

 ミーナは、ルシェルからの返答を読んでいた。

 

『これは逃げではなく、あとで戻るための場所です』

 

 その一文の前で、彼女は長く止まった。

 

 そして、反対意見の束の一番上に、新しい表題を書いた。

 

『保留回答制度案

 第一定義:回答不能ではなく、回答猶予。

 目的:記録対象者の意思を歪めないため。』

 

 隣の若い書記が覗き込む。

 

「ミーナさん、本気ですか」

 

「本気です」

 

「反発、強くなりますよ」

 

「でしょうね」

 

「そこまでして、なぜ」

 

 ミーナは紙を揃えた。

 

「彼女は、自分の言葉を守ろうとしています」

 

 静かな声だった。

 

「なら、記録する側も、守る形を作るべきです」

 

 若い書記は、少し黙った。

 

 それから、別の紙を差し出す。

 

「……下書き、手伝います」

 

 ミーナは顔を上げた。

 

「ありがとうございます」

 

 まだ二人。

 

 貴族院の中では、ほんの小さな数。

 

 けれど、その夜、ルシェルの「保留」は、ただの返答から制度案になった。

 

 王都が味方になるまでの道は遠い。

 

 だが、その最初の石畳が、静かに敷かれ始めていた。

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