TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第36話 保留紙、燃える

 

 その事件は、昼過ぎに起きた。

 

 場所は、貴族院記録局。

 

 発端は、一枚の紙だった。

 

『保留回答制度案

 第一定義:回答不能ではなく、回答猶予。

 目的:記録対象者の意思を歪めないため』

 

 ミーナがまとめた草案。

 

 それを、上級補佐官のひとりが机に叩きつけた。

 

「これは記録ではない。甘やかしだ」

 

 室内が静まった。

 

 ミーナは立っていた。

 

 隣には、下書きを手伝った若い書記。

 

 周囲の書記官たちは、筆を止めている。

 

 上級補佐官は紙を指で弾いた。

 

「答えない自由? 保留? 記録対象者の意思? 我々は聴取する側だ。相手の都合に合わせていて、何が残る」

 

 ミーナは答えた。

 

「歪まない記録が残ります」

 

「綺麗事だ」

 

「いいえ」

 

 ミーナの声は硬い。

 

「恐怖で出された返答は、記録として不正確です」

 

「ならば、恐怖を取り除けばよい」

 

「無理に近づかないことも、その方法の一つです」

 

 補佐官の目が細くなる。

 

「蒼銀の見習いに肩入れしすぎではないか」

 

 ミーナは、そこで一拍置いた。

 

「見習い浄化師ルシェル・ノア氏です」

 

 空気がさらに冷えた。

 

「呼称まで変えるか」

 

「本人希望です。記録局内仮整理にも基づきます」

 

「仮整理など、まだ正式ではない」

 

 補佐官は紙を掴んだ。

 

「こんなものは、正式化する前に破棄する」

 

 ミーナが一歩前へ出る。

 

「お待ちください」

 

 だが、遅かった。

 

 紙は暖炉へ投げ込まれた。

 

 乾いた音。

 

 火が端を舐める。

 

 白い紙が、黒く縮む。

 

 ミーナの顔から、血の気が引いた。

 

 若い書記が息を呑む。

 

 誰かが小さく言った。

 

「燃やした……」

 

 補佐官は冷たく言った。

 

「草案だ。問題ない」

 

 ミーナは、燃えていく紙を見ていた。

 

 そして、静かに言った。

 

「問題です」

 

     ◇

 

 その知らせが王都館へ届いたのは、夕方だった。

 

 届けに来たのは、昨日ミーナを手伝った若い書記だった。

 

 顔色が悪い。

 

 髪も少し乱れている。

 

 クラウスが玄関口で受け取った。

 

「何があった」

 

 若い書記は息を整え、深く頭を下げた。

 

「保留回答制度案が、記録局内で破棄されました」

 

 クラウスの目が細くなる。

 

「破棄?」

 

「上級補佐官が、暖炉へ」

 

 その場にいたセレスの表情が変わった。

 

 レオンが一歩、静かに前へ出る。

 

 ガルドは何も言わず、廊下の奥を塞ぐように立った。

 

 ルシェルは少し離れた場所で、その言葉を聞いていた。

 

「燃えた?」

 

 若い書記が、はっと顔を上げる。

 

「申し訳ありません」

 

「いや」

 

 ルシェルは首を横に振った。

 

「あなたが燃やしたんじゃない」

 

 声は落ち着いていた。

 

 落ち着きすぎて、セレスが不安になるほどだった。

 

「ミーナさんは?」

 

「無事です。ただ、草案破棄に抗議し、記録局長への正式申し立てを行うと」

 

 クラウスが低く言う。

 

「早いな」

 

「ミーナさんは、燃やされた直後に残っていた控えを提出しました」

 

 ルシェルは瞬きをした。

 

「控え」

 

 若い書記は少しだけ息を吐く。

 

「はい。草案は複数写しがありました」

 

 ガルドが言う。

 

「強い」

 

 ルシェルも小さく頷いた。

 

「紙の保留猫みたい」

 

 クラウスが言う。

 

「予備を作るのは基本だ」

 

「書類の人たち、そういうところは頼もしい」

 

     ◇

 

 小応接室で、若い書記は詳しい経緯を話した。

 

 補佐官の名は、エルヴィン・ラウゼン。

 

 貴族院内では、慎重派として知られている。

 

 ただし、慎重というより、管理が強い。

 

 希少な力は、記録し、分類し、必要に応じて呼び出せる形にすべきだという立場。

 

 ルシェルは黙って聞いていた。

 

 机の上には、貴族院から届いた予備紙が一枚。

 

 端に、小さく「保留」と書かれている。

 

「……つまり」

 

 ルシェルは言った。

 

「ボクが保留って書いたことが、燃やされた?」

 

 セレスがすぐに言う。

 

「違うわ。草案が燃やされたの」

 

「でも、同じ方向」

 

 セレスは止まった。

 

 否定だけでは届かない。

 

 ルシェルは紙を見つめる。

 

「答えない場所を作ろうとしたら、燃やされた」

 

 レオンが低く言う。

 

「燃やされたままにはしない」

 

 ルシェルはレオンを見た。

 

「レオン、今すごく鬼」

 

「ああ」

 

「紙相手に」

 

「紙だけではない」

 

 ガルドが腕を組む。

 

「燃やした奴がいる」

 

「ガルドも鬼」

 

「そうだ」

 

 クラウスは若い書記を見る。

 

「ミーナ書記官は、こちらに何を求めている」

 

 若い書記は少し迷ってから、封書を差し出した。

 

「ルシェル・ノア氏へ。ミーナさんからです」

 

 ルシェルは、受け取る前に聞いた。

 

「読まない選択はある?」

 

 若い書記はすぐに頷く。

 

「あります」

 

 その即答に、ルシェルは少しだけ目を見開いた。

 

 セレスが静かに微笑む。

 

「ちゃんと覚えてくれているわね」

 

 ルシェルは封書を受け取った。

 

「読む」

 

     ◇

 

 手紙は短かった。

 

『ルシェル・ノア氏へ。

 

 保留回答制度案の草案が、記録局内で焼却されました。

 私はこれを、単なる草案破棄ではなく、あなたの返答形式への不当な扱いと受け止めています。

 

 申し訳ありません。

 ただし、取り下げません。

 

 明日、記録局長の前で正式に争います。

 もし可能であれば、あなたの「保留」に関する一文を、正式提出資料として使わせてください。

 

 断って構いません。

 保留でも構いません。

 

 ミーナ・エルディア』

 

 ルシェルは、最後の一文で少し息を詰めた。

 

 断って構わない。

 

 保留でも構わない。

 

 その言葉があるから、逃げ場がある。

 

 逃げ場があるから、少し考えられる。

 

「使うって」

 

 セレスが聞く。

 

「嫌?」

 

「怖い」

 

 ルシェルは即答した。

 

「でも、燃やされたままも嫌」

 

 クラウスが頷く。

 

「君の言葉を提出すれば、貴族院内の正式議題になる」

 

「つまり、もっと広がる」

 

「そうだ」

 

「怖い」

 

「そうだな」

 

「でも」

 

 ルシェルは、机の上の紙を見た。

 

 自分で書いた言葉。

 

『これは逃げではなく、あとで戻るための場所です』

 

「……この言葉は、燃やされたくない」

 

 セレスの目が揺れた。

 

 レオンは黙って頷いた。

 

 ガルドが低く言う。

 

「なら、出せ」

 

「ガルド、簡単に言う」

 

「簡単ではない。だが、出すなら守る」

 

 レオンも続ける。

 

「守る」

 

 クラウスが筆を取る。

 

「正式提出用に整える」

 

 ルシェルは首を横に振った。

 

「整えすぎないで」

 

 クラウスの手が止まる。

 

「そのままがいいか」

 

「うん。怖いまま書いたから」

 

 少しだけ、声が震えた。

 

「怖いままの文を、怖くない文にしないでほしい」

 

 クラウスは静かに筆を置いた。

 

「分かった」

 

     ◇

 

 返答は、短かった。

 

『ミーナさんへ。

 

 使ってください。

 

 ただし、文章をきれいにしすぎないでください。

 怖くて書いた文なので、怖さが残っていていいです。

 

 保留は、逃げではなく、あとで戻るための場所です。

 

 ルシェル・ノア』

 

 書き終わると、ルシェルは手を離した。

 

 指先が少し震えていた。

 

 セレスが聞く。

 

「触ってもいい?」

 

「今は、声だけ」

 

「分かったわ。よく書けたわ」

 

 ルシェルは机に額をつける。

 

「真面目褒め、今は痛い」

 

「じゃあ、小さく言うわ」

 

「小さくても刺さる」

 

 レオンが静かに言った。

 

「取り消さない」

 

「そこは取り消さなくていい」

 

 ガルドが焼き菓子を置いた。

 

「食え」

 

「この流れで食料」

 

「手が震えてる」

 

「見てた」

 

「見てる」

 

 ルシェルは焼き菓子を見た。

 

 少しだけ笑った。

 

「鬼の観察力」

 

「そうだ」

 

     ◇

 

 翌日。

 

 貴族院記録局の小会議室。

 

 ミーナは、記録局長の前に立っていた。

 

 部屋には数名の書記官。

 

 反対派のエルヴィン補佐官もいる。

 

 机の上には、燃え残った草案の端。

 

 そして、控え。

 

 さらに、ルシェルの一文。

 

 記録局長は老齢の男性だった。

 

 穏やかだが、目は鋭い。

 

「ミーナ・エルディア。説明を」

 

 ミーナは一礼する。

 

「保留回答制度案は、記録対象者の意思を歪めないための手続きです」

 

 エルヴィンが言う。

 

「対象者本人が制度を理解している保証は?」

 

 ミーナは紙を取る。

 

「本人の返答があります」

 

 彼女は読み上げた。

 

「今答えると、自分を守るための言葉ではなく、相手を満足させるための言葉になりそうな時。怖くて、でも黙ることも怖い時。まだ結論にしたくない時。その時に、保留と書きます。これは逃げではなく、あとで戻るための場所です」

 

 室内が静かになった。

 

 若い書記が唇を結ぶ。

 

 別の書記は筆を止める。

 

 局長は、目を伏せた。

 

 エルヴィンは表情を変えない。

 

「情緒的な文だ」

 

「はい」

 

 ミーナは認めた。

 

「ですが、記録対象者本人の認識として明確です」

 

「記録局が情緒に引きずられてどうする」

 

 そこで、局長が口を開いた。

 

「エルヴィン補佐官」

 

「はい」

 

「あなたは草案を燃やしたそうだな」

 

 エルヴィンは一礼する。

 

「不適切な草案と判断しました」

 

「判断はよい。だが、焼却は記録局の手続きではない」

 

 空気が変わった。

 

 局長の声は穏やかだった。

 

「草案であっても、反対意見であっても、記録に関わる紙を手続きなく焼くことは認められない」

 

 エルヴィンの眉がわずかに動く。

 

「しかし」

 

「これは保留制度以前の問題だ」

 

 局長は燃え残りを見た。

 

「記録局が、記録前の言葉を火に投げる姿を見せてどうする」

 

 ミーナは、息を止めた。

 

 局長は続ける。

 

「その上で、制度案については試験運用を認める」

 

 室内に小さなざわめきが起きる。

 

 エルヴィンが顔を上げる。

 

「局長」

 

「全面採用ではない。記録局内限定。対象は、王都館、浄化師団、貴族院が共同で扱う繊細案件に限る。回答欄に『保留』を設け、理由が書ける場合は併記。書けない場合は空欄も認める」

 

 ミーナの指が震えた。

 

 局長は、ルシェルの紙を見た。

 

「そして、呼称基準も仮採用とする」

 

 若い書記が筆を走らせる。

 

「当該人物は、記録上『見習い浄化師ルシェル・ノア氏』とする。能力属性は補足に回す」

 

 エルヴィンは沈黙した。

 

 完全に納得した顔ではない。

 

 だが、形式は決まった。

 

 局長は最後に言った。

 

「貴族院記録局は、形式上、この件においてルシェル・ノア氏の意思確認を尊重する立場を取る」

 

 形式上。

 

 まだ心ではない。

 

 全員ではない。

 

 けれど、形ができた。

 

 形は、時に人を守る。

 

 ミーナは深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

     ◇

 

 その日の夕方。

 

 王都館に正式通知が届いた。

 

 クラウスが読み上げる。

 

「貴族院記録局より。保留回答欄の試験運用を認可。呼称基準を仮採用。本人同意なき直接聴取を不可とし、記録照会は王都館および浄化師団を通じること」

 

 ルシェルは、椅子に座ったまま固まっていた。

 

「……形式上、味方?」

 

 クラウスが頷く。

 

「形式上は」

 

 セレスが小さく笑う。

 

「大きいわ」

 

「心は?」

 

 レオンが言う。

 

「まだだろう」

 

「正直」

 

 ガルドが腕を組む。

 

「形式が先でも、壁にはなる」

 

「壁」

 

「殴られる前に紙が立つ」

 

 クラウスが少しだけ眉を動かす。

 

「荒いが、そうだ」

 

 ルシェルは通知を見る。

 

 貴族院。

 

 怖い場所。

 

 遠い場所。

 

 ルシェルを「蒼銀」と呼ぶかもしれなかった場所。

 

 その場所が、形式上だけでも、名前を先にした。

 

 保留を欄にした。

 

 直接聴取を止めた。

 

「……紙、強い」

 

 クラウスが頷く。

 

「強い時もある」

 

「今日の紙は味方」

 

「そうだ」

 

 ルシェルは小さく笑った。

 

「ミーナさん、仮味方から形式味方に昇格」

 

 セレスが笑う。

 

「本人に聞いたら照れるかもしれないわね」

 

「貴族院書記官も照れるの?」

 

「人だから」

 

 レオンが静かに言う。

 

「礼を書くか」

 

 ルシェルは少し考える。

 

「書く」

 

 ガルドが焼き菓子を出す。

 

「食ってから書け」

 

「ガルド、流れが全部食」

 

「祝いだ」

 

「祝い」

 

 その言葉に、ルシェルは少しだけ目を伏せた。

 

 祝い。

 

 そう呼んでいいのか、まだ分からない。

 

 でも、燃えた紙が、制度になって戻ってきた。

 

 怖い文が、整えられすぎずに届いた。

 

 保留が、逃げではないと認められた。

 

 なら、少しくらい。

 

「……半分、祝い」

 

 ガルドは焼き菓子を半分に割った。

 

「早い」

 

「必要だ」

 

     ◇

 

 夜。

 

 ルシェルの部屋には、セレスがいた。

 

 レオンは扉の外。

 

 ガルドは食堂で「祝い半分」の残りを確保している。

 

 クラウスは正式通知の写しを整理している。

 

 全員はいない。

 

 でも、足りていた。

 

 ルシェルは小箱の前に、貴族院からの通知の写しを置いた。

 

「今日の報告」

 

 保留猫は無反応。

 

「保留紙、燃えました」

 

 セレスは黙って聞く。

 

「でも、控えがありました」

 

 ルシェルは紙を撫でる。

 

「ミーナさんが戦いました」

 

 少し間。

 

「貴族院記録局が、形式上、味方になりました」

 

 扉の外で、レオンの気配が静かになる。

 

「名前が先になりました。保留欄ができます。直接聴取はだめになりました」

 

 セレスが柔らかく言う。

 

「うん」

 

「怖いです」

 

「うん」

 

「でも、少し助かります」

 

「うん」

 

 ルシェルは通知を小箱の横に置いた。

 

「保留猫、出世しすぎ」

 

 セレスが笑う。

 

「王都進出ね」

 

「しないでほしい」

 

 扉の外から、レオンが言う。

 

「よく守った」

 

 ルシェルは顔を赤くした。

 

「レオン、それは重い」

 

「すまない」

 

「でも、取り消さないで」

 

「取り消さない」

 

 ルシェルは布団に入った。

 

「明日は控えめで」

 

 セレスが答える。

 

「努力するわ」

 

 レオンも扉の外で言う。

 

「努力する」

 

「二人でも信用が薄い」

 

 でも、その声は少し笑っていた。

 

     ◇

 

 同じ夜。

 

 貴族院記録局。

 

 ミーナは、正式通知の控えを棚に収めた。

 

 隣の若い書記が言う。

 

「通りましたね」

 

「試験運用です」

 

「でも、通りました」

 

 ミーナは少しだけ頷いた。

 

「はい」

 

 棚の見出しには、まだ新しい文字が書かれている。

 

『ルシェル・ノア氏関連記録

 呼称基準・保留回答試験運用』

 

 若い書記は、それを見て小さく笑った。

 

「蒼銀、じゃないんですね」

 

 ミーナは振り返る。

 

「違います」

 

 声は静かだったが、はっきりしていた。

 

「ルシェル・ノア氏です」

 

 まだ、貴族院全体がそう呼ぶわけではない。

 

 まだ、形式だけだ。

 

 だが、形式は残る。

 

 残った形式は、次の誰かの目に入る。

 

 そしていつか、形だけだった味方が、形だけで終わらなくなる日が来る。

 

 その最初の通知は、夜の記録棚に静かに収められた。

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