TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
その事件は、昼過ぎに起きた。
場所は、貴族院記録局。
発端は、一枚の紙だった。
『保留回答制度案
第一定義:回答不能ではなく、回答猶予。
目的:記録対象者の意思を歪めないため』
ミーナがまとめた草案。
それを、上級補佐官のひとりが机に叩きつけた。
「これは記録ではない。甘やかしだ」
室内が静まった。
ミーナは立っていた。
隣には、下書きを手伝った若い書記。
周囲の書記官たちは、筆を止めている。
上級補佐官は紙を指で弾いた。
「答えない自由? 保留? 記録対象者の意思? 我々は聴取する側だ。相手の都合に合わせていて、何が残る」
ミーナは答えた。
「歪まない記録が残ります」
「綺麗事だ」
「いいえ」
ミーナの声は硬い。
「恐怖で出された返答は、記録として不正確です」
「ならば、恐怖を取り除けばよい」
「無理に近づかないことも、その方法の一つです」
補佐官の目が細くなる。
「蒼銀の見習いに肩入れしすぎではないか」
ミーナは、そこで一拍置いた。
「見習い浄化師ルシェル・ノア氏です」
空気がさらに冷えた。
「呼称まで変えるか」
「本人希望です。記録局内仮整理にも基づきます」
「仮整理など、まだ正式ではない」
補佐官は紙を掴んだ。
「こんなものは、正式化する前に破棄する」
ミーナが一歩前へ出る。
「お待ちください」
だが、遅かった。
紙は暖炉へ投げ込まれた。
乾いた音。
火が端を舐める。
白い紙が、黒く縮む。
ミーナの顔から、血の気が引いた。
若い書記が息を呑む。
誰かが小さく言った。
「燃やした……」
補佐官は冷たく言った。
「草案だ。問題ない」
ミーナは、燃えていく紙を見ていた。
そして、静かに言った。
「問題です」
◇
その知らせが王都館へ届いたのは、夕方だった。
届けに来たのは、昨日ミーナを手伝った若い書記だった。
顔色が悪い。
髪も少し乱れている。
クラウスが玄関口で受け取った。
「何があった」
若い書記は息を整え、深く頭を下げた。
「保留回答制度案が、記録局内で破棄されました」
クラウスの目が細くなる。
「破棄?」
「上級補佐官が、暖炉へ」
その場にいたセレスの表情が変わった。
レオンが一歩、静かに前へ出る。
ガルドは何も言わず、廊下の奥を塞ぐように立った。
ルシェルは少し離れた場所で、その言葉を聞いていた。
「燃えた?」
若い書記が、はっと顔を上げる。
「申し訳ありません」
「いや」
ルシェルは首を横に振った。
「あなたが燃やしたんじゃない」
声は落ち着いていた。
落ち着きすぎて、セレスが不安になるほどだった。
「ミーナさんは?」
「無事です。ただ、草案破棄に抗議し、記録局長への正式申し立てを行うと」
クラウスが低く言う。
「早いな」
「ミーナさんは、燃やされた直後に残っていた控えを提出しました」
ルシェルは瞬きをした。
「控え」
若い書記は少しだけ息を吐く。
「はい。草案は複数写しがありました」
ガルドが言う。
「強い」
ルシェルも小さく頷いた。
「紙の保留猫みたい」
クラウスが言う。
「予備を作るのは基本だ」
「書類の人たち、そういうところは頼もしい」
◇
小応接室で、若い書記は詳しい経緯を話した。
補佐官の名は、エルヴィン・ラウゼン。
貴族院内では、慎重派として知られている。
ただし、慎重というより、管理が強い。
希少な力は、記録し、分類し、必要に応じて呼び出せる形にすべきだという立場。
ルシェルは黙って聞いていた。
机の上には、貴族院から届いた予備紙が一枚。
端に、小さく「保留」と書かれている。
「……つまり」
ルシェルは言った。
「ボクが保留って書いたことが、燃やされた?」
セレスがすぐに言う。
「違うわ。草案が燃やされたの」
「でも、同じ方向」
セレスは止まった。
否定だけでは届かない。
ルシェルは紙を見つめる。
「答えない場所を作ろうとしたら、燃やされた」
レオンが低く言う。
「燃やされたままにはしない」
ルシェルはレオンを見た。
「レオン、今すごく鬼」
「ああ」
「紙相手に」
「紙だけではない」
ガルドが腕を組む。
「燃やした奴がいる」
「ガルドも鬼」
「そうだ」
クラウスは若い書記を見る。
「ミーナ書記官は、こちらに何を求めている」
若い書記は少し迷ってから、封書を差し出した。
「ルシェル・ノア氏へ。ミーナさんからです」
ルシェルは、受け取る前に聞いた。
「読まない選択はある?」
若い書記はすぐに頷く。
「あります」
その即答に、ルシェルは少しだけ目を見開いた。
セレスが静かに微笑む。
「ちゃんと覚えてくれているわね」
ルシェルは封書を受け取った。
「読む」
◇
手紙は短かった。
『ルシェル・ノア氏へ。
保留回答制度案の草案が、記録局内で焼却されました。
私はこれを、単なる草案破棄ではなく、あなたの返答形式への不当な扱いと受け止めています。
申し訳ありません。
ただし、取り下げません。
明日、記録局長の前で正式に争います。
もし可能であれば、あなたの「保留」に関する一文を、正式提出資料として使わせてください。
断って構いません。
保留でも構いません。
ミーナ・エルディア』
ルシェルは、最後の一文で少し息を詰めた。
断って構わない。
保留でも構わない。
その言葉があるから、逃げ場がある。
逃げ場があるから、少し考えられる。
「使うって」
セレスが聞く。
「嫌?」
「怖い」
ルシェルは即答した。
「でも、燃やされたままも嫌」
クラウスが頷く。
「君の言葉を提出すれば、貴族院内の正式議題になる」
「つまり、もっと広がる」
「そうだ」
「怖い」
「そうだな」
「でも」
ルシェルは、机の上の紙を見た。
自分で書いた言葉。
『これは逃げではなく、あとで戻るための場所です』
「……この言葉は、燃やされたくない」
セレスの目が揺れた。
レオンは黙って頷いた。
ガルドが低く言う。
「なら、出せ」
「ガルド、簡単に言う」
「簡単ではない。だが、出すなら守る」
レオンも続ける。
「守る」
クラウスが筆を取る。
「正式提出用に整える」
ルシェルは首を横に振った。
「整えすぎないで」
クラウスの手が止まる。
「そのままがいいか」
「うん。怖いまま書いたから」
少しだけ、声が震えた。
「怖いままの文を、怖くない文にしないでほしい」
クラウスは静かに筆を置いた。
「分かった」
◇
返答は、短かった。
『ミーナさんへ。
使ってください。
ただし、文章をきれいにしすぎないでください。
怖くて書いた文なので、怖さが残っていていいです。
保留は、逃げではなく、あとで戻るための場所です。
ルシェル・ノア』
書き終わると、ルシェルは手を離した。
指先が少し震えていた。
セレスが聞く。
「触ってもいい?」
「今は、声だけ」
「分かったわ。よく書けたわ」
ルシェルは机に額をつける。
「真面目褒め、今は痛い」
「じゃあ、小さく言うわ」
「小さくても刺さる」
レオンが静かに言った。
「取り消さない」
「そこは取り消さなくていい」
ガルドが焼き菓子を置いた。
「食え」
「この流れで食料」
「手が震えてる」
「見てた」
「見てる」
ルシェルは焼き菓子を見た。
少しだけ笑った。
「鬼の観察力」
「そうだ」
◇
翌日。
貴族院記録局の小会議室。
ミーナは、記録局長の前に立っていた。
部屋には数名の書記官。
反対派のエルヴィン補佐官もいる。
机の上には、燃え残った草案の端。
そして、控え。
さらに、ルシェルの一文。
記録局長は老齢の男性だった。
穏やかだが、目は鋭い。
「ミーナ・エルディア。説明を」
ミーナは一礼する。
「保留回答制度案は、記録対象者の意思を歪めないための手続きです」
エルヴィンが言う。
「対象者本人が制度を理解している保証は?」
ミーナは紙を取る。
「本人の返答があります」
彼女は読み上げた。
「今答えると、自分を守るための言葉ではなく、相手を満足させるための言葉になりそうな時。怖くて、でも黙ることも怖い時。まだ結論にしたくない時。その時に、保留と書きます。これは逃げではなく、あとで戻るための場所です」
室内が静かになった。
若い書記が唇を結ぶ。
別の書記は筆を止める。
局長は、目を伏せた。
エルヴィンは表情を変えない。
「情緒的な文だ」
「はい」
ミーナは認めた。
「ですが、記録対象者本人の認識として明確です」
「記録局が情緒に引きずられてどうする」
そこで、局長が口を開いた。
「エルヴィン補佐官」
「はい」
「あなたは草案を燃やしたそうだな」
エルヴィンは一礼する。
「不適切な草案と判断しました」
「判断はよい。だが、焼却は記録局の手続きではない」
空気が変わった。
局長の声は穏やかだった。
「草案であっても、反対意見であっても、記録に関わる紙を手続きなく焼くことは認められない」
エルヴィンの眉がわずかに動く。
「しかし」
「これは保留制度以前の問題だ」
局長は燃え残りを見た。
「記録局が、記録前の言葉を火に投げる姿を見せてどうする」
ミーナは、息を止めた。
局長は続ける。
「その上で、制度案については試験運用を認める」
室内に小さなざわめきが起きる。
エルヴィンが顔を上げる。
「局長」
「全面採用ではない。記録局内限定。対象は、王都館、浄化師団、貴族院が共同で扱う繊細案件に限る。回答欄に『保留』を設け、理由が書ける場合は併記。書けない場合は空欄も認める」
ミーナの指が震えた。
局長は、ルシェルの紙を見た。
「そして、呼称基準も仮採用とする」
若い書記が筆を走らせる。
「当該人物は、記録上『見習い浄化師ルシェル・ノア氏』とする。能力属性は補足に回す」
エルヴィンは沈黙した。
完全に納得した顔ではない。
だが、形式は決まった。
局長は最後に言った。
「貴族院記録局は、形式上、この件においてルシェル・ノア氏の意思確認を尊重する立場を取る」
形式上。
まだ心ではない。
全員ではない。
けれど、形ができた。
形は、時に人を守る。
ミーナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇
その日の夕方。
王都館に正式通知が届いた。
クラウスが読み上げる。
「貴族院記録局より。保留回答欄の試験運用を認可。呼称基準を仮採用。本人同意なき直接聴取を不可とし、記録照会は王都館および浄化師団を通じること」
ルシェルは、椅子に座ったまま固まっていた。
「……形式上、味方?」
クラウスが頷く。
「形式上は」
セレスが小さく笑う。
「大きいわ」
「心は?」
レオンが言う。
「まだだろう」
「正直」
ガルドが腕を組む。
「形式が先でも、壁にはなる」
「壁」
「殴られる前に紙が立つ」
クラウスが少しだけ眉を動かす。
「荒いが、そうだ」
ルシェルは通知を見る。
貴族院。
怖い場所。
遠い場所。
ルシェルを「蒼銀」と呼ぶかもしれなかった場所。
その場所が、形式上だけでも、名前を先にした。
保留を欄にした。
直接聴取を止めた。
「……紙、強い」
クラウスが頷く。
「強い時もある」
「今日の紙は味方」
「そうだ」
ルシェルは小さく笑った。
「ミーナさん、仮味方から形式味方に昇格」
セレスが笑う。
「本人に聞いたら照れるかもしれないわね」
「貴族院書記官も照れるの?」
「人だから」
レオンが静かに言う。
「礼を書くか」
ルシェルは少し考える。
「書く」
ガルドが焼き菓子を出す。
「食ってから書け」
「ガルド、流れが全部食」
「祝いだ」
「祝い」
その言葉に、ルシェルは少しだけ目を伏せた。
祝い。
そう呼んでいいのか、まだ分からない。
でも、燃えた紙が、制度になって戻ってきた。
怖い文が、整えられすぎずに届いた。
保留が、逃げではないと認められた。
なら、少しくらい。
「……半分、祝い」
ガルドは焼き菓子を半分に割った。
「早い」
「必要だ」
◇
夜。
ルシェルの部屋には、セレスがいた。
レオンは扉の外。
ガルドは食堂で「祝い半分」の残りを確保している。
クラウスは正式通知の写しを整理している。
全員はいない。
でも、足りていた。
ルシェルは小箱の前に、貴族院からの通知の写しを置いた。
「今日の報告」
保留猫は無反応。
「保留紙、燃えました」
セレスは黙って聞く。
「でも、控えがありました」
ルシェルは紙を撫でる。
「ミーナさんが戦いました」
少し間。
「貴族院記録局が、形式上、味方になりました」
扉の外で、レオンの気配が静かになる。
「名前が先になりました。保留欄ができます。直接聴取はだめになりました」
セレスが柔らかく言う。
「うん」
「怖いです」
「うん」
「でも、少し助かります」
「うん」
ルシェルは通知を小箱の横に置いた。
「保留猫、出世しすぎ」
セレスが笑う。
「王都進出ね」
「しないでほしい」
扉の外から、レオンが言う。
「よく守った」
ルシェルは顔を赤くした。
「レオン、それは重い」
「すまない」
「でも、取り消さないで」
「取り消さない」
ルシェルは布団に入った。
「明日は控えめで」
セレスが答える。
「努力するわ」
レオンも扉の外で言う。
「努力する」
「二人でも信用が薄い」
でも、その声は少し笑っていた。
◇
同じ夜。
貴族院記録局。
ミーナは、正式通知の控えを棚に収めた。
隣の若い書記が言う。
「通りましたね」
「試験運用です」
「でも、通りました」
ミーナは少しだけ頷いた。
「はい」
棚の見出しには、まだ新しい文字が書かれている。
『ルシェル・ノア氏関連記録
呼称基準・保留回答試験運用』
若い書記は、それを見て小さく笑った。
「蒼銀、じゃないんですね」
ミーナは振り返る。
「違います」
声は静かだったが、はっきりしていた。
「ルシェル・ノア氏です」
まだ、貴族院全体がそう呼ぶわけではない。
まだ、形式だけだ。
だが、形式は残る。
残った形式は、次の誰かの目に入る。
そしていつか、形だけだった味方が、形だけで終わらなくなる日が来る。
その最初の通知は、夜の記録棚に静かに収められた。