TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第38話 燃やした人の手

 

 翌朝。

 

 白環記録庫から、もう一度呼び出しが来た。

 

 ただし、今度は貴族院本棟ではない。

 

 記録庫の一階奥。

 小さな閲覧室。

 扉は二つ。

 窓は廊下側にもある。

 

 逃げ道がある部屋。

 

 ルシェルは案内図を見て、半目になった。

 

「部屋が配慮してる」

 

 クラウスが頷く。

 

「ミーナ書記官の指定だ」

 

「ミーナさん、建物の使い方が上手い」

 

 セレスが微笑む。

 

「行けそう?」

 

「怖いけど、行く」

 

 レオンが外套を取る。

 

「同行する」

 

「でしょうね」

 

 ガルドは食料袋を持った。

 

「俺も行く」

 

「でしょうね本家」

 

 ルシェルは少しだけ息を吐いた。

 

「今日も紙の森」

 

     ◇

 

 白環記録庫は、昨日より静かだった。

 

 けれど、空気は軽くない。

 

 廊下の奥で、書記たちが声を潜めている。

 

 昨日のことが広がっているのだろう。

 

 保留が扉を止めたこと。

 

 エルヴィン補佐官が退いたこと。

 

 その事実だけが、紙より先に人の間を歩いていた。

 

 ルシェルは視線を落とす。

 

「見られてる?」

 

 セレスが小さく答える。

 

「少し」

 

「蒼銀として?」

 

 レオンがすぐ言う。

 

「違う」

 

「早い」

 

「少なくとも、そう呼ばせない」

 

 その声が静かに重い。

 

 ルシェルは少し肩の力を抜いた。

 

「本味方、今日も重い」

 

 レオンは困った顔をした。

 

「軽くするか」

 

「しない」

 

「分かった」

 

 そのやりとりを、受付の若い書記が聞いていた。

 

 彼は笑いそうになって、慌てて咳払いした。

 

「本日は、記録照合の続きです。三つ目の項目のみ、後日回答分として扱います」

 

 ルシェルは頷く。

 

「後日回答、出勤」

 

「はい」

 

     ◇

 

 閲覧室には、ミーナがいた。

 

 そして、もう一人。

 

 エルヴィン・ラウゼン補佐官。

 

 ルシェルは入口で止まった。

 

 レオンが一歩前に出る。

 

 ガルドの手が、扉の縁にかかる。

 

 ミーナがすぐに言った。

 

「本日の立ち会いについて、事前通知に不備がありました」

 

 ルシェルはエルヴィンを見る。

 

 昨日、扉の向こうにいた人。

 

 保留紙を燃やした人。

 

 表情は硬い。

 

 謝罪の顔ではない。

 

 けれど、こちらを押し切る顔でもなかった。

 

 エルヴィンは、手に持っていた書類を机へ置いた。

 

「私は退室できる」

 

 短い言葉だった。

 

 ルシェルは瞬きをした。

 

「……え」

 

「事前同意がない。規定上、君が拒むなら退室する」

 

 彼は淡々と言った。

 

 その声には、優しさはない。

 

 ただ、昨日より少しだけ、角が削れていた。

 

 ルシェルはセレスを見る。

 

 セレスは何も言わない。

 

 レオンも答えを渡さない。

 

 ガルドも黙っている。

 

 ミーナも待っている。

 

 ルシェルは、机の上の回答紙を見た。

 

 回答。

 保留。

 沈黙。

 後日回答。

 

 筆を取る。

 

 少しだけ考えて、書いた。

 

『立ち会い:保留。

 条件:扉を開けたまま。質問はミーナさん経由。直接呼ばない。途中退室可。』

 

 若い書記が紙を受け取り、読み上げる。

 

 エルヴィンは黙って聞いた。

 

 読み終わると、一度だけ頷いた。

 

「承知した」

 

 そして、自分から椅子を一番遠い壁際へ引いた。

 

 ルシェルはそれを見ていた。

 

 都合よく笑うわけでもない。

 謝るわけでもない。

 ただ、椅子を遠ざけた。

 

「……椅子が動いた」

 

 セレスが小声で言う。

 

「動かしてくれたわね」

 

「まだ怖い」

 

「うん」

 

     ◇

 

 三つ目の項目は、境界石の発光と雨雫に似た音についてだった。

 

 ミーナが資料を広げる。

 

「昨日の残響反応について、白環記録庫に似た記録が一件ありました」

 

 クラウスの目が鋭くなる。

 

「いつの記録だ」

 

「二十年前です。王都東外縁の小境界石。強い浄化の後、数日遅れて淡い発光。近くにいた家畜が反応。記録には『水滴に似た音』とあります」

 

 ルシェルは顔を上げた。

 

「水滴」

 

「はい」

 

 ミーナは一枚の古い写しを差し出す。

 

 文字は少し古い。

 

 けれど、確かに書いてある。

 

『発光時、石内より滴下音のごとき微音あり』

 

 ルシェルは指先で紙の端を押さえた。

 

「雨雫の音と、似てるかもしれない」

 

 リーネが資料を確認しながら言った。

 

「境界石の回復反応として扱われていたようですね」

 

 クラウスが眉を寄せる。

 

「だが、その後の追跡記録がない」

 

 ミーナは頷いた。

 

「当時は異常なしとして閉じられています」

 

 その時、壁際のエルヴィンが低く言った。

 

「閉じたのは、私の前任だ」

 

 全員の視線が彼に向きそうになり、途中で止まる。

 

 ルシェルは見た。

 

 エルヴィンの手元。

 

 彼は古い記録の写しを持っている。

 

 端が擦り切れていた。

 

 何度も読まれた紙だった。

 

 エルヴィンは、その紙を机に置いた。

 

「その記録の後、東外縁では小規模な結界乱れが三度起きている」

 

 ミーナが息を呑む。

 

「補佐官、それは未整理棚の記録では」

 

「そうだ」

 

「持ち出し許可は」

 

「取った」

 

 彼は短く答え、許可印のある紙を見せた。

 

 クラウスがそれを確認する。

 

「正式だ」

 

 ルシェルは思わず呟いた。

 

「燃やした人が、正式手続きしてる」

 

 エルヴィンの眉がわずかに動いた。

 

「燃やした件については、処分を受けた」

 

 空気が止まる。

 

 謝罪ではない。

 

 言い訳でもない。

 

 事実だけ。

 

 その袖口から、少し包帯が見えた。

 

 暖炉の火で焼けたのか。

 

 紙を拾おうとしたのか。

 

 ルシェルは見てしまった。

 

 エルヴィンは、それに気づいて袖を戻した。

 

 何も言わない。

 

 ルシェルも何も言わなかった。

 

     ◇

 

 照合は続いた。

 

 東外縁の古い記録。

 丘の村の境界石。

 ミル毛の残響。

 雨雫に似た音。

 

 点が増えていく。

 

 まだ線ではない。

 

 でも、ばらばらでもない。

 

 ミーナが表情を引き締める。

 

「この二件が同種の反応なら、発光後数日の観察が必要です」

 

 リーネが頷く。

 

「丘の村にも追加観察を依頼しましょう」

 

 ガルドが言う。

 

「山羊の反応も」

 

 ミーナは即座に書いた。

 

「山羊の反応も」

 

 ルシェルが目を見開く。

 

「採用が早い」

 

「前例ができました」

 

「山羊前例」

 

 その時、エルヴィンが机の上の古い記録を指で押さえた。

 

「当時、家畜の反応は切り捨てられた」

 

 低い声だった。

 

「根拠が薄いとされた。結果、発光記録も閉じられた」

 

 彼はミーナを見る。

 

「今回は、切るな」

 

 ミーナは一瞬だけ固まる。

 

 それから、深く頷いた。

 

「はい」

 

 ルシェルは、エルヴィンを見た。

 

 彼の表情は相変わらず硬い。

 

 怖い。

 

 まだ怖い。

 

 でも、今の言葉は。

 

「……山羊を守った?」

 

 ガルドが低く言う。

 

「山羊側か」

 

「まだ分からない」

 

 エルヴィンは、こちらを見ないまま言った。

 

「動物の反応を、補助記録に含めるだけだ」

 

「山羊側では?」

 

「違う」

 

「書類の人たち、みんな山羊側を否定する」

 

 セレスが少し笑った。

 

     ◇

 

 照合の途中で、問題が起きた。

 

 廊下から、別の職員が駆け込んできた。

 

「ミーナ書記官、東外縁の古記録閲覧許可について、第二補佐室から差し止めが」

 

 ミーナの顔が変わる。

 

「今ですか」

 

「はい。未整理記録の混入を理由に、一時凍結と」

 

 クラウスが資料を押さえる。

 

「都合が良すぎる」

 

 レオンの目が細くなる。

 

 ガルドが入口に立つ。

 

 ルシェルは紙を握った。

 

 せっかく線になりかけたものが、また閉じられる。

 

 また、誰かの都合で。

 

 エルヴィンが立ち上がった。

 

 全員が身構える。

 

 彼は、机の上の許可印つき書類を取り上げた。

 

「差し止めの理由書は」

 

 職員が戸惑う。

 

「まだ口頭で」

 

「口頭では止められない」

 

 エルヴィンの声は冷たかった。

 

 ただし、今度はルシェルへ向いていない。

 

「未整理記録の閲覧には、局長許可が出ている。取り消すなら、同等以上の署名が必要だ」

 

「しかし、第二補佐室が」

 

「署名を持ってこい」

 

 職員が言葉を失う。

 

 エルヴィンはさらに続けた。

 

「それまでは、照合を止めない」

 

 部屋が静かになった。

 

 ルシェルは、エルヴィンを見ていた。

 

 昨日、扉を開けようとした人が。

 

 今日は、別の扉を閉めさせなかった。

 

 都合がよすぎるわけではない。

 

 顔は怖い。

 言い方も硬い。

 優しくない。

 でも、手続きの刃を、こちらではなく別の方へ向けた。

 

「……形式の鬼」

 

 ルシェルが呟いた。

 

 エルヴィンが一瞬、こちらを見た。

 

「何か」

 

「いえ。役職名の検討です」

 

「不要だ」

 

 ガルドが言う。

 

「悪くない」

 

「採用しない」

 

     ◇

 

 照合は進んだ。

 

 その結果、丘の村への再訪はまだ不要。

 

 ただし三日間、発光・音・山羊の反応を記録する。

 

 王都側は、東外縁の古記録を再整理する。

 

 白環記録庫に、残響反応の仮棚を作る。

 

 そして、ルシェル本人への追加確認は、必要が生じるまで行わない。

 

 最後の一文を、エルヴィンが自分で書いた。

 

『見習い浄化師ルシェル・ノア氏への追加確認は、本人負担を増やすため、現時点では不要。記録照合を優先する』

 

 ルシェルはその文字を見た。

 

 強い字だった。

 

 四角くて、逃げ道が少なそうな字。

 

 でも、そこに自分の名前があった。

 

 蒼銀ではなく。

 

 ルシェル・ノア氏。

 

「……書いた」

 

 エルヴィンは筆を置いた。

 

「必要なことを書いた」

 

「ボクの負担って書いた」

 

「事実だ」

 

「事実」

 

 ルシェルは少しだけ黙る。

 

「怖いけど、助かります」

 

 言ったあと、自分で少し驚いた。

 

 エルヴィンも、わずかに目を伏せた。

 

「そうか」

 

 ただ、それだけ。

 

 謝罪も、感動もない。

 

 けれど、その「そうか」は、昨日の声より少し低かった。

 

     ◇

 

 帰り際。

 

 ルシェルは後日回答の栞を机に置きかけて、やめた。

 

 代わりに、回答紙へ一行だけ書いた。

 

『エルヴィン補佐官の立ち会い継続について:条件付き可』

 

 若い書記が目を見開く。

 

 ミーナも少し驚いた。

 

 エルヴィンは動かなかった。

 

 ルシェルは続けて書く。

 

『条件:直接呼ばない。燃やさない。山羊の反応を切らない。怖い時は保留。』

 

 セレスが横で小さく吹き出した。

 

 ガルドが頷く。

 

「良い条件だ」

 

 レオンはエルヴィンを見る。

 

 警戒は解かない。

 

 でも、剣の気配は少しだけ遠い。

 

 エルヴィンは紙を読んだ。

 

 長く黙った。

 

 それから、筆を取った。

 

『承知した』

 

 その下に、もう一行。

 

『焼却は行わない』

 

 ルシェルは半目になる。

 

「そこ、明文化された」

 

「必要条件だろう」

 

「そうですけど」

 

 彼は紙をミーナへ渡した。

 

「写しを残せ」

 

 ミーナは頷く。

 

「はい」

 

 エルヴィンは扉へ向かいかけ、そこで一度止まった。

 

 こちらを振り返らずに言う。

 

「昨日、君の保留を軽く見た」

 

 ルシェルの指が止まる。

 

「今日は、止まった」

 

 それだけ言って、彼は廊下へ出た。

 

 謝罪とは言い切れない。

 

 仲間になった、ともまだ言えない。

 

 けれど。

 

 昨日、紙を燃やした人が。

 

 今日は、紙を残していった。

 

     ◇

 

 王都館へ戻る馬車の中。

 

 ルシェルは、条件付き可の写しを膝に置いていた。

 

 セレスが隣で言う。

 

「疲れたわね」

 

「疲れた」

 

 レオンは向かいに座っている。

 

 まだ少し警戒した顔だ。

 

「信用はしない」

 

「レオン、直球」

 

「だが、今日の行動は覚える」

 

 ルシェルは写しを見る。

 

「ボクも、信用はしない」

 

 ガルドが御者席側から言う。

 

「それでいい」

 

「でも、敵固定でもなくなった」

 

 セレスが頷く。

 

「うん」

 

「形式味方の中に、形式の鬼が増えた」

 

 クラウスが資料から顔を上げる。

 

「その呼称は正式にしない」

 

「欄外なら?」

 

「しない」

 

「王都書類、欄外に厳しい」

 

     ◇

 

 夜。

 

 ルシェルの部屋には、セレスだけがいた。

 

 レオンは、今日は扉の外ではなく廊下の角。

 

 ガルドは食堂。

 

 クラウスは記録庫への返答。

 

 リーネは浄化師団。

 

 静かな夜だった。

 

 ルシェルは小箱の前に、条件付き可の写しを置いた。

 

「今日の報告」

 

 保留猫は無反応。

 

「エルヴィン補佐官がいました」

 

 無反応。

 

「怖かった」

 

 セレスが頷く。

 

「うん」

 

「でも、椅子を遠ざけました」

 

 無反応。

 

「質問はミーナさん経由にしました」

 

 ルシェルは紙を指で押さえる。

 

「差し止めを、止めました」

 

 セレスが静かに聞いている。

 

「山羊の反応を切るなって言いました」

 

「うん」

 

「ボクの名前を書きました。負担を増やすから追加確認不要って」

 

 そこまで言って、ルシェルは少し黙った。

 

「仲間?」

 

 セレスはすぐには答えなかった。

 

 少し考えてから言う。

 

「仲間になり始めた人、かしら」

 

 ルシェルは半目になる。

 

「長い」

 

「でも、そのくらいが合っているわ」

 

「うん」

 

 ルシェルは紙を見る。

 

『焼却は行わない』

 

 少し笑った。

 

「そこからなんだ」

 

 セレスも笑う。

 

「大事な一歩ね」

 

「紙を燃やさない人から始める仲間づくり」

 

「悪くないわ」

 

 ルシェルは布団に入った。

 

「明日、エルヴィン補佐官に会ったら、怖いと思う」

 

「うん」

 

「でも、今日の紙は覚えておく」

 

「うん」

 

「保留」

 

「それでいいわ」

 

 ルシェルは保留猫を抱いた。

 

 小箱の中に、また一枚、変な紙が増えた。

 

 敵か味方か。

 

 嫌いか信じるか。

 

 全部すぐには決められない。

 

 でも、保留のまま置いておける。

 

 あとで戻るための場所がある。

 

「……条件付き可」

 

 小さく呟く。

 

 セレスが灯りを落とした。

 

 その夜、白環記録庫では、エルヴィンがひとり古い記録を読み返していた。

 

 机の端には、燃え残りではない新しい紙。

 

『焼却は行わない』

 

 彼はその一文を見て、しばらく動かなかった。

 

 やがて、古い東外縁の記録の末尾に、硬い字で追記する。

 

『再照合対象。未了として扱う』

 

 閉じられていた記録が、二十年ぶりに開いた。

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