TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝。
白環記録庫から、もう一度呼び出しが来た。
ただし、今度は貴族院本棟ではない。
記録庫の一階奥。
小さな閲覧室。
扉は二つ。
窓は廊下側にもある。
逃げ道がある部屋。
ルシェルは案内図を見て、半目になった。
「部屋が配慮してる」
クラウスが頷く。
「ミーナ書記官の指定だ」
「ミーナさん、建物の使い方が上手い」
セレスが微笑む。
「行けそう?」
「怖いけど、行く」
レオンが外套を取る。
「同行する」
「でしょうね」
ガルドは食料袋を持った。
「俺も行く」
「でしょうね本家」
ルシェルは少しだけ息を吐いた。
「今日も紙の森」
◇
白環記録庫は、昨日より静かだった。
けれど、空気は軽くない。
廊下の奥で、書記たちが声を潜めている。
昨日のことが広がっているのだろう。
保留が扉を止めたこと。
エルヴィン補佐官が退いたこと。
その事実だけが、紙より先に人の間を歩いていた。
ルシェルは視線を落とす。
「見られてる?」
セレスが小さく答える。
「少し」
「蒼銀として?」
レオンがすぐ言う。
「違う」
「早い」
「少なくとも、そう呼ばせない」
その声が静かに重い。
ルシェルは少し肩の力を抜いた。
「本味方、今日も重い」
レオンは困った顔をした。
「軽くするか」
「しない」
「分かった」
そのやりとりを、受付の若い書記が聞いていた。
彼は笑いそうになって、慌てて咳払いした。
「本日は、記録照合の続きです。三つ目の項目のみ、後日回答分として扱います」
ルシェルは頷く。
「後日回答、出勤」
「はい」
◇
閲覧室には、ミーナがいた。
そして、もう一人。
エルヴィン・ラウゼン補佐官。
ルシェルは入口で止まった。
レオンが一歩前に出る。
ガルドの手が、扉の縁にかかる。
ミーナがすぐに言った。
「本日の立ち会いについて、事前通知に不備がありました」
ルシェルはエルヴィンを見る。
昨日、扉の向こうにいた人。
保留紙を燃やした人。
表情は硬い。
謝罪の顔ではない。
けれど、こちらを押し切る顔でもなかった。
エルヴィンは、手に持っていた書類を机へ置いた。
「私は退室できる」
短い言葉だった。
ルシェルは瞬きをした。
「……え」
「事前同意がない。規定上、君が拒むなら退室する」
彼は淡々と言った。
その声には、優しさはない。
ただ、昨日より少しだけ、角が削れていた。
ルシェルはセレスを見る。
セレスは何も言わない。
レオンも答えを渡さない。
ガルドも黙っている。
ミーナも待っている。
ルシェルは、机の上の回答紙を見た。
回答。
保留。
沈黙。
後日回答。
筆を取る。
少しだけ考えて、書いた。
『立ち会い:保留。
条件:扉を開けたまま。質問はミーナさん経由。直接呼ばない。途中退室可。』
若い書記が紙を受け取り、読み上げる。
エルヴィンは黙って聞いた。
読み終わると、一度だけ頷いた。
「承知した」
そして、自分から椅子を一番遠い壁際へ引いた。
ルシェルはそれを見ていた。
都合よく笑うわけでもない。
謝るわけでもない。
ただ、椅子を遠ざけた。
「……椅子が動いた」
セレスが小声で言う。
「動かしてくれたわね」
「まだ怖い」
「うん」
◇
三つ目の項目は、境界石の発光と雨雫に似た音についてだった。
ミーナが資料を広げる。
「昨日の残響反応について、白環記録庫に似た記録が一件ありました」
クラウスの目が鋭くなる。
「いつの記録だ」
「二十年前です。王都東外縁の小境界石。強い浄化の後、数日遅れて淡い発光。近くにいた家畜が反応。記録には『水滴に似た音』とあります」
ルシェルは顔を上げた。
「水滴」
「はい」
ミーナは一枚の古い写しを差し出す。
文字は少し古い。
けれど、確かに書いてある。
『発光時、石内より滴下音のごとき微音あり』
ルシェルは指先で紙の端を押さえた。
「雨雫の音と、似てるかもしれない」
リーネが資料を確認しながら言った。
「境界石の回復反応として扱われていたようですね」
クラウスが眉を寄せる。
「だが、その後の追跡記録がない」
ミーナは頷いた。
「当時は異常なしとして閉じられています」
その時、壁際のエルヴィンが低く言った。
「閉じたのは、私の前任だ」
全員の視線が彼に向きそうになり、途中で止まる。
ルシェルは見た。
エルヴィンの手元。
彼は古い記録の写しを持っている。
端が擦り切れていた。
何度も読まれた紙だった。
エルヴィンは、その紙を机に置いた。
「その記録の後、東外縁では小規模な結界乱れが三度起きている」
ミーナが息を呑む。
「補佐官、それは未整理棚の記録では」
「そうだ」
「持ち出し許可は」
「取った」
彼は短く答え、許可印のある紙を見せた。
クラウスがそれを確認する。
「正式だ」
ルシェルは思わず呟いた。
「燃やした人が、正式手続きしてる」
エルヴィンの眉がわずかに動いた。
「燃やした件については、処分を受けた」
空気が止まる。
謝罪ではない。
言い訳でもない。
事実だけ。
その袖口から、少し包帯が見えた。
暖炉の火で焼けたのか。
紙を拾おうとしたのか。
ルシェルは見てしまった。
エルヴィンは、それに気づいて袖を戻した。
何も言わない。
ルシェルも何も言わなかった。
◇
照合は続いた。
東外縁の古い記録。
丘の村の境界石。
ミル毛の残響。
雨雫に似た音。
点が増えていく。
まだ線ではない。
でも、ばらばらでもない。
ミーナが表情を引き締める。
「この二件が同種の反応なら、発光後数日の観察が必要です」
リーネが頷く。
「丘の村にも追加観察を依頼しましょう」
ガルドが言う。
「山羊の反応も」
ミーナは即座に書いた。
「山羊の反応も」
ルシェルが目を見開く。
「採用が早い」
「前例ができました」
「山羊前例」
その時、エルヴィンが机の上の古い記録を指で押さえた。
「当時、家畜の反応は切り捨てられた」
低い声だった。
「根拠が薄いとされた。結果、発光記録も閉じられた」
彼はミーナを見る。
「今回は、切るな」
ミーナは一瞬だけ固まる。
それから、深く頷いた。
「はい」
ルシェルは、エルヴィンを見た。
彼の表情は相変わらず硬い。
怖い。
まだ怖い。
でも、今の言葉は。
「……山羊を守った?」
ガルドが低く言う。
「山羊側か」
「まだ分からない」
エルヴィンは、こちらを見ないまま言った。
「動物の反応を、補助記録に含めるだけだ」
「山羊側では?」
「違う」
「書類の人たち、みんな山羊側を否定する」
セレスが少し笑った。
◇
照合の途中で、問題が起きた。
廊下から、別の職員が駆け込んできた。
「ミーナ書記官、東外縁の古記録閲覧許可について、第二補佐室から差し止めが」
ミーナの顔が変わる。
「今ですか」
「はい。未整理記録の混入を理由に、一時凍結と」
クラウスが資料を押さえる。
「都合が良すぎる」
レオンの目が細くなる。
ガルドが入口に立つ。
ルシェルは紙を握った。
せっかく線になりかけたものが、また閉じられる。
また、誰かの都合で。
エルヴィンが立ち上がった。
全員が身構える。
彼は、机の上の許可印つき書類を取り上げた。
「差し止めの理由書は」
職員が戸惑う。
「まだ口頭で」
「口頭では止められない」
エルヴィンの声は冷たかった。
ただし、今度はルシェルへ向いていない。
「未整理記録の閲覧には、局長許可が出ている。取り消すなら、同等以上の署名が必要だ」
「しかし、第二補佐室が」
「署名を持ってこい」
職員が言葉を失う。
エルヴィンはさらに続けた。
「それまでは、照合を止めない」
部屋が静かになった。
ルシェルは、エルヴィンを見ていた。
昨日、扉を開けようとした人が。
今日は、別の扉を閉めさせなかった。
都合がよすぎるわけではない。
顔は怖い。
言い方も硬い。
優しくない。
でも、手続きの刃を、こちらではなく別の方へ向けた。
「……形式の鬼」
ルシェルが呟いた。
エルヴィンが一瞬、こちらを見た。
「何か」
「いえ。役職名の検討です」
「不要だ」
ガルドが言う。
「悪くない」
「採用しない」
◇
照合は進んだ。
その結果、丘の村への再訪はまだ不要。
ただし三日間、発光・音・山羊の反応を記録する。
王都側は、東外縁の古記録を再整理する。
白環記録庫に、残響反応の仮棚を作る。
そして、ルシェル本人への追加確認は、必要が生じるまで行わない。
最後の一文を、エルヴィンが自分で書いた。
『見習い浄化師ルシェル・ノア氏への追加確認は、本人負担を増やすため、現時点では不要。記録照合を優先する』
ルシェルはその文字を見た。
強い字だった。
四角くて、逃げ道が少なそうな字。
でも、そこに自分の名前があった。
蒼銀ではなく。
ルシェル・ノア氏。
「……書いた」
エルヴィンは筆を置いた。
「必要なことを書いた」
「ボクの負担って書いた」
「事実だ」
「事実」
ルシェルは少しだけ黙る。
「怖いけど、助かります」
言ったあと、自分で少し驚いた。
エルヴィンも、わずかに目を伏せた。
「そうか」
ただ、それだけ。
謝罪も、感動もない。
けれど、その「そうか」は、昨日の声より少し低かった。
◇
帰り際。
ルシェルは後日回答の栞を机に置きかけて、やめた。
代わりに、回答紙へ一行だけ書いた。
『エルヴィン補佐官の立ち会い継続について:条件付き可』
若い書記が目を見開く。
ミーナも少し驚いた。
エルヴィンは動かなかった。
ルシェルは続けて書く。
『条件:直接呼ばない。燃やさない。山羊の反応を切らない。怖い時は保留。』
セレスが横で小さく吹き出した。
ガルドが頷く。
「良い条件だ」
レオンはエルヴィンを見る。
警戒は解かない。
でも、剣の気配は少しだけ遠い。
エルヴィンは紙を読んだ。
長く黙った。
それから、筆を取った。
『承知した』
その下に、もう一行。
『焼却は行わない』
ルシェルは半目になる。
「そこ、明文化された」
「必要条件だろう」
「そうですけど」
彼は紙をミーナへ渡した。
「写しを残せ」
ミーナは頷く。
「はい」
エルヴィンは扉へ向かいかけ、そこで一度止まった。
こちらを振り返らずに言う。
「昨日、君の保留を軽く見た」
ルシェルの指が止まる。
「今日は、止まった」
それだけ言って、彼は廊下へ出た。
謝罪とは言い切れない。
仲間になった、ともまだ言えない。
けれど。
昨日、紙を燃やした人が。
今日は、紙を残していった。
◇
王都館へ戻る馬車の中。
ルシェルは、条件付き可の写しを膝に置いていた。
セレスが隣で言う。
「疲れたわね」
「疲れた」
レオンは向かいに座っている。
まだ少し警戒した顔だ。
「信用はしない」
「レオン、直球」
「だが、今日の行動は覚える」
ルシェルは写しを見る。
「ボクも、信用はしない」
ガルドが御者席側から言う。
「それでいい」
「でも、敵固定でもなくなった」
セレスが頷く。
「うん」
「形式味方の中に、形式の鬼が増えた」
クラウスが資料から顔を上げる。
「その呼称は正式にしない」
「欄外なら?」
「しない」
「王都書類、欄外に厳しい」
◇
夜。
ルシェルの部屋には、セレスだけがいた。
レオンは、今日は扉の外ではなく廊下の角。
ガルドは食堂。
クラウスは記録庫への返答。
リーネは浄化師団。
静かな夜だった。
ルシェルは小箱の前に、条件付き可の写しを置いた。
「今日の報告」
保留猫は無反応。
「エルヴィン補佐官がいました」
無反応。
「怖かった」
セレスが頷く。
「うん」
「でも、椅子を遠ざけました」
無反応。
「質問はミーナさん経由にしました」
ルシェルは紙を指で押さえる。
「差し止めを、止めました」
セレスが静かに聞いている。
「山羊の反応を切るなって言いました」
「うん」
「ボクの名前を書きました。負担を増やすから追加確認不要って」
そこまで言って、ルシェルは少し黙った。
「仲間?」
セレスはすぐには答えなかった。
少し考えてから言う。
「仲間になり始めた人、かしら」
ルシェルは半目になる。
「長い」
「でも、そのくらいが合っているわ」
「うん」
ルシェルは紙を見る。
『焼却は行わない』
少し笑った。
「そこからなんだ」
セレスも笑う。
「大事な一歩ね」
「紙を燃やさない人から始める仲間づくり」
「悪くないわ」
ルシェルは布団に入った。
「明日、エルヴィン補佐官に会ったら、怖いと思う」
「うん」
「でも、今日の紙は覚えておく」
「うん」
「保留」
「それでいいわ」
ルシェルは保留猫を抱いた。
小箱の中に、また一枚、変な紙が増えた。
敵か味方か。
嫌いか信じるか。
全部すぐには決められない。
でも、保留のまま置いておける。
あとで戻るための場所がある。
「……条件付き可」
小さく呟く。
セレスが灯りを落とした。
その夜、白環記録庫では、エルヴィンがひとり古い記録を読み返していた。
机の端には、燃え残りではない新しい紙。
『焼却は行わない』
彼はその一文を見て、しばらく動かなかった。
やがて、古い東外縁の記録の末尾に、硬い字で追記する。
『再照合対象。未了として扱う』
閉じられていた記録が、二十年ぶりに開いた。