TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第40話 返事のない井戸

 

 翌朝。

 

 王都館に届いた急報は、いつもの書簡より薄かった。

 

 薄いのに、重かった。

 

 クラウスが封を開ける前から、ルシェルは分かった。

 

「……嫌な紙」

 

 セレスが隣に座る。

 

「読めそう?」

 

「読む。途中で止めるかも」

 

「止めていいわ」

 

 レオンは窓際ではなく、今日は扉のそばに立っている。

 

 近すぎない。

 でも、動ける位置。

 

 ガルドはいない。

 食堂で朝食を取りに行っている。

 

 リーネもいない。

 急報の差出人側にいる。

 

 だから部屋は、いつもより少し静かだった。

 

 クラウスが読み上げる。

 

「東外縁古井戸にて、青灰光を確認。水滴音あり。声と思われる反響あり」

 

 ルシェルの指が、茶杯から離れた。

 

「声」

 

 クラウスは続けた。

 

「内容は、『まだ、返事がない』」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 ルシェルは、しばらく何も言えなかった。

 

 返事がない。

 

 二十年前の未処理記録。

 

 後日回答されなかった紙。

 

 閉じられていた井戸。

 

「……紙の幽霊?」

 

 クラウスが少しだけ眉を寄せる。

 

「比喩としては近いかもしれない」

 

「近いんだ」

 

 セレスが静かに言う。

 

「行くことになるわね」

 

 レオンが即座に言った。

 

「初回調査は済んだ。次に呼ばれるなら、条件を付ける」

 

 ルシェルはレオンを見る。

 

「行かせない、じゃないんだ」

 

「君が行く必要があるかを確認する」

 

「うん」

 

「必要があるなら、守る」

 

「重い」

 

「軽くはしない」

 

「今日の重さは許可」

 

 レオンは黙って頷いた。

 

 クラウスが二枚目を出す。

 

「エルヴィン補佐官からの追記がある」

 

 ルシェルは少し身構えた。

 

「形式の鬼から」

 

 クラウスは読み上げた。

 

『見習い浄化師ルシェル・ノア氏の現地確認を要請する可能性あり。

 ただし、本人同意なしに移動を求めない。

 同行者は本人指定を優先。

 現地での発光確認は観察のみを第一とし、浄化行使は求めない。

 怖い場合は保留可。』

 

 ルシェルは瞬きをした。

 

「最後」

 

 セレスが小さく笑う。

 

「覚えているわね」

 

 クラウスが紙を見たまま言う。

 

「文面は硬いが、条件はこちら側に寄っている」

 

「仲間になり始めた人、進行中」

 

 レオンは静かに言う。

 

「警戒はする」

 

「うん」

 

「だが、今回は利用できる」

 

「レオン、実務的」

 

「君を守るためなら」

 

「重い。許可」

 

     ◇

 

 午前のうちに、白環記録庫から迎えが来た。

 

 迎えに来たのは、ミーナではなかった。

 

 若い書記でもなかった。

 

 エルヴィン本人だった。

 

 王都館の玄関に立つ彼を見て、ルシェルは廊下の角で固まった。

 

 黒に近い紺の上着。

 固い襟。

 整った書類鞄。

 包帯の残る右手。

 

 顔はいつも通り硬い。

 

 けれど、今日は館の中へ踏み込んでこなかった。

 

 玄関の敷居の手前で止まっている。

 

 クラウスが先に出る。

 

「中へ入らないのか」

 

 エルヴィンは短く答えた。

 

「本人同意がない」

 

 ルシェルは、少し離れたところでそれを聞いた。

 

 セレスが隣で囁く。

 

「どうする?」

 

「……玄関までは行く」

 

「一緒に行くわ」

 

 ルシェルは頷いた。

 

 レオンが斜め後ろにつく。

 

 ガルドは少し遅れて食堂から戻り、パンを持ったまま玄関を見ていた。

 

「食うか」

 

「今じゃない」

 

「後で食え」

 

「予約された」

 

     ◇

 

 玄関で、エルヴィンは頭を下げなかった。

 

 深い礼も、柔らかな挨拶もない。

 

 ただ、書類を一枚差し出した。

 

 直接ではなく、クラウスへ。

 

「現地確認の要請書だ」

 

 クラウスが受け取る。

 

 エルヴィンはルシェルを見ない。

 

 視線を少し外したまま言う。

 

「読むかどうかは、君が決めていい」

 

 ルシェルはその言葉に、少しだけ息を止めた。

 

「……読む」

 

 クラウスが要点だけを読み上げる。

 

 東外縁古井戸に青灰光。

 水滴音。

 声。

 境界石の残響との関連可能性。

 ルシェルの雨雫に似た音の証言との照合が必要。

 

 ただし。

 

 現地での浄化行使は求めない。

 井戸への接近距離は本人指定。

 退避合図は本人の発声、挙手、筆記、沈黙のいずれでも可。

 同行者は、護衛レオン、魔術師セレス、戦士ガルド、書記官クラウスを可とする。

 

 ルシェルは聞き終えて、半目になった。

 

「めちゃくちゃ条件が多い」

 

 エルヴィンが答える。

 

「少ないよりいい」

 

「それはそう」

 

「足りない条件があれば書け」

 

 彼は自分の鞄から紙を出した。

 

 回答欄つき。

 

 保留。

 後日回答。

 同行者追加。

 距離指定。

 中止条件。

 

 ルシェルはその紙を見つめた。

 

「……燃やした人が、紙を増やしてる」

 

 エルヴィンの表情は変わらない。

 

「必要な紙だ」

 

 ルシェルは少しだけ目を伏せる。

 

「怖いです」

 

「そうだろう」

 

「でも、行きます」

 

 セレスがわずかに息を吸った。

 

 レオンは動かない。

 

 ガルドはパン袋を握ったまま、ただ見ている。

 

 ルシェルは続けた。

 

「条件。井戸には近づきすぎない。最初は見るだけ。雨雫を持って行くかは、出発前まで保留。あと、エルヴィン補佐官は、直接ボクを急かさない」

 

 エルヴィンは頷いた。

 

「承知した」

 

「それから」

 

 ルシェルは少し考える。

 

「山羊の反応欄、継続」

 

「すでに入っている」

 

「入ってるんだ」

 

 エルヴィンは書類の下部を指した。

 

 そこには本当にあった。

 

『動物反応欄』

 

 ルシェルはしばらくそれを見ていた。

 

「山羊、制度化してる」

 

 ガルドが低く言う。

 

「強い」

 

     ◇

 

 東外縁へ向かう馬車は、王都中心部を抜けていった。

 

 貴族院本棟の尖塔が遠くに見える。

 

 白環記録庫の白い壁を過ぎる。

 

 そこからさらに東へ。

 

 店が減り、石畳が古くなり、建物の影が低くなる。

 

 ルシェルは窓の外を見ながら、膝の上の小袋を握っていた。

 

 中には雨雫。

 

 結局、持ってきた。

 

 持っていくか保留にして、出発直前に入れた。

 

 理由はまだ分からない。

 

 ただ、置いていく方が落ち着かなかった。

 

 セレスが隣で聞く。

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫寄り。でも、雨雫が心臓に近い」

 

「持ってきたのね」

 

「うん」

 

 レオンが向かいから静かに言う。

 

「嫌なら、俺が持つ」

 

 ルシェルは小袋を見た。

 

 少し迷った。

 

「今は、ボクが持つ」

 

「分かった」

 

「でも、近くにいて」

 

「いる」

 

「声が即答」

 

「必要だ」

 

 ガルドが前から干し肉を差し出す。

 

「食え」

 

「今、干し肉は強い」

 

「強いものを食え」

 

「理屈が戦士」

 

     ◇

 

 東外縁の古井戸は、思ったより小さかった。

 

 崩れかけた石垣。

 錆びた柵。

 半分沈んだ注意板。

 周囲には、古い倉庫の壁。

 

 人通りはない。

 

 ただ、井戸の周りだけ、空気が湿っていた。

 

 雨は降っていないのに。

 

 リーネが先に来ていた。

 

 ミーナもいる。

 

 若い書記は少し離れた場所で記録台を準備している。

 

 エルヴィンは井戸から距離を取り、書類を持って立っていた。

 

 ルシェルが馬車から降りると、ミーナが静かに頭を下げた。

 

「来てくださってありがとうございます」

 

「まだ帰る可能性もあります」

 

「はい。その場合も記録します」

 

「助かる」

 

 リーネが近づく。

 

「無理はしません。今日は、照合だけです」

 

「出さない勤務」

 

「はい」

 

「得意業務……たぶん」

 

 ルシェルは井戸を見た。

 

 遠い。

 

 でも、音がする気がした。

 

 ぽたん。

 

 まだ鳴っていない。

 

 なのに、耳が先に覚えている。

 

     ◇

 

 最初の確認は、十歩離れた場所からだった。

 

 リーネが結界具を置く。

 

 セレスが周囲の流れを見る。

 

 レオンはルシェルの斜め後ろ。

 

 ガルドは退路側。

 

 クラウスは記録を見る。

 

 ミーナは筆を構える。

 

 エルヴィンは少し離れて、誰の前にも立たない。

 

「距離、十歩」

 

 若い書記が記録する。

 

「本人指定、十歩」

 

 ルシェルは小袋を握る。

 

 井戸を見る。

 

 何も起きない。

 

「……普通の怖い井戸」

 

 セレスが小声で言う。

 

「普通の怖い井戸って何かしら」

 

「怖いけど、まだ怪異勤務してない井戸」

 

「勤務」

 

 その時。

 

 ぽたん。

 

 音がした。

 

 全員が止まる。

 

 井戸の奥からだった。

 

 水滴のような音。

 

 ルシェルの小袋の中で、雨雫がわずかに温かくなる。

 

 ルシェルは息を呑んだ。

 

「雨雫、反応」

 

 レオンがすぐに言う。

 

「離れるか」

 

「まだ」

 

「分かった」

 

 ぽたん。

 

 二度目。

 

 井戸の奥に、青灰の光が揺れた。

 

 リーネが結界を強める。

 

 セレスがルシェルの横へ一歩寄る。

 

 ガルドが退路を確保する。

 

 エルヴィンが口を開きかけ、閉じた。

 

 急かさない。

 

 言わない。

 

 ただ、記録紙を押さえる。

 

 ルシェルはそれを視界の端で見た。

 

 条件を守っている。

 

 怖い。

 

 でも、今はそこが助かる。

 

     ◇

 

 井戸の底から、声がした。

 

「まだ」

 

 小さい声。

 

 子どもにも、老人にも聞こえない。

 

 水が言葉を真似しているような声。

 

「まだ、返事がない」

 

 ルシェルの手が震えた。

 

 雨雫が、小袋の中で淡く光る。

 

 セレスが言う。

 

「ルシェル、退く?」

 

 ルシェルは首を横に振る。

 

 声が出ない。

 

 ミーナがすぐ記録した。

 

『本人、沈黙。首振りにて継続意思あり』

 

 ルシェルは、その記録の音を聞いていた。

 

 勝手に答えを決められていない。

 

 沈黙が消されていない。

 

 少しだけ、足が戻る。

 

 井戸の声が、また響く。

 

「名を」

 

 ルシェルは顔を上げる。

 

「名?」

 

「名を、返して」

 

 青灰の光が揺れた。

 

 雨雫が、今度ははっきり温かくなる。

 

 ルシェルは小袋を胸元に寄せた。

 

「名前……」

 

 クラウスが古記録を開く。

 

 削られた文字。

 

『……名を……』

 

 エルヴィンが低く言う。

 

「削られた部分だ」

 

 ミーナが紙を押さえる手に力を込める。

 

「二十年前、名前に関わる報告があった」

 

 リーネが慎重に言う。

 

「井戸に何かの名前が封じられている?」

 

 セレスが首を振る。

 

「封じたというより、記録から落ちた名前かもしれない」

 

 ルシェルは、その言葉を聞いた。

 

 記録から落ちた名前。

 

 蒼銀ではなく、ルシェル・ノア氏。

 

 名前が先。

 

 名を、返して。

 

 胸の奥が、変に痛くなる。

 

「……ボクじゃない」

 

 セレスが頷く。

 

「うん」

 

「でも、少し分かる」

 

 レオンが静かに言う。

 

「無理をするな」

 

「しない」

 

 ルシェルは震える手で、回答紙を探した。

 

 若い書記がすぐに差し出す。

 

 ルシェルはそこに書いた。

 

『近づくかどうか:保留。

 代わりに、名前の記録を探してください。』

 

 ミーナが読み上げる。

 

 エルヴィンが即座に古記録の束へ向かった。

 

 返事はしない。

 

 ただ動いた。

 

     ◇

 

 名前は、すぐには見つからなかった。

 

 だが、古記録の裏面に貼り付けられた薄紙があった。

 

 剥がしかけて、やめた跡。

 

 エルヴィンが慎重に端を持つ。

 

「水蒸気で浮かせる」

 

 クラウスが頷く。

 

「破るな」

 

「破らない」

 

 その声は短い。

 

 けれど、手は驚くほど慎重だった。

 

 紙を燃やした人の手が、今は紙を破らないために止まっている。

 

 ルシェルはそれを見ていた。

 

 薄紙が剥がれる。

 

 下から、古い文字が現れる。

 

『井戸守り見習い ノア』

 

 ルシェルの息が止まった。

 

 ノア。

 

 同じ名。

 

 偶然かもしれない。

 

 でも、井戸の奥の光が強くなる。

 

 ぽたん。

 

 ぽたん。

 

「ノア」

 

 井戸の声が、そう言った。

 

 ルシェルは一歩下がりかけた。

 

 レオンが支える位置にいる。

 

 触れない。

 

 でも、いる。

 

「同じ」

 

 ルシェルの声は震えていた。

 

 セレスが言う。

 

「同じ名前ね。でも、ルシェルとは別の人」

 

「うん」

 

 リーネが結界を保ちながら言う。

 

「井戸は、あなたではなく、その名に反応している可能性があります」

 

 ミーナが古記録を確認する。

 

「井戸守り見習いノア。二十年前、古井戸管理記録から名前が消されています」

 

 エルヴィンが紙を見つめていた。

 

 その顔は、硬いままだ。

 

 けれど、目だけが違った。

 

 怒りでも、焦りでもない。

 

 何かを取り返せなかった人の顔。

 

「なぜ消した」

 

 彼が呟いた。

 

 誰に向けた言葉でもなかった。

 

     ◇

 

 井戸の声が続く。

 

「返事」

 

「まだ」

 

「名を」

 

 ルシェルは、雨雫を小袋から出した。

 

 淡い青灰の光。

 

 いつもの灰青色の石。

 

 能力核ではない。

 

 でも、今は、確かに響いている。

 

 レオンが低く言う。

 

「危険なら下げる」

 

「うん」

 

 ルシェルは十歩の位置から動かない。

 

 雨雫を両手で持ち、井戸へ向ける。

 

「ボクは、あなたじゃない」

 

 声が震える。

 

「ボクは、ルシェル・ノア」

 

 井戸の光が揺れた。

 

 ミーナの筆が止まる。

 

 エルヴィンが顔を上げる。

 

 ルシェルは続ける。

 

「でも、名前を消されたのは、嫌だったと思う」

 

 ぽたん。

 

 音が少し柔らかくなる。

 

「探す。だから、今ここで全部返せとは言わないで」

 

 セレスが息を止める。

 

 ルシェルは、紙を握るように雨雫を握った。

 

「後日回答にして」

 

 井戸の奥が静かになった。

 

 青灰の光が、ゆっくり小さくなる。

 

 完全には消えない。

 

 でも、暴れない。

 

 水滴音も止まる。

 

 リーネが呟く。

 

「反応、鎮静」

 

 ミーナが書く。

 

『本人、十歩距離を維持。雨雫を提示。名の相違を明言。未解決事項を後日回答として提示。井戸反応、鎮静』

 

 エルヴィンが、その記録を見た。

 

 そして、硬い声で言った。

 

「今の文は、そのまま残せ」

 

 ミーナが頷く。

 

「はい」

 

 ルシェルは肩で息をしていた。

 

 レオンが聞く。

 

「退くか」

 

 ルシェルは頷いた。

 

「退く」

 

 今度は声が出た。

 

 レオンが道を開ける。

 

 ガルドが背後を固める。

 

 セレスが隣に来る。

 

 ルシェルは、十歩の線から後ろへ下がった。

 

 井戸は追ってこなかった。

 

     ◇

 

 調査はそこで終了になった。

 

 井戸守り見習いノア。

 

 消された名前。

 

 未処理の返答。

 

 青灰の光。

 

 雨雫の反応。

 

 全てが、未了として残された。

 

 だが、今度は閉じない。

 

 エルヴィンが現地で、正式に指示を出した。

 

「東外縁古井戸関連記録を再整理。井戸守り見習いノアの身元確認。消去経緯の調査。発光反応は三日ごとに確認。ルシェル・ノア氏への追加接触は、本人側からの回答があるまで行わない」

 

 ミーナが記録する。

 

 若い書記が写しを取る。

 

 クラウスが確認印を押す。

 

 リーネが浄化師団側の控えを作る。

 

 書類が動いていく。

 

 今度は、誰かの声を閉じるためではなく。

 

 閉じられた声を開けたままにするために。

 

 ルシェルは馬車のそばでそれを見ていた。

 

「……形式の鬼、働いてる」

 

 ガルドが低く言う。

 

「よく働く鬼だ」

 

 レオンは言った。

 

「今日は、同じ方向を見ている」

 

「うん」

 

 セレスがルシェルの顔を覗く。

 

「帰ったら休みましょう」

 

「うん」

 

「食べられそう?」

 

「少し」

 

 ガルドがすぐ干し肉を出した。

 

「早い」

 

「少しと言った」

 

「聞き逃さない本家」

 

     ◇

 

 帰りの馬車で、ルシェルは雨雫を握ったまま眠りかけていた。

 

 完全には眠らない。

 

 疲れた頭が、ぽつぽつ言葉を拾う。

 

 名を返して。

 

 まだ返事がない。

 

 後日回答にして。

 

 ノア。

 

 自分ではない誰か。

 

 でも、少しだけ、自分にも刺さる誰か。

 

 セレスが外套をかける。

 

「寝ていいわ」

 

「夢に井戸が出そう」

 

「出たら、ここに戻ってきて」

 

「どうやって」

 

「レオンの声でも、ガルドの食料でも、私の声でも」

 

「雑だけど強い」

 

 レオンが静かに言う。

 

「いる」

 

 ガルドが前から言う。

 

「食え」

 

「夢への対抗策が多い」

 

 ルシェルは少し笑った。

 

「周囲ver2、今日も強い」

 

     ◇

 

 夜。

 

 ルシェルの部屋には、誰も入らなかった。

 

 少しだけ、一人で小箱に向かいたいと言ったから。

 

 セレスは廊下の少し先。

 レオンはそのさらに向こう。

 ガルドは食堂。

 必要なら、声は届く。

 

 ルシェルは小箱の前に雨雫を置いた。

 

 今日は、少し温かい気がした。

 

「今日の報告」

 

 保留猫は無反応。

 

「東外縁の井戸に行きました」

 

 無反応。

 

「声がしました。まだ返事がないって」

 

 雨雫は静か。

 

「名前を消された人がいました」

 

 ルシェルは少し黙った。

 

「ノア、って名前でした」

 

 その名前を口にしても、井戸の音はしなかった。

 

 ただ、胸の奥が少し痛い。

 

「ボクではありません」

 

 小さく言う。

 

「でも、返事がないのは嫌です」

 

 保留猫は何も答えない。

 

「後日回答にしました」

 

 ルシェルは後日回答の栞を、小箱の端に置いた。

 

「ちゃんと戻るための、後日」

 

 少しだけ、息を吐く。

 

「エルヴィン補佐官は、紙を燃やしませんでした。紙を残しました。名前も書きました。まだ怖いです。でも、今日は助かりました」

 

 廊下の向こうから、レオンの声がした。

 

「聞こえている」

 

 ルシェルは顔を上げる。

 

「今日は聞いてていい」

 

「ああ」

 

「井戸、怖かった」

 

「ああ」

 

「でも、十歩から動かなかった」

 

「よく戻った」

 

 ルシェルは布団の上に座り直す。

 

「真面目褒め、今日は……半分許可」

 

「半分か」

 

「全部だと泣く」

 

「分かった」

 

 少し沈黙。

 

 ルシェルは雨雫を見た。

 

「レオン」

 

「いる」

 

「名前って、重いね」

 

「ああ」

 

「でも、名前がある方がいい」

 

「そうだな」

 

 ルシェルは布団に入った。

 

 保留猫を抱く。

 

 雨雫は小箱に置いたまま。

 

「おやすみ」

 

「ああ。おやすみ」

 

 今夜、井戸の音は聞こえなかった。

 

     ◇

 

 同じ夜。

 

 白環記録庫。

 

 エルヴィンは、東外縁古井戸の記録棚を開けていた。

 

 ミーナと若い書記は、隣で写しを整理している。

 

 新しい表題紙には、こう書かれている。

 

『東外縁古井戸未了記録

 井戸守り見習いノア氏関連』

 

 エルヴィンは、その文字をしばらく見ていた。

 

 そして、古い記録の末尾に一文を加える。

 

『名を消去された可能性あり。最優先で復元調査』

 

 若い書記が小さく言った。

 

「補佐官」

 

「何だ」

 

「今回は、閉じないんですね」

 

 エルヴィンは筆を止めた。

 

 少しの沈黙。

 

 それから、硬い声で答える。

 

「返事がない記録は、閉じられない」

 

 ミーナが顔を上げる。

 

 何も言わない。

 

 エルヴィンは次の紙を取った。

 

 その右手の包帯は、まだ白い。

 

 けれど、今日は火の匂いはしなかった。

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