TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝。
王都館の食堂に、いつもより薄い沈黙があった。
重い沈黙ではない。
ただ、全員が昨日の井戸を思い出して、少しだけ言葉を選んでいる。
ルシェルはパンを小さくちぎりながら、茶杯を見ていた。
「……今日のパン、井戸の形に見える」
セレスが手元を覗く。
「丸いから?」
「丸くて、穴がある」
「それはパンの気泡ね」
「気泡勤務」
ガルドが皿を寄せる。
「食え」
「井戸の話から食へ戻す力が強い」
「戻せるものは戻せ」
レオンは窓際にいた。
昨日より少しだけ近い。
でも、何も言わない。
ルシェルはそれを見て、半目になる。
「レオン、近い」
「昨日、井戸だった」
「理由が強い」
「遠くするか」
「しなくていい」
「分かった」
即答。
ルシェルはパンを口に入れて、少しだけ顔を赤くした。
「今日も口が危険」
セレスが微笑む。
「調子は?」
「井戸が夢に出なかった。勝利寄り」
ガルドが頷く。
「よし」
「そのよしは許可」
そこへ、クラウスが入ってきた。
手にしているのは、新しい書簡ではない。
黒い紐で綴じられた、古い写しの束だった。
ルシェルはそれを見て、パンを止める。
「嫌な紙?」
クラウスは首を横に振った。
「重い紙だ」
「違いが難しい」
「読むかどうか、選べる」
その一言で、ルシェルは少し息を吐いた。
「選べるなら、読む」
◇
書類は、東外縁古井戸の関連記録だった。
昨夜、エルヴィンが再整理を始めたもの。
その中から、名前に関わる部分だけが抜き出されている。
クラウスは、必要なところだけを読み上げた。
「井戸守り見習い、ノア。姓は記録なし。年齢不明。ただし、筆跡から少年もしくは少女ではなく、成人前後と推定」
ルシェルは少し眉を寄せる。
「ノアさん」
「そうだ」
「呼び捨てにしない方がいい気がする」
クラウスは頷いた。
「では、以後ノア氏とする」
「紙が礼儀正しくなった」
セレスが静かに聞いている。
クラウスは続けた。
「ノア氏は、東外縁の古井戸と周辺小境界石の点検補助をしていた。正式な浄化師ではない。井戸守りの見習いとして、音や水位、石の変化を記録していた」
ルシェルは、茶杯を両手で包む。
「記録する側だった」
「ああ」
「なのに、記録から消えた」
誰もすぐには答えなかった。
ガルドが低く言う。
「よくない」
「本家の倫理がまっすぐ」
「消すな」
「うん」
レオンが静かに言う。
「名が残るかどうかは、大きい」
ルシェルは小さく頷く。
「うん。重い」
◇
記録の中に、ノア氏本人のものらしい短いメモがあった。
原本は白環記録庫にあり、これは写し。
文字は細い。
丁寧だが、ところどころ急いでいる。
『井戸の奥で音がする。水ではない。石の音に近い。
境界石は光るが、濁りはない。
上へ報告したが、返答なし。
再度、明朝確認する』
ルシェルは黙って聞いた。
クラウスは、そこで一度止める。
「続きはあるが、読むか」
ルシェルは少し考えた。
「今は、保留」
「分かった」
即答。
紙が閉じられる。
そこで止まる。
ルシェルは、その止まり方に少しだけ救われた。
「……保留、ちゃんと効く」
セレスが微笑む。
「効いたわね」
「怖いけど、効く」
ガルドがパンを差し出す。
「効いたら食え」
「報酬制度?」
「そうだ」
「トークンエコノミーみたいになってきた」
誰も意味が分からなかったが、ガルドだけは頷いた。
「食え」
「押し切った」
◇
昼前。
白環記録庫から、正式な依頼が届いた。
差出人は、エルヴィン。
文面は短い。
『井戸守り見習いノア氏の名を復元するため、王都内の古台帳を照合する。
本人確認に関わるため、ルシェル・ノア氏への来訪要請は行わない。
ただし、雨雫との反応照合が必要になった場合は、事前に条件提示の上で依頼する。
現時点では、休息を優先されたい』
ルシェルは最後の一文を見て、黙った。
「休息を優先」
クラウスが頷く。
「そう書いてある」
「エルヴィン補佐官が?」
「そうだ」
セレスが少しだけ笑う。
「変化ね」
「都合良すぎない?」
ルシェルは半目で言った。
クラウスは少し考え、淡々と返す。
「彼はまだ謝っていない。君を安心させる言葉も少ない。だが、手続き上の負担を減らす文を出した」
「つまり?」
「都合よく優しくなったのではなく、行動の向きが変わっている」
ルシェルは、その言い方をしばらく噛んだ。
「向き」
「そうだ」
レオンが言う。
「信用はしない」
「レオン、毎回そこから」
「だが、今日の紙は使える」
「紙評価」
ガルドも頷く。
「休めと書いた紙は良い」
「本家評価も出た」
◇
その日の午後、ルシェルは館の中庭に出た。
外出はしない。
井戸にも行かない。
白環記録庫にも行かない。
ただ、中庭のベンチに座る。
セレスは少し離れた花壇のそば。
レオンは入口近く。
ガルドは食堂。
クラウスは書類室。
全員が揃っていない。
それでも、必要な線はある。
風が柔らかかった。
ルシェルは膝の上で、後日回答の栞を指で撫でた。
「休息勤務」
セレスが笑う。
「今日はそうね」
「休むの、下手」
「知っているわ」
「知ってると言われると逃げ場がない」
セレスは少しだけ視線を庭へ向ける。
「井戸のこと、考えている?」
「考えてる」
「うん」
「ノア氏、記録する側だったのに、返事をもらえなかった」
「うん」
「ボクは、返事が来るようになった」
セレスは、何も言わずに待った。
「なんか、ずるいって思う」
ぽつりと出た声。
セレスは、すぐに慰めなかった。
少し間を置いてから言う。
「そう感じるのね」
「うん」
「でも、ルシェルが返事を受け取れるようになったから、ノア氏の返事も探せるのかもしれないわ」
ルシェルは目を伏せた。
「きれいな言い方」
「嫌?」
「少し刺さる。でも、たぶん嫌じゃない」
「保留?」
「保留」
レオンが入口から静かに言った。
「それでいい」
ルシェルは振り返る。
「聞いてた?」
「少し」
「今日は許可」
「ああ」
◇
夕方、事態が動いた。
白環記録庫の若い書記が、息を切らして王都館へ来た。
今度は、慌てている。
だが、怖がらせないように玄関で止まっている。
この人も、覚えた。
クラウスが応対に出る。
「何があった」
若い書記は封書を差し出す。
「ノア氏の台帳が見つかりました」
ルシェルは廊下の奥で、その言葉を聞いた。
足が止まる。
セレスがそばに来る。
「聞く?」
「聞く」
若い書記は、ルシェルを見て深く頭を下げた。
「見習い浄化師ルシェル・ノア氏。読み上げてよろしいですか」
名前が先。
確認が先。
ルシェルは小さく頷く。
「はい」
若い書記は封書を開いた。
「東外縁井戸守り見習い。登録名、ノア・エイム。二十年前、境界石異常報告を三度提出。その後、所在不明」
ルシェルは、息を止めた。
「所在不明」
「はい」
「死んだ、じゃなくて?」
「記録上は、所在不明です」
クラウスの目が鋭くなる。
「記録上は」
若い書記が頷く。
「死亡記録も、退職記録もありません。ただ、古井戸管理台帳から名前だけが削除されています」
セレスが低く言う。
「消されたのは、台帳からだけではないのね」
ルシェルは、後日回答の栞を握った。
「ノア・エイム氏」
口に出す。
その瞬間。
小箱のある部屋の方から、かすかに音がした。
ぽたん。
全員が止まった。
ルシェルは目を見開く。
「雨雫」
レオンが即座に動く。
「俺が先に見る」
「一緒に」
「危険なら止める」
「うん」
◇
部屋に戻ると、小箱の中で雨雫が淡く光っていた。
強い光ではない。
青灰色。
静かな水の底のような光。
ルシェルは扉の前で止まった。
レオンが先に室内を確認する。
「危険な気配はない」
セレスが魔力の流れを見る。
「瘴気ではないわ」
ルシェルはゆっくり近づいた。
小箱の前に座る。
雨雫は、名前を聞いた後のように光っている。
「ノア・エイム氏」
もう一度、言う。
ぽたん。
音がした。
今度は雨雫から。
ルシェルは息を呑んだ。
「返事?」
セレスが小さく言う。
「名前に反応している」
若い書記は部屋の入口から、震える手で記録している。
ちゃんと許可を取ってから。
クラウスが頷いたため、書いている。
ルシェルは雨雫を見つめた。
能力核ではない。
ただの石。
でも、いまは確かに、何かを受け取っている。
「……ノア・エイム氏」
ぽたん。
光が少しだけ柔らかくなる。
「返事、探してるんだね」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
雨雫か。
井戸か。
ノア氏か。
それとも、自分か。
◇
その夜、白環記録庫から追加の報告が届いた。
エルヴィンの字だった。
『ノア・エイム氏の名を復元。
古井戸反応は、本日夕刻より安定。
水滴音あり。声なし。
名の復元が一部反応した可能性あり。
今後、同氏の提出報告三件への未回答内容を照合する。
返事を作る必要がある』
ルシェルは最後の一文を見て、しばらく黙っていた。
「返事を作る」
クラウスが頷く。
「二十年前に返されなかった判断を、今から返すということだろう」
「後日回答、本当に後日」
「そうだ」
セレスが静かに言う。
「ルシェルは、どうしたい?」
ルシェルは雨雫を小箱へ戻した。
「まだ分からない」
「うん」
「でも、ノア・エイム氏の名前は、覚えた」
「うん」
「消された名前が戻るのは、いいことだと思う」
レオンが扉のそばで静かに頷く。
ガルドがいつの間にか入口にいて、短く言った。
「よし」
ルシェルは顔を上げる。
「本家、いつ来たの」
「焼き菓子を持ってきた」
「理由が強い」
ガルドは皿を置いた。
「名前が戻ったなら、食う」
「祝い?」
「半分祝い」
ルシェルは少しだけ笑った。
「半分なら、許可」
◇
夜。
ルシェルの部屋には、セレスだけが残った。
レオンは廊下。
ガルドは食堂。
クラウスは白環記録庫への返答。
若い書記は帰っていった。
小箱の中に、雨雫が戻っている。
その隣に、後日回答の栞。
ルシェルは小さく言った。
「今日の報告」
保留猫は無反応。
「ノア・エイム氏の名前が戻りました」
無反応。
「雨雫が返事をしました」
無反応。
「井戸の声は、今日は出なかったそうです」
セレスは黙って聞いている。
「返事を作る必要がある、って書かれていました」
ルシェルは栞を見た。
「後日回答って、便利だけど、いつか戻るんだね」
セレスが頷く。
「そうね」
「戻らなきゃいけない、じゃなくて」
「うん」
「戻れるようにしておく」
「うん」
ルシェルは布団に入った。
「セレス」
「なあに」
「ノア氏は、返事を待っていたのかな」
「分からないわ」
「うん」
「でも、返事がないまま閉じられたことは、嫌だったと思う」
ルシェルは目を閉じた。
「それは、分かる気がする」
少し沈黙。
廊下の向こうから、レオンの声がした。
「いる」
ルシェルは目を開ける。
「まだ呼んでない」
「必要かもしれないと思った」
「本味方、先回り」
「すまない」
「今日は許可」
セレスが微笑む。
ルシェルは保留猫を抱いた。
「おやすみ」
セレスが灯りを落とす。
「おやすみ」
廊下から、レオンも静かに答える。
「おやすみ」
小箱の中で、雨雫はもう光っていなかった。
けれど、名前は戻った。
ノア・エイム。
その名は、明日、白環記録庫の棚に正式に書き加えられる。
そしてその下に、まだ空白の欄ができる。
『未回答事項』
返事はまだない。
だが今度は、誰もその空白を燃やさなかった。