TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝。
白環記録庫の棚に、新しい札が差された。
『東外縁古井戸未了記録
井戸守り見習い ノア・エイム氏関連』
その写しが王都館に届いた時、ルシェルはしばらく札の文字を眺めていた。
「……名前、棚に入った」
クラウスが頷く。
「正式な仮復元だ」
「正式なのに仮」
「身元確認が完了するまでは仮だ」
「書類の人たち、慎重」
「今回は必要な慎重さだ」
セレスが隣で静かに言う。
「でも、名前は戻ったのね」
「うん」
ルシェルは写しの端を指で撫でた。
ノア・エイム。
自分とは違う人。
でも、同じ名を持っていて。
返事を待っていたかもしれない人。
「今日は、何をするの?」
クラウスは次の紙を出した。
「返事を作る」
ルシェルは固まった。
「作る」
「ノア氏が提出した三件の報告に対して、二十年遅れの正式回答を作成する」
「二十年後の事務処理」
「そうだ」
「重い事務処理」
「非常に重い」
否定されなかった。
ルシェルは茶杯を見下ろす。
「ボクは?」
「同席を求められてはいない」
「よかった」
「ただし、雨雫が反応したため、意見を聞く可能性はある」
「来た」
レオンが扉のそばで言う。
「行かなくていいなら、行かない選択もある」
「うん」
ガルドがパンを置いた。
「食ってから選べ」
「選択前食料、定着してる」
◇
白環記録庫では、朝から机が三つ並べられていた。
ミーナは、ノア・エイム氏の報告写しを一枚ずつ並べる。
若い書記は、未回答欄を作る。
エルヴィンは、二十年前の決裁控えを見ていた。
火の前ではない。
窓際。
燃やさない場所。
一件目。
『井戸奥より滴下音あり。水位変化なし。境界石、淡く発光』
二件目。
『家畜が東方を向く。井戸周辺に青灰光。瘴気臭なし』
三件目。
『井戸奥より声に似た反響あり。名を呼ばれたように感じる。判断を仰ぐ』
若い書記の筆が止まる。
「これに、返事をするんですね」
ミーナは頷く。
「はい」
「二十年前に?」
「今です」
エルヴィンが低く言った。
「遅れていることも、記録する」
若い書記は顔を上げる。
エルヴィンの前には、すでに一文が書かれていた。
『本回答は、本来提出時に行われるべき判断であった。遅延により、報告者および当該地域に不利益を生じさせた可能性がある』
ミーナはその文を見て、少しだけ目を伏せた。
責任の言葉。
これまで避けられてきた言葉。
エルヴィンは表情を変えない。
ただ、筆を止めなかった。
◇
昼前。
王都館に、ミーナから確認書が届いた。
今回は、ルシェルへの質問ではなかった。
雨雫への反応照合依頼。
クラウスが読み上げる。
「質問ではなく、確認。答えは保留可。後日回答可。沈黙可」
ルシェルは半目になる。
「選択肢が毎回フル装備」
セレスが笑う。
「安心材料ね」
「安心材料が多いと、逆に緊張する」
レオンが静かに言った。
「減らす必要はない」
「それはそう」
クラウスは紙を机に置く。
「確認内容は一つ。ノア氏の三件目の報告、『名を呼ばれたように感じる』について、昨日の井戸反応と雨雫の反応が一致するか」
ルシェルは雨雫を見た。
小箱の中で、静かに眠っている。
「……雨雫勤務」
ガルドが言う。
「無理なら休ませろ」
「雨雫に休暇制度」
「必要だ」
ルシェルは少し笑った。
その笑いで、肩の力が少し抜ける。
「やる。短く」
セレスが頷く。
「小箱の前で?」
「うん。外には出さない」
「いいわ」
◇
部屋にいたのは、セレスとクラウスだけだった。
レオンは廊下。
ガルドは食堂。
必要以上に集まらない。
それが、今日はありがたかった。
ルシェルは小箱の前に座り、雨雫を手に取る。
ひんやりしている。
昨日のような熱はない。
「ノア・エイム氏」
名前を呼ぶ。
ぽたん。
小さな音。
雨雫の中で、淡い青灰が揺れた。
セレスが息を呑む。
クラウスは筆を走らせる。
ルシェルは目を閉じた。
もう一度。
「ノア・エイム氏」
ぽたん。
今度は、音のあとに薄い気配があった。
言葉ではない。
声でもない。
ただ、何かが耳の奥で待っている。
ルシェルは小さく息を吐く。
「……呼ばれてる感じ、ある」
クラウスが確認する。
「井戸から?」
「違う。名前から」
セレスが静かに言う。
「名前そのものが、返事を探している?」
「たぶん」
ルシェルは雨雫を両手で包む。
「ノア氏の名前が、まだ棚に戻っただけで、人に戻ってない感じ」
クラウスの筆が止まった。
「人に戻っていない」
「うん。名札だけ戻った」
ルシェルは雨雫を見つめる。
「返事が必要なのは、井戸じゃなくて、ノア氏本人の報告」
セレスの表情が変わる。
「それを、白環記録庫に伝える?」
「うん」
ルシェルは少し迷った。
「でも、文章にするなら、怖いまま書いて」
クラウスは頷く。
「整えすぎない」
「うん」
◇
クラウスが作った返答は、短かった。
『雨雫反応確認。
ノア・エイム氏の名を呼ぶと、滴下音に似た微音あり。
井戸そのものより、名に対して反応している印象。
本人所感として、「名前が棚に戻っただけで、人に戻っていない感じ」とあり。
補足。
返事が必要なのは、井戸ではなく、ノア氏本人の報告である可能性あり。』
ルシェルは読み終えて、頷いた。
「怖さ、残ってる」
「残した」
「書類の人、上達してる」
「褒めとして受け取る」
「褒めです」
クラウスは少しだけ黙った。
セレスが笑った。
「クラウスさん、今ちょっと嬉しかったわね」
「記録しないでくれ」
「しません」
◇
その返答が白環記録庫に届いた後、会議室の空気が変わった。
ミーナは、ルシェルの所感を読み上げた。
「名前が棚に戻っただけで、人に戻っていない感じ」
若い書記は、手元の名札を見た。
ノア・エイム氏。
確かに、まだ棚の名前だ。
顔も声も、経歴も、最後にどうなったのかも分からない。
エルヴィンは、三件目の報告を見下ろしていた。
『名を呼ばれたように感じる。判断を仰ぐ』
判断を仰ぐ。
その言葉だけが、二十年、返されなかった。
エルヴィンは筆を取る。
長く動かなかった。
それから、書いた。
『回答一。滴下音および青灰光は、瘴気悪化ではなく境界石および古井戸系統の残響反応と判断する。報告は有効であった』
若い書記が息を止める。
有効であった。
二十年前の報告に、やっと返事がついた。
エルヴィンは続けた。
『回答二。家畜の東方反応は、補助観察として扱うべきであった。切り捨ては不適切』
ミーナの筆が走る。
エルヴィンは三枚目の前で止まった。
その紙だけ、少し時間がかかった。
『回答三。名を呼ばれたように感じる、との報告は、錯誤として処理すべきではなかった。現時点で、同報告は古井戸内残響が記録者の名に反応した可能性を示すものとして扱う』
そこで筆が止まる。
彼は、もう一行を書き足した。
『ノア・エイム氏の判断要請に対し、二十年遅れて回答する。報告は受理されるべきであった』
会議室は静かだった。
誰もすぐには話さない。
紙の上で、ようやく誰かが「届いていた」と言われた。
◇
夕方。
東外縁の古井戸前で、返答文の読み上げが行われた。
ルシェルは行かなかった。
行かないことを選んだ。
後日回答ではなく、今回は不参加。
それでも記録には関わった。
王都館の小応接室で、セレスと一緒に待つ。
レオンは廊下の角。
ガルドは食堂で、戻ったら食べるものを用意している。
クラウスは白環記録庫との通信待機。
「行かないの、ずるい?」
ルシェルがぽつりと言った。
セレスは首を横に振る。
「ずるくないわ」
「でも、雨雫は反応した」
「うん」
「ボクも、少し分かるって言った」
「うん」
「でも行かない」
「それでいいわ」
ルシェルは膝の上の保留猫を抱く。
「行かない選択、慣れない」
セレスは静かに言う。
「行かないことで守れるものもあるわ」
「ボクを?」
「ルシェルを」
名前が先。
ルシェルは顔を伏せた。
「名前で呼ばれるの、まだ慣れない」
「慣れなくていいわ。少しずつで」
◇
同じ頃。
古井戸の前。
リーネが防護を張り、ミーナが記録紙を持つ。
若い書記が写しを用意し、エルヴィンが返答文を手に立っていた。
井戸の奥は暗い。
青灰の光は、まだ底に沈むように揺れている。
エルヴィンは、一歩だけ前に出た。
昨日より近い。
だが、柵の外。
安全線の手前。
彼は紙を開いた。
「東外縁古井戸関連、井戸守り見習いノア・エイム氏提出報告三件に対する回答」
声は硬い。
読み上げに向いた声。
優しい声ではない。
だが、揺れない。
「一件目。滴下音および青灰光について。報告は有効であった」
井戸の奥で、ぽたん、と音がした。
ミーナの筆が止まりかける。
リーネが静かに頷く。
エルヴィンは続ける。
「二件目。家畜の東方反応について。補助観察として扱うべきであった。切り捨ては不適切」
青灰の光が、少しだけ広がる。
風がないのに、井戸の縁の草が揺れた。
「三件目。名を呼ばれたように感じる、との報告について。錯誤として処理すべきではなかった」
エルヴィンの右手が、紙を握る。
包帯の端が見える。
だが、声は止まらない。
「ノア・エイム氏の判断要請に対し、二十年遅れて回答する」
ぽたん。
水滴の音。
それから、遠い声。
「……届いた?」
ミーナが息を呑む。
エルヴィンは、紙から目を離さなかった。
「報告は、受理されるべきであった」
青灰の光が、一度だけ強く灯った。
井戸の奥で、水面のようなものが揺れる。
そして、声がした。
「遅い」
誰も動けなかった。
責めるようでも、泣くようでもない。
ただ、本当に遅かったと言う声。
エルヴィンは、わずかに目を伏せた。
「その通りだ」
ミーナが彼を見た。
エルヴィンは続けた。
「遅すぎた」
井戸の光が、小さく揺れる。
「でも」
声が薄くなる。
「返事」
ぽたん。
「来た」
青灰の光が、ゆっくり井戸の底へ沈んでいく。
完全には消えない。
けれど、昨日までのような訴える揺れではなかった。
リーネが結界具を見て言う。
「反応、安定化」
若い書記の手が震えている。
ミーナが小さく言った。
「記録して」
「はい」
若い書記は慌てて筆を動かした。
エルヴィンは読み上げた紙を折りたたまず、そのままミーナへ渡した。
「原本として保管」
「はい」
「写しを井戸前管理箱へ」
「はい」
彼は井戸を見る。
長く。
それから、低く言った。
「閉じるな。安定しただけだ。未了のまま、観察を続ける」
ミーナは頷いた。
「はい」
◇
王都館に報告が届いたのは、夜の少し前だった。
クラウスが読み上げる。
「返答文読み上げ後、井戸反応安定。声あり。内容、『遅い』『返事、来た』」
ルシェルは、保留猫を抱いたまま固まった。
「遅い」
セレスが頷く。
「うん」
「そうだよね」
「うん」
「でも、返事来た」
「うん」
ルシェルは少しだけ目を伏せた。
「よかった、って言っていいのかな」
クラウスは静かに答える。
「完全な解決ではない」
「うん」
「だが、返事は届いた」
「うん」
レオンが廊下から言う。
「届いたなら、よかったでいい」
ルシェルは顔を上げる。
「レオン、今日は廊下から強い」
「部屋に入る必要はなさそうだった」
「距離調整が上手くなってる」
「そうか」
少し嬉しそうな声だった。
ルシェルは半目になる。
「今、褒めを受け取った」
「受け取った」
「正直」
◇
夜。
ルシェルは小箱の前に、今日の報告写しを置いた。
部屋には、誰もいない。
セレスは廊下の少し先。
レオンも、今日はもっと離れている。
一人でいられるか、と聞かれて。
少しだけなら、と答えた。
だから今、一人。
怖くないわけではない。
でも、一人で小箱を見ることができる。
「今日の報告」
保留猫は無反応。
「ノア・エイム氏に、返事が届きました」
無反応。
「遅い、って言われました」
ルシェルは少し笑った。
「そりゃそう」
雨雫は静かにしている。
「でも、返事来た、って」
ぽたん。
小さな音がした。
雨雫から。
ルシェルは目を見開いた。
淡い光が、一瞬だけ揺れる。
それだけ。
でも、今の音は怖くなかった。
「……聞こえた?」
誰に聞いたのか分からない。
保留猫は答えない。
雨雫も、もう光らない。
ルシェルは後日回答の栞を手に取った。
「後日回答、ちゃんと戻ったね」
少しだけ、胸が軽くなった。
全部ではない。
井戸はまだ未了。
ノア氏の所在も不明。
消された理由も分からない。
けれど、返事は来た。
それは、何も終わっていないようで、何かが確かに進んだ証拠だった。
「……明日、エルヴィン補佐官にお礼を言うかどうか」
ルシェルは紙を見た。
少し考える。
そして、書いた。
『お礼:保留。
理由:まだ怖い。でも、助かった。』
自分で書いて、少し笑った。
「保留箱、今日も勤務」
その夜、小箱の中で雨雫は静かだった。
けれど、もう冷たいだけの石ではなかった。
◇
同じ夜。
白環記録庫。
エルヴィンは、井戸前で読み上げた返答文の写しを棚へ収めていた。
ミーナが隣で言う。
「補佐官」
「何だ」
「今日は、ありがとうございました」
彼は棚を閉じる手を止めない。
「礼を言われることではない」
「それでもです」
少しの沈黙。
若い書記が遠くの机で、今日の記録を清書している。
エルヴィンは、棚の札を見た。
『ノア・エイム氏関連』
ようやく名前がある。
まだ所在はない。
まだ結末はない。
だが、名はある。
返事もある。
「遅いと言われた」
エルヴィンが低く言った。
ミーナは頷く。
「はい」
「当然だ」
「はい」
彼は右手の包帯を見た。
火傷はまだ治っていない。
だが、今日は紙を燃やしていない。
紙を読んだ。
紙を残した。
紙を棚に戻した。
「次は、遅らせない」
ミーナは少しだけ目を伏せる。
「はい」
その一言は、誰に向けた誓いなのか分からなかった。
ノア・エイム氏か。
ルシェルか。
記録そのものか。
あるいは、燃やしてしまった紙か。
けれど、棚の中で返答文は静かに残った。
閉じるためではなく。
次に戻ってくるために。