TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝。
雨雫は、少しだけ温かかった。
小箱の中で、何も言わずに出勤している顔をしている。
ルシェルはそれを見下ろし、半目になった。
「……労働基準監督署案件」
セレスが部屋の入口から覗く。
「雨雫?」
「働きすぎです」
「今日は使うかもしれないわね」
「言い方が仕事」
レオンは廊下の少し先にいた。
今日は近い。
昨日より近い。
「レオン、距離」
「水路だからだ」
「理由が水属性」
「戻る合図は見る」
「本味方、監視性能が高い」
ガルドが食堂から顔を出した。
「食え」
「まだ部屋!」
「水路なら食え」
「水路じゃなくても言うでしょ」
「言う」
「正直」
クラウスが書類を持って現れた。
「白環記録庫から、紙片の保護確認が届いた」
ルシェルは雨雫を小箱へ戻しきれず、手の中で止めた。
「欠けたレインさん?」
「そうだ」
クラウスは紙を開く。
「水路から届いた紙片は、通常紙ではない。古い浄化布紙。水に沈めても崩れない。北門水路管理補助の名札兼命令札だった可能性がある」
「命令札」
嫌な響きだった。
セレスの顔も少し引き締まる。
「内容は?」
クラウスは読み上げた。
「『――・レイン。異常時は名を水に戻すこと』」
ルシェルは雨雫を握った。
「名前を戻す、じゃなくて、名を水に戻す」
「そうだ」
「人に戻すんじゃないの?」
誰もすぐには答えなかった。
沈黙の中で、雨雫がぽたん、と鳴った。
ルシェルは目を細める。
「……今日、出番多そう」
◇
旧北門水路跡へ行く馬車の中。
ルシェルは、雨雫を布で包んで膝に置いていた。
セレスは隣。
レオンは向かい。
ガルドは御者席近く。
クラウスは資料を読んでいる。
リーネは現地で合流予定。
ミーナとエルヴィンも白環記録庫から来る。
「今日の勤務内容を整理します」
ルシェルが指を一本立てる。
「一、十二歩地点まで」
セレスが頷く。
「ええ」
「二、水路内へは入らない」
レオンが頷く。
「ああ」
「三、蒼銀は勝手に出さない」
クラウスが言う。
「必要時のみ、リーネの判断と本人同意」
「四、怖くなったら手を二回」
レオンが言う。
「見る」
「五、ガルドは突然食料を出さない」
ガルドが振り返った。
「必要なら出す」
「そこだけ合意形成が失敗してる」
「食料は別枠だ」
「本家、治外法権」
少し笑えた。
それだけで、馬車の中の空気が少し軽くなる。
◇
旧北門水路跡は、昨日より湿っていた。
入口の石に薄い水の跡がある。
雨は降っていない。
それなのに、鉄格子の内側から、細い水が滲んでいる。
ルシェルは十二歩の位置で止まった。
「……水路、勝手に出勤してる」
ミーナが記録する。
「入口付近に滲出水あり」
エルヴィンは保護箱を抱えている。
昨日の紙片。
今日は燃やさないどころか、箱ごと厳重に持っている。
ルシェルはそれを見て言った。
「箱、落とさないでください」
「落とさない」
「燃やさないでください」
「燃やさない」
「水路に返さないでください」
「必要が決まるまでは返さない」
「そこだけ含みがある」
エルヴィンは表情を変えない。
「決まっていないことは、決まっていない」
「形式の鬼、保留を使いこなしてる」
ミーナが小さく笑った。
エルヴィンは何も言わなかった。
◇
リーネが結界具を置いた。
セレスが水路の流れを読む。
鉄格子の奥は薄暗い。
けれど、水面だけが淡く光っている。
昨日の銀。
今日は少し青が混じっている。
ルシェルは雨雫を布越しに持った。
ぽたん。
水滴音。
水路の奥ではなく、雨雫から。
「反応」
レオンがすぐ言う。
「戻るか」
「まだ。出勤初手」
リーネが水路の奥を見つめる。
「昨日より反応が強いです。紙片を持ってきた影響かもしれません」
ミーナが保護箱を見る。
「開けますか」
エルヴィンはすぐには開けなかった。
まず、ルシェルの方を見る。
直接ではなく、少し視線を外して。
「開封してよいか」
ルシェルは小さく息を吸った。
「……十二歩地点から動かない。開けるのは可」
若い書記がすぐ記録した。
『本人、十二歩地点維持。紙片開封可』
保護箱が開く。
紙片が空気に触れた瞬間、水路の光が強くなった。
さらさら。
水音が、言葉の手前まで近づく。
「戻して」
昨日と同じ声。
けれど、今日は少しはっきりしていた。
「名を、水に」
ルシェルは眉を寄せた。
「水に戻したら、人に戻らない気がする」
セレスが静かに頷く。
「そうね」
エルヴィンが紙片を見る。
「命令文のまま従うのは危険だ」
クラウスも頷く。
「命令の意図が不明だ」
ルシェルは思わず言う。
「形式の鬼が命令文を疑ってる」
エルヴィンは低く返した。
「形式は、意味を確認してから使う」
「成長した」
「評価は不要だ」
「照れてる?」
「照れていない」
ガルドが短く言う。
「照れてるな」
「ガルド、強い」
◇
ミーナが紙片を裏返した。
裏に、薄い文字が浮かんでいる。
昨日は見えなかったものだ。
水路の光を受けて、ゆっくり濃くなる。
『北門水路管理補助
イリス・レイン
異常時は名を水に戻すこと
戻らぬ場合、北門第三石へ』
ルシェルは息を止めた。
「イリス・レイン」
雨雫が温かくなる。
水路が、さらりと鳴る。
「イリス」
声がした。
水の奥から。
「戻して」
セレスが低く言う。
「名前が出たわ」
リーネは結界具を確認する。
「北門第三石というのは?」
クラウスが古地図を見る。
「旧水路の奥、北門側の小結界石だ。今は閉鎖区画内」
レオンがすぐ言う。
「入らない」
「分かってる」
ルシェルは早口で返した。
「水路内勤務は契約外」
ガルドが頷く。
「契約外だ」
「本家が労務管理」
だが、水路の声は続く。
「名を」
「水に」
「戻して」
雨雫が、今度は熱いくらいに温かくなった。
ルシェルは手を少し握る。
一回。
まだ二回ではない。
レオンが動く準備だけする。
「ルシェル」
「まだ戻らない。でも、ちょっと近い」
セレスが言う。
「何が近い?」
「名前が、引っ張られてる感じ」
ルシェルは胸元の小袋を見た。
「イリス・レインって呼ぶと、雨雫が反応する。でも、水に戻せっていう声は、あまり好きじゃない」
リーネが静かに問う。
「蒼銀を、少しだけ出せますか」
空気が変わった。
ルシェルは顔を上げる。
「出す?」
「浄化ではなく、照明です。水路の式が何を求めているのか、蒼銀で照らします。流し込みません。触れません。ルシェルの手元だけ」
セレスがすぐ補足する。
「無理ならしないわ」
レオンの声が低くなる。
「出させる前提にはしない」
エルヴィンも言った。
「記録上も、本人任意とする」
ガルドが短く続ける。
「嫌なら食って帰る」
「選択肢が強い」
ルシェルは、雨雫を布から出した。
灰青色の石。
水路の光を受けて、いつもより静かに見える。
怖い。
でも、昨日とは違う。
出させられるのではない。
出すかどうかを、自分で選ぶ。
「……小さく」
リーネが頷く。
「小さく」
「照明勤務」
「はい」
「蒼銀、懐中灯扱い」
セレスが少し笑う。
「それくらいでいいわ」
◇
ルシェルは息を吸った。
雨雫を両手で包む。
胸の奥にある蒼銀へ触れる。
無理に引っ張らない。
命令しない。
ただ、灯りを一滴だけ。
指先に、淡い蒼銀が灯った。
全員が息を止めた。
それは、暴走の極光ではない。
王都を覆う光でもない。
小さな、小さな灯。
雨の日の窓辺に置いた、青い蝋燭の火みたいなもの。
ルシェルは自分で少し驚く。
「……出た」
セレスが囁く。
「綺麗」
ルシェルは即座に赤くなる。
「真面目褒め禁止時間です」
「ごめんなさい」
レオンは静かに言う。
「安定している」
「本味方、業務報告」
「必要だ」
「助かる」
蒼銀の小さな光を雨雫に近づける。
雨雫が鳴った。
ぽたん。
水路の奥で、同じ音が返る。
ぽたん。
蒼銀が、水路の光を照らした。
その瞬間、声が変わった。
「水に戻して」
ではない。
「水から戻して」
ルシェルは目を見開く。
「逆」
ミーナが筆を走らせる。
「水から戻して」
リーネが息を呑む。
「命令札の読み違い?」
クラウスが紙片を確認する。
「『名を水に戻す』ではなく、古い省略式なら『水にある名を戻す』とも読める」
ルシェルは半目で言った。
「古文、迷惑」
エルヴィンが低く言う。
「否定しない」
「形式の鬼が古文に怒ってる」
水路の奥で、声が続く。
「水から」
「戻して」
「イリス」
雨雫の中で、蒼銀がゆらめく。
水面に、文字の影が浮かんだ。
鉄格子の奥。
水路の底。
薄い銀の線が、水に沈んだ名前をなぞる。
『イリス・レイン』
その下に、もう一行。
『北門第三石 封鎖中』
さらに、欠けた言葉。
『……戻らず』
ルシェルの蒼銀が、ふっと揺れた。
胸が嫌な感じに冷える。
「誰が戻らなかったの」
水路は答えない。
ただ、さらさらと流れる。
蒼銀の灯が少し強くなりかけた。
レオンが即座に言う。
「小さく」
ルシェルは息を吐く。
「小さく。小さく勤務」
蒼銀を抑える。
できた。
光はまた、指先の灯に戻る。
セレスがそっと息を吐いた。
「できてるわ」
ルシェルは顔を赤くする余裕もなかった。
「今、褒め受け取り窓口は閉鎖中」
「後日回答ね」
「後日回答」
◇
蒼銀で照らすと、水路の奥の式が見えた。
古い。
絡まっている。
水を通じて、北門第三石に何かを送ろうとしている。
だが、その途中で止まっている。
名前だけが水に残ったまま、流れも戻りもできなくなっている。
リーネが判断した。
「今日はここまでです」
ルシェルは頷いた。
「賛成。労働終了」
蒼銀を消す。
指先から、灯がすっと引いた。
完全に消えた。
残らない。
暴れない。
ルシェルは自分の手を見る。
「……消せた」
レオンが言う。
「消せた」
セレスが微笑む。
「使って、止められたわね」
ガルドが低く言う。
「よし」
ルシェルは少し遅れて、顔を真っ赤にした。
「全員、今、すごく喜んだ」
ミーナが筆を止めずに言う。
「記録上も重要です」
「貴族院まで喜びに参加しないで」
エルヴィンが紙を見ながら言った。
「制御可能な小出力として記録する」
「形式の鬼、喜びが硬い」
「喜んではいない」
ミーナが小声で言った。
「少し喜んでいます」
エルヴィンは黙った。
「黙った。保留?」
ルシェルが言うと、若い書記が吹き出しそうになった。
◇
現地記録は、すぐに作られた。
『ルシェル・ノア氏、本人同意のもと蒼銀を小出力で使用。用途は照明・照合。浄化行使なし。出力安定。本人判断により終了。終了成功』
ルシェルはそれを見て、目を丸くした。
「終了成功」
クラウスが頷く。
「何もしない成功の親戚だな」
「王都書類、親戚を増やしてる」
ミーナが言う。
「重要な概念です」
「真面目に言われた」
エルヴィンが続ける。
「使ったことより、止めたことを記録するべきだ」
ルシェルは少し固まった。
使ったことより。
止めたこと。
その言葉が、胸に当たる。
セレスがそっと見守る。
レオンは何も言わない。
ガルドも黙っている。
ルシェルは、少しだけ笑った。
「……形式の鬼、今日はかなり味方寄り」
エルヴィンは短く答えた。
「記録のためだ」
「はいはい」
ルシェルは雨雫を小袋に戻した。
「記録のため、ね」
その軽口は、少し優しかった。
◇
帰り道。
ルシェルは疲れていた。
でも、悪い疲れではなかった。
馬車の中で、雨雫を膝に置く。
「今日の成果。蒼銀懐中灯。古文迷惑。水から戻して。イリス・レインさん正式登場。終了成功」
セレスが笑う。
「盛りだくさんね」
「展開が詰め放題」
レオンが静かに言う。
「蒼銀は安定していた」
「本味方、その話する?」
「する」
「真面目褒めが来る」
「よく止めた」
ルシェルは小袋で顔を隠した。
「後日回答!」
「分かった」
ガルドが干し肉を差し出す。
「食え」
「今?」
「終了成功祝い」
「半分?」
「全部」
「本家、祝いが全力」
クラウスは資料を見ながら言う。
「次は北門第三石の確認になる」
「次回予告禁止!」
「事実だ」
ルシェルは天井を見た。
「北門第三石。名前の戻らなかった誰か。水から戻す。うわ、仕事が増える」
セレスが柔らかく言う。
「今日は終わり」
「うん」
レオンが言う。
「今日は戻る」
「うん」
ルシェルは小さく息を吐いた。
「今日は、出して、止めて、帰る。勝利寄り」
ガルドが即座に言う。
「勝利だ」
「本家判定が強い」
◇
夜。
ルシェルは小箱の前に座った。
今日は、セレスもいない。
レオンは廊下の角。
ガルドは食堂。
クラウスは記録。
ひとりで報告できる。
できる気がする。
「今日の報告」
保留猫は無反応。
「水路便の紙片から、イリス・レインさんの名前が出ました」
雨雫を置く。
静か。
「名を水に戻す、じゃなくて、水から戻す、でした」
後日回答の栞を隣に置く。
「古文、迷惑」
自分で少し笑う。
「蒼銀を使いました」
少しだけ、声が小さくなる。
「小さく。照明勤務。懐中灯みたいに」
保留猫は何も言わない。
「出して、止めました」
雨雫は光らない。
でも、冷たくもない。
「終了成功」
その言葉を、もう一度口にする。
終了成功。
使えたことより、止められたこと。
それが記録になる。
ルシェルは、自分の指先を見た。
もう蒼銀はない。
ちゃんとない。
「……ボクver2、少し勤務上手」
廊下から、レオンの声がした。
「聞こえた」
ルシェルはびくっとする。
「聞こえない音量で言ったつもり!」
「少し聞こえた」
「本味方、聴力が過保護」
「よかった」
「何が」
「そう言えたこと」
ルシェルは保留猫を抱きしめた。
「真面目褒め、今日は受付終了」
「後日回答か」
「後日回答です」
「分かった」
少し沈黙。
ルシェルは小箱を見る。
「次、北門第三石だって」
「ああ」
「怖い」
「ああ」
「でも、今日は勝利寄り」
「勝利だ」
レオンの声は静かだった。
重い。
でも、今日はその重さが床みたいだった。
落ちないためのもの。
「……明日は控えめで」
「努力する」
「信用が薄い」
それでも、ルシェルの声は軽かった。
小箱の中で、雨雫は静かに眠っている。
蒼銀の灯は消えている。
けれど、消えたことが、今日いちばん大事な記録だった。