TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝。
ルシェルは食堂で、パンを見つめていた。
パンは普通だった。
穴もない。
井戸にも見えない。
水路にも見えない。
とても助かる。
「……今日のパン、無罪」
セレスが茶を置く。
「昨日までは疑われていたの?」
「井戸容疑があった」
「パンも大変ね」
ガルドが皿を寄せた。
「食え」
「本家は今日も有罪判定が早い」
「食わない方が有罪だ」
「食料法廷」
レオンは窓際で、北門の地図を見ていた。
また地図。
また北。
ルシェルは半目になった。
「山羊レオン、今日も北を見てる」
「北門第三石の位置を確認している」
「山羊業務の継続」
「山羊ではない」
クラウスが書類を机に置いた。
「北門第三石について、白環記録庫から正式照合依頼が来た」
ルシェルはパンを咥えたまま止まった。
「来た」
セレスが心配そうに見る。
「読めそう?」
「読める。パンが無罪なので」
「理由が独特」
◇
北門第三石。
旧北門水路の最奥に置かれていた、小型の結界補助石。
水路の流れを受け、王都北側の結界を冷却・調整していた石。
現在は閉鎖区画内。
三年前の点検を最後に、封鎖中。
クラウスは読み上げる。
「閉鎖理由は、老朽化および水路機能停止」
ルシェルは眉を寄せた。
「表向き?」
「表向きだ」
「嫌ワード、出勤」
クラウスは別紙を出す。
「白環記録庫の未整理資料から、閉鎖直前の補助記録が見つかった」
「はい」
「そこに、イリス・レインの名前がある」
空気が少し引き締まる。
ルシェルは雨雫の入った小袋を、膝の上で握った。
「レインさん」
クラウスは続ける。
「北門水路管理補助、イリス・レイン。閉鎖点検当日、第三石周辺の式に異常を確認。以後、記録なし」
セレスが小さく言う。
「また記録が途切れているのね」
「そうだ」
ガルドが低く言った。
「またか」
短いのに、重い。
ルシェルはパンを置いた。
「ノア氏は返事がなかった。レインさんは戻ってない」
レオンが静かに言う。
「違う件だが、似ている」
「王都、未了案件をため込みすぎ」
クラウスは反論しなかった。
反論できない顔だった。
◇
白環記録庫へ行く前に、条件を決めた。
今回は現地ではない。
まず記録庫で、北門第三石の封鎖図面と点検記録を照合する。
ルシェルは紙に書いた。
『水路内進入:不可。
第三石接近:保留。
蒼銀使用:現時点では不可。
雨雫照合:短時間なら可。
疲れたら終了。』
クラウスが確認する。
「妥当だ」
ルシェルは胸を張る。
「労務管理が上手くなっている」
セレスが微笑む。
「本当に上手くなっているわ」
「真面目褒め、朝は一回まで」
レオンが言う。
「合図は昨日と同じか」
「手を二回。あと、今日は追加で『水路退勤』と言ったら終了」
「水路退勤」
ガルドが頷く。
「よい」
「本家の許可が出た」
レオンも真面目に頷く。
「分かりやすい」
「みんな、変な言葉に慣れすぎ」
◇
白環記録庫の閲覧室は、昨日と同じ部屋だった。
扉は開いている。
窓も開いている。
机の上には、北門第三石の図面。
ミーナ。
若い書記。
エルヴィン。
エルヴィンは、今日は壁際ではなく、机の端にいた。
ただし、ルシェルから一番遠い席。
距離調整が細かい。
ルシェルはそれを見る。
「形式の鬼、席の位置が上達」
エルヴィンは紙から目を上げない。
「指定条件に従った」
「褒めています」
「不要だ」
「照れています?」
「照れていない」
若い書記が小さく肩を震わせた。
ミーナは咳払いする。
「本日の照合を始めます。途中終了可。保留可。後日回答可。水路退勤可」
ルシェルは目を丸くした。
「最後、正式採用された」
「本日の終了合図として記録しました」
「王都記録、柔軟すぎない?」
クラウスが淡々と言う。
「柔軟な方が正確な時もある」
「書類の人まで変わってる」
◇
図面には、旧北門水路が細い線で描かれていた。
入口。
曲がり角。
制御室。
第三石室。
その奥に、黒く塗られた部分がある。
ルシェルはそこを指さした。
「ここ、黒い」
ミーナが頷く。
「封鎖区画です」
「また黒塗り?」
エルヴィンが答える。
「こちらは物理的封鎖の印だ。記録削除ではない」
「黒にも種類がある」
「ある」
「黒部署、多い」
若い書記が筆を止めかける。
クラウスが低く言う。
「黒部署は書かなくていい」
「はい」
ミーナが別の紙を置いた。
「閉鎖当日の点検記録です」
そこには、イリス・レインの署名があった。
細く、流れるような字。
『第三石、反応不定。水路式、一部逆流。名札式に干渉あり。封鎖判断を要請』
ルシェルは息を止めた。
「封鎖判断を要請」
「はい」
ミーナの声が少し硬い。
「しかし、この要請に対する回答記録がありません」
ガルドが低く言う。
「また返事なし」
ルシェルは小さく頷いた。
「王都、返信忘れ多すぎ問題」
軽口にした。
でも、少し喉が痛かった。
レオンが黙って見ている。
見られているが、急かされていない。
助かる。
◇
エルヴィンが次の紙を出した。
「閉鎖命令は残っている」
ミーナが目を細める。
「差出人は?」
「当時の北門管理官」
エルヴィンの声が硬くなる。
「ただし、命令文にはイリス・レインの要請への言及がない」
クラウスが受け取って確認する。
「第三石の老朽化により封鎖。以上、か」
「そうだ」
ルシェルは眉を寄せる。
「レインさんの『名札式に干渉あり』が消えてる」
エルヴィンは頷いた。
「消えている」
その言い方には、怒りがあった。
燃える怒りではない。
紙を焦がさないように押さえ込まれた怒り。
ルシェルはそれを見て、少しだけ思う。
この人は、怒る方向を変えた。
まだ怖い。
でも、前より怖さの向きが分かる。
「形式の鬼、今かなり怒ってる」
エルヴィンは少し黙った。
「記録が歪められている」
「はい」
「怒る理由として、正当です」
「はい」
ミーナが小さく目を伏せた。
◇
雨雫照合は、机の上で行った。
水路ではない。
井戸でもない。
白環記録庫の閲覧室。
雨雫を布の上に置く。
ルシェルは十二歩ではなく、椅子一つ分離れた位置。
「室内十二歩は無理なので、椅子一個」
若い書記が書く。
『本人指定距離:椅子一個分』
ルシェルは半目になる。
「また変な記録が増える」
ミーナが微笑む。
「正確です」
「正確なら何でも許されるわけでは」
セレスが笑う。
「でも、今日の距離ね」
「はい」
クラウスが点検記録を読み上げる。
「第三石、反応不定。水路式、一部逆流。名札式に干渉あり。封鎖判断を要請」
ぽたん。
雨雫が鳴った。
光は淡い。
青灰。
昨日ほど強くない。
ルシェルは胸を撫で下ろしかけた。
その時、雨雫の中に小さな文字が浮かんだ。
ほんの一瞬。
『戻らず』
ルシェルは椅子を掴んだ。
「出た」
レオンが即座に一歩動く。
「戻るか」
「まだ。椅子勤務継続」
セレスが雨雫を見る。
「戻らず?」
「うん。戻らずって見えた」
リーネがいない分、セレスが魔力の流れを読む。
「雨雫の中に残響が映ったのね」
エルヴィンが紙を出す。
「同じ語が昨日の水路にもあった」
クラウスが頷く。
「『北門第三石 封鎖中』『……戻らず』」
ミーナが言う。
「戻らなかったのは、イリス・レイン氏?」
雨雫が、ぽたん、と鳴った。
今度は少し強い。
肯定のように。
ルシェルは思わず言った。
「雨雫、返事が早い」
ガルドが低く言う。
「働きすぎだな」
「労基案件再発」
◇
その時、エルヴィンが別の古い台帳を出した。
「もう一つある」
ミーナが驚く。
「補佐官、それは」
「北門人員台帳の控えだ」
「見つかったのですか」
「今朝、未整理棚ではなく廃棄予定箱から出た」
クラウスの顔が険しくなる。
「廃棄予定」
「そうだ」
エルヴィンの声は冷たい。
「正式廃棄手続き前だった。燃やされてはいない」
ルシェルはじっと見た。
「燃やされてない、重要」
「重要だ」
エルヴィンは否定しなかった。
台帳の中ほどに、イリス・レインの名前があった。
その横に、短い備考。
『第三石確認に向かう。戻らず』
ただ、それだけ。
ルシェルの軽口が、一瞬、出てこなかった。
戻らず。
人の終わりかもしれないことが、三文字みたいに置かれている。
セレスが静かにルシェルを見る。
レオンも黙っている。
ガルドは腕を組んで、顔をしかめている。
しばらくして、ルシェルは小さく言った。
「……雑」
その声には、怒りが混じっていた。
「人が戻ってないのに、雑」
エルヴィンは台帳を見下ろした。
「そうだ」
短い肯定。
それだけだったが、逃げなかった。
◇
雨雫がまた鳴った。
ぽたん。
そして、光の中に文字が浮かぶ。
『北門第三石室』
その下に、細い線。
水路図の一部。
クラウスが地図と照合する。
「これは第三石室への側道だ」
ミーナが身を乗り出す。
「封鎖図面にはありません」
エルヴィンが別紙を見る。
「旧図面にもない」
ルシェルは目を細める。
「隠し通路?」
レオンが言う。
「危険だ」
「言うと思った」
「危険だ」
「二回言った」
ガルドが低く言う。
「行くな」
「まだ行くって言ってない」
「言う前に言った」
「先回り本家」
セレスが図を見る。
「でも、これが本当なら、第三石室に水路内へ入らず近づける可能性があるわ」
クラウスが頷く。
「側道が地上側に通じていれば、調査班が入れる」
ルシェルは雨雫を見る。
「雨雫、案内してる?」
ぽたん。
小さな音。
肯定か、疲労か。
ルシェルは半目になる。
「働きすぎ。今日はここまで」
雨雫は、すっと光を弱めた。
セレスが微笑む。
「ちゃんと止めたわね」
「雨雫退勤」
若い書記が書きかける。
クラウスが止める。
「退勤は書かなくていい」
「必要では?」
「必要ではない」
◇
照合結果はすぐにまとまった。
一、イリス・レイン氏は第三石確認に向かい、戻っていない。
二、封鎖命令にはその事実が反映されていない。
三、雨雫に第三石室への未知の側道らしき図が現れた。
四、現地調査は必要。
五、ルシェル本人の同行は、現時点では不要。
最後の一文を、エルヴィンが自分で書いた。
『不要。雨雫照合により必要情報は得た。本人負担を増やさないこと』
ルシェルはそれを見て、少しだけ笑う。
「形式の鬼、また負担を書いた」
「事実だ」
「助かります」
「そうか」
短いやり取り。
それで足りた。
ミーナが書類をまとめる。
「側道の確認は、記録庫と結界局で行います」
クラウスが頷く。
「王都館にも写しを」
「もちろんです」
レオンが静かに言う。
「何かあれば、こちらに先に連絡を」
エルヴィンが返す。
「当然だ」
ルシェルは首を傾げた。
「当然って言った」
セレスが微笑む。
「味方寄りね」
「形式味方が板についてきた」
エルヴィンは無視した。
ただ、書類を燃やさないように、きちんと保護箱へ収めた。
◇
王都館へ戻る馬車の中。
ルシェルは窓の外を見ながら、小さく言った。
「今日の成果。レインさんは戻ってなかった。雑な台帳に怒った。雨雫が隠し通路っぽいものを出した。雨雫退勤」
セレスが頷く。
「よくまとめたわ」
「軽口にしないと重い」
「うん」
レオンが静かに言う。
「怒っていたな」
「怒ってた」
「悪くない」
「本味方、怒りも肯定する」
「人が戻っていない記録が雑なのは、怒っていい」
ルシェルは少し黙った。
「うん」
ガルドが干し肉を差し出す。
「怒ると腹が減る」
「本家、全部食に戻す」
「戻せるなら戻せ」
「助かる」
クラウスが資料を閉じる。
「次は側道確認の結果待ちだ」
「待つ勤務」
「そうだ」
「得意かもしれない。最近、待つ部署が育ってきた」
◇
夜。
ルシェルは小箱の前に雨雫を置いた。
今日は光らない。
完全に退勤したらしい。
「今日の報告」
保留猫は無反応。
「イリス・レインさんは、第三石確認に行って戻っていませんでした」
無反応。
「それが雑に書かれていました」
ルシェルは少し黙る。
「腹が立ちました」
保留猫は何も言わない。
「雨雫が、側道っぽい図を出しました」
後日回答の栞を横に置く。
「でも、今日は行かない。待つ勤務」
廊下からレオンの声。
「聞こえている」
「今日も許可」
「ああ」
「怒ってもよかった?」
「よかった」
「怖いものに怒るの、難しい」
「そうだな」
「でも、雑はだめ」
「ああ」
ルシェルは保留猫を抱いた。
「明日、側道が見つかったら?」
「まず大人が行く」
「レオン、自分も大人側に入れてる」
「入る」
「本味方、大人だった」
「君よりは」
「それはそう」
少し笑えた。
ルシェルは布団に潜る。
「明日は控えめで」
「努力する」
「信用が薄い」
でも、声は軽かった。
◇
同じ夜。
白環記録庫の地下整理室。
エルヴィンは、廃棄予定箱から出た北門人員台帳を机に置いていた。
隣にはミーナ。
若い書記は、少し離れた場所で側道図の写しを作っている。
エルヴィンは台帳の備考欄を見ていた。
『戻らず』
短すぎる文字。
彼は新しい紙を取り、硬い字で書く。
『当該記載は不十分。
人員未帰還記録として再分類。
調査完了まで廃棄不可』
ミーナが静かに言う。
「補佐官」
「何だ」
「また棚が増えますね」
「増やせ」
即答だった。
ミーナは少しだけ笑った。
「はい」
その時、若い書記が顔を上げた。
「側道図、照合できました」
エルヴィンが振り返る。
「どこにつながる」
若い書記は、青ざめた顔で地図を示した。
「旧北門水路ではなく……王都内側です」
ミーナの表情が変わる。
「内側?」
「はい」
若い書記の指が、地図の一点を指す。
王都北区。
今は使われていない、古い児童保護院跡。
そこに、側道の出口らしき印が重なっていた。
エルヴィンはしばらく地図を見ていた。
そして、低く言った。
「明朝、封鎖する。誰にも入らせるな」
水路の奥は、外ではなく。
王都の内側へ続いていた。