TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
翌朝。
ルシェルは、自分の指先を見ていた。
何も出ていない。
蒼銀はない。
ちゃんとない。
それが、少し嬉しい。
「……退勤できてる」
セレスが茶を置いた。
「蒼銀?」
「うん。昨日、ちゃんと帰宅した」
「よかったわ」
「蒼銀にも家があるらしい」
ガルドがパンを置く。
「帰ったなら食え」
「蒼銀の帰宅祝い?」
「そうだ」
「本家、祝いの範囲が広い」
レオンは窓際にいた。
昨日より、さらに距離がちょうどいい。
ルシェルはそれを見る。
「レオン、位置調整レベルが上がってる」
「昨日、少し信用が上がったと言われた」
「覚えてた」
「覚えている」
「本味方、ログ管理が重い」
クラウスが書類を持ってきた。
「白環記録庫から、残り三名分の照合準備が整った」
ルシェルはパンを半分かじった。
「来た。名前部署、今日も開店」
「無理なら後日回答でいい」
「今日は、行く」
自分で言ってから、少し驚いた。
セレスがすぐに大きく反応しないよう、慎重に頷く。
「分かったわ」
ルシェルは半目で見る。
「今、慎重に喜んだ」
「少しだけ」
「許可」
◇
白環記録庫の閲覧室。
いつもの部屋。
扉は開いている。
窓も開いている。
清水の器。
名簿。
雨雫。
回答紙。
ミーナが頭を下げる。
「本日も、途中終了可。保留可。後日回答可。水路退勤可です」
ルシェルは頷いた。
「水路退勤、公式化が進んでいる」
エルヴィンが机の端で言う。
「便利な終了合図だ」
「形式の鬼が便利って言った」
「事実だ」
若い書記が少し笑いかけて、慌てて筆を持った。
クラウスが条件紙を確認する。
「蒼銀使用は小灯から。必要なら面積。浄化行使はしない」
「はい。照明勤務」
セレスが隣で微笑む。
「昨日より落ち着いているわね」
「昨日より、蒼銀が職場に慣れた」
レオンが静かに言う。
「無理をしたら止める」
「本味方も通常運転」
ガルドが腕を組む。
「止めたら食わせる」
「本家も通常運転」
◇
最初は、ユーノ。
年齢七。
区分、北。
備考、紙。
ルシェルは小さく蒼銀を灯した。
昨日より、出るのが怖くない。
怖くないわけではない。
ただ、出したあとに止める道が見える。
小さな灯が、雨雫を照らす。
雨雫が清水へ青灰の光を落とす。
水面に文字が浮かんだ。
『ユーノ 紙をたたむ係』
ルシェルは瞬きをする。
「紙をたたむ係」
ミーナが記録する。
水面に次の文字。
『名札を包む』
次。
『先生に渡す前に、しまった』
ルシェルは眉を寄せた。
「しまった」
クラウスが名簿を確認する。
「名札は保護院内でまとめられていた可能性がある」
エルヴィンが低く言う。
「名札が散逸したのではなく、回収されていた」
セレスが考える。
「それが水路へ流れた?」
清水が揺れた。
ぽたん。
雨雫が鳴る。
肯定のようで、否定のようでもある。
ルシェルは蒼銀を少し畳んだ。
「ユーノさん、後で名札探し係かもしれない」
若い書記が記録しかける。
クラウスが言う。
「係ではなく、関連可能性」
「王都書類、係に厳しい」
◇
次は、リタ。
年齢五。
区分、灰。
備考、眠。
ルシェルの軽口が少し止まった。
「眠」
セレスがすぐに聞く。
「後日にする?」
「一回だけ」
蒼銀を灯す。
小さく。
小さく。
光が雨雫に触れる。
水面に、文字ではなく、泡のような丸が浮かんだ。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
そして、文字。
『リタ よく眠る』
次。
『水音で起きる』
次。
『先生が抱いていた』
ルシェルは、胸の奥を押さえた。
「……近い」
すぐ言えた。
セレスが頷く。
「休憩」
蒼銀を消す。
消えた。
ちゃんと消えた。
ルシェルは息を吐く。
「リタさんは後日回答」
ミーナがすぐ記録する。
『リタ氏照合、本人申告により後日回答』
エルヴィンも頷く。
「受理する」
ルシェルは半目で言う。
「受理が早い」
「早い方がいい時もある」
「成長してる」
「評価は不要だ」
「照れてる?」
「照れていない」
ガルドが低く言う。
「照れてる」
エルヴィンは無視した。
◇
休憩。
茶。
焼き菓子。
ガルドが用意していた。
なぜ白環記録庫に焼き菓子があるのか。
考えてはいけない。
「本家、補給線が強い」
「必要だ」
「どこに隠してるの」
「鞄だ」
「鞄が異空間」
セレスが茶を差し出す。
「蒼銀はどう?」
「昨日より、閉じるのが早い」
「怖さは?」
「ある。でも、出口がある感じ」
レオンが言う。
「戻れると分かると違うか」
「うん」
ルシェルは茶杯を見る。
「前は、出したら戻れないかもしれないのが怖かった。今は、出して、畳んで、閉じる道がある」
エルヴィンが記録紙を見ていた。
「その感覚は記録していいか」
ルシェルは少し驚く。
前なら、勝手に拾われた気がして嫌だったかもしれない。
今は、聞かれている。
「……いい。だけど、綺麗にしすぎないで」
「原文に近く残す」
「お願いします」
また言えた。
お願い。
エルヴィンは頷く。
「承知した」
◇
最後の一人。
名簿上で読める最後。
タルの次の行にいた子。
名前は、カナ。
年齢八。
区分、水。
備考、鍵。
ルシェルは少しだけ身を乗り出した。
「鍵」
クラウスが地図を見る。
「第三石室か、洗濯棟地下の扉に関係するかもしれない」
蒼銀を灯す。
小灯。
雨雫。
清水。
水面が、すぐに反応した。
『カナ 鍵を持っていた』
次。
『先生が戻るまで開けない』
次。
『先生が戻らない』
ルシェルの指先の蒼銀が揺れた。
胸がきゅっと痛む。
先生が戻らない。
イリス・レイン。
レイン先生。
戻らず。
子どもが鍵を持って待っていた。
ルシェルは息を吸う。
「小さく」
自分で言った。
レオンより先に。
蒼銀を小さく畳む。
灯が落ち着く。
セレスが静かに息を吐く。
水面に、最後の文字が浮かぶ。
『鍵は歌の下』
ルシェルは目を見開いた。
「歌の下」
ミシェ。
備考、歌。
後日回答にした子。
クラウスがすぐ資料を照合する。
「ミシェの記録とつながる」
ミーナが筆を走らせる。
「鍵は歌の下」
エルヴィンが低く言う。
「第三石室へ入る鍵か」
ルシェルは蒼銀を消した。
「今日はここまで」
声は震えた。
でも、はっきりしていた。
「水路退勤」
全員がすぐに動いた。
ミーナが記録する。
クラウスが紙を閉じる。
セレスが茶を近づける。
レオンが一歩だけ距離を詰めて止まる。
ガルドが焼き菓子を割る。
エルヴィンが言う。
「照合終了。以後、追加質問なし」
ルシェルは肩の力を抜いた。
「……形式の鬼、終了処理が早い」
「必要だ」
「今日は助かります」
「そうか」
◇
だが、そこで終わらなかった。
若い書記が、名簿の最後を見て青ざめた。
「ミーナさん」
ミーナが振り返る。
「何?」
「墨塗りの一行、浮いています」
全員の視線が名簿に向く。
昨日まで黒く塗られていた最後の一行。
そこに、水が染みたような跡が広がっていた。
墨が、少しずつ薄くなっている。
ルシェルは椅子に座ったまま動かない。
蒼銀は消した。
出していない。
それなのに、名簿の墨が勝手に退いていく。
ミーナが慎重に紙を押さえる。
エルヴィンが顔を険しくする。
「触るな」
若い書記が手を引く。
墨の下から、文字が現れた。
まず、年齢。
『十六』
ルシェルの胸が、嫌な音を立てる。
次に、区分。
『蒼』
セレスの表情が変わる。
レオンが静かに前へ出る。
ガルドが低く唸るように言う。
「蒼」
最後に、名前。
しかし、名前欄はまだ半分黒い。
見えるのは、末尾だけ。
『――シェル』
部屋の空気が凍った。
ルシェルは動けなかった。
シェル。
ルシェル。
違う。
違うはず。
でも。
名簿の最後。
十五。
蒼。
――シェル。
雨雫が、強く鳴った。
ぽたん。
ルシェルは手を二回握った。
合図。
レオンが即座に言う。
「終了」
セレスが名簿を閉じる。
クラウスが記録を止める。
ミーナも筆を置く。
エルヴィンが硬い声で宣言する。
「本件、本人負担大。即時中断。以後の照合は本人同意があるまで禁止」
ガルドがルシェルの前に立つ。
「戻る」
ルシェルは声が出なかった。
でも、頷けた。
◇
閲覧室を出る時、ルシェルの足は少し震えていた。
レオンがすぐそばにいる。
触れない。
でも、倒れたら支えられる距離。
セレスが隣にいる。
ガルドが前を開ける。
クラウスが書類を閉じたまま持つ。
後ろで、ミーナが名簿に布をかける。
エルヴィンは封をする。
誰も、名前を口にしない。
それが助かった。
馬車に乗ってから、ルシェルはようやく言った。
「……似てた」
セレスが頷く。
「うん」
「違う人だよね」
「まだ分からない。だから、今は決めない」
「保留?」
「保留」
レオンが静かに言う。
「君は、ここにいる」
ルシェルは目を伏せた。
「うん」
ガルドが焼き菓子を出す。
「食え」
「今、食べられない」
「なら持て」
ガルドは焼き菓子を紙に包んで、ルシェルの手元に置いた。
「食えない時は、持て」
ルシェルはそれを見た。
少しだけ、息が戻る。
「本家、今日かなり強い」
「そうだ」
◇
王都館に戻ると、ルシェルは部屋へ行った。
今日は小箱の前に座らない。
すぐに布団に入った。
セレスが部屋の入口で聞く。
「一人がいい?」
「近くにいて。中には入らないで」
「分かったわ」
レオンは廊下の角。
いつもより少し近い。
ガルドは食堂ではなく、廊下の奥で待機。
クラウスは書類室へ行った。
名簿の写しを、誰にも見せないために。
ルシェルは布団の中で、保留猫を抱いた。
「今日の報告、無理」
声が小さい。
廊下から、レオンが言った。
「しなくていい」
「名前が似てた」
「ああ」
「蒼って書いてあった」
「ああ」
「十六」
「ああ」
「ボクじゃない?」
少し沈黙。
レオンは、簡単に「違う」と言わなかった。
それが怖くて、でも少し信じられた。
「今は、君はルシェル・ノアだ」
ルシェルは目を閉じる。
「今は」
「ここにいる」
「うん」
「決めなくていい」
「保留」
「ああ。保留」
ルシェルは保留猫をぎゅっと抱く。
蒼銀は、静かだった。
ちゃんと閉じている。
怖くても、暴れていない。
それだけは、今日の勝利だった。
「……蒼銀、出なかった」
セレスが扉の外から言う。
「出さずに戻れたわ」
ルシェルは少しだけ息を吐いた。
「出さない成功」
「うん」
「今日は、それだけでいい?」
レオンが答える。
「いい」
ガルドも廊下の奥から言う。
「よし」
ルシェルは、泣きそうになった。
でも、泣くかどうかも保留にした。
今日はそれでいい。
◇
同じ夜。
白環記録庫。
閲覧室の名簿は、封鎖箱に入れられていた。
ミーナは青ざめた顔で、写しを取らずに箱を閉じた。
若い書記は、まだ少し震えている。
エルヴィンは封鎖印を押した。
『本人同意まで閲覧禁止』
その字は、強かった。
ミーナが静かに言う。
「補佐官」
「何だ」
「名前が」
「言うな」
エルヴィンは短く止めた。
ミーナは口を閉じる。
「本人がいない場所でも、軽く扱うな」
その声は冷たかった。
だが、冷たさの向きは、もう分かる。
守るための冷たさだった。
エルヴィンは封鎖箱の前に、もう一枚紙を置く。
『墨塗り最終行。
年齢十六。区分、蒼。氏名一部のみ判読。
本人負担大につき、詳細記載を凍結。』
若い書記が小さく言った。
「凍結、ですか」
「保留だ」
エルヴィンは答えた。
「こちら側の保留だ」
ミーナは、少しだけ目を伏せた。
保留は、ルシェルだけのものではなくなっていた。
誰かを守るために、記録する側も、止まる。
その形が、ようやく紙の上に残った。
封鎖箱の中で、墨塗りの一行は眠っている。
まだ読まれない。
まだ決められない。
けれど、もう燃やされない。
もう、勝手に開かれない。