TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
ルシェルは、普段通りだった。
少なくとも、本人はそのつもりだった。
「おはようございます。今日の喉は文明側に戻りました」
食堂の入口でそう言って、ルシェルは椅子に座った。
昨日の本音瘴気症は、ほとんど治まっているらしい。
顔色も悪くない。
声も軽い。
眠そうな半目も、いつも通り。
ガルドがパンを置くと、ルシェルはそれを見て頷いた。
「本家、今日も通常出勤」
「食え」
「はい。食料部門の圧、平常運転」
そう言って、ちゃんとパンを千切る。
セレスは、その様子を見て微笑んだ。
微笑んだまま、胸の奥が少し痛んだ。
昨日、あれだけ本音が漏れて。
寂しいと言って。
外にいると置いていかれている感じがすると言って。
それでも翌朝には、こうして普段通りの顔で椅子に座る。
それが回復に見える。
けれど、セレスには少し違って見えた。
普段通りに戻ったのではない。
普段通りという形に、戻ろうとしている。
◇
レオンは、いつもの窓際に立っていた。
昨日は部屋の入口近く、椅子一個分の距離にいた。
今日は食堂。
人がいる。
朝の光がある。
だから、いつもの位置に戻った。
そのつもりだった。
ルシェルがちらりとこちらを見る。
ほんの一瞬。
すぐに視線をパンへ戻す。
「レオン、今日は窓際復帰?」
「ああ」
「配置転換、早い」
「食堂だからな」
「なるほど。食堂では窓際勤務」
軽い声。
冗談。
いつものルシェル。
だが、レオンは気づいた。
その視線が、ほんの少しだけ遅れて離れたことに。
昨日なら口に出ていたはずの言葉が、今日は出てこないことに。
本当は少し寂しい。
そう言えなくなっただけだ。
治った、ということは。
隠せるようになった、ということでもある。
レオンは胸の奥が重くなるのを感じた。
昨日の言葉を、必要な分だけ覚える。
そう約束した。
必要な分だけ。
なら、これは覚えておくべきことだ。
ルシェルが軽口を言っている時でも、軽いとは限らない。
◇
クラウスは、収束後支援体制案の追加欄を書いていた。
『発話抑制回復後も、本人が普段通りに振る舞う可能性あり。
軽口の回復をもって、心理的負担の消失と判断しないこと。』
筆を止める。
少し考え、最後の一文を加える。
『普段通りは、状態ではなく努力である場合がある。』
書いてから、クラウスは眉間を押さえた。
感傷的すぎる。
書類としては少し硬さが足りない。
だが、消さなかった。
昨日のルシェルは、本音が漏れることを怖がっていた。
今日は、本音が漏れないことに安心している。
その安心を奪ってはいけない。
だが、漏れなくなったからといって、無くなったわけではない。
クラウスは紙を伏せた。
記録とは、暴くためのものではない。
必要な時に、見落とさないためのものだ。
◇
白環記録庫から、礼状の追加写しが届いた。
ミーナの文字。
その末尾には、エルヴィンの追記があった。
『本音瘴気症時の発話は証言扱い不可。
ただし、支援上の参考として、本人の尊厳を損なわない範囲で扱うこと。
なお、症状消失後に本人が普段通りであっても、前日の発話をなかったことにしないこと。』
セレスは、それを読んで黙った。
エルヴィンらしい硬い文だった。
謝罪も、慰めもない。
けれど、そこには明確な線が引かれている。
なかったことにしない。
利用もしない。
笑い話にもしない。
本人を責める材料にもしない。
残す。
しかし、晒さない。
「形式の鬼、今日も仕事してる」
ルシェルが横から紙を覗き込み、そう言った。
いつもの調子だった。
セレスは紙を閉じる。
「読む?」
「読みません。昨日のボクは機密文書なので」
「そうね」
「でも、たぶん守ってくれてる気配がする」
「ええ。守ってくれているわ」
ルシェルは少し照れたように視線を逸らした。
「形式味方、増築中」
そう言って、茶を飲む。
普通の顔をしている。
けれど、セレスは思った。
この子は、守られていることを分かるたびに、少し恥ずかしそうにする。
まるで、守られること自体に許可が必要みたいに。
◇
昼過ぎ。
ルシェルは保留箱ver2の設計図を見ていた。
レオンが簡単な木箱の案を描き、クラウスが仕切りを提案し、ガルドが「頑丈にしろ」とだけ書いた。
セレスは布を敷く案を出した。
ルシェルはそれを見て、真剣に頷く。
「これはもう、保留箱というより小規模記録庫」
クラウスが言う。
「君の持ち物が増えたからな」
「白環記録庫の小型版」
「燃やさない」
「それ大事」
ルシェルは笑った。
軽く。
いつも通り。
だが、クラウスは設計図の端に置かれた小さな文字に気づいた。
ルシェルが無意識に書いたらしい。
『椅子一個分』
箱の寸法ではない。
仕切りの幅でもない。
ただ、紙の端に小さく書かれた距離。
昨日、レオンを部屋に入れた距離。
近すぎず、遠すぎず。
中にいるけれど、侵入ではない距離。
クラウスは何も言わなかった。
消しもしなかった。
その文字を見なかったことにするのではなく、騒がないことにした。
◇
ガルドは、ルシェルがいつも通り食べていることを見ていた。
量は少し少ない。
だが、食べている。
冗談も言っている。
ならば、今はそれでいい。
そう思う。
けれど昨日、ルシェルは言った。
ガルドの「食え」が、帰る場所みたいになっている、と。
本人は恥ずかしがっていた。
だが、ガルドは忘れなかった。
食わせることは、腹を満たすだけではない。
戻ってこいと言うことだ。
ここに座れ。
口を動かせ。
飲み込め。
明日も同じことをしろ。
そういう、短い約束だ。
だからガルドは、今日も皿を置いた。
「食え」
ルシェルは半目で見る。
「本家、台詞が一文字も変わらない」
「変えん」
「安心の固定台詞」
「そうだ」
ルシェルは少し笑って、スープを飲んだ。
ガルドはそれを見て、ただ頷いた。
よし。
その一言を、今日は口に出さなかった。
出すと、ルシェルが照れる気がしたからだ。
◇
夕方。
レオンは、ルシェルの部屋の前に立った。
いつもの廊下。
いつもの距離。
だが、今日は少し違う。
扉は少しだけ開いていた。
細い隙間。
中からルシェルの声。
「レオン」
「ああ」
「今日は、外でいいです」
レオンは頷いた。
「分かった」
少し沈黙。
「でも、遠くはだめ」
「分かった」
また沈黙。
「昨日のこと、全部は覚えないで」
「ああ」
「でも、必要な分は」
「覚えている」
扉の向こうで、布が擦れる音がした。
「それ、やっぱりずるい」
「そうか」
「そうです」
声は軽い。
普段通り。
けれど、レオンには分かった。
この会話は、ルシェルにとって精一杯の調整なのだと。
外でいい。
遠くはだめ。
覚えすぎないで。
忘れないで。
矛盾ではない。
怖さと安心が、同じ場所にあるだけだ。
「ここにいる」
レオンは言った。
昨日は禁止された言葉。
今日は、少し間を置いてから扉の向こうで返事があった。
「今日は許可」
その声に、レオンは静かに息を吐いた。
◇
夜。
ルシェルは小箱の前で、普段通り報告をした。
「今日の報告」
保留猫。
雨雫。
後日回答の栞。
収束報告。
小瓶。
そして、仮設計図。
「保留箱ver2、設計開始」
声はいつも通り。
「本音瘴気症は、たぶん閉店しました」
少し間。
「昨日の発言は、機密文書扱いです」
廊下から、レオンの声。
「必要な分だけ覚える」
「よろしい」
セレスが扉の外で言う。
「無理に聞かないわ」
「よろしい」
ガルドが言う。
「食ったことは覚える」
「本家、それは覚えていい」
クラウスが言う。
「記録は最低限にした」
「書類の人、よろしい」
ルシェルは満足そうに頷いた。
そして、いつも通り保留猫を抱いた。
「今日は、大丈夫寄り」
その言葉を聞いて、外にいる全員が少しだけ黙った。
大丈夫。
ではなく。
大丈夫寄り。
その小さな差を、もう誰も聞き逃さなかった。
セレスは扉の外で、目を伏せた。
レオンは廊下の壁に背を預け、動かなかった。
ガルドは食堂へ戻らず、少しだけその場に残った。
クラウスは、記録紙に何も書かなかった。
書かないことを選んだ。
部屋の中で、ルシェルは普段通り布団に入る。
「明日は、もっと普通で」
レオンが答える。
「そうだな」
「信用が薄い」
「努力する」
「はいはい」
軽い声。
普段通り。
けれど、その普段通りが、どれほど細い足場の上に作られているのか。
外にいる者たちは、もう知ってしまっている。
だから誰も、安心しきらなかった。
だから誰も、踏み込みすぎなかった。
だから誰も、離れなかった。
小箱の中で、雨雫が一度だけ鳴った。
ぽたん。
ルシェルは眠る。
普段通りの顔で。
廊下の外では、普段通りを守るための静かな見張りが、夜の終わりまで続いていた。