TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

62 / 64
間話 普段通りの重さ

 

 ルシェルは、普段通りだった。

 

 少なくとも、本人はそのつもりだった。

 

「おはようございます。今日の喉は文明側に戻りました」

 

 食堂の入口でそう言って、ルシェルは椅子に座った。

 

 昨日の本音瘴気症は、ほとんど治まっているらしい。

 

 顔色も悪くない。

 

 声も軽い。

 

 眠そうな半目も、いつも通り。

 

 ガルドがパンを置くと、ルシェルはそれを見て頷いた。

 

「本家、今日も通常出勤」

 

「食え」

 

「はい。食料部門の圧、平常運転」

 

 そう言って、ちゃんとパンを千切る。

 

 セレスは、その様子を見て微笑んだ。

 

 微笑んだまま、胸の奥が少し痛んだ。

 

 昨日、あれだけ本音が漏れて。

 

 寂しいと言って。

 

 外にいると置いていかれている感じがすると言って。

 

 それでも翌朝には、こうして普段通りの顔で椅子に座る。

 

 それが回復に見える。

 

 けれど、セレスには少し違って見えた。

 

 普段通りに戻ったのではない。

 

 普段通りという形に、戻ろうとしている。

 

     ◇

 

 レオンは、いつもの窓際に立っていた。

 

 昨日は部屋の入口近く、椅子一個分の距離にいた。

 

 今日は食堂。

 

 人がいる。

 

 朝の光がある。

 

 だから、いつもの位置に戻った。

 

 そのつもりだった。

 

 ルシェルがちらりとこちらを見る。

 

 ほんの一瞬。

 

 すぐに視線をパンへ戻す。

 

「レオン、今日は窓際復帰?」

 

「ああ」

 

「配置転換、早い」

 

「食堂だからな」

 

「なるほど。食堂では窓際勤務」

 

 軽い声。

 

 冗談。

 

 いつものルシェル。

 

 だが、レオンは気づいた。

 

 その視線が、ほんの少しだけ遅れて離れたことに。

 

 昨日なら口に出ていたはずの言葉が、今日は出てこないことに。

 

 本当は少し寂しい。

 

 そう言えなくなっただけだ。

 

 治った、ということは。

 

 隠せるようになった、ということでもある。

 

 レオンは胸の奥が重くなるのを感じた。

 

 昨日の言葉を、必要な分だけ覚える。

 

 そう約束した。

 

 必要な分だけ。

 

 なら、これは覚えておくべきことだ。

 

 ルシェルが軽口を言っている時でも、軽いとは限らない。

 

     ◇

 

 クラウスは、収束後支援体制案の追加欄を書いていた。

 

『発話抑制回復後も、本人が普段通りに振る舞う可能性あり。

 軽口の回復をもって、心理的負担の消失と判断しないこと。』

 

 筆を止める。

 

 少し考え、最後の一文を加える。

 

『普段通りは、状態ではなく努力である場合がある。』

 

 書いてから、クラウスは眉間を押さえた。

 

 感傷的すぎる。

 

 書類としては少し硬さが足りない。

 

 だが、消さなかった。

 

 昨日のルシェルは、本音が漏れることを怖がっていた。

 

 今日は、本音が漏れないことに安心している。

 

 その安心を奪ってはいけない。

 

 だが、漏れなくなったからといって、無くなったわけではない。

 

 クラウスは紙を伏せた。

 

 記録とは、暴くためのものではない。

 

 必要な時に、見落とさないためのものだ。

 

     ◇

 

 白環記録庫から、礼状の追加写しが届いた。

 

 ミーナの文字。

 

 その末尾には、エルヴィンの追記があった。

 

『本音瘴気症時の発話は証言扱い不可。

 ただし、支援上の参考として、本人の尊厳を損なわない範囲で扱うこと。

 なお、症状消失後に本人が普段通りであっても、前日の発話をなかったことにしないこと。』

 

 セレスは、それを読んで黙った。

 

 エルヴィンらしい硬い文だった。

 

 謝罪も、慰めもない。

 

 けれど、そこには明確な線が引かれている。

 

 なかったことにしない。

 

 利用もしない。

 

 笑い話にもしない。

 

 本人を責める材料にもしない。

 

 残す。

 

 しかし、晒さない。

 

「形式の鬼、今日も仕事してる」

 

 ルシェルが横から紙を覗き込み、そう言った。

 

 いつもの調子だった。

 

 セレスは紙を閉じる。

 

「読む?」

 

「読みません。昨日のボクは機密文書なので」

 

「そうね」

 

「でも、たぶん守ってくれてる気配がする」

 

「ええ。守ってくれているわ」

 

 ルシェルは少し照れたように視線を逸らした。

 

「形式味方、増築中」

 

 そう言って、茶を飲む。

 

 普通の顔をしている。

 

 けれど、セレスは思った。

 

 この子は、守られていることを分かるたびに、少し恥ずかしそうにする。

 

 まるで、守られること自体に許可が必要みたいに。

 

     ◇

 

 昼過ぎ。

 

 ルシェルは保留箱ver2の設計図を見ていた。

 

 レオンが簡単な木箱の案を描き、クラウスが仕切りを提案し、ガルドが「頑丈にしろ」とだけ書いた。

 

 セレスは布を敷く案を出した。

 

 ルシェルはそれを見て、真剣に頷く。

 

「これはもう、保留箱というより小規模記録庫」

 

 クラウスが言う。

 

「君の持ち物が増えたからな」

 

「白環記録庫の小型版」

 

「燃やさない」

 

「それ大事」

 

 ルシェルは笑った。

 

 軽く。

 

 いつも通り。

 

 だが、クラウスは設計図の端に置かれた小さな文字に気づいた。

 

 ルシェルが無意識に書いたらしい。

 

『椅子一個分』

 

 箱の寸法ではない。

 

 仕切りの幅でもない。

 

 ただ、紙の端に小さく書かれた距離。

 

 昨日、レオンを部屋に入れた距離。

 

 近すぎず、遠すぎず。

 

 中にいるけれど、侵入ではない距離。

 

 クラウスは何も言わなかった。

 

 消しもしなかった。

 

 その文字を見なかったことにするのではなく、騒がないことにした。

 

     ◇

 

 ガルドは、ルシェルがいつも通り食べていることを見ていた。

 

 量は少し少ない。

 

 だが、食べている。

 

 冗談も言っている。

 

 ならば、今はそれでいい。

 

 そう思う。

 

 けれど昨日、ルシェルは言った。

 

 ガルドの「食え」が、帰る場所みたいになっている、と。

 

 本人は恥ずかしがっていた。

 

 だが、ガルドは忘れなかった。

 

 食わせることは、腹を満たすだけではない。

 

 戻ってこいと言うことだ。

 

 ここに座れ。

 

 口を動かせ。

 

 飲み込め。

 

 明日も同じことをしろ。

 

 そういう、短い約束だ。

 

 だからガルドは、今日も皿を置いた。

 

「食え」

 

 ルシェルは半目で見る。

 

「本家、台詞が一文字も変わらない」

 

「変えん」

 

「安心の固定台詞」

 

「そうだ」

 

 ルシェルは少し笑って、スープを飲んだ。

 

 ガルドはそれを見て、ただ頷いた。

 

 よし。

 

 その一言を、今日は口に出さなかった。

 

 出すと、ルシェルが照れる気がしたからだ。

 

     ◇

 

 夕方。

 

 レオンは、ルシェルの部屋の前に立った。

 

 いつもの廊下。

 

 いつもの距離。

 

 だが、今日は少し違う。

 

 扉は少しだけ開いていた。

 

 細い隙間。

 

 中からルシェルの声。

 

「レオン」

 

「ああ」

 

「今日は、外でいいです」

 

 レオンは頷いた。

 

「分かった」

 

 少し沈黙。

 

「でも、遠くはだめ」

 

「分かった」

 

 また沈黙。

 

「昨日のこと、全部は覚えないで」

 

「ああ」

 

「でも、必要な分は」

 

「覚えている」

 

 扉の向こうで、布が擦れる音がした。

 

「それ、やっぱりずるい」

 

「そうか」

 

「そうです」

 

 声は軽い。

 

 普段通り。

 

 けれど、レオンには分かった。

 

 この会話は、ルシェルにとって精一杯の調整なのだと。

 

 外でいい。

 

 遠くはだめ。

 

 覚えすぎないで。

 

 忘れないで。

 

 矛盾ではない。

 

 怖さと安心が、同じ場所にあるだけだ。

 

「ここにいる」

 

 レオンは言った。

 

 昨日は禁止された言葉。

 

 今日は、少し間を置いてから扉の向こうで返事があった。

 

「今日は許可」

 

 その声に、レオンは静かに息を吐いた。

 

     ◇

 

 夜。

 

 ルシェルは小箱の前で、普段通り報告をした。

 

「今日の報告」

 

 保留猫。

 

 雨雫。

 

 後日回答の栞。

 

 収束報告。

 

 小瓶。

 

 そして、仮設計図。

 

「保留箱ver2、設計開始」

 

 声はいつも通り。

 

「本音瘴気症は、たぶん閉店しました」

 

 少し間。

 

「昨日の発言は、機密文書扱いです」

 

 廊下から、レオンの声。

 

「必要な分だけ覚える」

 

「よろしい」

 

 セレスが扉の外で言う。

 

「無理に聞かないわ」

 

「よろしい」

 

 ガルドが言う。

 

「食ったことは覚える」

 

「本家、それは覚えていい」

 

 クラウスが言う。

 

「記録は最低限にした」

 

「書類の人、よろしい」

 

 ルシェルは満足そうに頷いた。

 

 そして、いつも通り保留猫を抱いた。

 

「今日は、大丈夫寄り」

 

 その言葉を聞いて、外にいる全員が少しだけ黙った。

 

 大丈夫。

 

 ではなく。

 

 大丈夫寄り。

 

 その小さな差を、もう誰も聞き逃さなかった。

 

 セレスは扉の外で、目を伏せた。

 

 レオンは廊下の壁に背を預け、動かなかった。

 

 ガルドは食堂へ戻らず、少しだけその場に残った。

 

 クラウスは、記録紙に何も書かなかった。

 

 書かないことを選んだ。

 

 部屋の中で、ルシェルは普段通り布団に入る。

 

「明日は、もっと普通で」

 

 レオンが答える。

 

「そうだな」

 

「信用が薄い」

 

「努力する」

 

「はいはい」

 

 軽い声。

 

 普段通り。

 

 けれど、その普段通りが、どれほど細い足場の上に作られているのか。

 

 外にいる者たちは、もう知ってしまっている。

 

 だから誰も、安心しきらなかった。

 

 だから誰も、踏み込みすぎなかった。

 

 だから誰も、離れなかった。

 

 小箱の中で、雨雫が一度だけ鳴った。

 

 ぽたん。

 

 ルシェルは眠る。

 

 普段通りの顔で。

 

 廊下の外では、普段通りを守るための静かな見張りが、夜の終わりまで続いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。