TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第52話 蒼銀であろうとする子

 

 それは、収束報告が正式に棚へ収められた翌日のことだった。

 

 王都館の朝は、いつもより静かだった。

 

 事件が終わったあとの静けさ。

 

 水路の音が追ってこない静けさ。

 

 雨雫が小箱の中で眠っている静けさ。

 

 ルシェルは食堂で、焼き菓子を半分に割っていた。

 

「事件後の焼き菓子、無罪寄り」

 

 ガルドが頷く。

 

「食え」

 

「本家、判決が早い」

 

「無罪なら食える」

 

「有罪でも食べさせそう」

 

「場合による」

 

「場合によるんだ」

 

 セレスが茶を置いた。

 

「今日は少し眠そうね」

 

「眠そうなのは平常運転です」

 

「昨日は眠れた?」

 

「半分。夢に保留箱ver2の設計図が出た」

 

 クラウスが顔を上げる。

 

「仕切りは?」

 

「多すぎて迷宮化」

 

「それは改善が必要だな」

 

「書類の人、本気で受け取らないで」

 

 レオンは窓際にいた。

 

 近すぎず、遠すぎず。

 

 ルシェルはちらりと見て、すぐに茶へ視線を戻した。

 

「レオン、今日は窓際勤務継続」

 

「ああ」

 

「遠くはない」

 

「遠くはない」

 

「よろしい」

 

 軽い声だった。

 

 いつもの朝だった。

 

 少なくとも、そう見えた。

 

 だが、その静けさを破るように、王都館の正面扉が強く叩かれた。

 

     ◇

 

 来訪者は、貴族院の使者だった。

 

 ただし、白環記録庫ではない。

 

 ミーナでも、エルヴィンでもない。

 

 衣服は整っている。

 

 紋章入りの外套。

 

 背後に控える従者。

 

 声は丁寧。

 

 しかし、その丁寧さの奥に、薄い興奮があった。

 

 クラウスが玄関で応対した。

 

 レオンは一歩後ろに立つ。

 

 ガルドは壁際。

 

 セレスは階段の踊り場から状況を見ている。

 

 ルシェルは食堂にいるはずだった。

 

 だが、使者の声は館の中へよく通った。

 

「旧北門水路および第三石室の収束、誠に見事な成果でございました」

 

 クラウスは硬い声で返した。

 

「ありがとうございます。用件を伺います」

 

「北西区外縁にて、結界石の発光不全が確認されております。通常の浄化師団では対処に時間を要するとの見立てです」

 

 レオンの目が細くなった。

 

 クラウスも、紙を受け取らない。

 

「正式経路は」

 

「貴族院結界維持特別会より、王都館へ緊急要請でございます」

 

 その名を聞き、セレスの表情が変わった。

 

 白環記録庫でも、浄化師団でもない。

 

 結界維持特別会。

 

 収束報告のあと、蒼銀の運用価値に目をつけるには、あまりに分かりやすい名だった。

 

 使者は続ける。

 

「見習い浄化師ルシェル・ノア氏の蒼銀を、現地照合に用いたく存じます」

 

 クラウスが低く言う。

 

「本人への直接要請は禁止されています」

 

「承知しております。よって王都館を通しております」

 

「本人同意が必要です」

 

「もちろんです」

 

 使者は微笑んだ。

 

 その笑みが、どこか薄い。

 

「ですが、王都の結界が関わる事案です。先日の記録を拝見しました。蒼銀の小灯は、照明・照合・切り離し補助に有効。加えて、感情反応により出力が高まる可能性もあると」

 

 レオンの手が、剣の柄に近づいた。

 

 まだ抜かない。

 

 だが、そこにある。

 

 クラウスの声が冷える。

 

「その記録は、本人を安全に守るためのものです。出力を高めるための資料ではありません」

 

「承知しております。ですが、王都のためです」

 

 使者は、そこで少し声を低くした。

 

「館で遊ばせておくには、あまりに勿体ない力でしょう」

 

     ◇

 

 その言葉は、廊下の空気を裂いた。

 

 セレスが階段を下りた。

 

 ガルドが壁際から動いた。

 

 レオンが完全に前へ出た。

 

 クラウスは紙を閉じた。

 

 そして。

 

 食堂の入口に、ルシェルが立っていた。

 

 いつからいたのか。

 

 誰も気づかなかった。

 

 ルシェルは、いつもの顔をしていた。

 

 半目。

 

 少し眠そうな顔。

 

 薄い笑み。

 

「……遊んではいませんよ」

 

 声は軽かった。

 

 軽いのに、なぜか全員の背筋が冷えた。

 

 使者はルシェルを見る。

 

 一瞬、その目が変わった。

 

 人を見る目ではなかった。

 

 成果を見る目。

 

 石を見る目。

 

 蒼銀を見る目。

 

「これは失礼を」

 

 使者は形式的に頭を下げた。

 

「見習い浄化師ルシェル・ノア氏。先日の件、誠に見事でございました」

 

 ルシェルは小さく首を傾げる。

 

「ありがとうございます。たぶん」

 

 レオンが低く言う。

 

「戻れ」

 

 ルシェルはレオンを見ない。

 

「王都の結界石が不全なんですよね」

 

 クラウスが即座に言う。

 

「正式経路で精査してからだ」

 

「でも緊急要請」

 

「要請であって命令ではない」

 

 セレスが近づく。

 

「ルシェル、今ここで答えなくていいわ」

 

 ルシェルは微笑んだ。

 

「大丈夫。答えられます」

 

 その言い方が、普段通りすぎた。

 

 だからこそ、レオンはすぐに分かった。

 

 大丈夫ではない。

 

 ルシェルは軽く笑って、使者へ向き直る。

 

「ボクの蒼銀が役に立つなら、行きます」

 

 レオンが鋭く言った。

 

「行かせない」

 

 ルシェルは、そこで初めてレオンを見た。

 

 目が、少しだけ揺れていた。

 

「王都のためですよ」

 

「君を道具にする相手のために行く必要はない」

 

「でも、役に立つなら」

 

「役に立つかどうかで決めるな」

 

 その言葉に、ルシェルの笑みが固まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 そして、すぐに戻る。

 

「じゃあ、何で決めるんですか」

 

「君が行きたいかどうかだ」

 

 ルシェルは笑った。

 

 軽く。

 

 でも、音が乾いていた。

 

「行きたいかどうかで結界が保てるなら、王都すごいですね」

 

 セレスが息を呑む。

 

「ルシェル」

 

「だって、役に立つかどうかじゃないなら、ボクは何でここにいるんですか」

 

 声が少しだけ上がった。

 

 使者は目を細める。

 

 その表情には、困惑ではなく、納得があった。

 

 まるで望んだ反応を得たような顔。

 

「ご本人も、王都のために力を尽くすご意思がおありのようです」

 

 レオンが振り返り、鋭い目で使者を見た。

 

「黙れ」

 

 使者の顔が引きつる。

 

 だが、ルシェルが先に言った。

 

「黙らせないでください」

 

 廊下が静まった。

 

「言ってること、間違ってないです。館で遊ばせておくには勿体ない。そうでしょう。ボクもそう思います」

 

 セレスが顔色を変えた。

 

「違うわ」

 

 ルシェルは首を振った。

 

「違わないです」

 

     ◇

 

 その瞬間、ルシェルの髪が淡く光った。

 

 灰銀の髪の内側に、蒼銀が揺れる。

 

 毛先が水を受けたように光り、瞳の奥に、細い蒼が灯る。

 

 感情に反応した蒼銀。

 

 本人の意思より先に、胸の奥から滲み出た光。

 

 使者の目が、明らかに輝いた。

 

「やはり」

 

 その声が、ルシェルに届いた。

 

「先日の報告以上だ。感情反応でこれほど……やはり、これは王都の宝だ。館内で休ませておくだけではなく、適切に用いるべきです」

 

 宝。

 

 用いる。

 

 適切に。

 

 ルシェルの蒼銀が強くなる。

 

 瞳が光る。

 

 髪が、ふわりと浮いた。

 

 セレスが防護を張る。

 

 ガルドが使者との間に立つ。

 

 レオンがルシェルへ一歩近づく。

 

「ルシェル、聞くな」

 

 ルシェルは笑った。

 

「聞かなくても、分かってます」

 

 声が震えている。

 

「ボク、昨日の本音瘴気症で、出なくてよかったなって思ってたことがあるんです」

 

 レオンの顔が強張る。

 

 セレスが一歩止まる。

 

 クラウスが紙を握る手に力を込める。

 

「言わなくていい」

 

 セレスが静かに言う。

 

「今は言わなくていいわ」

 

 ルシェルは首を振る。

 

「言わなきゃ分からないでしょう」

 

「分かる」

 

 レオンが言った。

 

 ルシェルは、反射のように返した。

 

「分かるわけない」

 

 その言葉は、鋭かった。

 

 レオンが黙る。

 

 ルシェルの蒼銀がまた強くなる。

 

「役に立たないと、存在価値なんてない」

 

 言ってしまった。

 

 昨日、喉が壊れていても出なくてよかったと、心底思っていた本音。

 

 本当に隠していた場所。

 

 保留猫にも言っていない。

 

 雨雫にも言っていない。

 

 小箱にも入れていない。

 

 それが、廊下に落ちた。

 

「だから、役に立てるなら行く。蒼銀として必要なら、蒼銀でいればいい。そうじゃないなら、ボクがここにいる意味って何ですか」

 

 レオンが低く言う。

 

「君がいる意味は、役に立つことではない」

 

 ルシェルは即座に返す。

 

「じゃあ、何ですか。可哀想だから? 守りたいから? 壊れたから? 十五だから? 蒼銀が出るから?」

 

 言葉が止まらない。

 

 蒼銀が、髪から目へ、目から指先へ流れる。

 

 空気が震える。

 

「ボクが何もしなくていいって言われるの、優しくて、助かって、でも怖いんです。何もしなくていいなら、ボクは何でここにいていいんですか。食べて、寝て、守られて、廊下に誰か立たせて、書類で守ってもらって、箱まで作ってもらって、それで、何も返せないなら」

 

 セレスが言う。

 

「返すために生きているわけじゃない」

 

 ルシェルは反語のように笑った。

 

「じゃあ、もらうだけでいいんですか」

 

「いい時もあるわ」

 

「それ、すごく怖い」

 

 セレスの顔が歪む。

 

 ルシェルは止まらない。

 

「もらうだけの人間なんて、重いでしょう。邪魔でしょう。面倒でしょう。役に立たないのに守られるだけなら、そんなの」

 

 そこで言葉が詰まった。

 

 危うい方向へ行きかけた言葉を、本人が飲み込む。

 

 だが、飲み込んだこと自体を、全員が見た。

 

 レオンが、そこで完全に前へ出た。

 

「それ以上は言うな」

 

 ルシェルは涙目で睨んだ。

 

「命令ですか」

 

「違う」

 

「じゃあ何ですか」

 

「守るためだ」

 

「また守る!」

 

 蒼銀が弾けた。

 

 廊下の窓が青白く光る。

 

 ルシェルの髪が、淡い蒼銀を帯びて揺れた。

 

 瞳が、以前の暴走の時ほどではないが、明らかに人ならざる光を宿す。

 

 使者が息を呑んだ。

 

 恐怖ではない。

 

 感嘆だった。

 

「素晴らしい」

 

 その一言が、最悪だった。

 

     ◇

 

 ガルドが動いた。

 

 使者の前に立ち、壁のように塞ぐ。

 

「出ていけ」

 

 使者は顔を硬くする。

 

「私は正式な要請を」

 

「出ていけ」

 

 ガルドの声は、低く、短く、逃げ場がなかった。

 

 クラウスがすでに玄関へ向かい、使用人へ合図している。

 

「要請書は受理しません。本人負担大、誘導的発言あり、直接接触禁止違反に準じるとして、白環記録庫へ通報します」

 

「私は王都のために」

 

 エルヴィンがいれば、きっと冷たい声で言っただろう。

 

 だが、今それを言ったのはクラウスだった。

 

「王都の名で、十五の子を道具扱いするな」

 

 使者が言葉を失う。

 

 レオンはルシェルから視線を外さない。

 

 セレスも同じ。

 

 誰も、ルシェルを見せ物にしない。

 

 誰も、蒼銀の光に見惚れない。

 

 それでも、ルシェル自身は見てしまった。

 

 使者の目を。

 

 蒼銀を見た瞬間の、価値を見つけた目を。

 

 ああ、と。

 

 心のどこかで、納得してしまった。

 

 やっぱり、これなら役に立てる。

 

 これなら、ここにいていい理由になる。

 

 これなら、迷惑だけではない。

 

 蒼銀でいればいい。

 

 ルシェルではなく。

 

 見習いでもなく。

 

 十五の子でもなく。

 

 ただ、蒼銀でいれば。

 

「……ボク、行きます」

 

 レオンが息を止めた。

 

「行かせない」

 

「行きます」

 

「行かせない」

 

「王都のために役に立つなら!」

 

「君を壊して使う王都なら、守る価値はない」

 

 その言葉は、廊下に強く響いた。

 

 使者が目を見開く。

 

 クラウスも、セレスも、ガルドも、息を呑んだ。

 

 ルシェルだけが、泣きそうな顔で笑った。

 

「そんなこと言ったらだめですよ」

 

「言う」

 

「王都の人が困ってるかもしれないのに」

 

「君も困っている」

 

「ボクは後でいい!」

 

 叫びだった。

 

 蒼銀が揺れる。

 

 髪が光る。

 

 瞳の蒼が強くなる。

 

「ボクは後でいい。ボクはいつも後でいい。役に立てる時に役に立たないと、本当に何も残らない。守られてるだけのボクなんて、そんなの、そんなの」

 

 言葉が崩れる。

 

 ルシェルは一歩下がった。

 

 誰からも離れるように。

 

 壁際へ。

 

 ひとりになろうとする動き。

 

 レオンがすぐ気づいた。

 

「一人になるな」

 

 ルシェルは反射的に返す。

 

「一人にしてください」

 

「しない」

 

「重い!」

 

「重くていい」

 

「よくない!」

 

「君が消える方へ行くなら、よくないと言われても止める」

 

 ルシェルは肩を震わせた。

 

 蒼銀の光が、今度は痛いほど眩しくなる。

 

 セレスが静かに魔術防護を広げる。

 

 ガルドは使者を完全に玄関側へ追いやる。

 

 クラウスが使用人に命じ、使者を外へ出す。

 

 扉が閉まる直前、使者はまだ言った。

 

「その力を閉じ込めるおつもりか。王都の宝を」

 

 レオンが振り返らずに言った。

 

「宝ではない」

 

 ガルドが続ける。

 

「人だ」

 

 扉が閉まった。

 

     ◇

 

 使者が消えても、ルシェルの中の声は止まらなかった。

 

 外の声が消えたぶん、内側の声が大きくなる。

 

 役に立たなければ。

 

 存在価値がない。

 

 守られるだけなら。

 

 返せないなら。

 

 迷惑なら。

 

 蒼銀でいればいい。

 

 蒼銀なら価値がある。

 

 ルシェルではなく、蒼銀なら。

 

 その考えが渦を巻く。

 

 怖いのに、妙に分かりやすい。

 

 自分を責める言葉は、いつも道がはっきりしている。

 

 自分を許す言葉より、ずっと歩きやすい。

 

 ルシェルは自分の手を見た。

 

 蒼銀が灯っている。

 

 小灯ではない。

 

 面積勤務でもない。

 

 感情に反応して、手のひらから腕へ、髪へ、瞳へ、滲み出ている。

 

 綺麗だった。

 

 綺麗なのが嫌だった。

 

「ほら」

 

 ルシェルはかすれた声で言った。

 

「出るじゃないですか」

 

 レオンが近づく。

 

「出さなくていい」

 

「出せる」

 

「今は止める」

 

「止めたら、役に立たない」

 

「役に立たなくていい」

 

 その言葉に、ルシェルはひどく傷ついた顔をした。

 

「それ、怖いって言ったじゃないですか」

 

 レオンが止まる。

 

 セレスが一歩前へ出る。

 

「ルシェル。役に立たなくていい、は、価値がないという意味じゃないわ」

 

「でもそう聞こえる」

 

「違う」

 

「違わない!」

 

 取り乱した声。

 

 普段の軽口はもうない。

 

 涙が滲む。

 

 蒼銀が瞳の中で揺れる。

 

「役に立たなくてもいいって、優しい顔で言われると、じゃあ何でここに置いてるのって思う。ボクが何もしなくてもいいなら、ボクはいなくても同じなんじゃないかって思う。違うって言われても、そう聞こえる。聞こえちゃうんです」

 

 セレスの目に涙が浮かぶ。

 

 でも、近づきすぎない。

 

 いま近づけば、ルシェルは逃げる。

 

 だから、声だけを近づける。

 

「聞こえてしまうのね」

 

 ルシェルは肩を震わせる。

 

「そういう言い方、ずるい」

 

「そうね」

 

「受け止めないで」

 

「受け止めるわ」

 

「重い」

 

「今日は重くていい」

 

 ルシェルは首を振った。

 

「よくない。全部重い。みんな重い。ボクなんかに重くならないで」

 

 ガルドが低く言う。

 

「なんかじゃない」

 

 ルシェルは睨む。

 

「本家まで」

 

「なんかじゃない」

 

「短いのに逃げ場がない」

 

「逃がさん」

 

 ルシェルは泣きそうに笑った。

 

「みんな、ひどい」

 

     ◇

 

 クラウスは、玄関から戻ってきた。

 

 すでに白環記録庫へ緊急報告を送る手配をしている。

 

 だが、今は書類より先に、ここだった。

 

 彼は少し離れた位置で立ち止まった。

 

「ルシェル」

 

 ルシェルは視線を向けない。

 

「書類で守るのも、ボクが役に立つからでしょう」

 

 クラウスは即答しなかった。

 

 考えた。

 

 言葉を選んだ。

 

「違う」

 

「また違う」

 

「君が役に立つから守るなら、役に立たない日は守らないことになる」

 

 ルシェルの肩が少し跳ねた。

 

 クラウスは続ける。

 

「そんな運用はしない」

 

「運用で言わないで」

 

「すまない。だが、これは大事だ」

 

 クラウスの声は、いつも通り硬い。

 

 硬いから、崩れない。

 

「君を守る理由は、君がいるからだ。役割の有無ではない。蒼銀の出力でもない。記録上も、支援上も、王都館の判断としても、そこは変えない」

 

 ルシェルの蒼銀が、一瞬だけ弱まった。

 

 でも、すぐにまた揺れる。

 

「そんなの、理屈です」

 

「理屈でも残す」

 

「心が追いつかない」

 

「追いつかなくていい。先に紙を置いておく」

 

 ルシェルは苦しそうに笑った。

 

「書類の人、ずるい」

 

「ずるくてもいい」

 

     ◇

 

 その時、王都館の外で、馬車の音がした。

 

 白環記録庫からの返答にしては早すぎる。

 

 しかし、扉を叩く音が響く。

 

 クラウスが警戒しながら出る。

 

 そこにいたのは、ミーナだった。

 

 息を切らしている。

 

 後ろには若い書記。

 

 そして、少し遅れて、エルヴィン補佐官。

 

 エルヴィンはいつもの硬い顔で、だが明らかに急いできた様子だった。

 

「要請者は」

 

 開口一番、それだった。

 

 クラウスが答える。

 

「退出させました」

 

「所属は」

 

「結界維持特別会。誘導的発言あり。本人前で蒼銀の利用価値を強調」

 

 エルヴィンの顔が、冷えた。

 

「記録したか」

 

「最低限は」

 

「詳細は後でよい。今は本人保護を優先する」

 

 その声が廊下まで届く。

 

 ルシェルは、蒼銀を揺らしたまま、顔を上げた。

 

「本人保護」

 

 エルヴィンが廊下へ入ってきた。

 

 ルシェルからは十分距離を取る。

 

 いつもの、遠い席よりさらに遠い距離。

 

 だが、視線は逸らさない。

 

「ルシェル・ノア氏」

 

 ルシェルは笑った。

 

「蒼銀じゃなくて?」

 

「ルシェル・ノア氏」

 

「見習い浄化師?」

 

「それも君の肩書きだが、今は不要だ」

 

 ルシェルは息を詰めた。

 

 エルヴィンは紙を一枚取り出した。

 

 すでに書かれている。

 

 早い。

 

 あまりに早い。

 

「結界維持特別会からの緊急要請は、白環記録庫権限において差し止める」

 

 使者がもういなくても、言葉は廊下に強く響いた。

 

「理由。本人への心理的誘導。蒼銀を人員から切り離した資源として扱う発言。収束後支援条件の無視。本人同意の前提を損なう接触」

 

 ルシェルの蒼銀が、少し弱まる。

 

 エルヴィンは続ける。

 

「補足。王都結界維持の必要性は、十五の子を消耗させる理由にならない」

 

 ルシェルは目を見開いた。

 

 十五の子。

 

 蒼銀ではなく。

 

 見習い浄化師でもなく。

 

 十五の子。

 

「補佐官」

 

 ミーナが小さく声を震わせた。

 

 エルヴィンは紙を下ろさない。

 

「さらに、本件を機に、蒼銀使用要請の新規条件を作成する。本人同意だけでは足りない。要請者側の発言制限、目的限定、撤回権、同席者の中止権、終了後支援を必須とする」

 

 ルシェルは、うまく息ができなかった。

 

「でも」

 

 声がかすれる。

 

「でも、王都のために必要なら」

 

 エルヴィンは即答した。

 

「必要なら、なおさら手続きが要る」

 

「手続き」

 

「そうだ。必要を理由に人を壊す者は、必ず急がせる。必ず価値を語る。必ず本人の罪悪感を利用する」

 

 その言葉は、鋭かった。

 

 ルシェルの胸に刺さる。

 

 使者ではなく、自分自身の声にも刺さる。

 

「君が『役に立つなら』と言った時点で、こちらは止めるべきだった」

 

 エルヴィンは、ほんのわずかに目を伏せた。

 

「遅れた」

 

 謝罪ではない。

 

 それでも、認めた。

 

 ルシェルの蒼銀が、また揺れる。

 

「止めないでください」

 

 声が子どもみたいになっていた。

 

「止めたら、本当に何もできない」

 

 レオンが言う。

 

「今は何もしないでいい」

 

 ルシェルは反射的に叫ぶ。

 

「それが怖い!」

 

 廊下が震える。

 

 蒼銀がまた強くなる。

 

 髪が光る。

 

 瞳が青く揺れる。

 

「何もしないでいいって言われると、消えていいって言われてるみたいに聞こえる!」

 

 言った瞬間、全員が固まった。

 

 ルシェルも固まった。

 

 しまった。

 

 それも、本当だった。

 

 昨日出なくてよかった本音の、さらに奥。

 

 危うい言葉。

 

 具体的な何かではない。

 

 でも、自分の存在を否定する方向へ落ちる言葉。

 

 ルシェルは、両手で口を押さえた。

 

「違う」

 

 涙が零れる。

 

「違う、今のは、違う」

 

 セレスが震える声で言う。

 

「違わなくていい」

 

「よくない!」

 

「言えたなら、止められる」

 

 レオンが一歩近づく。

 

「一人にしない」

 

 ルシェルは首を振る。

 

「一人にしてください」

 

「しない」

 

「お願いです」

 

「しない」

 

「ひどい」

 

「ひどくていい」

 

 レオンの声は低い。

 

 揺れない。

 

「君が自分を消す方へ行くなら、俺はひどくていい」

 

 ルシェルは泣いた。

 

 泣きながら、蒼銀を出している。

 

 髪が光り、瞳が光り、涙まで青白く見える。

 

 綺麗だった。

 

 でも、誰も綺麗だと言わなかった。

 

 誰も価値を見なかった。

 

 ただ、ルシェルを見ていた。

 

     ◇

 

 セレスがゆっくり膝をついた。

 

 距離を取ったまま。

 

「ルシェル、蒼銀を止めようとしなくていいわ」

 

 ルシェルが顔を上げる。

 

「止めないと」

 

「今、止めることまで頑張らなくていい」

 

「でも、暴れる」

 

「暴れないように、私たちが外側を持つ」

 

「外側?」

 

 リーネも呼ばれていた。

 

 いつの間にか到着していた彼女が、結界具を床に置く。

 

「蒼銀を抑え込むのではなく、館の中で安全に揺らせるようにします」

 

 クラウスがすぐ理解する。

 

「出さない成功ではなく、出たまま保護する?」

 

「はい」

 

 ルシェルは震える。

 

「迷惑」

 

 ガルドが即答する。

 

「迷惑ではない」

 

「迷惑です」

 

「違う」

 

「違わない!」

 

 ガルドは短く言う。

 

「仕事だ」

 

 ルシェルが固まる。

 

 ガルドは続けた。

 

「食わせるのも、壁になるのも、戻すのも、仕事だ」

 

「そんな仕事」

 

「俺が決めた」

 

 ルシェルは言葉を失った。

 

 ガルドの言葉はいつも短い。

 

 短いから、逃げられない。

 

 セレスが柔らかく続ける。

 

「私がそばにいるのも、私が選んでいることよ」

 

 クラウスが言う。

 

「記録するのも、守る紙を作るのも、私が選んでいる」

 

 ミーナが、震える声で言う。

 

「残すのも、晒さないのも、私が選んでいます」

 

 エルヴィンが硬く言う。

 

「差し止めるのは、こちらの責任だ」

 

 レオンが最後に言った。

 

「君を守るのは、俺が選んだ」

 

 ルシェルは、崩れそうな顔で笑った。

 

「みんな、勝手」

 

「そうだ」

 

 レオンが答える。

 

「勝手に守る」

 

「重い」

 

「軽くしない」

 

「ひどい」

 

「ひどくていい」

 

 ルシェルは泣きながら、両手で顔を覆った。

 

 蒼銀の光が少しずつ弱まっていく。

 

 抑えたのではない。

 

 周りに受け止められた分、暴れなくなっていく。

 

     ◇

 

 それでも、負の渦は簡単には消えなかった。

 

 ルシェルは階段の方へふらりと動いた。

 

 部屋へ戻る。

 

 ひとりになろうとする。

 

 レオンがすぐに前へ出る。

 

「部屋には戻っていい」

 

 ルシェルは顔を上げる。

 

「なら」

 

「一人にはしない」

 

 また、その言葉。

 

 ルシェルは涙で濡れた目で睨む。

 

「部屋の外ならいいんでしょ」

 

「今日は中か、扉を開けたままだ」

 

「嫌です」

 

「今日は譲れない」

 

「ボクの部屋なのに」

 

「そうだ。だから入るなら許可を取る。だが、一人にはしない」

 

 ルシェルは息を荒げる。

 

「許可しません」

 

「では扉を開けたまま、外にいる」

 

「見られるの嫌」

 

「見ない」

 

「聞こえるの嫌」

 

「必要な音だけ聞く」

 

「ずるい」

 

「ずるくていい」

 

 ルシェルはそこで力尽きたように、階段の手すりに寄りかかった。

 

「椅子一個分」

 

 小さく言った。

 

 レオンがすぐ頷く。

 

「分かった」

 

「入口。椅子一個分。重い顔禁止」

 

「分かった」

 

「守護神禁止」

 

「努力する」

 

「信用が薄い」

 

 それは、いつもの言葉だった。

 

 崩れた中から、細い普段通りが戻ってきた。

 

 セレスが泣きそうになりながら微笑む。

 

「私も、入口まででいい?」

 

 ルシェルは顔を伏せたまま言った。

 

「セレスは、声が優しいから困る」

 

「今日は困っていいわ」

 

「ひどい」

 

「うん」

 

 ガルドが言う。

 

「スープを持っていく」

 

「食べられない」

 

「持て」

 

 ルシェルは小さく笑って、また泣いた。

 

「本家、持て理論」

 

「持て」

 

     ◇

 

 ルシェルの部屋。

 

 扉は開いている。

 

 レオンは入口から椅子一個分の場所。

 

 セレスは扉の外。

 

 ガルドは廊下にスープを置いた。

 

 クラウスは書類を閉じて、少し離れた場所。

 

 ミーナと若い書記は王都館の応接に控え、エルヴィンは玄関側で差し止め手続きを進めている。

 

 ルシェルは布団の端に座っていた。

 

 髪にはまだ、淡い蒼銀が残っている。

 

 瞳にも、光が揺れている。

 

 でも、先ほどほど強くない。

 

 雨雫は小箱の中で、静かに光っている。

 

 保留猫。

 

 後日回答の栞。

 

 収束報告。

 

 第三石の小瓶。

 

 全部がそこにある。

 

 ルシェルは小箱を見た。

 

「今日の報告、無理」

 

 レオンが言う。

 

「しなくていい」

 

「役に立たない」

 

「報告しなくてもいい」

 

「それが怖い」

 

「ああ」

 

 否定しない。

 

 怖いままで受ける。

 

 ルシェルは膝を抱えた。

 

「役に立たないと、存在価値がないって思ってる」

 

 今度は、声が少し静かだった。

 

 叫びではない。

 

 吐き出すような声。

 

「昨日、出なくてよかったと思ってた。こんなの言ったら、みんな困るから。重いから。面倒だから」

 

 セレスが扉の外で言う。

 

「困ってもいいの」

 

「よくない」

 

「困ることと、嫌になることは違うわ」

 

 ルシェルは首を振る。

 

「分からない」

 

「今は分からなくていい」

 

 クラウスが静かに言う。

 

「先に紙にする」

 

 ルシェルは少しだけ笑う。

 

「また紙」

 

「君の心が追いつかない時に、先に置いておく」

 

 クラウスは一枚の紙を床に置いた。

 

 近づきすぎない距離。

 

 そこには、短く書かれていた。

 

『本日の仮記録。

 ルシェル・ノア氏は、蒼銀としてではなく、本人として保護対象。

 役に立つか否かを、存在価値の判断に用いない。

 本人がそう感じている場合も、その感じ方を理由に利用しない。

 一人にしない。

 ただし、本人の距離指定を尊重する。』

 

 ルシェルはそれを読んだ。

 

 涙がまた落ちた。

 

「存在価値とか、紙に書くと恥ずかしい」

 

 クラウスは言う。

 

「晒すためではない。忘れないためだ」

 

「忘れてほしい」

 

 レオンが静かに言う。

 

「必要な分だけ覚える」

 

 昨日の言葉。

 

 ルシェルは顔を覆った。

 

「必要な分、多すぎ」

 

「少しずつでいい」

 

「ずるい」

 

「ああ」

 

     ◇

 

 夜に近づく頃。

 

 蒼銀はようやく収まった。

 

 完全に消えたわけではない。

 

 髪の内側に、まだ微かな光が残る。

 

 瞳も、少しだけ蒼い。

 

 感情の余熱。

 

 リーネはそれを確認し、低い声で言った。

 

「無理に消さなくて大丈夫です。今は残光です」

 

 ルシェルはぼんやり返す。

 

「残業みたい」

 

 セレスが少し笑う。

 

「残光よ」

 

「蒼銀、残業禁止」

 

 ガルドがスープを差し出す。

 

「食え」

 

「まだ?」

 

「持てから食えへ」

 

「段階支援」

 

 ルシェルは椀を受け取った。

 

 食べられるかは分からない。

 

 でも、持った。

 

 ガルドは頷く。

 

「よし」

 

「よし許可」

 

 小さな軽口が戻った。

 

 全員が、少しだけ息を吐いた。

 

 だが、安心しきらない。

 

 今日、出た言葉は重かった。

 

 役に立たないと存在価値がない。

 

 何もしなくていいが、消えていいに聞こえる。

 

 蒼銀であろうとする。

 

 ひとりになろうとする。

 

 それを聞いてしまったからには、もう「普段通り」にだけ戻すことはできない。

 

 戻すのではなく、支える形を変える必要がある。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 王都館に、白環記録庫から正式通達が届いた。

 

 エルヴィンの硬い字だった。

 

『結界維持特別会による本日の要請を差し止め。

 当該会派には、見習い浄化師ルシェル・ノア氏への接触禁止を通達。

 蒼銀使用要請の新規基準を作成するまで、全ての直接・間接要請を凍結。

 違反時、貴族院記録局および王都結界局への正式申し立て対象とする。』

 

 さらに、別紙。

 

『補足。

 本人が「役に立つなら」と発言した場合、同意確認として扱わないこと。

 罪悪感・存在価値不安に基づく同意は、自由な同意ではない。

 本人保護を優先する。』

 

 クラウスはそれを読み上げた。

 

 部屋の中で、ルシェルは布団を抱えていた。

 

 レオンは椅子一個分の距離。

 

 セレスは扉の外。

 

 ガルドは廊下。

 

 ルシェルは小さく言う。

 

「形式の鬼、強い」

 

 クラウスが頷く。

 

「強いな」

 

「ボクの『役に立つなら』、無効化された」

 

 レオンが言う。

 

「助かる」

 

 ルシェルは少しだけ睨む。

 

「本味方、本人の台詞を無効化して喜ばないで」

 

「利用されるくらいなら、無効でいい」

 

「ひどい」

 

「ひどくていい」

 

 ルシェルは、疲れた顔で笑った。

 

「今日、その言葉多い」

 

「必要だ」

 

「必要、多用」

 

 セレスが柔らかく言う。

 

「今日はもう、考えるのを後日にしましょう」

 

 ルシェルは後日回答の栞を見る。

 

「後日回答」

 

「ええ」

 

「存在価値部署も?」

 

「後日回答」

 

「役に立たないと怖い部署も?」

 

「後日回答」

 

「蒼銀でいなきゃいけない部署も?」

 

「後日回答」

 

 ルシェルは少し黙る。

 

 そして、震える声で言った。

 

「ひとりになりたい部署は?」

 

 レオンが答える。

 

「保留」

 

 セレスが続ける。

 

「でも、安全確認つき」

 

 ガルドが言う。

 

「扉は開ける」

 

 クラウスが言う。

 

「距離指定は尊重」

 

 ルシェルは布団に顔を埋めた。

 

「周囲ver2、会議済みみたいに返す」

 

 レオンが静かに言う。

 

「今決めた」

 

「即席支援会議」

 

 少しだけ、笑えた。

 

     ◇

 

 小箱の前に、今日は何も置かなかった。

 

 ルシェルはまだ、報告できない。

 

 でも、クラウスの仮記録紙だけは、机の上に置いた。

 

 近くに。

 

 すぐ読める場所に。

 

 そこに書かれている。

 

 役に立つか否かを、存在価値の判断に用いない。

 

 本人がそう感じている場合も、その感じ方を理由に利用しない。

 

 ルシェルはその文字を見た。

 

 信じられない。

 

 でも、紙はある。

 

 心が追いつかない時、先に紙を置いておく。

 

 書類の人の、ずるい優しさ。

 

「……今日の報告は、後日回答」

 

 レオンが頷く。

 

「受理する」

 

「エルヴィン補佐官みたい」

 

「そうか」

 

「うん」

 

 ルシェルは布団に横になる。

 

 髪の蒼銀が、まだ微かに光っている。

 

 レオンは入口の椅子にいる。

 

 重い顔は禁止されているので、できるだけ普通の顔をしている。

 

 あまり成功していない。

 

 ルシェルはそれを横目で見た。

 

「レオン」

 

「ああ」

 

「重い顔、六割出てる」

 

「すまない」

 

「四割にして」

 

「努力する」

 

「信用が薄い」

 

 それは、いつものやり取りだった。

 

 でも、今日はその下に、深い傷がある。

 

 誰もそれをなかったことにはしない。

 

 誰も、今すぐ治せるとも言わない。

 

 ただ、扉を閉めきらない。

 

 ひとりにしない。

 

 役に立てと急がせない。

 

 蒼銀ではなく、ルシェル・ノアを見る。

 

 それだけを、夜の中で何度も選び直す。

 

 小箱の中で、雨雫が一度だけ鳴った。

 

 ぽたん。

 

 ルシェルは目を閉じた。

 

 今日の音は、少しだけ怖かった。

 

 でも、部屋の入口に、椅子一個分の距離で誰かがいる。

 

 だから、その怖さも。

 

 ひとまず、後日回答にできた。

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