TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第53話 蒼銀ではなく、十五の子

 

 後から思い返すと、その朝のルシェルは、普段通りだった。

 

 ガルドのパンに軽口を返し、セレスの茶に礼を言い、クラウスの書類へ半目を向け、レオンの立ち位置に文句をつける。

 

 どれも、いつものことだった。

 

 いつものことだったからこそ、レオンは見逃しかけた。

 

 焼き菓子を割る指が、少し遅かったこと。

 

 窓際へ向けた視線が、いつもより短かったこと。

 

 笑う前に、ほんの一瞬だけ息を止めていたこと。

 

 昨日の本音瘴気症は治まった。

 

 なら、もう言わなくて済む。

 

 寂しいとも、安心するとも、守られているのに置いていかれたようだとも。

 

 そうしてルシェルは、また自分で自分を閉じた。

 

 そのことに、レオンは気づくべきだった。

 

 けれど、扉が叩かれた。

 

 強く、硬く、礼儀正しい音で。

 

     ◇

 

 使者が王都館に入った瞬間、セレスは嫌なものを感じた。

 

 瘴気ではない。

 

 殺意でもない。

 

 もっと整っていて、もっと丁寧で、もっと扱いにくいもの。

 

 善意の顔をした利用。

 

 王都のため、という言葉を前に置けば、その後ろに何を置いても許されると思っている種類の気配。

 

 使者はよく整った服を着ていた。

 

 靴の泥も少ない。

 

 声も丁寧だった。

 

 頭も下げる。

 

 しかし、彼は王都館に入ってから一度も、ルシェルを探す目をしていなかった。

 

 蒼銀を探す目をしていた。

 

 その違いは、決定的だった。

 

「旧北門水路および第三石室の収束、誠に見事な成果でございました」

 

 言葉だけなら礼だ。

 

 けれど、セレスには、その礼がルシェル本人に向いていないことが分かった。

 

 彼が称えているのは、出力。

 

 結果。

 

 記録された有用性。

 

 本人同意のもと、小灯として使った蒼銀。

 

 終了成功。

 

 その一文の、成功だけを抜き取る目。

 

 そこに至るまで、どれほどの恐怖と制御があったか。

 

 蒼銀を灯して、畳んで、閉じるまで、十五の子がどれほど息を詰めていたか。

 

 その部分に、使者は興味がなかった。

 

     ◇

 

 クラウスは、使者の要請書を受け取らなかった。

 

 それは直感ではない。

 

 手続き上の判断だった。

 

 差出部署が白環記録庫ではない。

 

 浄化師団経由でもない。

 

 王都結界局の正式照会印もない。

 

 貴族院結界維持特別会。

 

 名は重い。

 

 だが、重い名ほど、紙の筋を確認しなければならない。

 

「本人への直接要請は禁止されています」

 

 クラウスは淡々と言った。

 

 その瞬間、使者の笑みがわずかに硬くなった。

 

「承知しております。よって王都館を通しております」

 

 言葉は正しい。

 

 けれど、正しさを装った抜け道だった。

 

 王都館を通せばよい。

 

 本人同意と言わせればよい。

 

 本人が「役に立つなら」と言えば、あとは同意として扱える。

 

 その筋道が、使者の後ろに透けて見えた。

 

 クラウスは、昨日自分が書いた紙を思い出した。

 

『普段通りは、状態ではなく努力である場合がある。』

 

 そして、その努力をしている相手に向かって、使者は言った。

 

「館で遊ばせておくには、あまりに勿体ない力でしょう」

 

 その瞬間、クラウスは自分の手が冷えるのを感じた。

 

 これは要請ではない。

 

 選別だ。

 

 人から役割だけを抜き取る言葉だ。

 

     ◇

 

 レオンが最初に見たのは、使者ではなかった。

 

 ルシェルだった。

 

 食堂の入口に立っている。

 

 いつの間に来たのか分からない。

 

 足音がなかった。

 

 顔は普段通り。

 

 その普段通りが、異様だった。

 

「……遊んではいませんよ」

 

 軽い声。

 

 軽すぎる声。

 

 レオンの胸の奥で、何かが沈んだ。

 

 ルシェルは傷つく時、声を軽くする。

 

 怖い時、笑う。

 

 耐えられない言葉を聞いた時ほど、相手の言葉を否定するのではなく、自分を合わせようとする。

 

 それを、レオンはもう知っていた。

 

 だが、止めるより先に使者がルシェルを見た。

 

 蒼銀を見る目で。

 

 その目を、ルシェルも見た。

 

 見てしまった。

 

 レオンは、その一瞬を後悔することになる。

 

     ◇

 

 ガルドは、難しい言葉が好きではない。

 

 王都のため。

 

 結界維持。

 

 特別会。

 

 緊急要請。

 

 そういう言葉は、重そうに見えて、時々ひどく軽い。

 

 目の前の一人を押し潰す時に、便利に使われる。

 

 だからガルドは、ルシェルの顔を見ていた。

 

 食べているか。

 

 立てているか。

 

 息をしているか。

 

 目がどこを向いているか。

 

 使者が「勿体ない」と言った時、ルシェルの顔から血の気が引いた。

 

 だが、次の瞬間には戻った。

 

 戻したのだ。

 

 自分で。

 

 そして、ルシェルは言った。

 

「ボクの蒼銀が役に立つなら、行きます」

 

 ガルドは、拳を握った。

 

 これはルシェルの意思ではない。

 

 いや、意思ではある。

 

 だが、安全な場所から出た意思ではない。

 

 腹を空かせた子に、食べ物をちらつかせて走らせるようなものだ。

 

 役に立てる。

 

 必要とされる。

 

 価値がある。

 

 ルシェルが一番飢えている場所に、使者は言葉を置いた。

 

 だから、ガルドは壁になった。

 

 難しいことは後でいい。

 

 まず、この使者をルシェルの視界から消す。

 

     ◇

 

 セレスは、ルシェルの髪に蒼銀が滲んだ瞬間、息が止まりそうになった。

 

 綺麗だった。

 

 とても綺麗だった。

 

 だからこそ、恐ろしかった。

 

 灰銀の髪の内側に、蒼い光が走る。

 

 瞳の奥に、夜明け前の水面のような色が灯る。

 

 頬にかかる髪先まで、薄く輝く。

 

 それは、奇跡のように見えた。

 

 使者が見たのも、それだった。

 

 使える奇跡。

 

 価値ある奇跡。

 

 館で休ませておくには勿体ない奇跡。

 

 けれどセレスが見たのは、光ではなかった。

 

 光った瞬間、ルシェルの肩が小さく震えたこと。

 

 瞳の蒼が強くなるほど、本人の目が泣きそうになっていったこと。

 

 綺麗になるほど、ルシェル自身が遠くへ行こうとしていたこと。

 

 まるで、光れば光るほど「ルシェル・ノア」が薄くなり、「蒼銀」だけになっていくようだった。

 

 セレスは、それが怖かった。

 

 蒼銀が暴走することではない。

 

 ルシェルが、自分から蒼銀になろうとすることが怖かった。

 

     ◇

 

「役に立たないと、存在価値なんてない」

 

 その言葉が出た時、廊下の空気が止まった。

 

 誰もすぐには返せなかった。

 

 あまりに真っ直ぐで。

 

 あまりに深くて。

 

 あまりに、ルシェルが普段隠しているものそのものだった。

 

 レオンは、胸の内側を掴まれたような痛みを覚えた。

 

 昨日の本音瘴気症。

 

 寂しい。

 

 安心する。

 

 部屋に少し入ってほしい。

 

 そういう言葉が漏れて、ルシェルは恥ずかしがっていた。

 

 けれど、出なくてよかった本音があったのだ。

 

 もっと奥に。

 

 もっと暗い場所に。

 

 役に立たないと、存在価値がない。

 

 それを抱えたまま、ルシェルは昨日も笑っていた。

 

 保留箱の話をしていた。

 

 ミルの話をしていた。

 

 水路退勤と軽口を言っていた。

 

 レオンは、自分が何を見ていなかったのかを思い知った。

 

 見ていたつもりだった。

 

 守っているつもりだった。

 

 近すぎず、遠すぎず。

 

 椅子一個分。

 

 必要な分だけ覚える。

 

 けれど、ルシェルの中には、まだ誰にも渡していない刃があった。

 

 そして、その刃を、使者の言葉が握らせた。

 

     ◇

 

 ミーナが王都館へ着いた時、廊下の空気はまだ蒼く揺れていた。

 

 彼女は一瞬、足を止めた。

 

 美しい、と思ってはいけない。

 

 そう直感した。

 

 蒼銀の光を美しいと感じること自体は、罪ではないかもしれない。

 

 けれど今ここで、それを最初に感じてはいけない。

 

 見るべきは光ではない。

 

 その中心で、泣きながら立っている十五の子だ。

 

 ルシェルの髪は蒼銀を帯び、瞳は淡く光っていた。

 

 だが、表情はひどく幼かった。

 

 怒っている。

 

 怯えている。

 

 縋っている。

 

 離れようとしている。

 

 全部が同時に起きていた。

 

 ミーナは筆を持っていたが、書けなかった。

 

 書いてはいけないと思った。

 

 これは採取する場面ではない。

 

 記録は必要だ。

 

 だが、今この子の崩れた言葉を、証言として拾ってはいけない。

 

 その時、エルヴィンが言った。

 

「本人保護を優先する」

 

 ミーナは、ようやく息を吸った。

 

     ◇

 

 エルヴィンは、ルシェルの光を見た時、最初に怒りを覚えた。

 

 光にではない。

 

 この光を引き出した者に。

 

 そして、この光を見て価値を再確認した者に。

 

 収束報告を読めば、分かるはずだった。

 

 蒼銀小灯。

 

 本人同意。

 

 照明・照合・切り離し補助。

 

 終了成功。

 

 そこに至る条件が、どれだけ慎重に積まれていたか。

 

 距離指定。

 

 中止権。

 

 後日回答。

 

 退避路。

 

 食事まで含めた終了後支援。

 

 それらはすべて、蒼銀を使うための手順ではない。

 

 ルシェル・ノアを壊さないための手順だ。

 

 それを、結界維持特別会は読み違えた。

 

 あるいは、都合よく読み飛ばした。

 

 エルヴィンには、それが許せなかった。

 

 かつて自分も、紙の上の人間を、ただの処理対象として見た。

 

 だから分かる。

 

 この使者の過ちは、手続きのミスではない。

 

 人を資源として見る視線そのものだ。

 

 そしてそれは、放置すれば必ず繰り返される。

 

 エルヴィンは、その場で差し止め文を書いた。

 

 怒りで手が動いたのではない。

 

 怒りを紙に閉じ込めるために、手を動かした。

 

     ◇

 

 使者への処分は、その日のうちに始まった。

 

 まず、王都館から正式抗議が出された。

 

 差出人はクラウス。

 

 同席証言者として、レオン、セレス、ガルド、リーネ。

 

 白環記録庫からはミーナとエルヴィンが追認した。

 

 件名は冷たいものだった。

 

『見習い浄化師ルシェル・ノア氏に対する不適切接触および蒼銀資源化発言について』

 

 文面には、使者の発言が抜粋された。

 

『館で遊ばせておくには、あまりに勿体ない力』

 

『王都の宝』

 

『適切に用いるべき』

 

 ただし、ルシェルが取り乱して口にした本音は、一切証言として採用されなかった。

 

 エルヴィンが明確に線を引いた。

 

『本人が心理的誘導下で発した自己否定的言語は、事案の被害反応であり、同意・意思表明・証言として扱わない』

 

 その一文は、強かった。

 

 白環記録庫内でも議論になった。

 

 そこまで書く必要があるのか。

 

 本人の発言を除外してよいのか。

 

 しかしエルヴィンは退かなかった。

 

「除外ではない。保護だ」

 

 彼はそう言った。

 

「利用された発言を、さらに利用してどうする」

 

     ◇

 

 使者本人には、即日で王都館およびルシェルへの接触禁止が命じられた。

 

 貴族院結界維持特別会には、白環記録庫と王都結界局の合同監査が入ることになった。

 

 要請書の発出経路。

 

 誰が収束報告を閲覧したか。

 

 誰が蒼銀の感情反応に注目したか。

 

 誰が「本人同意」を得れば運用可能と判断したか。

 

 すべて洗い出される。

 

 使者は当初、抗弁した。

 

 王都のためだった。

 

 結界不全への対処が急がれた。

 

 本人も行く意思を示した。

 

 蒼銀は公共性の高い力である。

 

 しかし、その全てに対して、エルヴィンは同じ趣旨で返した。

 

『急を理由に、本人保護条件を省略することは認められない』

 

『心理的誘導下の「役に立つなら」は自由同意ではない』

 

『蒼銀の公共性は、本人の人格権を消す根拠にならない』

 

『十五の子を、王都の宝という名で資源化する発言は不適切』

 

 使者は、当面の職務停止。

 

 結界維持特別会から外され、調査完了まで要請業務への関与禁止。

 

 さらに、貴族院記録局での聴取対象となった。

 

 ただし、それは報復ではない。

 

 少なくとも、紙の上ではそう書かれた。

 

『本処分は報復ではなく、再発防止および本人保護のための暫定措置である』

 

 その硬い文面を見たミーナは、少しだけ泣きそうになった。

 

 硬さが、人を守ることもある。

 

 最近、彼女はそれを何度も見ている。

 

     ◇

 

 一方で、王都館の中では、処分よりも先に、ルシェルがいた。

 

 部屋の扉は閉めきられていない。

 

 椅子一個分の距離。

 

 入口にレオン。

 

 扉の外にセレス。

 

 廊下の少し先にガルド。

 

 書類室と廊下を行き来するクラウス。

 

 ルシェルは布団の端で、膝を抱えていた。

 

 髪にはまだ、蒼銀の残光がある。

 

 瞳にも、薄い光が残っていた。

 

 本人はそれを嫌がった。

 

「まだ出てる」

 

 かすれた声。

 

「残光です」

 

 リーネが言った。

 

「危険な出力ではありません」

 

「でも、出てる」

 

「出ていても、あなたが蒼銀そのものになるわけではありません」

 

 ルシェルは答えなかった。

 

 レオンは、その横顔を見ていた。

 

 蒼銀の光に照らされた横顔は、痛々しいほど綺麗だった。

 

 使者が見たものも、これだったのだろう。

 

 だから、レオンはその綺麗さを言葉にしなかった。

 

 代わりに言った。

 

「水を飲むか」

 

 ルシェルは少しだけ顔を上げた。

 

「普通」

 

「ああ」

 

「普通の声、助かる」

 

「そうか」

 

「重いと沈む」

 

「気をつける」

 

「もう少し軽く」

 

「……水を飲め」

 

 ルシェルは、少しだけ笑った。

 

「ガルド寄り」

 

 ガルドが廊下の向こうから言う。

 

「よし」

 

 その小さなやり取りで、部屋の空気がほんの少しだけ戻った。

 

     ◇

 

 だが、セレスは分かっていた。

 

 これは終わっていない。

 

 むしろ、ここからだ。

 

 ルシェルは今日、使者に利用されかけた。

 

 だが、使者の言葉だけが原因ではない。

 

 使者は、もともとルシェルの中にあった傷を押した。

 

 役に立たないと存在価値がない。

 

 守られるだけなら消えた方がまし。

 

 何もしなくていいが、消えていいに聞こえる。

 

 その思考は、今日初めて生まれたものではない。

 

 ずっとあった。

 

 軽口の下に。

 

 保留の下に。

 

 小箱の下に。

 

 蒼銀を畳んで閉じる練習の下に。

 

 あったものが、言葉になった。

 

 言葉になった以上、もう「普段通り」に戻してはいけない。

 

 セレスは扉の外で、静かに決めた。

 

 慰めるだけでは足りない。

 

 守るだけでも足りない。

 

 ルシェルが「役に立つなら」と言った時に、それが本当の意思なのか、恐怖の言葉なのか、見分ける仕組みがいる。

 

 そして、その仕組みは、ルシェルを縛るためではなく、ルシェルが自分を差し出さなくて済むために必要だった。

 

     ◇

 

 夜、エルヴィンは王都館を出る前に、ルシェルの部屋の前へは行かなかった。

 

 本人同意がない。

 

 それだけではない。

 

 今、自分の顔を見ること自体が、ルシェルの負担になる可能性がある。

 

 だから、クラウスに一枚の紙を託した。

 

『本日の要請は無効。

 貴殿の「役に立つなら」は、同意として扱われない。

 これは貴殿の発言を軽んじるためではなく、貴殿が自分を差し出さずに済むための措置である。

 蒼銀使用要請の基準は、こちらで再作成する。

 貴殿の本日の状態について、追加聴取は行わない。

 後日回答可。沈黙可。撤回可。』

 

 末尾に、短く。

 

『役に立つか否かは、在籍理由ではない。』

 

 エルヴィンはそれを書いてから、少しだけ筆を止めた。

 

 言葉が硬すぎる。

 

 届くかは分からない。

 

 しかし、柔らかい言葉を持たない自分が今できることは、線を引くことだった。

 

 この子を道具にしようとする者に対して。

 

 この子自身が、自分を道具として差し出そうとする時に対して。

 

 紙で、線を引く。

 

     ◇

 

 クラウスがその紙を読み上げると、ルシェルは布団の中で黙っていた。

 

 しばらくして、小さく言った。

 

「形式の鬼、今日、かなり強い」

 

「そうだな」

 

「役に立つか否かは、在籍理由ではない」

 

 ルシェルはその一文を、少し不思議そうに繰り返した。

 

「在籍理由」

 

「ここにいていい理由、という意味だな」

 

「書類の言い方」

 

「そうだな」

 

「心には入らない」

 

 クラウスは頷いた。

 

「今は入らなくていい」

 

「また先に紙」

 

「そうだ」

 

 ルシェルは、少しだけ目を閉じた。

 

「紙、多い」

 

「必要なら増やす」

 

「保留箱ver2、過労」

 

 レオンが入口で言った。

 

「大きく作る」

 

 ルシェルは、疲れた顔で少し笑った。

 

「本味方、大工部門継続」

 

「ああ」

 

 その笑いは弱かった。

 

 でも、確かにルシェルのものだった。

 

     ◇

 

 その夜、王都館では誰も早く眠らなかった。

 

 ルシェルは布団に入ったが、何度も目を開けた。

 

 そのたびに、入口にレオンがいた。

 

 扉の外にセレスの気配があった。

 

 廊下にガルドの足音があった。

 

 少し離れた書類室には、クラウスの筆音があった。

 

 ルシェルは一度、小さく言った。

 

「今日の報告、無理」

 

 レオンは答えた。

 

「しなくていい」

 

「役に立たない」

 

「報告は役目ではない」

 

「でも」

 

「後日回答」

 

 ルシェルは黙った。

 

 そして、ほんの少しだけ頷いた。

 

「後日回答」

 

 その言葉は、今日は軽口ではなかった。

 

 命綱のようだった。

 

 保留。

 

 後日回答。

 

 沈黙可。

 

 撤回可。

 

 役に立つか否かは、在籍理由ではない。

 

 それらの言葉が、ルシェルの心にすぐ届いたわけではない。

 

 届いていたら、こんなに苦しんでいない。

 

 けれど、届く前に消えないよう、周囲の者たちが持っていた。

 

 紙で。

 

 距離で。

 

 食事で。

 

 扉を閉めきらないことで。

 

 見張るのではなく、ひとりにしないことで。

 

 蒼銀ではなく、ルシェル・ノアを見ることで。

 

     ◇

 

 使者への処分通知は、翌朝には各部署へ回された。

 

 結界維持特別会は、一時的に蒼銀関連案件から外された。

 

 会の上席二名にも監督責任が問われ、収束報告の閲覧権限が停止された。

 

 使者本人は、職務停止のうえ、記録局聴取。

 

 王都館への出入り禁止。

 

 ルシェルへの接触禁止。

 

 第三者を介した要請も禁止。

 

 さらに、新基準が定まるまで、蒼銀を名指しする要請はすべて白環記録庫で差し止めることになった。

 

 その通達の最後には、エルヴィンの硬い一文があった。

 

『蒼銀は、人から切り離して運用する資源ではない。』

 

 その文を読んだクラウスは、写しを一枚、王都館の保管棚へ入れた。

 

 もう一枚を、ルシェルの部屋の前に置くか迷った。

 

 結局、置かなかった。

 

 今日はまだ早い。

 

 紙にも、渡す時期がある。

 

     ◇

 

 昼前。

 

 ルシェルはまだ部屋にいた。

 

 髪の光は消えている。

 

 瞳も、いつもの色に戻っている。

 

 だが、顔は少し疲れていた。

 

 レオンは入口にいる。

 

 椅子一個分。

 

 ルシェルは布団から顔だけ出して言った。

 

「昨日、髪、光ってました?」

 

「ああ」

 

「目も?」

 

「ああ」

 

「綺麗でした?」

 

 レオンは答えなかった。

 

 それを聞いたルシェルが、少しだけ笑う。

 

「答えないんだ」

 

「今は答えない」

 

「何で」

 

「君を光として見たくない」

 

 ルシェルは目を伏せた。

 

「……そういうの、重い」

 

「すまない」

 

「でも、少し助かる」

 

「そうか」

 

「必要な分だけ覚えてください」

 

「覚えている」

 

 ルシェルは布団を被った。

 

「本味方、記憶管理が重い」

 

「四割にする」

 

「昨日六割だったから?」

 

「ああ」

 

 布団の中から、少しだけ笑う声がした。

 

 それを聞いて、レオンはようやく息を吐いた。

 

 笑ったから大丈夫、ではない。

 

 でも、笑えたことは残していい。

 

 軽口は、体温計ではなく。

 

 戻ってくる道の、小さな目印だった。

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