TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第55話 椅子一個分の外側

 

 その日、王都館の朝は、ぎりぎりで保たれていた。

 

 ルシェルは食堂まで来た。

 

 それだけで、セレスは少し安心した。

 

 レオンは安心しなかった。

 

 ガルドも、皿を置きながらルシェルの手元を見ていた。

 

 クラウスは書類を開かず、閉じたまま机に置いていた。

 

 ルシェルはそれを順に見て、半目で言った。

 

「……周囲ver2、警戒心が食卓ににじみ出てる」

 

 セレスが微笑む。

 

「にじんでいる?」

 

「スープの湯気より濃いです」

 

 ガルドが皿を押す。

 

「食え」

 

「本家、にじみなし。直線」

 

「食え」

 

「安定の二回目」

 

 レオンは窓際ではなく、入口側に立っていた。

 

 出入りを見る位置。

 

 ルシェルはそれに気づいていた。

 

 気づいて、気づかないふりをした。

 

「レオン、今日は入口勤務?」

 

「ああ」

 

「窓際から異動?」

 

「しばらくは」

 

「本味方、配置変更が重い」

 

「軽くしない」

 

「今日は軽くしてほしい部署もあります」

 

「努力する」

 

「信用が薄い」

 

 やり取りは、いつも通りに見えた。

 

 けれど、全員が知っていた。

 

 今の「いつも通り」は、薄い紙でできている。

 

 少し濡れれば破れる。

 

 少し強く触れれば裂ける。

 

 それでもルシェルは、いつも通りにパンをちぎり、スープを飲もうとした。

 

 だから、誰も急に褒めなかった。

 

 誰も「食べられて偉い」とは言わなかった。

 

 ガルドだけが、短く言った。

 

「よし」

 

 ルシェルはスプーンを持ったまま顔を上げる。

 

「今のよしは?」

 

「座った」

 

「本家、判定が前倒し」

 

「座ったのは大事だ」

 

 ルシェルは少しだけ笑った。

 

 その笑いを、レオンは覚えた。

 

     ◇

 

 異変は、正面扉からではなかった。

 

 王都館は、昨日の使者の件で警戒を強めていた。

 

 正面玄関は、クラウスの確認なしには誰も通さない。

 

 臨時要請も、白環記録庫照合なしには受けない。

 

 裏門も閉じていた。

 

 だが、相手は門を叩かなかった。

 

 まず届いたのは、王都結界局の緊急信号だった。

 

 北西区外縁の小結界石、複数同時発光不全。

 

 警鐘は本物だった。

 

 続いて、浄化師団の補助印付き通達。

 

 これも本物だった。

 

 最後に、白環記録庫の確認済みを示す写し。

 

 これだけが、よくできた偽物だった。

 

 クラウスなら見抜けた。

 

 エルヴィンなら、紙の匂いだけで疑ったかもしれない。

 

 だが、その時、通達を受け取ったのは王都館の外回り担当だった。

 

 そして、その写しには、こう書かれていた。

 

『第三石収束時の清め水を、北西区小結界石照合へ一時転用。

 保管担当者立会いのもと、短時間確認を要する。

 本人蒼銀使用は求めない。』

 

 本人蒼銀使用は求めない。

 

 その一文が、逆に巧妙だった。

 

 蒼銀を求めないなら、危険は低い。

 

 清め水の移送だけなら、ルシェル本人が行く必要はない。

 

 しかし、小瓶の保管場所を知っているのは、王都館内では限られていた。

 

 ルシェルは、それを小箱の横へ移す相談をしていた。

 

 だから、声をかけられた。

 

「小瓶だけ、確認したいそうです」

 

 若い使用人は悪くなかった。

 

 悪意はない。

 

 ただ、紙を信じた。

 

 ルシェルは小瓶を手にした。

 

 胸の奥に、嫌な感じはあった。

 

 けれど、紙には書いてある。

 

 本人蒼銀使用は求めない。

 

 清め水の一時転用。

 

 短時間確認。

 

 昨日のような直接要請ではない。

 

 そして何より、北西区外縁の結界石不全は本物だった。

 

 誰かが困っている。

 

 その事実だけは、本物だった。

 

     ◇

 

 裏庭の搬入口に、馬車がいた。

 

 王都結界局の緊急標。

 

 浄化師団の補助印。

 

 白環記録庫の確認済み封緘。

 

 どれも、遠目には正しい。

 

 近くで見れば、継ぎ接ぎだった。

 

 だが、ルシェルは紙の偽造を見抜く人間ではない。

 

 彼女は浄化師で、十五の子で、昨日「役に立たないと存在価値がない」と言って泣いたばかりの人間だった。

 

 馬車から降りた男は、深く頭を下げた。

 

「見習い浄化師ルシェル・ノア氏。急な確認となり申し訳ありません」

 

 ルシェルは小瓶を胸の前に持った。

 

「クラウスさんを呼びます」

 

「もちろんです。ですが、先に小瓶の確認だけでも」

 

「先に?」

 

「結界石の濁りが進んでおります。蒼銀は求めません。清め水の反応確認のみです」

 

 ルシェルの指が、小瓶の首にかかる。

 

 蒼銀は求めない。

 

 それなら、少しだけ。

 

 そう思いかけた。

 

 その時、男は声を低くした。

 

「昨日の処分で、蒼銀関連要請がすべて凍結されました。そのため、本来なら早く済む照合が遅れています」

 

 ルシェルの喉が、きゅっと縮んだ。

 

「遅れてる」

 

「責めているわけではありません」

 

 責めている声だった。

 

「ただ、王都館の皆様が慎重なのは当然です。あなたを大切にしておられる。ですが、現地で待っている者もおります」

 

 言葉が丁寧に積まれていく。

 

 王都館は悪くない。

 

 でも、遅れている。

 

 あなたは悪くない。

 

 でも、待っている人がいる。

 

 蒼銀は求めない。

 

 ただ、確認だけ。

 

 ルシェルは、昨日の紙を思い出した。

 

『罪悪感・存在価値不安に基づく同意は、自由な同意ではない。』

 

 思い出した。

 

 思い出したのに、心は追いつかなかった。

 

 男はさらに言った。

 

「あなたが一言、立ち会うとおっしゃれば、すぐ終わります」

 

 一言。

 

 すぐ。

 

 立ち会うだけ。

 

 役に立つなら。

 

 その言葉は、口の中まで上がってきた。

 

 ルシェルは飲み込んだ。

 

 飲み込めた。

 

 だから、少しだけ安心した。

 

 その安心が、隙になった。

 

「ルシェル様?」

 

 使用人が不安そうに呼んだ。

 

 ルシェルは振り返った。

 

「クラウスさんに……」

 

 呼んで、と言うつもりだった。

 

 しかし、その瞬間、馬車の中から別の声がした。

 

 子どもの声だった。

 

「まだ?」

 

 ルシェルは凍った。

 

 男がすぐに言う。

 

「北西区から避難してきた子です。結界石不全の影響で、家族と離れています」

 

 馬車の奥に、小さな影が見えた。

 

 本物かどうかは分からない。

 

 けれど、泣きそうな声は本物に聞こえた。

 

 ルシェルの中で、第三石室の子どもたちの声が重なった。

 

 水が怖くないように。

 

 先生を戻すまで。

 

 鍵を守った。

 

 名札を返した。

 

「……確認だけなら」

 

 ルシェルは言った。

 

 自分の声が遠く聞こえた。

 

「確認だけなら、行きます」

 

 男は、ほとんど表情を変えずに頭を下げた。

 

「感謝します」

 

 馬車の扉が開いた。

 

     ◇

 

 レオンが気づいた時、椅子が一つ空いていた。

 

 食堂の入口。

 

 少し前までルシェルがいた場所。

 

 小瓶の移送確認に行くと聞いて、すぐ戻るはずだった。

 

 だが、戻らない。

 

 レオンは立ち上がった。

 

 何かを言われたわけではない。

 

 ただ、嫌な空白があった。

 

 彼は廊下へ出る。

 

 搬入口へ向かう。

 

 途中で、若い使用人が青ざめた顔で走ってきた。

 

「レオン様、ルシェル様が、確認へ……馬車で……」

 

 その瞬間、食堂の空気が砕けた。

 

 セレスが立ち上がる。

 

 ガルドが皿を置く音が重く響く。

 

 クラウスが通達写しを奪うように受け取り、目を走らせる。

 

「白環記録庫印が古い」

 

 声が低い。

 

「この確認番号は、第三石収束前のものだ。使い回しだ」

 

 セレスの顔から血の気が引く。

 

「連れ出された?」

 

 クラウスは歯を食いしばる。

 

「誘導された」

 

 レオンは外へ出た。

 

 馬車の轍。

 

 北西へ。

 

 まだ新しい。

 

 追える。

 

 追えるが、すぐに追いつくとは限らない。

 

 相手は準備している。

 

 昨日の処分を知った上で、別経路を使ってきた。

 

 つまり、これは衝動的な要請ではない。

 

 組織的な切り離しだ。

 

 レオンの声は、ひどく静かだった。

 

「追う」

 

 ガルドが短く言う。

 

「行く」

 

 セレスが杖を取る。

 

「私も」

 

 クラウスは通達写しを握り潰しそうになりながら言った。

 

「白環記録庫へ緊急。浄化師団にも。王都結界局には正式照会。北西区の結界不全が本物か確認する」

 

 レオンは振り返らない。

 

「早く」

 

 その声には、怒りより先に恐怖があった。

 

 椅子一個分の距離。

 

 扉を開けたまま。

 

 一人にしない。

 

 そう決めた矢先に、ルシェルはその外へ連れ出された。

 

     ◇

 

 馬車の中で、ルシェルは小瓶を握っていた。

 

 向かいの男は、穏やかに話している。

 

「本当に確認だけです。あなたを危険な目に遭わせるつもりはありません」

 

 危険な目。

 

 それは、何を指すのだろう。

 

 蒼銀を使うことか。

 

 王都館から離れることか。

 

 一人になることか。

 

 それとも、今こうして、自分で頷いてしまったことか。

 

 ルシェルは小瓶の中の水を見る。

 

 第三石の清め水。

 

 水が怖くないように。

 

 それを見ていると、胸が痛む。

 

「王都館の皆様は、心配なさるでしょう」

 

 男が言う。

 

「ですが、短時間です。あなたが帰られた時、きっと安心されます」

 

 ルシェルは小さく首を振った。

 

「怒ると思います」

 

「あなたを?」

 

「……たぶん」

 

「それだけ大切にされているのでしょう」

 

 その言葉は優しく聞こえた。

 

 なのに、ルシェルの中では逆に沈む。

 

 大切にされている。

 

 だからこそ、裏切った。

 

 心配させた。

 

 止められるのが嫌で、呼ばなかった。

 

 自分で来た。

 

 また。

 

 また同じところに戻っている。

 

「ボク、学習能力がない」

 

 小さく呟いた。

 

 男は、それを慰めるように言った。

 

「あなたは責任感が強いのです」

 

 違う。

 

 そう言いたかった。

 

 責任感ではない。

 

 怖いだけだ。

 

 役に立たない自分が。

 

 守られるだけの自分が。

 

 何も返せない自分が。

 

 怖くて、逃げるように役目へ飛びつく。

 

 それを責任感と呼ばれると、少しだけ救われたような気がしてしまう。

 

 その救われたような感覚が、気持ち悪かった。

 

     ◇

 

 馬車は北西区の補助棟へ向かわなかった。

 

 最初は、そう見えた。

 

 しかし途中で旧道へ入る。

 

 人通りの少ない石畳。

 

 水路跡に沿った細い道。

 

 ルシェルは窓の布越しに、それを見た。

 

「北西区では」

 

「近道です」

 

「でも」

 

「時間がありません」

 

 その言葉で、また塞がれる。

 

 時間がない。

 

 急げ。

 

 遅れる。

 

 待っている人がいる。

 

 ルシェルは小瓶を握った。

 

 胸の奥の蒼銀が、少し冷たく灯る。

 

 まだ外には出ていない。

 

 しかし、感情に反応している。

 

 嫌だ。

 

 帰りたい。

 

 でも、帰れない。

 

 帰ると言ったら、何のために来たのか分からなくなる。

 

 来たこと自体が間違いになる。

 

 間違いだと認めたら、また自分が壊れる。

 

 だから、進むしかない。

 

 その思考が、すでに罠だった。

 

 ルシェルはそれに気づいていた。

 

 気づいていても、降りられなかった。

 

「王都館の人たちに、連絡を」

 

「到着後に」

 

「今」

 

「移動中は危険です」

 

「でも」

 

「すぐ終わります」

 

 すぐ。

 

 短時間。

 

 確認だけ。

 

 その言葉が、何度も繰り返される。

 

 繰り返されるたびに、ルシェルの中の「戻る」が遠くなる。

 

     ◇

 

 連れて行かれたのは、北西区外縁ではなかった。

 

 旧結界補助棟。

 

 表向きは使われていない。

 

 中には、古い結界石が置かれていた。

 

 そして、その周囲には、すでに人がいた。

 

 結界維持特別会の者。

 

 王都結界局の一部職員。

 

 記録係らしき者。

 

 昨日の使者はいない。

 

 だが、彼の処分を知った上で動いた者たちがいる。

 

 つまり、これは偶発ではない。

 

 処分への反発。

 

 あるいは、処分前に結果を出そうとした焦り。

 

 ルシェルは、その場に入った瞬間、理解した。

 

 これは、確認だけではない。

 

 逃げたい。

 

 そう思った。

 

 けれど、扉は後ろで閉まった。

 

 鍵は掛かっていないかもしれない。

 

 でも、人が立っている。

 

 男が穏やかに言う。

 

「こちらです」

 

 中央の結界石は、確かに濁っていた。

 

 完全な虚偽ではない。

 

 だから、余計に質が悪い。

 

 結界石の濁りを前にすると、ルシェルの中の浄化師が反応する。

 

 助けなければ。

 

 閉じなければ。

 

 照らさなければ。

 

 昨日、「蒼銀と一緒にいて、ルシェル・ノアも残る練習をします」と言ったばかりなのに。

 

 今ここにいるのは、ルシェル・ノアを残すための場所ではない。

 

 蒼銀だけを取り出す場所だ。

 

「小瓶を」

 

 言われて、ルシェルは差し出した。

 

 手が震えた。

 

 誰も、その震えを止める理由として見なかった。

 

 記録係らしき者が、むしろ筆を動かした。

 

 ルシェルはそれを見て、胃の奥が冷えた。

 

 震えも、記録される。

 

 泣いても、出力反応にされるかもしれない。

 

 怖がっても、感情反応にされる。

 

 ここでは、ルシェルの苦痛も、蒼銀の材料になる。

 

     ◇

 

 レオンたちの追跡は、途中で止まった。

 

 轍が消されていた。

 

 水を撒かれている。

 

 旧道の石畳では追いにくい。

 

 セレスが魔術で残響を探る。

 

「蒼銀の気配が薄い……まだ強く出てはいない」

 

 レオンはそれを聞いても安心しなかった。

 

 出ていないなら安全、ではない。

 

 出せと言われている途中かもしれない。

 

 出す前に迷っているかもしれない。

 

 泣きそうになっているかもしれない。

 

 助けを呼べずに、黙って頷いているかもしれない。

 

 クラウスへ、白環記録庫から返答が来る。

 

 エルヴィンの署名。

 

『当該確認は未承認。

 白環記録庫は照合していない。

 北西区外縁の不全は確認中。

 本人隔離の可能性大。

 追跡継続。

 王都結界局へ権限停止要請。』

 

 クラウスはその紙を握った。

 

「やはり偽装だ」

 

 ガルドが低く言う。

 

「場所は」

 

 セレスが目を閉じる。

 

 蒼銀ではない。

 

 清め水。

 

 第三石の水の気配。

 

 水が怖くないように。

 

 その小さな残響を追う。

 

「旧補助棟……北西区ではなく、旧水路沿い」

 

 レオンがすぐに走り出す。

 

 今度は誰も止めなかった。

 

     ◇

 

 補助棟の中で、ルシェルは結界石の前に立たされた。

 

 立たされた、というのは正確ではない。

 

 命令はされていない。

 

 拘束もされていない。

 

 だが、周囲の視線と、言葉と、状況が、立つ以外の選択肢を削っていた。

 

「蒼銀は求めないと言ったのでは」

 

 ルシェルがかすれた声で言う。

 

 男は頷く。

 

「本来は、清め水のみの予定でした。しかし、反応が不足しています。あなたの小灯で照らすだけで構いません」

 

 小灯。

 

 その言葉を、彼らはどこかで読んだ。

 

 収束報告から。

 

 ルシェルを守るために書かれた言葉を、彼らは使うために読んだ。

 

 ルシェルの胸が痛む。

 

「小灯は、そういうものじゃない」

 

「もちろん、浄化行使ではなく照明・照合です」

 

 男の声は穏やかだ。

 

「記録通りです」

 

 記録通り。

 

 違う。

 

 記録には、椅子一個分があった。

 

 後日回答があった。

 

 水路退勤があった。

 

 小さくと言う声があった。

 

 畳めと言う声があった。

 

 終了後は食事まであった。

 

 ここには、何もない。

 

 蒼銀だけを抜き出した「記録通り」だった。

 

 ルシェルは首を振った。

 

「帰りたい」

 

 初めて、はっきり言った。

 

 室内が少し静かになる。

 

 男の目が細くなった。

 

「今、戻れば、結界石の不全は続きます」

 

 言葉は静かだった。

 

「あなたがここまで来た意味も、失われます」

 

 ルシェルの喉が詰まる。

 

 来た意味。

 

 失われる。

 

 間違いだったと認める。

 

 また、王都館に迷惑をかける。

 

 役に立てず、連れ戻されるだけになる。

 

「あなたが悪いわけではありません。ただ、あと少しだけ」

 

 あと少し。

 

 ルシェルは泣きそうな顔で、結界石を見た。

 

 胸の奥に、蒼銀が灯る。

 

 小さく。

 

 小さくするつもりだった。

 

 でも、感情が絡む。

 

 怖い。

 

 帰りたい。

 

 役に立たないといけない。

 

 帰りたい。

 

 役に立たないと。

 

 帰りたい。

 

 蒼銀が、指先に出た。

 

 そして、すぐに手のひらへ広がった。

 

 髪が淡く光る。

 

 瞳に蒼が宿る。

 

 周囲の者たちが息を呑む。

 

 恐怖ではない。

 

 期待。

 

 観察。

 

 価値の確認。

 

 その目を見た瞬間、ルシェルの中で何かが静かに沈んだ。

 

 ああ。

 

 また、これだ。

 

 なら、もういい。

 

 蒼銀でいればいい。

 

 ルシェル・ノアは、ここにいなくていい。

 

     ◇

 

 扉の外に、足音が近づいていた。

 

 レオンたちは、まだ到着していない。

 

 白環記録庫の別動でもない。

 

 補助棟の外を、別の誰かが封鎖し始めている。

 

 結界維持特別会の内部にも、派閥がある。

 

 ルシェルを利用しようとする者。

 

 それを隠そうとする者。

 

 そして、結果だけを欲しがる者。

 

 彼らは、王都館が来る前に、蒼銀の反応を取るつもりだった。

 

 救出まで、まだ時間がある。

 

 ルシェルはその中央にいた。

 

 髪を蒼銀に染め、瞳を光らせ、結界石の前で立っている。

 

 泣いているのに、声を出さない。

 

 帰りたいと言ったのに、帰れていない。

 

 蒼銀は広がり続ける。

 

 けれど、それはまだ暴走ではない。

 

 もっと厄介なものだった。

 

 ルシェルが、自分から消える方向へ、静かに蒼銀へ寄っていく。

 

 誰かを傷つけるためではなく。

 

 役に立つために。

 

 価値があるものになるために。

 

 ルシェル・ノアを置き去りにして。

 

     ◇

 

 その頃、レオンは旧補助棟の屋根を見つけていた。

 

 窓の内側から、淡い蒼銀が漏れている。

 

 セレスが息を呑む。

 

「出ている」

 

 レオンは何も言わなかった。

 

 言えば、声が怒りで壊れそうだった。

 

 ガルドが拳を鳴らす。

 

「入るぞ」

 

 クラウスが紙を握る。

 

「まだ待て。白環記録庫の封鎖班が」

 

 レオンは短く言う。

 

「待てない」

 

 セレスも、今回は止めなかった。

 

「私が外側を押さえる」

 

 クラウスは唇を噛む。

 

 手続きは必要だ。

 

 だが、手続きのためにルシェルを失うわけにはいかない。

 

 彼は紙を畳み、懐に入れた。

 

「入る。記録は後で追いつかせる」

 

 ガルドが頷く。

 

「よし」

 

 その時、補助棟の内側から、ルシェルの蒼銀が一段強く光った。

 

 レオンは走り出した。

 

 椅子一個分の外側へ連れ出されたルシェルを、まだ取り戻せていない。

 

 この話は、ここで終わらない。

 

 終わらせてはいけなかった。

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