TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様――――   作:カヨウ

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第56話 蒼銀だけが残る場所

 

 旧補助棟の中で、ルシェルは泣いていた。

 

 けれど、その涙を見ている者たちは、もう涙として見ていなかった。

 

 蒼銀の出力変化。

 

 感情反応。

 

 照合効率。

 

 結界石への干渉。

 

 紙に書かれる言葉は、そういうものばかりだった。

 

 誰かが言った。

 

「安定率が上がっている」

 

 誰かが答えた。

 

「涙に反応しているのかもしれない」

 

 また別の誰かが、息を呑んだ。

 

「このままなら、北西区の小結界網にも応用できる」

 

 ルシェルは、その言葉を聞いていた。

 

 聞いていたはずだった。

 

 でも、もう意味が遠かった。

 

 帰りたい。

 

 怖い。

 

 役に立たなきゃ。

 

 帰りたい。

 

 小さく。

 

 畳め。

 

 閉じる。

 

 声がない。

 

 椅子一個分がない。

 

 誰も、ルシェル・ノアを呼ばない。

 

 見られているのは、蒼銀だけ。

 

 なら、それでいい。

 

 そう思った瞬間、ルシェルの内側で何かが静かに外れた。

 

     ◇

 

 最初に変わったのは、目だった。

 

 黒灰の瞳の奥に宿っていた蒼銀が、膜のように広がった。

 

 瞳孔の輪郭が淡くほどける。

 

 まばたきが遅くなる。

 

 涙は止まった。

 

 表情も止まった。

 

 怯えた顔も、泣きそうな顔も、そこから薄れていく。

 

 残ったのは、澄みすぎた顔だった。

 

 人の感情が削れ落ちて、光だけが形を保っているような顔。

 

 髪が、ふわりと浮いた。

 

 灰銀の髪の一本一本に、蒼銀の線が走る。

 

 毛先から小さな光粒がこぼれ、床へ落ちる前に消える。

 

 指先の小灯は、もう小灯ではなかった。

 

 手のひら全体へ広がり、腕を伝い、胸元へ、肩へ、髪へ、瞳へ流れていく。

 

 結界石が震えた。

 

 室内の古い式が一斉に目を覚ます。

 

 誰かが歓喜の声を上げかけた。

 

「成功――」

 

 その声は最後まで続かなかった。

 

 蒼銀の光が、床を走った。

 

 攻撃ではない。

 

 浄化でもない。

 

 ただ、障害物を「不要」と判断した光だった。

 

 机が裂けた。

 

 記録台が弾け飛んだ。

 

 古い結界具が焼き切れるように白く砕けた。

 

 人々は悲鳴を上げて後ずさった。

 

 ルシェルは、その悲鳴に反応しなかった。

 

 ただ、結界石へ手を伸ばした。

 

 まるで、そこにある濁りだけを見ているように。

 

 まるで、自分という輪郭をそこへ流し込もうとしているように。

 

     ◇

 

 扉が破られた。

 

 レオンが入った。

 

 直後にガルド。

 

 セレス。

 

 クラウス。

 

 少し遅れて、リーネと白環記録庫の封鎖班。

 

 レオンは、部屋に入った瞬間、呼吸を忘れた。

 

 ルシェルがいた。

 

 確かにそこにいた。

 

 でも、そこにいるのはルシェルではなかった。

 

 身体はルシェルだ。

 

 小柄な背。

 

 細い腕。

 

 灰銀の髪。

 

 いつも半目で軽口を言う十五の子。

 

 けれど、その顔には何もなかった。

 

 恐怖もない。

 

 怒りもない。

 

 恥ずかしさもない。

 

 レオンを見ても、何の反応もない。

 

 蒼銀だけが、そこにいた。

 

「ルシェル」

 

 レオンが呼んだ。

 

 声は届かなかった。

 

 ルシェルは結界石を見ている。

 

 それ以外を、何も見ていない。

 

 セレスが震える声で言う。

 

「意識が、沈んでる……」

 

 リーネが結界具を展開しながら叫んだ。

 

「近づかないでください! 蒼銀が周囲を不要式として処理しています!」

 

 ガルドが顔を歪める。

 

「不要式だと」

 

 クラウスは、砕けた記録台と床の光を見て、歯を食いしばった。

 

「彼女が判断しているんじゃない。蒼銀が、結界石の濁りを処理するために周囲を切り捨てている」

 

 レオンは一歩踏み出した。

 

 蒼銀が反応する。

 

 床から細い光が立ち上がり、警告のようにレオンの前を遮った。

 

 レオンは止まらない。

 

 光が剣の鞘に触れ、白い煙を上げた。

 

 セレスが叫ぶ。

 

「レオン!」

 

「止める」

 

 レオンは短く言った。

 

「ここで止める」

 

     ◇

 

 結界維持特別会の者たちは、隅に押しやられていた。

 

 先ほどまで蒼銀を求めていた顔は、今は恐怖に歪んでいる。

 

 そのうちの一人が叫んだ。

 

「暴走だ! 制御を!」

 

 ガルドが振り返った。

 

 その目だけで、男は黙った。

 

「お前らが呼んだ」

 

 ガルドの声は低かった。

 

「見るなと言っただろうが」

 

 男は震えながら言う。

 

「我々は、王都のために――」

 

 ガルドは一歩踏み出した。

 

 殴らなかった。

 

 殴らなかったことが、むしろ怖かった。

 

「黙れ」

 

 それだけで十分だった。

 

 クラウスが封鎖班へ命じる。

 

「関係者全員を室外へ。記録器具は押収。蒼銀反応の測定紙はすべて封鎖。本人の苦痛を出力記録として扱うな」

 

 ミーナが駆け込んできた。

 

 室内の光景を見て、顔が青ざめる。

 

 だが、すぐに筆を取る。

 

 書くべきものと、書いてはいけないものを選ぶために。

 

 エルヴィンも到着した。

 

 彼は、ルシェルを一目見て、目を細めた。

 

 蒼銀にではない。

 

 そこからルシェルが消えかけていることに。

 

「本人を戻せ」

 

 エルヴィンは言った。

 

 命令の相手は、レオンたちだけではない。

 

 その場にいる全員へ向けた、硬い宣言だった。

 

「結界石より先に、本人を戻せ」

 

     ◇

 

 ルシェルは、結界石へ手を触れた。

 

 その瞬間、補助棟全体が震えた。

 

 濁った結界石の中へ、蒼銀が流れ込む。

 

 普通の浄化なら、濁りをほどく。

 

 第三石室でやったように、照らし、見えるようにし、切り離す。

 

 だが、今の蒼銀は違った。

 

 ほどくのではない。

 

 押し流そうとしている。

 

 濁りも、古い式も、周辺の補助構造も、全部まとめて消し飛ばそうとしている。

 

 効率だけを見れば、早い。

 

 乱暴なほど早い。

 

 そして、危険だった。

 

 結界石が割れれば、北西区外縁の小結界網が一時的に落ちる。

 

 近隣の結界へ衝撃が走る。

 

 さらに、ルシェル自身の蒼銀も一気に消耗する。

 

 リーネが叫んだ。

 

「このままでは石ごと飛びます!」

 

 セレスが防護を広げる。

 

「外へ漏らさない!」

 

 クラウスが封鎖班へ指示する。

 

「外周結界! 記録庫式の封鎖紙を床へ!」

 

 ガルドは、砕けた机の破片を蹴り飛ばし、ルシェルへ近づくための道を作る。

 

 レオンは、蒼銀の圧の中を進む。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 光が皮膚を裂くように痛む。

 

 だが、止まらない。

 

「ルシェル」

 

 呼ぶ。

 

 返事はない。

 

「ルシェル・ノア」

 

 返事はない。

 

 瞳は結界石だけを映している。

 

 その目に、レオンはいない。

 

 誰もいない。

 

     ◇

 

 セレスは、泣きそうになるのを堪えた。

 

 今泣いている場合ではない。

 

 彼女は魔術を細く伸ばし、ルシェルの周囲に柔らかい境界を作る。

 

 閉じ込めるのではない。

 

 押さえつけるのでもない。

 

 蒼銀が広がる場所を少しだけ分ける。

 

 人を傷つけない方向へ逃がす。

 

「ルシェル、聞こえる?」

 

 声を乗せる。

 

 魔術ではなく、言葉として。

 

「セレスよ」

 

 反応はない。

 

「あなたが困るって言った声よ」

 

 それでも反応はない。

 

 セレスは唇を噛む。

 

 昨日なら、ルシェルは顔を赤くして何か言ったかもしれない。

 

 優しい声が困る、と。

 

 今は、それすら出ない。

 

 出ないことが、こんなに怖い。

 

 セレスはもう一度声をかける。

 

「本音瘴気症の時、言ってくれたこと、必要な分だけ覚えているわ」

 

 蒼銀が、一瞬だけ揺れた。

 

 ほんのわずか。

 

 見間違いかもしれないほど。

 

 だが、セレスは見逃さなかった。

 

「レオンが外にいると寂しいって言ったでしょう」

 

 レオンが一瞬だけ目を見開く。

 

 セレスは続ける。

 

「今、外ではないわ。中にいる。椅子一個分より近いところまで、来ようとしている」

 

 蒼銀がまた揺れた。

 

 結界石へ流れ込む光が、わずかに乱れる。

 

 ルシェルの指が震えた。

 

 レオンは、その一瞬に賭けた。

 

     ◇

 

 レオンが踏み込む。

 

 蒼銀が彼を遮る。

 

 腕に光が走る。

 

 痛み。

 

 焼けるような痛み。

 

 だが、それは殺すための光ではない。

 

 遠ざける光。

 

 不要と判断したものを、外へ押し出す光。

 

 レオンは、それに逆らった。

 

「俺は不要じゃない」

 

 低く言う。

 

 ルシェルには聞こえていないかもしれない。

 

 でも、言う。

 

「君が不要だと思っても、俺は残る」

 

 光が強くなる。

 

 レオンは歯を食いしばる。

 

 ガルドが後ろから支えた。

 

「行け」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

 ガルドは片腕で蒼銀の圧を受け、顔を歪めた。

 

 セレスの防護が重なる。

 

 リーネの結界具が床を固定する。

 

 クラウスの封鎖紙が、光の流れを少しだけ鈍らせる。

 

 全員で、レオンが近づく道を作った。

 

 レオンは、ルシェルの腕へ手を伸ばす。

 

 触れる。

 

 その瞬間、蒼銀が鋭く跳ねた。

 

 レオンの手の甲が裂ける。

 

 血が滲む。

 

 だが、レオンは手を離さなかった。

 

「ルシェル」

 

 近くで呼ぶ。

 

「戻れ」

 

     ◇

 

 ルシェルの目は、まだ蒼銀だった。

 

 けれど、奥のどこかで、小さく揺れた。

 

 戻れ。

 

 その声。

 

 知っている。

 

 誰の声か、分からない。

 

 分からないけど、知っている。

 

 蒼銀は結界石を浄化しようとしている。

 

 効率よく。

 

 早く。

 

 強く。

 

 役に立つために。

 

 邪魔なものは消す。

 

 怖さも。

 

 迷いも。

 

 寂しさも。

 

 ルシェル・ノアも。

 

 そうすれば、役に立つ。

 

 価値がある。

 

 必要とされる。

 

 けれど、遠くで声がする。

 

 戻れ。

 

 小さく。

 

 畳め。

 

 食え。

 

 後日回答。

 

 椅子一個分。

 

 水が怖くないように。

 

 保留箱ver2。

 

 役に立つか否かを、存在価値の判断に用いない。

 

 声が、紙が、食事が、距離が、ばらばらに浮かんでくる。

 

 蒼銀は、それらを不要と判断しようとした。

 

 だが、うまく消せなかった。

 

 消せない。

 

 なぜなら、それらはルシェルが残したものだったから。

 

     ◇

 

 レオンは、ルシェルの手首を掴んでいた。

 

 強く掴みすぎない。

 

 だが、離さない。

 

「ルシェル、聞け」

 

 返事はない。

 

「君は蒼銀じゃない」

 

 反応は薄い。

 

「蒼銀だけで残るな」

 

 ルシェルのまつ毛が震えた。

 

 セレスが息を止める。

 

 ガルドが低く言う。

 

「続けろ」

 

 レオンは続けた。

 

「役に立たなくていい、とは言わない」

 

 セレスが驚いてレオンを見る。

 

 レオンはルシェルだけを見ている。

 

「今それを言えば、君には消えていいと聞こえる」

 

 ルシェルの瞳の蒼が揺れた。

 

「だから、別のことを言う」

 

 レオンの声は、低く、重く、まっすぐだった。

 

「役に立ちたいまま、戻れ」

 

 蒼銀が、大きく揺れた。

 

 結界石への流れが乱れる。

 

 リーネが叫ぶ。

 

「今です! 外側を閉じます!」

 

 セレスが防護を強める。

 

 クラウスが封鎖紙を追加する。

 

 ガルドが床を踏み締める。

 

 レオンはさらに言う。

 

「役に立ちたい気持ちごと、戻れ。怖いまま戻れ。蒼銀を持ったまま戻れ。消えてから戻ろうとするな」

 

 ルシェルの唇が、わずかに動いた。

 

 声は出ない。

 

 けれど、形だけが見えた。

 

 むり。

 

 レオンは即座に返した。

 

「無理なら、持つ」

 

 蒼銀が弾けた。

 

     ◇

 

 部屋全体が白く染まった。

 

 一瞬、何も見えなくなる。

 

 音も消える。

 

 次に聞こえたのは、結界石が割れる音ではなかった。

 

 水滴のような音だった。

 

 ぽたん。

 

 ルシェルの胸元、小袋の中。

 

 雨雫。

 

 馬車へ連れ出された時、ルシェルは小箱の中に置いてきたはずだった。

 

 いや、違う。

 

 昨夜から、胸元に入れたままだった。

 

 不安だったから。

 

 忘れていた。

 

 雨雫が、蒼銀の中で鳴った。

 

 ぽたん。

 

 その音は、水路の呼び声ではない。

 

 第三石室の返事でもない。

 

 ただ、ルシェルが何度も聞いた、小さな音。

 

 怖くない音。

 

 ルシェルの瞳が揺れる。

 

 焦点が、ほんの少し戻る。

 

 蒼銀の膜の奥に、黒灰の色が滲む。

 

 レオンが呼ぶ。

 

「ルシェル」

 

 今度は、ほんのかすかに、唇が動いた。

 

「……レオン」

 

 声になった。

 

 小さな声。

 

 壊れそうな声。

 

 だが、確かにルシェルの声だった。

 

 セレスが泣きそうになる。

 

 ガルドが息を吐く。

 

 クラウスが、筆を持つ手を止める。

 

 リーネが叫ぶ。

 

「畳んでください! 完全に閉じなくていい、まず結界石から離して!」

 

 レオンが言う。

 

「小さく」

 

 ルシェルが震える。

 

「できない」

 

「一緒にやる」

 

「できない」

 

「俺が持つ。君が畳む」

 

「むり」

 

「むりでも、一つ」

 

 ガルドが言う。

 

「畳め」

 

 その声に、ルシェルの肩が震えた。

 

「本家……」

 

「畳め」

 

 セレスが言う。

 

「急がなくていいわ。一枚だけ」

 

 クラウスが言う。

 

「全部ではなく、一段階」

 

 リーネが言う。

 

「結界石から手を離します」

 

 レオンが、ルシェルの手を支えたまま、ゆっくり石から離す。

 

 蒼銀が抵抗する。

 

 だが、ルシェルの指が動いた。

 

 ほんの少し。

 

 石から離れる。

 

 蒼銀の流れが切れる。

 

 結界石が大きく震え、白い光を放った。

 

 割れなかった。

 

     ◇

 

 ルシェルは、その場に崩れ落ちた。

 

 レオンが抱き止める。

 

 今度は、触れる許可を取れなかった。

 

 取れる状態ではなかった。

 

 ルシェルは拒まなかった。

 

 拒む力もなかった。

 

 髪の蒼銀はまだ消えない。

 

 瞳にも残っている。

 

 手のひらには淡い光が残り、呼吸に合わせて揺れている。

 

「閉じられない」

 

 ルシェルが呟く。

 

「閉じられない、閉じられない、閉じられない」

 

 セレスがそばに膝をつく。

 

「閉じなくていい。今は、石から離れた」

 

「閉じられない」

 

「一段階できたわ」

 

「暴走した」

 

 声が震える。

 

「ボク、暴走した。蒼銀だけになった。皆を、不要って」

 

 レオンが低く言う。

 

「戻った」

 

「戻ってない」

 

「声が戻った」

 

「でも」

 

「後日回答」

 

 ルシェルは泣きそうに顔を歪める。

 

「後日回答、多すぎ」

 

「今日は多くていい」

 

 ガルドが言う。

 

「生きてる」

 

 ルシェルは目を見開く。

 

 ガルドは続けた。

 

「戻った。生きてる。今はそれでいい」

 

 ルシェルは声を詰まらせる。

 

「本家、重い」

 

「重くていい」

 

 レオンが、ルシェルを支えたまま言う。

 

「帰るぞ」

 

 ルシェルは、首を横に振ろうとした。

 

 だが、力がない。

 

「帰っていいの?」

 

 その問いに、全員が凍った。

 

 セレスが泣きそうな声で言う。

 

「いいに決まってる」

 

 ルシェルは目を伏せる。

 

「決まってない」

 

 レオンが言う。

 

「決まってる」

 

「また迷惑を」

 

「帰る」

 

「でも」

 

「帰る」

 

 ガルドが言う。

 

「食う」

 

 クラウスが言う。

 

「記録上も、王都館帰還を最優先」

 

 セレスが言う。

 

「扉を開けて待っている」

 

 リーネが言う。

 

「残光のまま運びます。無理に閉じません」

 

 ルシェルは、もう返せなかった。

 

 ただ、レオンの外套を掴んだ。

 

 それが、帰りたいという返事だった。

 

     ◇

 

 結界維持特別会の者たちは、その場で拘束された。

 

 今回は、暫定では済まなかった。

 

 エルヴィンの声が補助棟に響く。

 

「本人を王都館から切り離した上で、偽装通達を用い、心理的誘導により蒼銀を発現させた。さらに、本人苦痛を出力維持要素として観察した」

 

 男の一人が震えながら言う。

 

「結界石は安定しました」

 

 エルヴィンは、男を見た。

 

「結果で違反は消えないと言ったはずだ」

 

「しかし、王都の」

 

「王都の名を使うな」

 

 その一言は、昨日より冷たかった。

 

「本件は利用未遂ではない。利用実行だ」

 

 ミーナが筆を走らせる手を震わせる。

 

 若い書記は涙を堪えながら、封鎖紙を貼っている。

 

 エルヴィンは続けた。

 

「関係者全員、職務停止では足りない。聴取ではなく査問へ送る。偽装通達作成者、印章使用者、現場責任者、全員の権限を即時凍結。蒼銀関連記録への閲覧権限も停止」

 

 クラウスが頷く。

 

「王都館からも正式告発を出す」

 

「受理する」

 

 エルヴィンは即答した。

 

 そして、床に残る蒼銀の焦げ跡を見る。

 

 綺麗な光の痕跡。

 

 彼は、それを美しいとは書かなかった。

 

 ただ、こう書いた。

 

『本人保護条件不在のため、蒼銀暴走。本人意識低下。周囲認識喪失。

 原因:心理的誘導、隔離、支援者切り離し、偽装手続き。

 本人責任として扱わない。』

 

     ◇

 

 王都館へ帰る馬車の中、ルシェルはほとんど話さなかった。

 

 髪はまだ淡く光っている。

 

 瞳も、ときおり蒼く揺れる。

 

 完全には戻っていない。

 

 セレスは隣で防護を薄く張っている。

 

 リーネは向かいで残光を見ている。

 

 ガルドは窓側に座り、外から見えないようにしている。

 

 クラウスは紙を伏せている。

 

 レオンは、ルシェルを支えている。

 

 ルシェルは小さく言った。

 

「ボク、皆を不要って」

 

 レオンが答える。

 

「君じゃない」

 

「ボクの蒼銀」

 

「君が我を忘れていた」

 

「でも、ボクの」

 

「後日回答」

 

 ルシェルは目を閉じる。

 

「後日回答で棚が折れる」

 

 ガルドが言う。

 

「なら箱を大きくする」

 

 ルシェルは、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

 笑いには届かない。

 

 でも、完全な無反応ではない。

 

 レオンはそれを、必要な分だけ覚えた。

 

     ◇

 

 王都館の玄関で、ルシェルは足を止めた。

 

 前回よりも、さらに動けなかった。

 

 暴走した。

 

 我を忘れた。

 

 蒼銀だけになった。

 

 レオンたちを不要と判断した。

 

 それでも、ここへ帰っていいのか。

 

 その問いが、顔に出ていた。

 

 ガルドが扉を開けた。

 

「入れ」

 

 ルシェルは声を出せない。

 

 セレスが言う。

 

「おかえりなさい」

 

 ルシェルの目から涙が落ちた。

 

 蒼銀の残光を受けて、青く見えた。

 

 レオンが支えながら言う。

 

「帰る場所だ」

 

 ルシェルは、かすれた声で言った。

 

「……壊したかもしれない」

 

 クラウスが答えた。

 

「壊れていない。修復するものはあるが、君の帰る場所は壊れていない」

 

「ボクが」

 

「壊していない」

 

「でも」

 

 レオンが言う。

 

「入る」

 

 ルシェルは、抵抗しなかった。

 

 王都館へ戻った。

 

 ただし、戻っただけだった。

 

 蒼銀はまだ残っている。

 

 恐怖も残っている。

 

 罪悪感も残っている。

 

 事件は終わっていない。

 

 止められたのは、暴走の第一波だけ。

 

 ルシェルの中に残った蒼銀と、消えようとした心は、まだ完全には戻っていなかった。

 

     ◇

 

 その夜。

 

 ルシェルの部屋の扉は、開いていた。

 

 レオンは椅子一個分の距離にいた。

 

 セレスは扉の外。

 

 ガルドは廊下にスープ。

 

 クラウスは机の上に一枚の紙を置いた。

 

『本日の報告:未完。

 本人、王都館へ帰還。

 蒼銀残光あり。

 閉じることを急がない。

 暴走の責任を本人へ帰さない。

 ひとりにしない。』

 

 ルシェルはその紙を見た。

 

 声は出なかった。

 

 ただ、布団の中から手を伸ばし、紙の端を掴んだ。

 

 持った。

 

 それだけ。

 

 ガルドが小さく言った。

 

「よし」

 

 ルシェルは泣いた。

 

 声を出さずに。

 

 蒼銀の残光が、部屋の壁に薄く揺れていた。

 

 誰も、それを綺麗だとは言わなかった。

 

 誰も、役に立つとは言わなかった。

 

 ただ、消えないように見ていた。

 

 今夜はまだ、閉じられない。

 

 終わらない。

 

 けれど、王都館の中で、椅子一個分の距離だけは戻っていた。

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