TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
旧補助棟の中で、ルシェルは泣いていた。
けれど、その涙を見ている者たちは、もう涙として見ていなかった。
蒼銀の出力変化。
感情反応。
照合効率。
結界石への干渉。
紙に書かれる言葉は、そういうものばかりだった。
誰かが言った。
「安定率が上がっている」
誰かが答えた。
「涙に反応しているのかもしれない」
また別の誰かが、息を呑んだ。
「このままなら、北西区の小結界網にも応用できる」
ルシェルは、その言葉を聞いていた。
聞いていたはずだった。
でも、もう意味が遠かった。
帰りたい。
怖い。
役に立たなきゃ。
帰りたい。
小さく。
畳め。
閉じる。
声がない。
椅子一個分がない。
誰も、ルシェル・ノアを呼ばない。
見られているのは、蒼銀だけ。
なら、それでいい。
そう思った瞬間、ルシェルの内側で何かが静かに外れた。
◇
最初に変わったのは、目だった。
黒灰の瞳の奥に宿っていた蒼銀が、膜のように広がった。
瞳孔の輪郭が淡くほどける。
まばたきが遅くなる。
涙は止まった。
表情も止まった。
怯えた顔も、泣きそうな顔も、そこから薄れていく。
残ったのは、澄みすぎた顔だった。
人の感情が削れ落ちて、光だけが形を保っているような顔。
髪が、ふわりと浮いた。
灰銀の髪の一本一本に、蒼銀の線が走る。
毛先から小さな光粒がこぼれ、床へ落ちる前に消える。
指先の小灯は、もう小灯ではなかった。
手のひら全体へ広がり、腕を伝い、胸元へ、肩へ、髪へ、瞳へ流れていく。
結界石が震えた。
室内の古い式が一斉に目を覚ます。
誰かが歓喜の声を上げかけた。
「成功――」
その声は最後まで続かなかった。
蒼銀の光が、床を走った。
攻撃ではない。
浄化でもない。
ただ、障害物を「不要」と判断した光だった。
机が裂けた。
記録台が弾け飛んだ。
古い結界具が焼き切れるように白く砕けた。
人々は悲鳴を上げて後ずさった。
ルシェルは、その悲鳴に反応しなかった。
ただ、結界石へ手を伸ばした。
まるで、そこにある濁りだけを見ているように。
まるで、自分という輪郭をそこへ流し込もうとしているように。
◇
扉が破られた。
レオンが入った。
直後にガルド。
セレス。
クラウス。
少し遅れて、リーネと白環記録庫の封鎖班。
レオンは、部屋に入った瞬間、呼吸を忘れた。
ルシェルがいた。
確かにそこにいた。
でも、そこにいるのはルシェルではなかった。
身体はルシェルだ。
小柄な背。
細い腕。
灰銀の髪。
いつも半目で軽口を言う十五の子。
けれど、その顔には何もなかった。
恐怖もない。
怒りもない。
恥ずかしさもない。
レオンを見ても、何の反応もない。
蒼銀だけが、そこにいた。
「ルシェル」
レオンが呼んだ。
声は届かなかった。
ルシェルは結界石を見ている。
それ以外を、何も見ていない。
セレスが震える声で言う。
「意識が、沈んでる……」
リーネが結界具を展開しながら叫んだ。
「近づかないでください! 蒼銀が周囲を不要式として処理しています!」
ガルドが顔を歪める。
「不要式だと」
クラウスは、砕けた記録台と床の光を見て、歯を食いしばった。
「彼女が判断しているんじゃない。蒼銀が、結界石の濁りを処理するために周囲を切り捨てている」
レオンは一歩踏み出した。
蒼銀が反応する。
床から細い光が立ち上がり、警告のようにレオンの前を遮った。
レオンは止まらない。
光が剣の鞘に触れ、白い煙を上げた。
セレスが叫ぶ。
「レオン!」
「止める」
レオンは短く言った。
「ここで止める」
◇
結界維持特別会の者たちは、隅に押しやられていた。
先ほどまで蒼銀を求めていた顔は、今は恐怖に歪んでいる。
そのうちの一人が叫んだ。
「暴走だ! 制御を!」
ガルドが振り返った。
その目だけで、男は黙った。
「お前らが呼んだ」
ガルドの声は低かった。
「見るなと言っただろうが」
男は震えながら言う。
「我々は、王都のために――」
ガルドは一歩踏み出した。
殴らなかった。
殴らなかったことが、むしろ怖かった。
「黙れ」
それだけで十分だった。
クラウスが封鎖班へ命じる。
「関係者全員を室外へ。記録器具は押収。蒼銀反応の測定紙はすべて封鎖。本人の苦痛を出力記録として扱うな」
ミーナが駆け込んできた。
室内の光景を見て、顔が青ざめる。
だが、すぐに筆を取る。
書くべきものと、書いてはいけないものを選ぶために。
エルヴィンも到着した。
彼は、ルシェルを一目見て、目を細めた。
蒼銀にではない。
そこからルシェルが消えかけていることに。
「本人を戻せ」
エルヴィンは言った。
命令の相手は、レオンたちだけではない。
その場にいる全員へ向けた、硬い宣言だった。
「結界石より先に、本人を戻せ」
◇
ルシェルは、結界石へ手を触れた。
その瞬間、補助棟全体が震えた。
濁った結界石の中へ、蒼銀が流れ込む。
普通の浄化なら、濁りをほどく。
第三石室でやったように、照らし、見えるようにし、切り離す。
だが、今の蒼銀は違った。
ほどくのではない。
押し流そうとしている。
濁りも、古い式も、周辺の補助構造も、全部まとめて消し飛ばそうとしている。
効率だけを見れば、早い。
乱暴なほど早い。
そして、危険だった。
結界石が割れれば、北西区外縁の小結界網が一時的に落ちる。
近隣の結界へ衝撃が走る。
さらに、ルシェル自身の蒼銀も一気に消耗する。
リーネが叫んだ。
「このままでは石ごと飛びます!」
セレスが防護を広げる。
「外へ漏らさない!」
クラウスが封鎖班へ指示する。
「外周結界! 記録庫式の封鎖紙を床へ!」
ガルドは、砕けた机の破片を蹴り飛ばし、ルシェルへ近づくための道を作る。
レオンは、蒼銀の圧の中を進む。
一歩。
また一歩。
光が皮膚を裂くように痛む。
だが、止まらない。
「ルシェル」
呼ぶ。
返事はない。
「ルシェル・ノア」
返事はない。
瞳は結界石だけを映している。
その目に、レオンはいない。
誰もいない。
◇
セレスは、泣きそうになるのを堪えた。
今泣いている場合ではない。
彼女は魔術を細く伸ばし、ルシェルの周囲に柔らかい境界を作る。
閉じ込めるのではない。
押さえつけるのでもない。
蒼銀が広がる場所を少しだけ分ける。
人を傷つけない方向へ逃がす。
「ルシェル、聞こえる?」
声を乗せる。
魔術ではなく、言葉として。
「セレスよ」
反応はない。
「あなたが困るって言った声よ」
それでも反応はない。
セレスは唇を噛む。
昨日なら、ルシェルは顔を赤くして何か言ったかもしれない。
優しい声が困る、と。
今は、それすら出ない。
出ないことが、こんなに怖い。
セレスはもう一度声をかける。
「本音瘴気症の時、言ってくれたこと、必要な分だけ覚えているわ」
蒼銀が、一瞬だけ揺れた。
ほんのわずか。
見間違いかもしれないほど。
だが、セレスは見逃さなかった。
「レオンが外にいると寂しいって言ったでしょう」
レオンが一瞬だけ目を見開く。
セレスは続ける。
「今、外ではないわ。中にいる。椅子一個分より近いところまで、来ようとしている」
蒼銀がまた揺れた。
結界石へ流れ込む光が、わずかに乱れる。
ルシェルの指が震えた。
レオンは、その一瞬に賭けた。
◇
レオンが踏み込む。
蒼銀が彼を遮る。
腕に光が走る。
痛み。
焼けるような痛み。
だが、それは殺すための光ではない。
遠ざける光。
不要と判断したものを、外へ押し出す光。
レオンは、それに逆らった。
「俺は不要じゃない」
低く言う。
ルシェルには聞こえていないかもしれない。
でも、言う。
「君が不要だと思っても、俺は残る」
光が強くなる。
レオンは歯を食いしばる。
ガルドが後ろから支えた。
「行け」
「すまない」
「謝るな」
ガルドは片腕で蒼銀の圧を受け、顔を歪めた。
セレスの防護が重なる。
リーネの結界具が床を固定する。
クラウスの封鎖紙が、光の流れを少しだけ鈍らせる。
全員で、レオンが近づく道を作った。
レオンは、ルシェルの腕へ手を伸ばす。
触れる。
その瞬間、蒼銀が鋭く跳ねた。
レオンの手の甲が裂ける。
血が滲む。
だが、レオンは手を離さなかった。
「ルシェル」
近くで呼ぶ。
「戻れ」
◇
ルシェルの目は、まだ蒼銀だった。
けれど、奥のどこかで、小さく揺れた。
戻れ。
その声。
知っている。
誰の声か、分からない。
分からないけど、知っている。
蒼銀は結界石を浄化しようとしている。
効率よく。
早く。
強く。
役に立つために。
邪魔なものは消す。
怖さも。
迷いも。
寂しさも。
ルシェル・ノアも。
そうすれば、役に立つ。
価値がある。
必要とされる。
けれど、遠くで声がする。
戻れ。
小さく。
畳め。
食え。
後日回答。
椅子一個分。
水が怖くないように。
保留箱ver2。
役に立つか否かを、存在価値の判断に用いない。
声が、紙が、食事が、距離が、ばらばらに浮かんでくる。
蒼銀は、それらを不要と判断しようとした。
だが、うまく消せなかった。
消せない。
なぜなら、それらはルシェルが残したものだったから。
◇
レオンは、ルシェルの手首を掴んでいた。
強く掴みすぎない。
だが、離さない。
「ルシェル、聞け」
返事はない。
「君は蒼銀じゃない」
反応は薄い。
「蒼銀だけで残るな」
ルシェルのまつ毛が震えた。
セレスが息を止める。
ガルドが低く言う。
「続けろ」
レオンは続けた。
「役に立たなくていい、とは言わない」
セレスが驚いてレオンを見る。
レオンはルシェルだけを見ている。
「今それを言えば、君には消えていいと聞こえる」
ルシェルの瞳の蒼が揺れた。
「だから、別のことを言う」
レオンの声は、低く、重く、まっすぐだった。
「役に立ちたいまま、戻れ」
蒼銀が、大きく揺れた。
結界石への流れが乱れる。
リーネが叫ぶ。
「今です! 外側を閉じます!」
セレスが防護を強める。
クラウスが封鎖紙を追加する。
ガルドが床を踏み締める。
レオンはさらに言う。
「役に立ちたい気持ちごと、戻れ。怖いまま戻れ。蒼銀を持ったまま戻れ。消えてから戻ろうとするな」
ルシェルの唇が、わずかに動いた。
声は出ない。
けれど、形だけが見えた。
むり。
レオンは即座に返した。
「無理なら、持つ」
蒼銀が弾けた。
◇
部屋全体が白く染まった。
一瞬、何も見えなくなる。
音も消える。
次に聞こえたのは、結界石が割れる音ではなかった。
水滴のような音だった。
ぽたん。
ルシェルの胸元、小袋の中。
雨雫。
馬車へ連れ出された時、ルシェルは小箱の中に置いてきたはずだった。
いや、違う。
昨夜から、胸元に入れたままだった。
不安だったから。
忘れていた。
雨雫が、蒼銀の中で鳴った。
ぽたん。
その音は、水路の呼び声ではない。
第三石室の返事でもない。
ただ、ルシェルが何度も聞いた、小さな音。
怖くない音。
ルシェルの瞳が揺れる。
焦点が、ほんの少し戻る。
蒼銀の膜の奥に、黒灰の色が滲む。
レオンが呼ぶ。
「ルシェル」
今度は、ほんのかすかに、唇が動いた。
「……レオン」
声になった。
小さな声。
壊れそうな声。
だが、確かにルシェルの声だった。
セレスが泣きそうになる。
ガルドが息を吐く。
クラウスが、筆を持つ手を止める。
リーネが叫ぶ。
「畳んでください! 完全に閉じなくていい、まず結界石から離して!」
レオンが言う。
「小さく」
ルシェルが震える。
「できない」
「一緒にやる」
「できない」
「俺が持つ。君が畳む」
「むり」
「むりでも、一つ」
ガルドが言う。
「畳め」
その声に、ルシェルの肩が震えた。
「本家……」
「畳め」
セレスが言う。
「急がなくていいわ。一枚だけ」
クラウスが言う。
「全部ではなく、一段階」
リーネが言う。
「結界石から手を離します」
レオンが、ルシェルの手を支えたまま、ゆっくり石から離す。
蒼銀が抵抗する。
だが、ルシェルの指が動いた。
ほんの少し。
石から離れる。
蒼銀の流れが切れる。
結界石が大きく震え、白い光を放った。
割れなかった。
◇
ルシェルは、その場に崩れ落ちた。
レオンが抱き止める。
今度は、触れる許可を取れなかった。
取れる状態ではなかった。
ルシェルは拒まなかった。
拒む力もなかった。
髪の蒼銀はまだ消えない。
瞳にも残っている。
手のひらには淡い光が残り、呼吸に合わせて揺れている。
「閉じられない」
ルシェルが呟く。
「閉じられない、閉じられない、閉じられない」
セレスがそばに膝をつく。
「閉じなくていい。今は、石から離れた」
「閉じられない」
「一段階できたわ」
「暴走した」
声が震える。
「ボク、暴走した。蒼銀だけになった。皆を、不要って」
レオンが低く言う。
「戻った」
「戻ってない」
「声が戻った」
「でも」
「後日回答」
ルシェルは泣きそうに顔を歪める。
「後日回答、多すぎ」
「今日は多くていい」
ガルドが言う。
「生きてる」
ルシェルは目を見開く。
ガルドは続けた。
「戻った。生きてる。今はそれでいい」
ルシェルは声を詰まらせる。
「本家、重い」
「重くていい」
レオンが、ルシェルを支えたまま言う。
「帰るぞ」
ルシェルは、首を横に振ろうとした。
だが、力がない。
「帰っていいの?」
その問いに、全員が凍った。
セレスが泣きそうな声で言う。
「いいに決まってる」
ルシェルは目を伏せる。
「決まってない」
レオンが言う。
「決まってる」
「また迷惑を」
「帰る」
「でも」
「帰る」
ガルドが言う。
「食う」
クラウスが言う。
「記録上も、王都館帰還を最優先」
セレスが言う。
「扉を開けて待っている」
リーネが言う。
「残光のまま運びます。無理に閉じません」
ルシェルは、もう返せなかった。
ただ、レオンの外套を掴んだ。
それが、帰りたいという返事だった。
◇
結界維持特別会の者たちは、その場で拘束された。
今回は、暫定では済まなかった。
エルヴィンの声が補助棟に響く。
「本人を王都館から切り離した上で、偽装通達を用い、心理的誘導により蒼銀を発現させた。さらに、本人苦痛を出力維持要素として観察した」
男の一人が震えながら言う。
「結界石は安定しました」
エルヴィンは、男を見た。
「結果で違反は消えないと言ったはずだ」
「しかし、王都の」
「王都の名を使うな」
その一言は、昨日より冷たかった。
「本件は利用未遂ではない。利用実行だ」
ミーナが筆を走らせる手を震わせる。
若い書記は涙を堪えながら、封鎖紙を貼っている。
エルヴィンは続けた。
「関係者全員、職務停止では足りない。聴取ではなく査問へ送る。偽装通達作成者、印章使用者、現場責任者、全員の権限を即時凍結。蒼銀関連記録への閲覧権限も停止」
クラウスが頷く。
「王都館からも正式告発を出す」
「受理する」
エルヴィンは即答した。
そして、床に残る蒼銀の焦げ跡を見る。
綺麗な光の痕跡。
彼は、それを美しいとは書かなかった。
ただ、こう書いた。
『本人保護条件不在のため、蒼銀暴走。本人意識低下。周囲認識喪失。
原因:心理的誘導、隔離、支援者切り離し、偽装手続き。
本人責任として扱わない。』
◇
王都館へ帰る馬車の中、ルシェルはほとんど話さなかった。
髪はまだ淡く光っている。
瞳も、ときおり蒼く揺れる。
完全には戻っていない。
セレスは隣で防護を薄く張っている。
リーネは向かいで残光を見ている。
ガルドは窓側に座り、外から見えないようにしている。
クラウスは紙を伏せている。
レオンは、ルシェルを支えている。
ルシェルは小さく言った。
「ボク、皆を不要って」
レオンが答える。
「君じゃない」
「ボクの蒼銀」
「君が我を忘れていた」
「でも、ボクの」
「後日回答」
ルシェルは目を閉じる。
「後日回答で棚が折れる」
ガルドが言う。
「なら箱を大きくする」
ルシェルは、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑いには届かない。
でも、完全な無反応ではない。
レオンはそれを、必要な分だけ覚えた。
◇
王都館の玄関で、ルシェルは足を止めた。
前回よりも、さらに動けなかった。
暴走した。
我を忘れた。
蒼銀だけになった。
レオンたちを不要と判断した。
それでも、ここへ帰っていいのか。
その問いが、顔に出ていた。
ガルドが扉を開けた。
「入れ」
ルシェルは声を出せない。
セレスが言う。
「おかえりなさい」
ルシェルの目から涙が落ちた。
蒼銀の残光を受けて、青く見えた。
レオンが支えながら言う。
「帰る場所だ」
ルシェルは、かすれた声で言った。
「……壊したかもしれない」
クラウスが答えた。
「壊れていない。修復するものはあるが、君の帰る場所は壊れていない」
「ボクが」
「壊していない」
「でも」
レオンが言う。
「入る」
ルシェルは、抵抗しなかった。
王都館へ戻った。
ただし、戻っただけだった。
蒼銀はまだ残っている。
恐怖も残っている。
罪悪感も残っている。
事件は終わっていない。
止められたのは、暴走の第一波だけ。
ルシェルの中に残った蒼銀と、消えようとした心は、まだ完全には戻っていなかった。
◇
その夜。
ルシェルの部屋の扉は、開いていた。
レオンは椅子一個分の距離にいた。
セレスは扉の外。
ガルドは廊下にスープ。
クラウスは机の上に一枚の紙を置いた。
『本日の報告:未完。
本人、王都館へ帰還。
蒼銀残光あり。
閉じることを急がない。
暴走の責任を本人へ帰さない。
ひとりにしない。』
ルシェルはその紙を見た。
声は出なかった。
ただ、布団の中から手を伸ばし、紙の端を掴んだ。
持った。
それだけ。
ガルドが小さく言った。
「よし」
ルシェルは泣いた。
声を出さずに。
蒼銀の残光が、部屋の壁に薄く揺れていた。
誰も、それを綺麗だとは言わなかった。
誰も、役に立つとは言わなかった。
ただ、消えないように見ていた。
今夜はまだ、閉じられない。
終わらない。
けれど、王都館の中で、椅子一個分の距離だけは戻っていた。