TS転生見習い浄化師は過保護に愛される――――なお、仲間は曇る模様―――― 作:カヨウ
王都には、魔物がいる。
瘴気獣ではない。
牙もない。
爪もない。
唸り声も上げない。
けれど、確実に人の体力を削る。
その名を、書類という。
「……紙が多い」
朝食後、案内された小会議室で、ボクは机の上を見てそう言った。
机の上には、紙。
紙。
紙。
さらに紙。
積まれているというほどではない。
たぶん、王都基準では少ない方なのだろう。
でも、見習い浄化師一人の登録にしては多くないだろうか。
クラウスは机の向こうで淡々と言った。
「登録に必要なものだけだ」
「必要が多い」
「王都なので」
「王都、免罪符みたいに使われてる」
「便利だ」
「認めた」
クラウスの横には、若い書記官が一人控えている。
昨日の結界塔で通達書を持ってきた人とは別の人だ。
緊張した顔で、筆と控え紙を持っている。
レオンはボクの右斜め後ろ。
セレスは隣。
ガルドは扉の近く。
もう見慣れてきた配置だった。
扉の近くにガルドがいるだけで、部屋の防御力が三割くらい上がっている気がする。
「本日は登録書類の確認のみだ」
クラウスが言った。
「蒼銀発現確認は行わない。結界塔への移動もない。追加検査もない」
「最初に全部言ってくれるの助かる」
「昨日の記録に、予定変更を嫌がる傾向ありとある」
「書かれてる」
「必要事項だ」
「ボクの嫌がり方まで書類化されてる」
「書類化しておけば、無駄な予定変更を防げる」
「書類、味方になると強い」
「敵に回すと面倒だ」
「知ってそうな顔」
「知っている」
クラウスは表情を変えずに言った。
この人、たぶん冗談を言っている時も顔が変わらない。
分かりづらいが、少し面白い。
◇
登録確認は、まず氏名から始まった。
「これから氏名を一度読み上げる」
クラウスが言う。
「呼称確認だ。術式ではない。返事はすぐでなくてよい」
「事前説明が丁寧」
「水鏡の件を記録している」
「書類の人、強い」
「褒め言葉として受け取る」
クラウスは紙に目を落とした。
「ルシェル・ノア」
名前が呼ばれる。
身体は少しだけ反応した。
でも、水鏡のような引っ張られる感覚はない。
紙の上の名前。
目の前の人の声。
この部屋の中だけで完結している。
ボクは一拍置いてから答えた。
「はい」
「確認」
クラウスが筆を動かす。
それだけだった。
名前は、ただ名前として扱われた。
それだけで、少し肩の力が抜けた。
「大丈夫?」
セレスが小声で聞く。
「うん。紐じゃなかった」
「そう」
「ただの音だった」
「よかった」
ボクは胸元の雨雫を指で押さえた。
ころん、と内側で小さく揺れる。
今日もある。
大丈夫。
たぶん。
◇
次に、所属の確認。
ノア浄化院。
見習い浄化師。
師事記録。
浄化実績。
クラウスが読む。
ボクが間違いを直す。
若い書記官が控えを取る。
「近隣の小祠浄化、六件」
「たぶん七件」
クラウスが顔を上げる。
「七件?」
「南の畑の横にある、倒れた祠。あれも院長先生に付き添って浄化した」
「記録にない」
「院長先生、書類忘れたかも」
「あり得るな」
「あり得るんだ」
「辺境の浄化院では、実地が優先されることが多い」
「王都と逆」
「そうだ」
クラウスは若い書記官へ目を向ける。
「備考に追記。南畑脇の小祠浄化。詳細はノア浄化院へ照会」
「はい」
若い書記官が慌てて書く。
ルシェルの記憶は、書類に残っていないことが多い。
井戸が少し濁ったから見に行った。
畑の端に黒い靄が出たから祓った。
旅人が具合を悪くしたから小さな祠を整えた。
大きな仕事ではない。
でも、なかったことではない。
「書類にないと、やってないことになる?」
ボクが聞くと、クラウスは少し考えた。
「王都では、そう扱われることがある」
「嫌な正直さ」
「だから追記する」
「書類、怖いけど便利」
「そうだ」
クラウスはまた筆を動かした。
紙の上に、ボクの知っている小さな祠が一つ増えた。
それは少しだけ、不思議な感じがした。
◇
登録の途中で、職務範囲の説明になった。
「見習い浄化師として登録されると、王都および周辺地域から依頼が来る場合がある」
クラウスが言った。
「ただし、見習い単独での大規模浄化は認められない。正式浄化師の同伴が必要だ」
「見習い保護規定」
「そうだ」
「いい規定」
「守られればな」
「不穏な注釈」
「規定は守らせる必要がある」
クラウスの声は淡々としている。
けれど、その言葉には少しだけ重みがあった。
レオンが腕を組む。
「今回のルシェルへの依頼は、当面どうなる」
「登録完了後も、最低一週間は休養および王都環境への慣れを優先。浄化依頼への同行は任意。本人同意がない限り、派遣なし」
「本人同意」
ボクは繰り返した。
「同意って、どのくらいのやつ?」
クラウスがこちらを見る。
「どういう意味だ」
「例えば、ボクが『まあ、必要なら』とか『たぶん大丈夫』って言ったら、それは同意になる?」
部屋が少し静かになった。
セレスが目を細める。
レオンも黙っている。
ガルドは扉の前からこちらを見た。
クラウスはしばらく考えてから、若い書記官へ言った。
「今の質問を記録」
「はい」
「え、書くの?」
「重要だ」
「質問しただけなのに」
「質問は扱いを決める材料になる」
クラウスは改めてボクを見る。
「『必要なら』は同意として弱い。『たぶん大丈夫』も同様だ」
「じゃあ?」
「本人が、内容、場所、時間、同行者、撤退条件を理解したうえで、『行く』と言った場合に同意とする」
「撤退条件まで?」
「必要だ」
セレスが静かに頷いた。
「それは大事ね」
レオンも言う。
「途中でやめられるかどうかは、先に決めた方がいい」
ガルドが短く続ける。
「戻る道も必要だ」
三人が普通にそう言う。
大げさに守るというより、旅の段取りとして。
それが少し意外だった。
「……王都、書類は多いけど、たまにまとも」
「たまにか」
クラウスが言う。
「今のところ」
「評価が低い」
「伸びしろ」
「便利な言葉だな」
「でしょ」
若い書記官が小さく笑いそうになり、慌てて口を結んだ。
◇
次は、蒼銀に関する登録欄だった。
ここで、部屋の空気が少し変わった。
クラウスは書類を一枚めくる。
「発現色は蒼銀。初回確認では手のひら上に微弱発現。王都外郭結界への反応あり」
「書いてある」
「ここまでは確認済みだ」
「はい」
「ここからは、未確認事項の扱いを決める」
「未確認事項」
嫌な響きだ。
クラウスは読み上げる。
「髪との関連、未確認。血液との関連、未確認。声との関連、未確認。名前との関連、未確認。結界同調率、未確認」
「未確認だらけ」
「確認していないからだ」
「当たり前だけど圧がある」
「当面、確認予定なしと記載する」
「本当に?」
「本当に」
クラウスはその場で書いた。
『上記項目、本人到着直後につき確認予定なし。必要性が生じた場合も、本人への事前説明と同意を要する』
書かれていく文字を見る。
血。
髪。
声。
名前。
水鏡のことが頭をよぎる。
呼ばれる名前。
引かれる感覚。
ボクは雨雫を握った。
「声とか名前って、やっぱり蒼銀と関係あるの?」
聞くと、クラウスはすぐには答えなかった。
代わりにセレスを見る。
セレスは少し考えてから言った。
「はっきりは分からないわ。ただ、古い術では名前を通して力に触れるものもある。声で発現を安定させる浄化師もいる」
「それは普通?」
「珍しくはない。でも、危険もある」
「水鏡みたいに?」
「そう」
クラウスが続ける。
「だから、確認は慎重に行う必要がある。興味だけで触れる分野ではない」
「興味だけ」
その言葉に、少しだけ胸がざわついた。
興味。
王都には、ボクの蒼銀に興味がある人がいる。
それは悪いことではないのだろう。
でも、興味を持たれる側は、少し怖い。
「ルシェル」
レオンが声をかけた。
近すぎない、いつもの距離。
「今日は書くだけだ」
「うん」
「出さなくていい」
「うん」
蒼銀は出ていない。
けれど、手の奥が少し熱くなっていた。
ボクは息を吐く。
「蒼銀、休業中」
小さく言う。
手の熱は少し引いた。
クラウスの筆が止まる。
「今の発言も記録するか?」
「え、いる?」
「本人の言葉で発現抑制が可能な可能性あり」
「なんか急に研究っぽくなるから嫌」
「では記録しない」
「そこは聞くんだ」
「本人が嫌がる記録は、必要性がなければ避ける」
クラウスは平然と言った。
その平然さが、少し不思議だった。
王都は全部を記録したがるのかと思っていた。
でも、この人は記録しないことも選ぶらしい。
「じゃあ、今のは雑談扱いで」
「承知した」
「書類の人が雑談を承知した」
「必要に応じて雑談もする」
「できるんだ」
「失礼だな」
若い書記官が今度こそ少し笑った。
◇
昼前には、登録確認は終わった。
実際には、全部の書類が完成したわけではないらしい。
王都側の印章。
浄化院への照会。
師事記録の確認。
見習い派遣範囲の設定。
まだまだ続くらしい。
ただ、今日ボクが座って確認する分は終わりだった。
「書類、持久戦だった」
ボクが机に伏せそうになりながら言うと、クラウスが紙を揃えた。
「よく持った」
「褒められた?」
「褒めている」
「書類の人に褒められた」
「妙な称号を定着させるな」
「もう手遅れかも」
クラウスは小さく息を吐いた。
たぶん、少し困っている。
でも、怒ってはいない。
リーネもそうだったが、王都にも話せる人はいる。
王都全体が怖いわけではない。
ただ、大きくて、部署が多くて、こちらを見てくる人が多いだけ。
それを怖いと言うのかもしれないけど。
「午後は予定なし」
クラウスが言った。
「休養を推奨する」
「また推奨」
「命令ではない」
「でも断る理由がない」
「その通り」
「王都の正論、じわじわ来る」
レオンが立ち上がる。
「戻るぞ」
「はいはい」
「はいは一回」
「本日のはい指導、一回目」
ガルドが扉を開ける。
「昼は部屋か」
「部屋がいい」
「分かった」
ガルドは頷いた。
短い。
でも、通じる。
◇
部屋へ戻る途中、廊下でリーネに会った。
彼女は書類束を抱えていた。
「登録確認、お疲れさまでした」
「書類の魔物と戦ってきました」
「強敵でした?」
「多かった」
「それは強敵ね」
リーネは笑った。
その横を、二人の浄化師見習いらしき少年少女が通りかかる。
ボクと同じくらいの年齢か、少し上くらい。
青い腕章をつけている。
彼らはボクを見て、足を止めかけた。
「蒼銀の……」
小さな声。
リーネがすぐに振り向いた。
「見習い浄化師のルシェルさんです」
声は柔らかい。
でも、訂正ははっきりしていた。
少年たちは慌てて頭を下げる。
「失礼しました」
「いえ」
ボクは少し迷ってから言った。
「見習い同士なので、たぶん同業者」
少年が少し顔を上げる。
「同業者」
「蒼銀部門はまだ仮配属」
「かり……?」
「気にしないで」
少女の方が小さく笑った。
「変な人」
「よく言われ始めてる」
「始めてるんですか」
「最近、急速に」
リーネが口元を押さえる。
レオンは横で少し困った顔。
ガルドは通常運転。
少年少女たちは、最初の緊張が少し抜けたようだった。
「その、蒼銀って、痛かったりしますか」
少年が聞いた。
リーネが止めようとしたが、ボクは手を上げた。
「今のところ、痛くはない」
答えられる範囲だ。
「でも、疲れる。あと、勝手に働く気を出す時がある」
「勝手に?」
「働き者すぎる」
少女が目を丸くする。
「光が?」
「うん。だから休業を教えてる」
「休業」
「便利だよ」
少年少女は顔を見合わせ、それから少し笑った。
蒼銀という言葉を見ていた目が、少しだけこちらへ戻った気がした。
リーネが静かに言う。
「二人とも、そろそろ訓練の時間よ」
「はい」
「失礼しました」
二人は頭を下げて去っていった。
背中が遠ざかる。
ボクは少しだけ息を吐いた。
「大丈夫?」
セレスが聞く。
「うん。今のは大丈夫」
「そう」
「蒼銀じゃなくて、ちょっと変な見習いとして処理された感じ」
「それはいいことなの?」
「たぶん」
レオンが小さく言う。
「君は変ではある」
「真顔で言う?」
「褒めている」
「本当に?」
「半分くらい」
「使いこなしてきた」
レオンが少しだけ笑った。
◇
昼食は部屋で食べた。
王都の白パンと、野菜のスープ。
それから、ガルドがまたどこからか調達してきた焼き菓子。
「ガルド、菓子の調達経路が謎」
「食堂にあった」
「普通だった」
「食え」
「食べる」
焼き菓子は薄く焼いた生地に、甘い木の実の粉を挟んだものだった。
「王都菓子、層がある」
「層?」
「なんか偉い」
「そうか」
ガルドは納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。
午後は本当に何もなかった。
セレスは本を読む。
レオンは剣の手入れをする。
ガルドは椅子に座っているだけで部屋の守備力を上げる。
ボクは雨雫を机の上で転がしていた。
ころん。
ころん。
音が小さい。
でも、静かな部屋ではよく聞こえる。
「飽きないのか」
レオンが聞いた。
「意外と飽きない」
「石を転がしているだけだろう」
「役に立たないところがいい」
「そうか」
「役に立つものは、役に立たなきゃいけないから疲れる」
言ってから、少し黙った。
そんなことを言うつもりではなかった。
レオンも手を止める。
セレスは本から顔を上げない。
でも、聞いている。
ガルドも目を閉じているが、たぶん聞いている。
ボクは雨雫を指で止めた。
「今の、深い意味はない」
「そうか」
レオンは短く答えた。
それだけ。
深く聞かない。
助かった。
「でも、少し分かる」
セレスが静かに言った。
「役に立つものは、期待されるものね」
「うん」
「雨雫は、期待しない?」
「しない。石だし」
「石だものね」
「うん。だから優秀」
レオンが首を傾げる。
「優秀なのか」
「働かない優秀さ」
「難しいな」
「レオンには難しいかも。真面目だから」
「真面目だと分からないのか」
「たぶん」
「なら、覚えておく」
「覚えるんだ」
「君が大事そうにしているからな」
その言い方が、少しだけ胸に残った。
蒼銀だからではない。
役に立つからではない。
ボクが大事そうにしているから、覚えておく。
そういう扱い方があるらしい。
「……レオン、今日の真面目評価高め」
「仮採用は?」
「延長」
「まだか」
「長期審査なので」
「分かった」
◇
夕方、窓の外で鐘が鳴った。
王都の空は赤く染まり、外郭結界がその光を薄く受けている。
透明な膜が、夕焼けを少しだけ青白くしていた。
綺麗だ。
でも、少し遠い。
「王都の空って、加工済みみたい」
ボクが言うと、セレスが首を傾げた。
「加工?」
「そのままじゃなくて、一枚何か通してる感じ」
「結界を通しているから、間違ってはいないわ」
「じゃあ正しい表現」
「そうね」
窓を開けると、遠くから街の匂いが入ってくる。
パンの匂い。
煙。
石の冷たさ。
人の声。
王都に来て三日目。
まだ慣れない。
でも、初日ほどではない。
今日は書類と戦って、名前を呼ばれて、蒼銀を出さずに済んで、見習いの子たちと少し話した。
大きな出来事ではない。
でも、何かが少しずつ積まれている。
「明日は?」
ボクが聞くと、レオンが答えた。
「午前に簡単な装備確認。午後は未定だが、予定は入れないよう伝えてある」
「装備確認」
「旅道具や浄化道具の確認だ。足りないものがあれば市で買う」
「市」
市という言葉に、胸元の雨雫へ意識が向いた。
この石も、市でレオンに買ってもらった。
使わなくていいもの。
だからいいもの。
「王都の市は大きい?」
「大きい」
「人も多い?」
「多い」
「危険」
「無理なら行かない」
「装備は?」
「必要なものだけ頼める」
「便利だけど、ちょっと見たい」
言ってから、少し驚いた。
見たい。
自分からそう言った。
必要だからではなく、少し見たい。
レオンも気づいたのか、こちらを見る。
「なら、短く行くか」
「短時間観光業務」
「装備確認だ」
「半分観光」
「また半分か」
「人生はだいたい半分」
「大きく出たな」
セレスが笑う。
「明日の体調を見て決めましょう」
「うん。仮予定」
「仮予定ね」
予定は怖い。
勝手に増えると嫌だ。
でも、自分で置いた仮予定なら、少し違う。
明日、市を見る。
必要なものも見る。
必要ではないものも、少しだけ見る。
買うかどうかは分からない。
でも、見る。
それくらいなら、できるかもしれない。
◇
夜、枕元に雨雫を置く。
ころん、と音がした。
「おやすみ、雨雫」
いつものように言う。
今日はセレスだけでなく、レオンも部屋の入口近くにいた。
護衛交代の時間らしい。
聞こえたはずだ。
少しだけ恥ずかしい。
レオンは何も言わなかった。
しばらくして、小さく言う。
「よく働かない石だな」
ボクは布団の中で目を開けた。
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんを使いすぎると、ボクみたいになるよ」
「それは困るかもしれない」
「失礼」
「半分くらい」
セレスが小さく笑った。
ガルドが隣室で何か低く言った気がする。
たぶん、聞こえている。
部屋の空気が、少しだけ緩い。
王都の夜はまだざわめいている。
でも、この部屋の中だけは、少し小さい。
書類。
名前。
蒼銀。
同意。
未確認事項。
今日もいろいろ増えた。
でも、今は雨雫が枕元にある。
働かない石。
役に立たない優秀な石。
ボクはそれを見ながら、目を閉じた。
明日は、市へ行くかもしれない。
必要なものと、必要ではないものが並ぶ場所へ。
それを少しだけ楽しみにしている自分がいて。
そのことに、少しだけ驚きながら、眠った。