先生がいなくなって四年   作:kayanoki

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プロローグ

21


 

 八月三十日。

 強い日差しに輝く入道雲。急な坂道の先でゆらゆらと揺れる陽炎。うるさいくらいのセミの声。通り雨の後の切なくなるような風の匂い。

 その日は夏を構成する要素を全て備えていた。

 ただ蒸し暑いだけのなんでもない夏の一日だった。

 その日。

 僕は明日なんて来なければいいのにと、心から願っていた。

 明日が、僕の大切な場所を奪っていくだけのものだとしたら、そんな現実はいらないと。

 心の底から思っていた。

 

     *

 

「あの……誰かいませんか?」

 ノックをするが、返答はない。

「すみません」

 予想通り、まだ誰も来てないようだ。

 集合時間よりだいぶ余裕をもって来たのだから、それも当然だ。

 思わずため息をつく。

 単純に言うと、困っている。

 シャーレの事務室の鍵――もとい、IDカードは、家に忘れてきてしまった。

 ため息をつきつつドアに手を掛けると、あっけなく開いた。

「あれ、開いてる?」

 中に入ると、よく知っている人物が僕を出迎えてくれた。

小鳥遊(たかなし)先生……」

 なんとなく笑みが浮かぶ。少し嬉しい不意打ちだ。

 長机にパソコン、ゲーミングチェア、ロッカーにコーヒーメーカー、大きな窓。入り込んでくる強い日差し。

 いつも通りのシャーレオフィス。

 小鳥遊先生はいつも通りに昼寝をしていた。

「ふわ~ぁ……ずいぶん早いね~。他の人はまだ来てないよ~」

 先生は顔を上げずに、首だけこちらに向けて言った。

「はい。今日は特別な日なので……でも、先生は? 今日は仕事がない日ですし、ギリギリに来ると思っていました」

 シャーレで仕事がない日というのは、今まで存在しなかった。

 以前と比べてだいぶ平和になったらしいが、それならそれで別の仕事が振られて仕事量は減っていないとのこと(とある先輩談)。

 前任の先生はこの量を当番の子と二人でさばいていたらしいが……よほど仕事が出来る人間だったのだろう。

 だが……それも昨日までの話。

「そうしようと思ったんだけどさ~……今日でシャーレは解散するわけだし。腐っても先生だよ? そういう日くらい一番に顔出すよ~」

 ふわあ、とあくびを惜しげもなく披露する先生。

「……誰もいないと静かだよねー、この部屋も。あの子たちが揃うとうるさくてお昼寝もできないし。ずっとこのままがいいのにな~」

「シャーレの先生がそんなこと言ったらダメですよ」

「シャーレの先生なら、か……うん、そうだね~。少年の言う通りだ~」

 そんな先生の言葉にくすりと笑い返しながら、対面の席につく。

「本当に寝るの好きですよね。一日どれくらい寝てるんですか?」

「まあね~。でも寝てる時間は日によってまちまちだよ。少年ならそれくらい聞かなくても分かってるんじゃないかな」

 僕は先生から目を逸らし、日頃の仕事量を想起する。

 ……うっ、目眩が。

「すみません。意地が悪い質問でした」

「うんうん、分かればいいのだよ少年。そうやって人は大人になっていく……おじさんのように、ね」

 僕は曖昧な笑みを浮かべた。……いつも思うが、なんでこの人は自分のことをおじさんと言うのだろう。

 身長は百五十センチにも満たず、スタイルも……まあ、スレンダーな感じだし、おじさんとは程遠い。

「……あれ?」

「どうかしたんですか?」

 先生がごそごそとスカートのポケットをまさぐっている。何か落としたのだろうか。

「鍵がないかも。ほら、(くじら)のキーホルダーがついてるやつ」

「ああ、鍵を……って、やばくないですか? 前も失くしたって言ってみんなで探したばっかりじゃないですか」

「そんなこともあったね~」

「でもここに入るまであったなら、この部屋のどこかにありますよね。入った後にこの部屋は出ましたか?」

「ううん、出てないよ~」

 そんなことを言いながら、僕もつられて床に目をやった。

 今日で最後。

 そう思うと、こんな意味のないような会話が、やけに大切なものに感じられた。

 夏の日が差し込んで、散らかった室内を照らしている。

 シャーレオフィスの一角にある部屋。コーヒーメーカーが湯気を立てている。それ以外の音と言えば、外から聞こえてくる大ビジョンの広告CMと、セミの鳴く声だけだった。

 つまり、シャーレは驚くくらいにいつも通り。

 明日になればシャーレは廃部になって、この事務室ももう使えなくなってしまうなんて、全く信じられないくらいに……いつも通りだ。

「……これは、失くしちゃったかな~」

「見つかりませんね」

 先生は困ったように僕を見た。

 彼女の名前は小鳥遊(たかなし)ホシノ。

 連邦捜査部『シャーレ』の先生。アビドス高等学校の卒業生。

 小さい身なりをしているが、今年で二十二歳になる。ぶかぶかの白衣に、よれよれのワイシャツ。それから大きいアホ毛が目印だ。

 無気力、無関心を合言葉に放任主義と言う教育的理念を貫き通している、と本人は言う。

 その割には学園でのトラブルがあった際には急行するのだが……シャーレの先生をやっていれば、理念と行動に多少の矛盾は発生してしまうのだろう。

 去年の春から夏にかけ、色々な事情があって授業を受けることができなかった僕の専任講師をしてくれた人でもある。

 いい加減そうに見えるが、本当はすごく面倒見のいい優しい人だ。

 前任の先生がいなくなってもシャーレが存続できたのは、小鳥遊先生が他の学園に働きかけてくれたおかげ。

 ――しかし。

 キヴォトスの治安が良くなり、シャーレの廃部を連邦生徒会が発表したことにより、先生はこの夏でこの場を去ってしまう。

 連邦生徒会の他部署に転属という話もあったが、『やりたいことがあってね~』と言い、突っぱねたらしい。

 僕はそう聞いている。

 風の噂だ。

 先生に直接事情を聞けるほどの勇気は僕には無かった。

 ふと、気が付けば。

 先生がじっと僕を見つめている。

 夏の日差しを受けて輝くオッドアイの瞳が、不思議なほど澄んでいた。

 気まずさというか、なんとなく罪悪感を感じて、僕は目を逸らす。

「あの……なにか?」

「いや~? ずいぶん寂しそうだな~って思ってね」

 けれど、僕には慰めるように言った先生の方がよほど寂しそうに見えた。

「……気のせいですよ」

 小さく息をつく。

「コーヒー、入れましょうか」

 気持ちを改めて、そう提案してみる。

 先生は頷いて、ありがとね~と言ってくれる。

 僕は少しうれしくなって、コーヒーを入れる準備をした。

 しばらくして、紙コップにコーヒーを注ぐ音が静かな部室の空気を揺らす。

「そう言えばさ、今夜はシャーレにお泊りするって話は聞いてる?」

「お泊り、ですか……? どうして急に」

 そう言いながら、先生にコーヒーを渡す。

 先生はコーヒーを受け取りつつ、ため息をつく。

「クラフトチェンバーの謎が解明される、とか騒いでたよ。相変わらず、ヒマリちゃんの言うことはよく分かんないよね~」

 ああ、明星さんが。と僕は内心納得する。

「天才の考えることは分からないものなんですよ、きっと」

 明星さんの頭の中なんて、少なくとも僕には到底理解できそうにない。

「天才の前に【自称】を付けてあげなきゃ。なんとかと天才は紙一重って言うしね」

 あの人、仮にも【全知】っていうすごい学位の所有者だったって聞いたんですが。

 そう思う僕を尻目に、先生はコーヒーを一口飲み、それから窓の外を見た。

「でも……シャーレ最後の活動がお泊りって言うのも、悪くないね」

 僕も小さくうなずく。

 積まれている紙束に目をやると、ちょうどクラフトチェンバーに関する資料が見えた。

 謎の物体【クラフトチェンバー】。

 前任の先生が書いた報告書によると、シッテムの箱とやらを通じて起動することができ、あらゆる物体を生み出すことができるらしい。

 まるで大きな3Dプリンターのようなもの。

 しかし、現任である小鳥遊先生いわく、今では【ただの謎の物体】。

 唯一、前任との違いがあるとすれば、『完成しているか否か』であるらしい。

 らしいというのは、前任の先生以外、誰も未完成の状態を見たことがないのだ。

 ――ただ一人の目撃者は例外として。

 その例外である生徒の証言によると『私が最後に見た時はまだ未完成で、空中に破片と共にふわふわと浮いていた』というもの。

 シャーレができて前任の先生に活動を引き継いでからは、その先生にしか使えないもので、当時の生徒は誰一人としてクラフトチェンバーがある部屋を訪れなかったようだ。

 ……つまり今となっては謎の物体に他ならない。

 そんな何の役にも立たないだろう資料に目を通し、一息ついた後。

 先生の鍵について捜索を手伝った。

 鍵は結局、ロッカーの中で見つかった。

 片付けをしていた際に落としたのだろうという結論に至った。

 先生は再び惰眠を貪り始め、僕はそんな先生の姿をぼんやりと見つめ――。

 それから三十分後。

 

     *

 

「皆さん、時が来ました」

 今、シャーレの事務室は熱気に満ちている。

「今日ここに、キヴォトスの有史上最高の発見が成し遂げられます。喜びましょう、私たちは歴史の生き証人になるのですから」

 いや、正確には約一名の熱意が部室に満ちている、という表現が正しいだろうか。

「……みなさん? 歴史的大発見ですよ? 心が躍りませんか?」

 シャーレの副顧問である明星(あけぼし)ヒマリさんは、今日も元気だ。

 黙っていたら自称している通りとても美人なのだが、突飛すぎる言動から【変な人】という印象の方が強かったりする。

 また、身体が不自由なため、常に車いすと共にしている。

 ミレニアムサイエンススクールの卒業生で、天才ハッカー。在学当時からすごかったらしく、【全知】という学位まで所有していた……らしい。

 らしいというのも、ミレニアム史上で三人しか名乗ることを許されておらず、そもそも本当にそんな学位があるのか実在するのかも分かっていない。

 ある意味では、クラフトチェンバーと並ぶ謎なのかもしれない。

 そして意外なことに、小鳥遊先生と同い年の二十二歳。

 自分でよく美少女を名乗っているが、とても綺麗なお姉さん、というのが僕の正直な感想だ。

「また、ヒマリさんが変なこと言ってる~……ねえ、先輩もそう思うよね?」

 突然、机の対面にいる少女が僕に話を振ってきた。

「……話くらいは聞いてみてもいいんじゃないか。明星さんの話、結構面白いし。僕たちもおかげで退屈しないで済んでるし」

「だよねー! さすが先輩!」

 イブキが身を乗り出して僕の手を取る。

「やっぱり私は先輩のことが好き! イブキね、いつでも準備できてるよ!」

「ははっ、気持ちだけ受け取っておくよ」

 丁寧に頭を下げつつ、身を引く。

「……いつも通りあっさり断るんだね、先輩」

「イブキの冗談にも、さすがにもう慣れたからな」

 冗談じゃないんだけど……と肩を落とす彼女はシャーレ所属一年目の十五歳で、僕の後輩。

 そしてもう数えきれないくらい、僕に告白じみた事を言ってくる娘でもある。

 最初は驚いたりもしたが、すぐに本心からのモノでないのだと気づいて、今ではぎこちないながらも受け流せるようになった。

 名前は丹花(たんが)イブキ。

 十一歳にしてゲヘナ学園に飛び級し、ストレートで卒業した経歴を持つ秀才だ。

「夫婦漫才はともかく! ケイ! お願いですから私が喋っている時はイヤホンを外すよう、いつも言っているでしょう!」

 名前を呼ばれた少女はため息をついて、スマートフォンから顔を上げる。

「……ヒマリの話を聞くより、小説を読んでいる方がよほどためになります」

 どうやら電子書籍でも読んでいたらしい。

「とか言いながら、ちゃんと話を聞こうとしてくれるんですよね。素直になってもいいんですよ、私のことが好きだと」

「なんでそう、どこまでもポジティブになれるんでしょうか……一周回って尊敬しますよ、まったく……」

 怪訝そうに明星さんを眺めているのは、天童ケイ。

 イブキと同じシャーレの一年生。

 いつも本とスマホを手放さない、物静かな少女。

「……なんですか。人の顔をじろじろと見て」

「え、いや……特に何もないけど」

「あまりいい趣味じゃありませんよ、そういうの」

 そして、僕のことを嫌っているかもしれない少女である。

 正直なことを言えば、少し苦手だ。

「気にしなくていいんですよ。彼女はツンデレなのですから」

「誰がツンデレですか!」

「は、ははっ……あのさ、天童さん。照れなくてもいいぞ。みんなシャーレの仲間なんだから」

「ヒマリのいう事を真に受けないでください! まったく、どこまで素直なんですか」

 とにかく! と、明星さんが手をパンっと叩き、みんなを見回した。

「今日はシャーレの名が歴史に残る日だと、もう何度か繰り返しているような気がしますが……そろそろ誰か、私の発言に興味を持ってくれませんか?」

「なんでもいいけど、危ないことなら止めるからね。部長」

「大丈夫ですよ、エイミ。そこはご安心ください。今日はですね……なんと、クラフトチェンバーの謎を解明するのです。どうです? 気になるでしょう?」

「気にならないかな。じゃあ解散ってことで各々自由時間にしよっか」

 華麗に明星さんの発言をスルーしつつ、アイスコーヒーをすすっているのは、和泉元(いずみもと)エイミ。

 シャーレ所属四年目で、僕の先輩だ。

 副顧問である明星さんとは長い付き合いらしく、部長と呼ぶ唯一の存在。

 他人からしたら「副顧問? 部長?」と混乱させるので止めてほしいが(現に僕も指摘されるまで部長だと勘違いしていた)、染みついちゃったから変えられないとのことで一蹴。

 いい意味でマイペースと言うか、変人が多い中でぶれない人である。

「エイミちゃーん、私にもコーヒーもらえる~?」

「ホシノ先生、次それ言ったらもう淹れてあげないって言ったよね?」

「とかなんとか言いながら、コーヒーを淹れてくれるエイミちゃんがおじさんは好きだな~」

「やめてよ、気持ち悪い」

「あからさまに無視しないでもらえますか? 泣きますよ? この天才美少女が薄幸天才美少女ハッカーになってしまいますよ?」

「あの、明星さん? クラフトチェンバーの謎を解くってどういうことなんですか?」

 明星さんが本当に泣きだしそうだったので、手を挙げて尋ねてみる。

「はい。よくぞ聞いてくれましたね。素晴らしい案があるんです」

 聞いた瞬間にこの立ち直りよう。演技力も天才級かもしれない。

「毎回毎回……よく湧いてくるね。その素晴らしい案って」

 和泉元さんがコーヒーを淹れながら、ため息交じりに言う。

「私の案が尽きないのは、私が天才だからです。天才とはいつでも独創性に溢れて然るべきもの。全知の名に恥じぬ才能がシャーレでも光ってしまうとは……自分の天才性に戦慄すら覚えてしまいます」

「その溢れる独創性に危険を感じてるんだけどね、こっちは」

 そう言う和泉元さんの一言は無視し、明星さんは説明を始めた。

 事前に小鳥遊先生から聞いていた通り、明星さんの提案はシャーレのお泊りだった。

 いつものように、明星さんは熱弁を振るう。

 イブキはその話を楽しそうに聞き。

 ケイは再びスマホをいじりだし。

 先生は睡眠に夢中。

 和泉元さんは時々、明星さんの話にツッコミをいれたりしていた。

 いつもと変わらない、仕事合間にある休憩のゆったりとした時間。

 事務室にみんなで集まって思い思いに過ごす時間が、僕はたまらなく好きだった。

 過去形で語らなければいけないことが悲しくなるくらいに、好きだった。

 みんなも、そう思っているに違いなくて……。

「こんなのも……もう終わりなんだね」

 和泉元さんがふと漏らした呟きに、応える人はいない。

 多分、時と共に失われていくものの大切さに、みんな言葉が出てこなくなったのだろう。

 

     *

 

 ――夕方。

 外に出れば見事な夕焼けが僕たちを迎えてくれた。

 昼間に降った通り雨の湿気がわずかに残っていて、濡れた草の香りを風が運んでくる。

 赤く染まった雲であったり、長く伸びた黒い影であったり、悠然と佇むビルであったり。

 それらは僕を少しだけ切ない気分にさせた。

「空、綺麗だな……」

 背伸びをしながら呟くと、和泉元さんがくすりと笑う。

「どうかしましたか、先輩」

「別に。相変わらずなんでもないことに感動してるなーって思って」

「なんでもないことじゃないですよ。こんなに綺麗なんですから」

「……まあ、確かにね」

「えへへっ、お泊りお泊り! ヒマリさんも良い提案を出してくれたよね!」

「やけにご機嫌だね、イブキちゃん」

 ルンルン気分のイブキに、和泉元さんが問いかける。

「お泊りって言っても、シャーレだぞ。新鮮味がな……それとも、イブキには良いことがあるのか?」

「良いことがあるんじゃなくて、良いことがあるようにするの! 人はそうやって人生を切り開いていくってマコトせんぱ……さんが言ってた! ということで先輩、二人で今夜、素敵な思い出を作ろうね!」

 イブキが僕の手を取って言う。

「……えーと……うん……?」

「まず、星を見に行きませんかとか何とか言って、先輩と二人きりになる。その後は雰囲気に任せて出来る限り男女の仲を発展させたい……みたいな感じじゃないですか」

 困惑する僕に説明するよう、ケイが会話に入ってきた。

「男女の仲を……発展?」

「言わないでよ、ケイちゃん! ……あ! もしかして、ケイちゃんってエスパー!?」

「態度に出すぎですよ。誰でも分かります」

「ごめん、イブキ……僕、まだそういうのはちょっと……」

「ま、待ってよ先輩! 私はそんなつもりじゃ……!」

「イブキ、劣情を催している場合ではありませんよ」

 最終的に明星さんまで会話に入ってきた。

「私の恋心を劣情……!?」

「なんであろうと、今夜クラフトチェンバーの謎を解明すれば、そんな感情なんてどこかに行っちゃいますから」

 明星さんのあまりの自信に、僕たちは顔を見合わせた。

 クラフトチェンバーの謎……分かるのか、本当に?

 本当に謎が解明されたら、それはどういう結果になるのだろう。

 みんなとお泊りの準備の買い出しに向かいながら僕はそんな想像をして。

 きっと誰のためにもならない結果だろうと、根拠もなく結論づけた。

 

     *

 

 ――買い出しを終え、自由時間。

 夕暮れの道をひとり歩く。

 家に帰っても良かったが、帰る気にはなれなかった。

 久しぶりの見事な夕暮れを満喫したかったし、家は少し苦手だから。

 小さくため息をつき、クラフトチェンバーの資料を見つめる。

 役に立たない資料だが、隙間時間にコピー(もちろん許可済)した紙を、僕はただじっと眺めた。

 日中に目を通した時に比べ、この夕日を眺めながらなら、なにか考えが浮かぶかも……なんて、そんな気がした。

 なんのためにあるのか、誰が作ったのか、それすらはっきりしていない意味不明な物体。

 それが【クラフトチェンバー】だ。

 謎の模様が刻まれているだけの真っ黒なそれは、小さな石碑のように地に足をつけてそびえ立っている。

 魔法が使える世界なら、なんらかの魔法陣と仮定できるのに。

 前任の先生が行方不明になっていなければ、物体を生み出す現象を調べられたのに。

「……あれ、なんだこの資料」

 ペラペラとめくっていく内に、知らない資料が最後のページについていた。

 表題は【先生の行方不明の件について】

 といっても、報告書のような類ではなく、ただただ箇条書きで行方不明になった当時の状況がつらつらと書かれている。

 書いてあることは以下の通り。

 

・ある日、忽然と姿を消した。

・遺書や書置きはなく、先生本人も意図していない事態?

・生徒の誘拐、監禁の可能性

・シャーレオフィスの全面捜索

・捜索員の選定はどうする?

・調査、捜索の予算と期間

・キヴォトスの混乱、暴動に対する対処は?

・シッテムの箱の行方

・キヴォトスの治安維持←先生がいないことによる問題は計り知れない

・最悪の未来は、キヴォトスの破滅

 

「破滅って……」

 今でこそ、キヴォトスは破滅せず存在している上に治安も落ち着いているが、当時は相当混乱したらしいことが伺える。

 まあ、大統領がいなくなっても国は存在しうると考えれば当たり前か。

 文末に書いてある日付は、今から四年前。

 その資料で唯一、デジタルで打たれた文の中に紛れる手書きの文字に目を引かれる。

【クラフトチェンバーが完成している? 先生の行方不明に関係あり?】

 書いた人の検討もつかない、ただのメモ。

 当人ですら忘れているであろう走り書きに、今ではなんの意味も見い出せない。

 これはなんとなくだが、あの謎の物体は見ているだけで人を不安にさせる何かがある。

 そんな気がして仕方がないのだ。

 

     *

 

 ――その夜。

 シャーレに戻った僕は、みんなとの時間を過ごした後、屋上に来ていた。

 約束の時間はまだ先。

 この場には僕一人しかいないけれど、寂しさや怖さは感じなかった。

 見上げれば月と星が見えたし、周囲は車の走る音や雑踏の音に溢れている。

 うん。

 家にいるよりずっと落ち着く。

 家は好きになれない。

 いくら努力しても好きになれない。

 あの日からずっと、どうしても。

 ――僕は、一年前より昔の記憶がない。

 一年前、シャーレオフィス前で……僕は記憶を失って倒れていたのだという。

 そのせいか僕は、昔の僕を知っている人をどうしても受け入れることができないでいる。

 失くしてしまって、もう取り戻せないものを、彼らは僕に思い出させる。

 家族だって、そうだ。

 母さんが悪いわけではない。

 あの人は、たった一人の家族で……たぶん、僕のことをとても大切に思っている。

 とてもいい人なのだろうと思う。

 それでも――。

 家族と名乗る人、友人と名乗る人々。

 僕自身に与えられた城崎(しろさき)(せい)という名前。

 当時、全てが他人の借り物であるような気がして――。

 それは一年経った今でも続いている。

 大切な何かを失ってしまったという罪悪感にも似た感情だけが、心のどこかに居座り続けたまま動こうとしない。

 自分が城崎晴だということが、どうしても納得できなかった。

 だから、僕は……。

「……どうしてこんなに感傷的になってるんだ」

 答えはすぐに出る。

 今日を最後に、僕が心の支えとしていた場所が消えてなくなるから。

 自分の疑問に、自分で答える。

 悲しくて悲しくて、泣くのを我慢しきれなくなるかと思った時――。

 屋上の扉が開かれる音がして、顔を向ける。

 和泉元さんがいた。

 その後ろからイブキ。

 ケイ、小鳥遊先生。そして明星さんまで。

 いつの間にか相当長い時間、屋上にいたらしい。

「お出迎え、ですかね」

 妙に満足な気持ちで言うと――。

「シャワーを浴びた後にこんな所にいたら風邪ひくよ」

 和泉元さんが心配そうに、そんなことを言ってくれた。

 どうやらクラフトチェンバーの謎を解き明かす前の説明会とやらをするそうで、わざわざ全員で呼びに来てくれたみたいだった。

 そして僕たちは、再度事務室に集まった。

 

     *

 

「クラフトチェンバーが反応を示すのは必然です。この物体は一定の周期で目的不明の電波を発生させています。これは一種の暗号みたいなもので、それを解読したミレニアム発の天才美少女論文によれば、恐らく今夜、その電磁波が今までにない特殊なパターンを描き出すはずなのです」

「なるほどそれは確かにすごいね。ところでイブキちゃん、プリンってまだある?」

「あるよ! 冷蔵庫に入ってる! あ、先輩の分もあるからね!」

「お~、いいね~プリン。おじさんも食べていいかな~?」

 ……明星さんの言葉は相変わらずわけが分からないので、みんな聞き流している。

「これは言うなれば、クラフトチェンバーと我々の旋律が交わるということ。そう、これは後世に残すべき協奏曲なのです。もっとわかりやすく言うのであれば、今夜はクラフトチェンバーに何か特別なことが起こるはずなんです」

「なあイブキ。僕はどれを食べればいいんだ? 色々と種類があるみたいだけど」

「なんでもいいよ~! 焼きプリンにカスタードプリン! 牛乳プリンとクリームプリンもあるよ!」

「クリームプリン……? 聞いたことないな。じゃあそれにしようかな」

「あなたたちは本当に連邦捜査部(シャーレ)の一員なのですか!? あなた方の……あなた方の献身的な、謎に対する誇り高き情熱はどこに行ってしまわれたのですか!」

「ヒマリさん……ごめんなさい。私、シャーレってそういう謎を解明するところだって思ったことがないの」

 イブキがおずおずと、しかし言う事はしっかりと言い切る。

「気が合うね、イブキちゃん。私もだよ」

「元とはいえ、特異現象捜査部の人として、それはどうなんですか……まあ、私も全面的に賛成ですが」

 それに和泉元さんとケイが続き。

「僕も三人に賛成かな。楽しければそれでいいって感じ」

「じゃあおじさんも少年少女たちにさんせ~い」

 小鳥遊先生が多勢につく。

 結果、明星さんVS他全員。

 シャーレではよくある構図だ。

「ふふっ……か、構いません。構いませんとも。そう言っていられるのも今の内なんですからね……!」

 ……まあ、こんなふうに。

 相変わらずの賑やかな空気だ。

 夜の事務室で仕事を気にせず、わいわい言い合えるのは気分が良かった。

 

     *

 

 シャーレの地下室に向かう階段を降りると、少し開けた場所に出る。

 部屋内は薄暗く、モニターから漏れる光と照明器具が数少ない光源。

 目の前には、冷たい月明かりに照らし出されたクラフトチェンバー。

 遥か昔からあったとでも言うように、足元の照明機器を貫通しながら真っ黒な石碑はそびえている。

 間近で見ていると、なんだか落ち着かない気持ちになっていく。

 小鳥遊先生は背負っていたリュックサックを降ろして、明星さんの指示の元、中のモノを展開していく。

 小さなアンテナのようなものからコードが伸びて、備え付けのパソコンに繋がっている。

 パソコンからはさらにコードが伸びて、大きなスピーカーへ。

「これで電波を受信するんです」

 明星さんがパソコンを操作しながら、そんなことを言った。

「……エイミ。本当になにか起きると思いますか?」

「なにが起きるかは分からないけど、無駄なことじゃないと思うよ」

 和泉元さんはぼんやりと、クラフトチェンバーを眺めながらそんなことを言う。

「また爆発オチじゃなきゃ、イブキはなんでもいいんだけど……」

 そんな彼女の発言に大丈夫です、と明星さんは返して、スピーカーの微調整を続けた。

 そして、不意に僕たちを見回す。

「準備ができました。これからしばらくの間は静かにしておくようにお願いしますね」

 そう言って、みんなでクラフトチェンバーを見つめた。

 ただ一人、何かを思い出すように細められた目をしている明星さんは、どこか寂しそうだった。

「――クラフトチェンバーの旋律は、とても綺麗なんです」

 みんなが不思議そうに明星さんを見た。

 彼女の言葉はまるで、実際にその音を聞いたことがあるかのようだったから。

 照明に照らされた横顔はどこか寂しそうで、同時に驚くくらい美しくて……。

「え……なんか、聞こえない?」

 和泉元さんの呟きと同時に。

 最初はかすかに――。

 やがて、はっきりと聞こえてくる。

 スピーカーが不思議な旋律を奏でる。

 遠く深く、ゆっくりと上下する音の波。

 いつかテレビで見た、鯨の鳴き声にも似ている。

 音は幾重にも重なって、様々に空気を震わせた。

 驚きで誰も声を出せない。

 全員が目を丸くして、スピーカーを見ている。

 明星さんだけがただ一人、ぼんやりとクラフトチェンバーを見つめていた。

 そして――。

 クラフトチェンバーが……と誰かの呟く声に、みんなもようやく異変に気付いた。

 クラフトチェンバーがほのかに、輝き始める。

 正確には、クラフトチェンバー自体が光り出したわけではない。

 光が……蛍のような光が、クラフトチェンバーの周囲を無数に漂い始めている。

 クラフトチェンバーの旋律。

 ゆっくりと舞う、星のような幾多の輝き。

 夏の地下室で粘つく空気の中で、それらは現実のものではなく、夢のように実体のないものに見えた。

「綺麗だ……」

 やっと出た言葉は目の前の光景に比べて、月並みで掠れている。

 まるで奇跡のようだ。

 僕はその光景にすっかり魅入られていた。

 この神秘的な輝きの中で、どうしてか同時にこの光景を懐かしいとも感じていたのだ。

 それから……。

 クラフトチェンバーの光は弱くなり、闇に溶けて消えた。

 旋律も少しずつ小さくなり、やがてスピーカーは沈黙する。

 それからはいくら待っても、何も起こらなかった。

 僕たちは驚きの余韻を感じながらも、片付けを始めた。

 最後の日に、あんなに綺麗なものが見られてよかったと、イブキが呟いていた。

 誰も返事をしなかったが、思う所はきっと一緒だろう。

 八月三十日。

 この日は結局、他に何事もなく終わった。

 問題は翌日に起こったのだ。

 いや、【翌日】という表現は正しくないのかもしれない。

 八月三十一日は来なかった。

 シャーレに泊まった僕は、そこで目を覚ますはずだったのに――。

 何故か自宅で目を覚まして。

 世界はまた、【八月三十日】を繰り返していた。

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