異朝
目を開けると、見慣れた天井が視界に入った。
夏の日差しはまだ弱い。
部屋の気温もそれほど高くはない。
八月三十一日……。
今日はもう使わないであろうシャーレの事務室の片づけの日。
小さくため息をつき、ベッドから立ち上がる。
窓の外は昨日と同じ快晴。大掃除にはうってつけの天気だ。
目を閉じれば、まだ昨日のクラフトチェンバーの光が──。
「って、あれ……? なんで家にいるんだ……?」
昨日はクラフトチェンバーの綺麗な現象を、みんなで見て、それで──。
「あ、あれ……?」
何回思い返しても帰路についた記憶がない。
夢だったのか。
それとも寝ぼけてたか。
あるいは昨日は幻覚を見たのか。
そういえば、人が集団でいるとき【〇〇を見た】と誰かが言うと、その集団は本当に【〇〇を見た】気になってしまうという話を聞いたことがある。
……まあ、明星先輩からの入れ知恵なんだが。
この心理学が正しいとすれば、昨日のあれも……。
「いやいやいや……」
あれは現実だ。今更疑ったって仕方がない。
大体、あのへんな石碑が光ったところでなんだという話だ。
それに機械でなんらかの調査をしていた明星先輩なら、なにか結論を出しているかもしれない。
どちらにせよ、みんなに会えば現実なのか夢なのか、はっきりする。
部屋を出て、階段を下りる。
片付けの準備は朝のうちにある程度済ませてしまおうと、みんなであらかじめ決めていた。
だから今日はいつもより早い起床だ。
ダイニングキッチンに人の姿はない。
無機質さを感じてしまい、嫌になる。
テーブルには一人分の朝食が用意されていた。
サラダ。目玉焼き。スープ。
いつも通りの見慣れた光景。
それらには目もくれず、トースターにパンを詰め込む。
この朝食は、母が僕に用意してくれた朝食ではない。
母は、今でも僕が昔の記憶を取り戻すことを願っている。
城崎晴という、僕の知らない別人を、僕に求めている。
一年前のある日。
『あなたは誰なの?』
そう母に尋ねられたことがある。
『あなたは……誰なの? 晴を、どこにやってしまったの?』
あの時の僕は、何も答えることができなかった。
そして、今も答えられない。
この出来事以来、僕は母が仕事に出てから起きるようにしている。
もちろん衣食住を揃えてくれていることには感謝しているが、どうしても顔を合わせることができないでいる。
軽快な音と共に、トースターから焼けたパンが弾き出される。
それを皿に載せて、席に着き、静けさを紛らわそうとテレビのスイッチを入れる。
特別見たいものがあるわけではなかったが、ふと、朝の占いが気になった。
普段からチェックしているわけではない。
ただなんとなく、シャーレがなくなる日ぐらい運勢が良かったらないいなって。
そう思いつつ、チャンネルを変える。
そこから……僕の日常はおかしくなり始めていった。
「え……?」
テレビ画面を前に、目をこする。
何度見ても画面に映っているものは変わらない。
気のせい……ではないようだ。
「なんだよ、これ……」
念押しするように、チャンネルを変える。
「本日、八月三十日のニュースですが──」
変える。
「さて、本日八月三十日の天気ですが──」
変える。
「八月三十日と言えばですね。私の出身地ではこんなお祭りが──」
「はっ……はは……なんだよ、なんなんだよ。これ……」
取り乱した頭で、なんとか納得できる答えを探す。
一つ。僕が昨日の日付を間違えていた説。
……ないな。シャーレ最後の日を間違えるわけがない。
それに、みんなだって今日が最後だと言っていた。
で、あればだ。
二つ。僕自身が八月三十日の夢を見ていた。
確かにクラフトチェンバーの光景は非現実的だった。
引っかかるところがあるとすれば、一日の出来事がすべて鮮明に覚えているということだ。
「……あ、そうだ」
あることに気が付き、自室に向かう。
部屋に戻り、手に取ったのはスマートフォン。
日付は……やはり、八月三十日。
次に、モモトークを開く。
昨日の夜、眠る直前にイブキからお礼や感想のメッセージが来ていたのを思い出したのだ。
【本当にスゴかったよね! また見たいね!】
そう書かれていたのだけは、はっきり覚えている。
…………。
イブキとの履歴は、2日前で止まっていた。
じゃあ、やっぱり夢だったのだろうか。
ゆっくりと、深呼吸をする。
落ち着け。
昨日のあれは夢だったんだ。
そう考えればクラフトチェンバーが光るなんて馬鹿げてる現象にも説明はつく。
そうとしか説明がつかない。
「……こんなこと、あるんだな」
僕は無理やり自分を納得させて、今度はゆっくりと学校に行く支度を始めた。
「……リアルな夢だったな」
(*)
学校に向かうであろう多くの学生に混じって、僕も歩き出す。
天気は快晴。
雲一つない青空。
これ以上ないくらい、心地いい朝だった。
道行く人々の服装や、耳に入ってくる話し声が、なぜかどこかで見たような、聞いた気がした。
これがデジャヴというやつなのだろうか。
……まあ、気のせいだろう。
そう思った直後、前の路地からロボットが巨大な犬を連れて現れた。
「でっけぇ犬……」
……あれ?
夢の中でも同じ犬を見て、こう呟いた気がする。
……まあ、気のせいだろう。
そう思った矢先、小さい黒猫が僕の前を横切った。
「……おいおい、嘘だろ」
予知夢というレベルではない。
僕は今、夢と全く同じ体験をしている。
何とも言えない、得体のしれない感覚に恐怖を感じた。
……ならば。
夢の中と違う行動をとってみたらどうなるのだろう。
少なくとも、この気持ち悪い状況からは逃れられるはずだ。
例えば……そうだな。シャーレの誰かに会うというのが一番手っ取り早いだろう。
確か、イブキの家は商店街の方だったな。
ちょうどいつも分かれてる道だし、この場で待ってればイブキに会えるはずだ。
きっとすぐに来るだろう。
…………。
……。
……と、思っていたが。
イブキはいつまで経ってもやってこない。
このままだと遅刻するかもしれないけど……もう少しだけ待ってみる。
…………。
…………。
…………。
なんでこんなに待ってるんだろう。
もう、どうあがこうと遅刻だなと諦めていたとき。
十メートルほど先の路地から、見慣れた金髪の少女が現れた。
「あっ、おーい! イブキ!」
「えっ、せ、先輩!? どうしてこんなところに!? 遅刻しちゃうよ!」
ぜえぜえと息を切らしながら、それでもなお僕の所に駆け寄ってくる。
「いやな、イブキのことを待っててさ」
「えぇ!? 約束してたっけ……ごめんなさい!」
「ううん、約束してないよ。ただなんとなくさ」
「なんとなく……なんとなくで、私のこと待っててくれたの?」
まあな、と言う照れ隠しを言う僕に、イブキは心底嬉しそうな顔をしている。
なんとなくで待つのってなんかストーカーっぽくね、というツッコミは無しで。
「それじゃあ先輩! 一緒に行こー!」
「もう遅刻だから、ゆっくり歩こうか」
「ううん、一緒に走ろー! 今ならまだ間に合うから!」
「え? もうあと3分もすれば遅刻なんだけど」
「ほらはやく!」
言うが早いか、イブキは僕の手を掴んで走り出した。
「ちょ、イブキ! はやっ、速いって!」
「先輩なら大丈夫!」
最初こそ足をもたつかせたが、一応は現役男子高校生。
イブキのスピードに合わせて並走する。
「一緒に走るの、楽しいね!」
「そ、そうかあ?」
もうすでに僕は息が乱れている。
「うん! 先輩が笑ってくれるなら、私はどこへだって行くからね! 奇跡だって、起こしちゃうよ!」
「……なら! 遅刻じゃなくなる奇跡、起こしてくれよ!」
「それは……無事に学校に間に合ったら、その奇跡は起こるよ!」
「それってつまり起こらないってことじゃないか!」
「先生、言ってた! 奇跡は自分で起こすものだって!」
そんなこと、絶対に小鳥遊先生は言ってない。
「イブキ、僕の話聞いてるか!?」
「それじゃあ、準備運動は終わり! スピードアーップ!」
「え!? まだ本気じゃ……ま、待って待って! 足が!」
イブキは僕とつないだ手を離さないまま、飛躍的にスピードを上げる。
そして奇跡が──!
まあ、起こるわけもなく。
「先輩、ごめんなさい。奇跡、起こせなかった……」
「はぁ……はぁっ、げほ……」
もうイブキと一緒に全力で走らない。
そう心に決めた。
(*)
今日は午前だけの授業。
キヴォトスにも夏休みはあるのだが、シャーレに所属している生徒にそんなものはない。
大体は有事に備えてシャーレの建物内にいるが、だいたいは事務処理に追われているか、たまにできる隙間時間では勉学や射撃のレッスンなど自己研鑽をしている。
僕にとってそういう時間は、我慢の時間。
個人的にはみんなと駄弁りながら事務処理をしていたい。
もちろん、勉強を疎かにしようとしているつもりはないのだが、教師役のロボットがする授業には少し苦痛を感じる。
どうにも自分は出来不出来に差がないみたいで、大体が平均点。そこに喜びも悲哀もない。
しかし今日は、不思議なことがいくつもあったせいで苦痛を感じる余裕すらなかった。
まず、受けた授業の内容が全て、夢の中の八月三十日と同じだったこと。
それだけではない。
教室の様子、何気なく聞こえてくる会話、授業の内容。
全てが夢と同じ。
やっぱりあれは予知夢だったのだろうか。
ふと、クラフトチェンバーのことを思い出す。
まるで、同じ一日を本当に二回繰り返しているようだ。
経験しているはずがないのに、何が起こるのか全て読めてしまうというのは中々につまらなかった。
先生の話を聞き流しながら窓から空を見上げる。
「……これは降るかなあ」
青空が広がっていた朝とは打って変わって、灰色の雲に覆われている。
これも夢と同じだ。
ポツポツと窓を叩く音がし始める。
「……参ったな」
夢と同じなら、あと三十分もすればピークに差し掛かる。
いわゆる夕立というやつだ。
そして、昼休みの半ばくらいには完全に止んだはず。
僕は、きっとその通りになるだろうと確信しながら空を眺めた。
やがて時間は経ち、お昼休みになる。
夢の中ではいつものように、先輩たちと廊下で談笑をしていたが……。
なんとなく今日は夢と同じ行動をとりたくなかったので、机に突っ伏して寝ることにした。
話しかけてくれる人はいない。
話しかける人もいない。
窓際の席、一番後ろという特等席を僕は全国で一番贅沢に使っているのだろうな。
雨はやはり、昼休みの半ばで止んだ。
(*)
そして、放課後が訪れる。
華麗にスタートダッシュを切った僕は、事務室に最速でたどり着くも、入るのをためらっていた。
放課後に部室に行くのは夢の中と同じ。
小鳥遊先生がいたら、あの会話をしたら、みんなの反応が同じだったら。
そう考えると、怖くてたまらなかった。
しかし、今日はシャーレ最後の活動日。
どうしても出なければならない。
怖さと葛藤した後、覚悟を決めて小さく深呼吸。
鍵は、家に忘れた。
そして、引き戸に手を掛けたとき──。
「そんなところでなにしてるの?」
背後からの声に思わず肩が跳ね上がった。
「い、和泉元先輩……」
「ふふっ、驚きすぎだよ」
あっけにとられている僕には目もくれず、和泉元先輩は僕をどけて扉を開く。
そこには、すでにみんながいた。
先生だけではない。
よかった。それならここからは、夢の出来事とは違う未来が待っているんだ。
「さて、皆さん。今日はシャーレの活動が最後の日になりますね」
僕と和泉元先輩が席に着くのを待って、明星先輩が声を上げる。
「シャーレ最後の活動として、ミレニアム最高の天才病弱美少女ハッカーたるこの明星ヒマリが直々にふたつのプランを用意しました」
「ヒマリさん直々に……」
「この時点で、すでに嫌な予感しかしないのですが」
「部長の意見は却下して、みんなで今日の活動を決めるっていうのもありだよ」
「な……あなたたち。せめて私の提案を聞いてから否定をしてください」
明星先輩がそう訴えたところで、全員が形だけ話を聞く姿勢をとる。
まあ、間違ったことは言ってない。
何も聞かずに否定するのは良くない。
「それで……明星先輩はいったいどんなプランを考えてきたんですか?」
「今日の予定はふたつにひとつです。クラフトチェンバーを観察するために夜のお泊り会をするか、それともファミレスで最後の晩餐にするか、です」
「お~、いいね~。ファミレスだったらヒマリちゃんの奢り?」
「料金は大人組での割り勘です」
「だったら、私とケイちゃんと先輩はお金出さなくていいってこと?」
「あと私もね」
「エイミはこちら側ですよ」
「だったら夜のお泊り会がいい」
やがて、みんなの視線が僕に注がれる。
どうやら僕の選択次第らしい。
「そうですね、僕は――」
(*)
ファミレスで食事をしたいです、という一言で、シャーレ最後の活動はあっさりと決まった。
それからは、いつものようにワイワイとみんなでしゃべり続けた。
いつもと変わらないが、少しだけしんみりとした雰囲気。
そんな会話が夕暮れの部室の中を満たしていた。
いくつかの思い出をピックアップし、当時を振り返って怒ったり笑ったりした。
夕日が落ちても、誰も帰りたがらなかった。
ただひたすらに、僕たちは話し続けて……いよいよ、ファミレスに移動する時間になった。
「先生、本当に僕たちは出さなくていいんですか?」
おずおずと尋ねる。
「大人の財布を気にするなんて早いよ、少年。最後くらいは先生らしいことさせてよ」
私のせいで廃部になる所もあるしね。
そんな先生の小さな呟きが偶然耳に入って、胸が苦しくなった。
(*)
駅近くのファミレスに行って、遠慮なくご馳走になる。
シャーレの先生はその激務に比べて薄給らしいと聞いたことがある。
それに加えて明星先輩と和泉元先輩との割り勘とはいえ、マナーとしてなるべく安いもので済ませようとしたのだが──。
「ほらほら、みんな。遠慮せずに食べて食べて~」
当の先生本人がものすごい勢いで高いものを注文していく。
それにつられるように、みんながみんな、遠慮なく好きなように注文する。
店を出るころには、みんなの視線が僕に集まっているのが不思議だったけど。
--食べられるだけ食べて、お開きになる。
「最近のファミレスってこんなにおいしかったんですね」
「……その身体のどこに、あの量のデザートが詰まってるのさ」
「シャーレのブラックホールを名乗ってもいいですよ」
「見てるだけで胸焼けしちゃった」
「イブキも、さすがに先輩のこと怖いかも……」
「それでなぜ、そのスタイルでいられるんですか」
「……えぇ?」
なぜか畏怖しているみんなを連れて外に出ると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。
入り口から数歩の所で輪になると、先生が口を開いた。
明日は朝、事務室に来て、荷物の整理を行うこと。
放課後の時間には部室内から私物を一切取り払って、鍵を連邦生徒会に返すこと。
その二点を簡単に話してくれた。
「今までお世話になったところだし、綺麗にして終わろうね」
先生がそう締めくくると、僕たちは静かにうなずいた。
まるで八月三十日を2回経験したような、不思議な気持ちと、今度こそお別れなのかという気持ちが混じりあって、複雑な気分だった。
(*)
僕は一人、帰路につく。
みんなは先輩が呼んだタクシーに乗って帰った。
もちろん、僕も乗る余裕はあったのだが、家もそう遠くないので歩いて帰ることにしたのだ。
奇妙な体験をした一日だったが、改めて振り返ると楽しかった。
これで本当に終わりだなんて、信じたくなかった。
八月三十一日なんか永遠に来なければいいのにな。
夜の道を歩きながら、僕はそんなことを呟いた。
(*)
一日が終わろうとしている。
ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺める。
予知夢に振り回された一日で、シャーレ最後の一日。
明日には慣れ親しんだ事務室の片付けをする。
「今日と同じ時間に起きなきゃなあ」
となれば、早く寝よう。
……天井を見つめながら、小さくため息をついた。
明日のことを考えると、無力感やつらさ、切なさにどうしようもないという諦めが胸に広がっていく。
これだけは失いたくないと思っている大切なものを、どうして失わなければならないのだろう。
そんなことを考えているうちに、睡魔が襲ってくる。
なす術もなく、僕は悲しい気持ちのまま目を閉じた。
(*)
夢を見た。
一年前の夢。
一番よく見る、一番嫌いな夢。
夢の中の僕は、ベッドに横たわり、見覚えのない白い天井を眺めている。
ここがどこなのかもわからない。自分が誰なのかもわからない。
ただ、何か大切なものを失ってしまったということだけは、感覚としてよくわかった。
一年前、記憶を失って目を覚ました時。
強い喪失感を覚えた。
とても大切で、これだけは絶対に失いたくないという何かが失われてしまったような感覚。
自分が自分であるために、必要不可欠なものが綺麗になくなっている。
神様、僕が何をしたっていうんですか……。
夢の中の僕はそれだけ呟いて、涙を流し続けた。