過労死ゲーマー、藤吉郎になる。 ~知識チートはあるが、人の心が重すぎる~ 作:ブンチョウ
「……撤退だ。全軍、撤退だ!」
俺の悲鳴のような号令は、織田軍の本陣を一瞬で凍りつかせた。
「なっ、何を言うか貴様!」
柴田勝家が、血相を変えて掴みかかってくる。
「朝倉は目前だぞ! 臆したか、猿!」
「違う! 後ろだ!」
俺は、お市様から届いた「小豆袋」と、長政からの「別れの手紙」を、信長の前に叩きつけた。
「浅井長政が、裏切りました! 袋の鼠です!」
信長は、地面に落ちた手紙を拾い上げた。
『ごめん。俺の義理が、あんたへの情熱に勝った』
信長の目が見開かれた。
怒りではない。
純粋な「驚愕」と、そして「納得」だった。
「……そうか。あの『指切り』も、『情熱』も、及ばなかったか」
それだけ呟くと、信長は即断した。
「引くぞ。ここで挟まれれば、俺は死ぬ」
「ですが若様! 誰が
家臣たちがざわめく。
三万の軍勢を、狭い山道で撤退させるには、誰かが最後尾に残って、死ぬ気で追撃を食い止めなければならない。
それは、生存率ほぼゼロの「捨て駒」だ。
柴田も、佐久間も、目を逸らした。
誰だって死にたくない。
(どうする!? 歴史《シナリオ》では、俺がやるはずだが……!)
その時、信長が俺を見た。
「猿。貴様が招いた『恋人』だ。……貴様が責任を取れ」
(やっぱ俺かよおおおおお!!)
拒否権はない。
だが、どうやって?
ただ「承知しました」では、兵の士気が上がらない。
この絶望的な死地に部下たちを巻き込むための、「
チカッ。
俺の願い――いや、諦めに応えるように、ウィンドウが開いた。
【強制イベント:金ヶ崎の殿】
迫りくる『元・恋人(長政)』に対し、どう立ち向かう?
A:「格好良く、拙者の『知略88』で、ここを死に場所とします!」
B:「泣きながら、ねねー! 助けてくれー! 帰りたいー!」
C:「長政の方角を指差し、ふざけるな長政! 別れ話の
D:「隣にいる家康を見て、この『狸』を盾にして逃げましょう!」
(Cだ! Cの『痴話喧嘩』にすり替えるしかねえ!)
(Aは普通に死ぬ! Bは士気崩壊! Dは未来の将軍《いえやす》を敵に回す!)
俺は、涙目で【C】を選択した。
体が、勝手に動く。
俺は、浅井軍が迫る背後の闇に向かって仁王立ちになり、指を突きつけた。
「ふざけるなああああ! 長政ァァァァ!!」
俺の絶叫が、山々に
「『情熱』に勝っただと!? 勝手に自己完結するな! 別れ話の
俺は、腰の刀を抜いた。
「上等だ! 俺が残る! 残って、あのヤンデレ野郎の頬を直接『ビンタ』して、目を覚まさせてやるわ!」
一瞬。
誰も、何も言わなかった。
兵たちは互いに顔を見合わせた。
呆れたように眉をひそめる者。
口元を引きつらせる者。
それでも、槍の柄を握り直す者。
「……痴話喧嘩、なのか?」
「知らん」
誰かが低く答えた。
「だが、あの猿殿は……本当に、あの浅井殿と刺し違えてでも道を塞ぐつもりらしい」
その言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。
笑える話ではない。
だが、逃げる理由だけだった撤退に、ひとつだけ分かりやすい形ができた。
――あの猿が、後ろに残る。
信長は、呆れたように息を吐いた。
だが、その眼差しは、すでに撤退路と兵の動きを測っている。
「よかろう。猿、貴様の『愛憎』で時間を稼げ。……死ぬなよ」
信長は馬首を返した。
主力部隊が、撤退を開始する。
戦場には、俺と、俺の「木下隊」数百名だけが残された……はずだった。
「……やれやれ。とんだ『修羅場』に巻き込まれましたね」
「!」
俺の隣に、二人の男が残っていた。
一人は、竹中半兵衛。
「藤吉郎殿。貴殿の『愛の清算』、この半兵衛、最期まで見届けましょう」
半兵衛は、ニヤニヤしている。
(お前は面白がってるだけだろ!)
そして、もう一人。
小太りの、だが目が笑っていない男。
徳川家康だ。
「……徳川殿!? なぜここに!?」
史実《ゲーム》では、家康も殿に参加する。
だが、リアルでなぜ?
家康は、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「……信長殿に言われたのですよ。『俺の猿が暴走して、痴話喧嘩で死なんように、貴殿が手綱を握ってくれ』とな」
家康は、深いため息をついた。
「とんだ貧乏くじだ。……だが、私も妻――築山殿の嫉妬には苦労しているのでな。同情はする」
(家康まで『誤解』してやがる!)
(しかも、こっちは『男色痴話喧嘩』だと思われてる!)
「来るぞ! 構えろ!」
朝倉軍・浅井軍、合わせて三万。
対する俺たち殿軍は、わずか七百。
「撃てええええ!」
権蔵たち木下隊が、ありったけの鉄砲を撃ち込む。
火薬の臭いが、一気に山道へ広がった。
家康の三河武士団が、崩れかけた前線へ食い込み、完璧な統率で敵の波を食い止める。
だが、多勢に無勢だ。
「ぐあっ!」
「隊長! 持ちません!」
次々と部下が倒れていく。
泥と血と、火薬の匂い。
叫び声。
馬のいななき。
斬り結ぶ刃の音。
俺は、桶狭間で感じた恐怖を何十倍にもした、「死」の圧力を感じていた。
(死ぬ! 本当に死ぬ!)
(ねね! ごめん! 俺、ここで……!)
その時。
敵陣の奥から、一騎の武者が狂ったように突っ込んできた。
「藤吉郎おおおおお!!!」
浅井長政だ。
彼は涙を流しながら、槍を振り回している。
「なぜ分かってくれない! 俺は、お前を殺して、俺も死ぬ! それが俺たちの『情熱』の終着点だろう!!」
(ちげえよ! どんな解釈だ!)
「来るなあああ! ストーカー!」
俺は、半泣きで指揮棒を振った。
「半兵衛! 家康殿! あの『ヤンデレ』を止めろ!」
半兵衛が、冷徹に采配を振る。
「全軍、
家康が、渋い顔で叫ぶ。
「
地獄のような撤退戦。
俺は、「知識《チート》」と「誤解《情熱》」と「他人の力《家康・半兵衛》」のすべてを総動員して、元・恋人の猛追から、必死に逃げ続けた。
この金ヶ崎の山道を生きて抜けたことが、後に俺を大きく押し上げる。
だが、その夜に置き去りにした何かが、二度と元へ戻らないものになることを。
この時の俺は、まだ知らなかった。