敗戦国家の英雄騎士 ~王を見つける旅に出る~ 作:Core4777
夜明け前、我が剣を捧げた陛下は処刑された。
王都に鳴った鐘は、その死を悼む鐘ではない。処刑の終了を告げる鐘だった。
俺はその音を、王宮西棟の控えの間で聞いた。喪に服す黒ではなく、救国の英雄にだけ許された青銀の礼装を着せられながら。
鏡の前に立つたび、胸元の飾り紐より先に腰の剣へ目が行く。柄と鍔は見慣れたままだが、鞘に収まっている刃は、かつての半ばほどしかない。王国最古の聖鋼で鍛えられた俺の剣は、最後の会戦で中央から先を失った。折れ口だけを研ぎ直し、見栄えだけ整えたそれを、帝国はわざわざ儀礼用として俺に返してきた。
折れたまま、英雄の腰に吊るしておくために。
「……少し、肩を上げてください」
侍従が震える手で襟を直した。王の身の回りを整えていた老人だ。昨夜まで国王の外套を整えていた手が、今は俺の礼装を整えている。
「民の前では、お崩れになりませぬよう」
王が死んだ朝に言う言葉ではない。だが、その言葉しか残っていないことも分かっていた。
「分かっている」
喉はひどく乾いていたが、声だけは平らに出た。
老人は一度だけ深く頭を下げ、そこから先は何も言わなかった。泣けば終わる。俺が泣けば、老人も泣く。老人が泣けば、控えの間にいる兵も、侍女も、控えている文官も、自分たちに泣く許可が出たと思うだろう。
そして今日は、その許可がもっとも出てはならない朝だった。
窓の外では、広場へ集まる群衆のざわめきが、まだ雨の降らない曇天の下で低くうねっている。
王は死んだ。だが国はまだ崩れ切っていない。だから帝国は、王の首ではなく、俺の立ち姿を民に見せる。
この国はまだ形を保っている。王は裁かれたが、誇りまで殺したわけではない。英雄騎士は生きている。
そう示すために。
不意に、昨夜の言葉が耳の奥で鳴った。
民を泣かせるな。
あの人は昔、違うことを言っていた。民を泣かせない国を作る、と。それが最後には、民を泣かせるな、に変わった。
理想が壊れたのか、磨かれたのか、俺には今も分からない。分からないまま、王は死んだ。
扉が開き、帝国の礼典武官が一礼した。
「時刻です、グラディウス卿」
その呼び方にも、丁寧な侮辱が混じっている。爵位は剥奪された。騎士団も解体された。軍権も領兵権も、昨夜のうちに条文で切り落とされた。
それでも彼らは俺を罪人とは呼ばない。呼べないのだ。
長い廊下を抜けるあいだ、窓という窓に帝国兵の影が見えた。儀礼の槍。城門の上には弩兵。広場へ向かう大階段の脇に六人、屋根の上に四人。もし俺が今ここで逃げる気なら、二十歩と進めない。
それでも、配置が甘いと思ってしまう自分がいた。礼装の裾を裂けば走れる。右の柱陰を使えば最初の二人までは近づける。弩の射線が通る前に階段を転げ落ちれば、広場の密集に紛れられる。
そこまで考えて、やめた。
王の死んだ朝にする計算ではない。それに、逃げ切れたとしても、その先にあるのは俺一人の延命ではなく、広場を埋めた民への踏み込みだ。
帝国は、俺を殺しても勝てる。だが、俺を生かしたまま使う方が、もっと綺麗に勝てる。
階段の上へ出ると、空気が変わった。
王宮前広場は黒い人波で埋まっていた。喪章を巻いた者、包帯のまま立つ復員兵、空の買い籠を抱えた女、父に肩車された子供、戦争で片足を失った老人。泣いている者も、歯を食いしばっている者もいた。
だが罵声は上がらない。上がらないことが、かえって重かった。
布告官が巻物を開く。
王国は講和を受け入れたこと。旧王と幾人かの主戦派貴族、軍務卿、補給院長、将軍が戦争責任を問われたこと。王都は占領下に置かれるが、住民への集団的懲罰は行わないこと。
そして、英雄騎士グラディウス・バッセンブルグは、戦没者慰霊ならびに諸侯への通達のため、巡礼使として諸邦を巡ること。
巡礼使。
都合のいい言い換えだった。追放。隔離。切り離し。軍を失い、主を失い、それでもなお民心だけは持ちすぎた男を、王都から遠ざけるための。
ざわめきの中、最前列にいた少年が顔を上げた。十にも満たない。木剣を胸に抱いている。鍔のない、安い木切れだ。だが持ち手には、稚拙な刻みで俺の家紋が彫られていた。
「英雄さま」
掠れた声だった。
「……国は、まだありますか」
ほんの一瞬、息が詰まった。
ない、と言えば楽だった。ある、と言うのは、もっと重かった。
俺は頷いた。
それだけで、少年は泣いた。周りにいた女が口元を押さえ、老兵がうつむき、誰かが祈る文句を唱え始めた。
違う。そうじゃない。俺は彼らを救ったんじゃない。ただ、彼らに絶望する順番を先延ばしにしただけだ。
だが民は、先延ばしでも、今日生きる理由にしてしまう。
広場の端、帽子を深く被った男が、胸に左拳を当ててから指を折り込んだ。
旧騎士団の隠し礼。
一人。
少し遅れて、別の角から二人。さらに、屋台の裏。片腕のない元槍兵。
残党は死に絶えていない。こちらを見ている。俺が何をするか、何をしないかを見ている。
帝国だけじゃない。この国も、俺を自由にはしない。
布告が終わると、帝国旗の下に一人の男が進み出た。
帝国中部方面軍総司令官、ガイゼル元帥。
最後の会戦で俺たちを敗北へ追い込んだ男であり、俺が戦場で一度も刃を合わせなかった男でもある。
長身。痩せて見えるほど無駄がなく、灰色の軍服には土埃一つない。戦場ではなく、戦争そのものに似た男だった。
元帥は布告台の下で立ち止まり、俺だけに聞こえる声量で言った。
「見事に立っているな、バッセンブルグ」
「立たされているだけだ」
「敗戦国に必要なのは殉教ではない。敗北を受け取る顔だ」
飾りのない言い方だった。だからよく響く。
「俺を、その顔に選んだわけか」
「王を吊るせば責任の決着になる。貴公まで吊るせば、物語が始まる」
広場の向こうで、誰かが嗚咽を漏らした。元帥はそちらを見もしない。
「人は剣で暴れるのではない。物語で暴れる。英雄が死ねば、敗者はそこから先を自分で書きはじめる」
俺は黙っていた。反論がないわけじゃない。喉まで出かかった言葉もある。だが、こいつはそれを百通り聞いて、その百一通り目まで用意している顔をしていた。
「貴様は俺を怖れているのか」
「もちろんだ」
即答だった。
「最後の会戦でも、私は貴公そのものを崩せなかった。崩れたのは貴公の後ろにあった補給と命令系統と王国政治だ。剣だけなら、今でも貴公の方が強いだろう」
それは賞賛ではなく、確認だった。英雄騎士が本当に強いと、敵将自身に一度だけ認めさせる言葉。
拳を握る。礼装の白手袋が軋む。
「なら、なぜこんな真似をする」
「政治は勝者の贅沢ではない。後始末だ。帝国はこの都を飢えさせたくないし、山に火も放ちたくない。貴公を吊るせば、そうなる」
そのとき、広場の後方で馬がいなないた。
荷車に驚いた騎乗馬が横へ跳ね、手綱がするりと兵の手から抜ける。進路の先には、先ほどの少年とその母親がいた。
考えるより先に、体が動いた。
階段を二段飛びで降り、礼装の裾を蹴り上げる。周囲の帝国兵が槍を構えるより早く、俺は暴れ馬の頬革を掴んでいた。
片手で引き寄せ、肩を首筋にぶつけ、体重をずらす。馬が前足を上げる。折れた剣の鞘が脇腹に食い込み、鈍い痛みが走ったが、構わずもう一歩踏み込む。
蹄が石畳を叩き、白い息が俺の頬を灼いた。それでも五拍で収めた。
広場が静まり返る。
少年は目を見開き、母親に抱き寄せられた。帝国兵が遅れて駆け寄ってくるころには、馬は肩を震わせるだけになっていた。
俺は手綱を兵に返し、再び階段へ戻った。
元帥はほんのわずか、口角を上げた。
「そういうところだ、バッセンブルグ」
民の息が変わったのが分かる。泣き声が、祈りへ変わる。それがどれほど危険か、こいつはよく知っている。
だから生かす。だから遠ざける。
殺すより、ずっと冷たい。
式が終わると、俺は王宮東門脇の小さな石廊へ通された。そこに馬車が一台、兵站用にしては上等すぎる馬が二頭、そして黒い外套を着た女が立っていた。
年は俺より十ほど下か。淡い灰金の髪を首の後ろでまとめ、装飾の少ない帝国式の制服に身を包んでいる。佩剣はなし。だが左腰に革の記録筒、右手には黒革の手帳。
インクのついた細い指が、俺を見た瞬間だけ止まった。
「随行記録官、リアーネ・フェルツです」
名乗りと同時に、一礼。無駄のない動きだった。
「本日以降、巡礼使グラディウス・バッセンブルグの行動記録、接触人物、各地の反応、および帝国当局に対する日次報告を担当します」
「監視役、と言えば早い」
俺が言うと、女はまばたき一つせず答えた。
「記録は監視より長く残ります」
面白くもない言葉だ。だが、うまい。いかにも紙と命令の側に立つ人間の返答だった。
手帳の表紙には帝国の双頭鷲、その下に小さく番号が打たれている。新品ではない。縁が擦れていた。前にも誰かを記録したのだろう。
「俺が逃げると思うか」
「逃げない方だと聞いています」
「なら、なぜ付く」
「逃げない人間ほど、戻るべき場所を見つけたとき厄介だからです」
そこで初めて、少しだけ目が合った。冷たい目ではない。温かくもない。測っている目だ。
元帥が後ろから口を挟んだ。
「フェルツ記録官は有能だ。余計な情を差し挟まん。旅の相手として不足はあるまい」
「お気遣いどうも」
俺は吐き捨てるように言った。元帥は気にした様子もない。
「巡礼先は北の聖廟都市、東の関門伯領、西港の共同墓域、最後に南方諸侯会議。順路は記録官が保有している。旧騎士団との接触、兵の勧誘、政治声明の発表、王都への無断帰還は禁じる」
「禁を破ればーー」
「同行護衛により、即時処分の対象となります」
言ったのは元帥ではなく、リアーネだった。
声は淡々としていた。だが、左手は手帳ではなく外套の内側に触れている。笛か、短筒か、命令書か。何であれ、彼女自身が剣を抜く必要はないのだろう。
石廊の外、馬車の影に小さな包みが落ちていた。布の端から覗くのは、古い青紐。旧騎士団が伝令に使っていた識別色だ。
俺は拾おうとしかけて、やめた。
先にリアーネがそれを見つけ、しゃがみ込み、布ごと摘み上げた。中には何も入っていない。ただの印だ。
「あなたに接触を試みる者は、もう動いています」
「記録するのか」
「もちろんです」
そう言いながら、彼女は包みを焼却箱へ放った。青い紐が、一瞬だけ強く燃えた。
「ただし」
彼女は続けた。
「現時点で識別できた個人はいません。報告書には『王都民の不穏』と記します」
意外だった。
「見逃すのか」
「証拠能力のない名前は、紙の上では名前ではありません」
優しさではない。手続きだ。
だが、その手続きひとつで、今日死なずに済む者がいることも事実だった。
「実務的だな、記録官殿」
「ここで十人捕らえても、百人に増えます。火種を数えるのと、火を広げるのは別の仕事です」
そこで俺は、彼女がただの紙人形ではないと知った。
この女は帝国側だ。だが帝国の命令文そのものではない。自分の頭で手順を選ぶ。
それは、旅の相手として最悪でもあり、最善でもあった。
王都の東門を出るころには、空がようやく白み始めていた。
城壁の上に、王国旗はもうない。代わりに帝国旗と講和旗が風を受けている。その下を、俺は英雄の礼装のまま進んだ。
見送りは禁じられていたはずだ。だが石畳の両脇には、朝市にも早い時刻だというのに人が立っていた。
帽子を取る老人。無言で頭を下げる女。片膝をつきかけて、隣の者に止められる元兵士。パンを抱えた娘。包帯の隙間からこちらを見る少年兵。
誰も声を張らない。ただ、見ている。
その視線の重さで、礼装は鎧より重くなった。
俺は知らない。この目が、希望なのか、依存なのか、別れの確認なのか。たぶん全部だ。
門をくぐる直前、城壁の影から低い口笛が聞こえた。
三短、一長。
旧騎士団の集合合図ではない。解散時の合図だ。
門外へ出ると、湿った朝風が頬に触れた。王都の臭いが少し薄くなる。石と煤、血と油と香料の混ざった匂いが、草と土へ混じり直していく。
リアーネが馬車に乗り込む前、最後に手帳を開いた。さらさらと走るペン先の音が妙に耳につく。
「何を書いた」
「講和布告式において、対象は終始沈着。暴発なし。民衆反応は鎮静傾向――ひとまず、そう」
「ひとまず」
「本音を書く欄は後ろにあります」
言って、彼女は手帳を閉じた。
本音。
あの黒革の帳面には、いつか俺のことだけじゃなく、この国のことも書かれるのだろうか。そしてそれは、帝国の記録になるのか、それとも別の何かになるのか。
馬車は使わないことにした。
俺が歩くと言うと、帝国兵は渋い顔をしたが、元帥が頷いたから誰も逆らえなかった。英雄が自分の足で都を去る姿を見せることにも、きっと意味がある。
城門から二百歩ほど進んだところで、俺は一度だけ振り返った。
王都。
俺が育ち、剣を学び、王に仕え、兵を率い、勝ち、そして負けた場所。あの塔のどこかで、王の血が乾いている。
民を泣かせるな。
耳の奥で、またあの言葉が鳴った。
あの人は最後の最後で、王として正しかったのか。それとも、王であることに耐え切れなくなっただけなのか。そんなことを考えても、死者は答えない。
俺の腰では、折れた剣が鞘の中でわずかに鳴った。
王に捧げた剣だった。国に捧げた剣でもあった。そして今、そのどちらも失ってなお、俺はまだそれを手放せずにいる。
「グラディウス卿」
リアーネが初めて、役職ではなく名を呼んだ。すぐに言い直すつもりだったのか、唇がわずかに止まる。
「……進みましょう。最初の宿場まで、日が高くなる前に着きたいので」
その言い淀みですら、今の俺には奇妙に人間らしく聞こえた。
「ああ」
歩き出す。
王都は背後にある。王はもういない。俺を英雄と呼ぶ国だけが、まだ後ろから見ている。
旅に出る理由なら、表向きはいくらでもあった。
戦没者慰霊。講和の周知。諸侯監察。帝国への服従を各地に染み渡らせるための、よく出来た巡礼芝居。
だが本当は違う。
本当は、王が死んだあの鐘の時点で、俺の忠義は行き場を失ったのだ。
消えたわけではない。軽くなったわけでもない。むしろ、残ったからこそ重い。
騎士は、剣の振り方より先に、誰のために剣を抜くかを教わる。
俺はあまりに長く、その問いを考えずに済んできた。王がいたからだ。正しかろうが、誤っていようが、主君という形が前にあったから、俺は自分の心を後回しにできた。
もう、それはない。
ならば探すしかない。
もう一度。
この折れた剣を、それでも預けていいと思える王を。
それは玉座に座る者かもしれない。王冠など持たぬ誰かかもしれない。国家そのものかもしれず、たった一人の人間かもしれない。
今の俺には、まだ分からない。
分かるのはひとつだけだ。
王を失ったまま王都に留まれば、俺はやがて民に担がれる。さもなくば旧騎士団に祀られる。英雄がもう一度、敗戦国の旗になる。
だから離れる。
探すために。壊さないために。
隣では、帝国の記録官が無言で歩幅を合わせていた。俺を監視するために付いた女。俺が再び英雄になるのを防ぐための目。だがその目は、いずれ俺の旅の始まりを誰より正確に覚えている証人にもなるだろう。
朝日が雲の切れ目から差し、街道を細く照らした。
俺はその光の中へ足を踏み出した。
王は死んだ。国は敗れた。英雄は生かされた。
ならば次は、俺が決める番だ。
――もう一度、剣を預けてもいいと思える王を。
そうして、グラディウス・バッセンブルグの旅は始まった。