二天閻羅王の息子に生まれたので久遠の落日を完遂したい(したくない)   作:HIDEMASA

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時系列としては演習の最中。舞台裏のお話です。


『ちいかわ』と彼女たち。

その夜の演習で、玄雲は一発も被弾しなかった。

 

レイラ小隊の射手が七名。うち三名が暗視装置、二名が擲弾模擬弾。瓦礫の稜線に沿って射線を三重に組み、玄雲の進路を潰しにきた布陣だった。

 

玄雲は歩いた。

 

走らない。跳ばない。ただ歩いて、射線と射線の継ぎ目だけを通っていく。銃口が向く前に、その兵が「向けようとする体」になる。肩がわずかに沈み、踵に体重が移り、引き金にかかる指の第二関節が動く——銃を撃つ前の予兆のすべてが、玄雲には交通標識のように読めた。

 

「……化けもんかよ」

 

観測壕でレイラが吐き捨てた。

 

玄雲は最後の射手の懐へ、風が入るように入った。判定装置が赤く点る。演習終了のブザー。

 

完璧だった。

 

——にもかかわらず。

 

投光器の白い光の下で、玄雲は自分の右手を見下ろしていた。

 

指先が、わずかに熱い。

 

--

 

装備を解き、判定装置を外し、汗を流したあとの短い自由時間。玄雲は椅子に座り、目を閉じている。

 

深層で、『弟』が縮こまっていた。

 

(『……ぱんぱんが、いっぱいだった』)

 

(今夜も終わった。もう鳴らない)

 

(『でも、みみのなかで、まだ、なってる』)

 

玄雲は答えない。

 

——『空の心』

 

恐怖を感じず、怒りに濁らず、迷いに揺れない。静止した水面のような意識。それが玄雲という人格の設計思想であり、存在理由だった。

 

だがそれは、感情が「無い」のではない。

 

感情を、すべて向こう側へ押しやっているだけだ。

 

刃を交えるたびに生まれる恐怖。人を斬った瞬間の生理的な嫌悪。殺意を向けられた時の身体の縮み。

それらの雑音を、玄雲は一片残らず深層へ落とす。落とされた先で、それを全部受け取る器がある。

 

『弟』

 

玄雲という人格を作り出した、元の魂。

 

(俺が俺でいられるのは、お前が濁ってくれているからだ)

 

玄雲はそれを一度も忘れたことがない。忘れないからこそ、これは情の問題ではなく、機構の問題として扱われる。

 

貯めた熱は、抜かねばならない。

 

排熱処理。

 

——それが、この数週間、追いついていない。

 

「若様」

 

扉が二度叩かれ、返事を待たずに烈華が入ってきた。風呂上がりで、長い髪をまだ拭いている。金棒は置いてきているが、刀と脇差は腰にある。彼女は寝るとき以外それを外さない。

 

その後ろから、小夜が静かに続く。直刀は預けてきたが、腰の後ろの苦無はそのままだ。

 

二人は玄雲の「護衛」であり、同時に「侍従」でもあった。

 

烈華が玄雲の隣に座り、何も言わずに手を取った。

 

そして、眉をひそめる。

 

「……熱い」

 

「そうか」

 

「そうか、じゃないですよ。前はこんなに残ってなかった。()()した翌日には、ちゃんと引いてた」

 

小夜が反対側に膝をつき、玄雲の手首に指を三本当てた。脈ではなく、気の流れを診ている。

 

おおよそ半年以上の間、玄雲の肉体を()()する過程で小夜は大まかにだが気の流れを読めるようになっていた。

 

「——澱んでいます」

 

小夜の声は平坦だった。

 

「処理はしています。頻度も落としていません。にもかかわらず、熱が引いていない。

……つまり、感情の流入量が処理能力を上回っている」

 

「原因は分かっている」

 

玄雲が目を開けた。

 

「演習だ」

 

三人の間に、短い沈黙が落ちた。

 

「凛殿の課した回数は、既に百五十を超えた。昼夜を問わない。

実弾ではないが、身体の反応は実戦と変わらん。撃たれる。囲まれる。死ぬ。それを一晩に三度も四度も繰り返す」

 

玄雲は淡々と続ける。

 

「一回の戦闘で生じる雑音を十とするなら、今は毎晩それが四十から五十入ってくる。

処理が追いつく道理がない」

 

「……なら、演習を減らすように凛様へ——」

 

「言わん」

 

烈華の言葉を、玄雲は即座に切った。

 

「あの演習は必要だ。俺たちは二人欠けただけで群から個に戻る体になっていた。

あれを直さなければ、いずれ本物の戦場で三人まとめて死ぬ。減らすという選択肢は無い」

 

「じゃあどうするんですか。このままだと若様が——」

 

「俺は壊れん」

 

玄雲は静かに言った。

 

「壊れるのは『弟』だ」

 

烈華が言葉に詰まる。

 

小夜は表情を変えなかった。ただ、玄雲の手首から指を離さずに、低く言った。

 

 

「若様。ひとつ、申し上げてよろしいですか」

 

「言え」

 

「処理の方法そのものに、欠陥があります」

 

玄雲の目が、わずかに動いた。

 

 

「我々が今行っている処理は、こうです」

 

小夜は指を折るように、順に並べていく。

 

「若様が表に出たまま、我々が若様に触れる。話す。()()()()()

それによって生じた安らぎが、若様を経由して深層の『弟』君へ流れる。——間接処理です」

 

「そうだ」

 

「効率が悪い」

 

小夜はきっぱりと言った。

 

「熱を持っているのは『弟』君です。我々が触れているのは若様です。

若様は、そもそも安らぎを必要としない設計の人格です。

恐怖を感じないということは、慰められる必要もないということ。

つまり若様は——熱の発生源であると同時に、『絶縁体』なんです」

 

烈華が目を丸くした。

 

「……えっ、じゃああたしたち、今まで壁越しに湯たんぽ抱かせてたってこと?」

 

「近いです」

 

「マジかぁ…」

 

小夜は玄雲を見上げた。

 

「若様。答えてください。あなたはこれまで、私たちに触れられて、心地よいと感じたことがありますか」

 

玄雲は、少し考えた。

 

そして正直に答えた。

 

「無い」

 

烈華が、両手で顔を覆った。

 

「……女としてのアタシの自信が今、砕け散った」

 

「意味が無かったわけではない。深層への浸透はあった。だが、率は悪い。

——お前の言う通りだ、小夜」

 

玄雲は指を組み、目を閉じる。思考の音がしそうなほど、静かな数十秒だった。

 

「勘定の話にする」

 

やがて彼はそう言った。

 

「凛殿がよく仰る。掟は情ではなく勘定だと。ならばこれも同じだ。俺はYOMIの武器組の筆頭で、武器組の練度を維持する責を負っている。

その俺自身が、機構の維持不良で稼働率を落とすなら、それは部隊の損失だ。

——ならば、最も効率のいい方法を採る」

 

玄雲は目を開けた。

 

「烈華、小夜。以後、お前たちと過ごす時間においてのみ、俺は表に出ない」

 

「……は?」

 

「『弟』を、表人格として出す」

 

 

烈華が固まった。

 

「い、いや、待ってください。それって、若様が引っ込むってことですか。

あの、無防備な状態で? もし襲撃があったら——」

 

「お前たち二人が俺の護衛だ」

 

玄雲は当たり前のように言った。

 

「俺が武装解除した状態でも死なせない。そのために俺はお前たちを側に置いている。違うか」

 

烈華は口を開き、閉じ、そして——ゆっくり、深く頷いた。

 

「……違いません」

 

「小夜」

 

「異論はありません。むしろ、そうすべきでした。もっと早く」

 

小夜は淡々と言い、それから腰の後ろに手を回して、苦無の束を全部抜いた。

丁寧に布で包み、部屋の隅の棚の、一番上に置く。

 

「烈華、刀と脇差」

 

「あっ、うん」

 

烈華も刀と脇差を外し、棚に上げた。

 

——刃物を、視界から消す。

 

『弟』は刃物が怖い。それは玄雲がすべての恐怖を押し付けてきた結果、最も深く沈殿した恐怖だった。

 

準備が整うと、小夜が玄雲の正面に座り、両手で彼の手を包んだ。

 

「若様。どうぞ」

 

玄雲は一度だけ、深く息を吐いた。

 

そして——沈んだ。

 

姿勢が、変わった。

 

背骨を貫いていた見えない一本の芯が、静かに抜ける。肩が落ち、首が少し傾き、握られていた手が、握り返す形になる。

 

瞼が上がる。

 

同じ黒い目のはずなのに、そこに映る光の量がまるで違った。

 

(——あ)

 

声は出ない。まず、視線が動いた。部屋を見る。棚を見る。刃物が無いことを確認して、そこで初めて、肩から力が抜けた。

 

「……れっかと、さよだ」

 

小さな声だった。

 

烈華の喉が、変な音を立てた。

 

「——っ、うん。うん、そうだよ。あたしと小夜」

 

「ぱんぱん、おわった?」

 

「終わったよ。今日はもう終わり。明日の夜まで鳴らない」

 

「……ほんと?」

 

「ほんと。あたしが約束する」

 

『弟』は、しばらくその言葉を噛むように黙っていた。

 

それから、ゆっくりと烈華のほうへ手を伸ばして——迷って——止まった。

 

「……さわっても、いい?」

 

烈華の目が、一瞬で潤んだ。

 

「バカ」

 

彼女は乱暴に腕を引いて、その小さな主を胸に抱き込んだ。

 

「聞くな。そんなの、いちいち聞くんじゃない」

 

 

排熱処理の内容が、劇的に変わったわけではない。

 

やることは、それまでと同じだ。

 

抱く。撫でる。髪を梳く。他愛のない話をする。肌を重ねる。

 

違うのは、受け取る側が誰かということだけだった。

 

烈華は膝を貸した。『弟』はそこに頭を乗せて、金棒でできた彼女の掌の豆を、指先でずっと数えていた。

 

「……いっぱい、ある」

 

「そりゃそうよ。あの鉄棒、重いんだから」

 

「いたくない?」

 

「痛いよ。でも、この豆があるから、あたしは若様の前に立てるの」

 

「……ぼくの、まえ?」

 

「そう。あんたの前」

 

烈華はぐしゃぐしゃと髪を撫でた。

 

「あんたが怖がってるぱんぱんはね、全部あたしが先に受けるから。あたしの後ろにいなさい」

 

『弟』は少しだけ考えて、それから、ぽつりと言った。

 

「……れっか、しなないで」

 

「死なないわよ。凛様が死ぬなって言ってんだから、死ねないの」

 

——勘定の掟。

 

烈華は、それをこんな形で使うとは思っていなかった。

 

小夜のやり方は違った。

 

彼女は膝を貸さない。代わりに、隣に並んで座り、手を握る。そして黙っている。

 

『弟』も黙っている。

 

十分でも二十分でも、そうしている。

 

「……さよは、しゃべらないね」

 

「話したほうがいいですか」

 

「ううん」

 

『弟』は首を振った。

 

「しずかなの、すき」

 

小夜の指が、わずかに強くなった。

 

「……そうですか」

 

彼女は、それだけ言った。

 

小夜には、以前から一つ理解していることがあった。

玄雲は完璧な武器だが、完璧な武器は必ず整備を必要とする。整備されない刃はいずれ折れる。

だから彼女は、この作業を任務として引き受けた——最初は、確かに任務として。

 

だが、握った手が少しずつ温かくなっていくのを感じるたび、彼女の中で何かが静かに置き換わっていった。

 

(……これは、玄雲様の一部ではない)

 

(この子が、玄雲様そのものだ)

 

殺人剣の主人格が上に立ち、その下でこの小さな魂がすべての濁りを飲んでいる。順序が逆なのだと、小夜は気づいていた。

作られたのは玄雲のほうで、元からいたのはこの子のほうなのだと。

 

(——なら、私が仕えているのは、本当は誰なのか)

 

答えは出ていた。

 

出ていたが、口には出さなかった。

 

 

処理形式を変えて、十二日後。

 

立華凛は、演習記録の端末を睨んでいた。

 

「……妙だな」

 

隣で書類を抱えていた副官が顔を上げる。

 

「何かありましたか」

 

「玄雲の反応値だ。第五十夜以降、緩やかに落ちていた。

予兆の読み取りは維持しているが、判断から動作までの間隔が、平均で〇・〇八秒伸びていた」

 

「〇・〇八——」

 

「達人の戦場では、致命的な数字だ」

 

凛は端末を指で弾いた。

 

「それが、第六十一夜から戻り始めた。今は落ちる前より速い。

烈華と小夜の連携判定も同時期から改善している。……三人同時にだ。偶然ではない」

 

副官が首を傾げる。

 

「何か訓練内容を変えられましたか」

 

「変えていない」

 

凛は少し黙り、それから、わずかに笑った。

 

「あいつらが、自分で直したんだろう。——そのほうがいい」

 

彼は端末を閉じ、それ以上追及しなかった。

 

強さを維持するために弟子たちが自ら手を打ったのなら、上が覗き込む必要はない。

 

 

その日の演習後、瓦礫の陰。

 

不二巌が大鎚を担いだまま、宿営棟のほうをじっと見ていた。烈華が『弟』を背負って歩いていく後ろ姿が、投光器の光の端をかすめる。

 

背中の主は、烈華の肩に頬を預けて眠っていた。

 

小夜がその横を歩き、落ちかけた毛布を無言で掛け直す。

 

巌はそれを、しばらく見ていた。

 

「巌ー、何見てんだ」

 

レイラが後ろから声をかけた。缶を放って寄越す。

 

巌はそれを受け取り、宿営棟から視線を外して、短く言った。

 

「……観てた」

 

「お前それしか言わねぇな」

 

「壊れる前に直すのは、正しい」

 

「あ? 何が」

 

巌は答えなかった。

 

レイラは肩をすくめ、缶を開けた。

 

「まあいいや。——あいつ、玄雲。ここ十日くらい、明らかに動きが変わった。

前は完璧だったんだよ。完璧すぎて、逆に線が細かった。今は、なんつーか」

 

彼女は言葉を探した。

 

「——沈んでる。腹の据わり方が違う。あれはもう、削っても崩れねぇ」

 

巌は、静かに頷いた。

 

宿営棟の窓に、明かりが点る。

 

やがてその明かりも消えて、廃墟の演習場には、次の夜までの短い静けさだけが残った。

 

 

暗い水の底のような場所で、二つの声が向かい合っている。

 

(『……げんうん』)

 

(何だ)

 

(『ぼく、ずるいのかな。れっかとさよに、いっぱい、あまえてる』)

 

玄雲は、少しの間だけ黙った。

 

(俺は、お前に全部押し付けている)

 

(『……うん』)

 

(恐怖も、痛みも、殺した後の吐き気も、全部だ。お前が受け取らなければ、俺は濁って使い物にならなくなる)

 

(『……うん』)

 

(そうなれば、俺もお前も「終わり」だ。早晩、父上に消されるだろうな)

 

『弟』がたじろぐ。

 

玄雲の声には、いつも通り、何の抑揚もなかった。

 

二人の共通認識。それは完璧な殺人剣として在り続けること。

 

そうでなければ、玄雲の父・世戯煌臥之助に人格を抹消される。

 

それがあるからこそ『弟』は玄雲からの()()()にも何とか耐えているのだ。

 

感情の澱の許容量は少しづつ増えている。しかし、現状はそれに追いついていない。

 

故にこそ、玄雲は現状の打破の為、『弟』に一時でも主導権を渡すことにしたのだ。

 

全てはより高みに登る(生き残る)ために。

 

(『……げんうん』)

 

(何だ)

 

(『あした、また、れっかのひざ、かりていい?』)

 

(許可を求める相手が違う)

 

(『……じゃあ、れっかにきく』)

 

(そうしろ)

 

深層が、静かに凪ぐ。

 

濁りが沈み、水面が澄む。

 

その澄んだ水面の上に立って、翌夜もまた、玄雲は歩くのだ。恐怖のない足取りで、銃口の隙間を。

 

——『空の心』は、独りでは成り立たない。

 

それを支えているのは、押し付けられた小さな魂と、その魂を毎晩抱き上げる二人の手だ。

 

玄雲はそれを、情ではなく勘定として理解している。

 

理解しているつもりでいる。

 

--

 

レイラ達、闇の兵隊の撤収から半日。宿営棟の一室。

 

 

刃物は、全部棚の上に上がっている。金棒は壁に立てかけられている。

 

刀も脇差も直刀も苦無の束も、布に包まれて手の届かない高さに。

 

 

 

畳の上に、烈華が胡座をかいている。その膝に、『弟』の頭が載っている。小夜は髪を梳くように指を通していた。

 

 

 

排熱処理——「直接処理」に切り替えて暫くが立っていた。

 

 

 

(『……れっかの、ひざ、かたい』)

 

 

 

(『悪かったわね、鍛えてんのよ』)

 

 

 

(『でも、あったかい』)

 

 

 

烈華の声が微妙に上ずったのを、小夜が黙って笑った気配で受けた。

 

 

 

そこまでは、いつも通りだった。

 

 

 

問題は、その次だった。

 

 

 

「……ねえ」

 

 

 

『弟』が、天井を見上げたまま言った。

 

 

 

「……いっちゃったの?」

 

 

 

「誰が」

 

 

 

「……あの、おっきいおねえちゃん」

 

 

 

烈華の指が止まった。

 

 

 

「レイラのこと?」

 

 

 

「……うん」

 

 

 

『弟』は、しばらく言葉を探した。探している、という顔をしていた。数か月前には無かった顔だ。

 

この子は、単語を吐き出すか、黙るかの二択しか持っていなかった。

 

 

 

「……ありがとう、って、いいたかった」

 

 

 

小夜の指も、止まった。

 

 

 

「……なぜ、そう思われたのですか」

 

 

 

丁寧に、慎重に、小夜が訊いた。この子から言葉を引き出すのは、鳥の卵を掌に載せる作業に似ている。

 

 

 

『弟』は、指を組んだり解いたりしながら答えた。

 

 

 

「……いっぱい、こわかった。ぱんぱん、どこからくるか、わかんなかった。……ずっと、こわかった」

 

 

 

「うん」

 

 

 

「……でも」

 

 

 

彼は、ゆっくり続けた。

 

 

 

「げんうんが、しななくなった。れっかも、さよも、しななくなった。

 

……あのおねえちゃんが、たくさん、ころしてくれたから」

 

 

 

部屋が、静まった。

 

 

 

烈華は、しばらく天井を睨んでいた。それから、雑に鼻をすすった。

 

 

 

「……あー、くそ」

 

 

 

「烈華」

 

 

 

「なんでもない」

 

 

 

烈華は乱暴に『弟』の髪を撫でた。

 

 

 

「間に合わなかったわね。もう出てったわ」

 

 

 

「……うん」

 

 

 

「今度言いなさい。あの女、絶対また来るから」

 

 

 

「……ほんと?」

 

 

 

「本当。あんだけ悔しがってたのよ。放っといたって戻ってくるわ」

 

 

 

『弟』は、少しだけ安心した顔をして、目を閉じた。

 

 

 

その光を、玄雲は水底から冷たく見上げていた。

 

 

 

温度は届かない。届かないように作られている。

 

 

 

彼はただ、数値を受け取る。

 

 

 

(深層澱み、演習期間中平均比マイナス四十七パーセント)

 

 

 

(判断遅延、〇・〇〇秒。演習前水準を超過して安定)

 

 

 

(——処理効率、極めて良好)

 

 

 

順調だ。すべて勘定通りに動いている。

 

 

 

その順調さの中に、『自分を殺す毒』が混ざっていることを除けば。

 

 

 

--

 

玄雲の人格には、忘却機能が薄い。

 

 

 

恐怖も痛みも屈辱も全部『弟』に落とすが、情報は落とさない。落とせば弱くなるからだ。

 

だから彼は、『弟』の発話履歴を一件残らず保持している。

 

 

 

玄雲が主人格として主導権を握り始めてから、『弟』はあまり複雑には喋らなくなった。

 

 

 

しかし、『弟』は言った。

 

 

 

「あのおねえちゃんが、たくさん、ころしてくれたから」

 

 

 

——死という手段と、訓練という過程と、生存という結果を、一本の因果で繋いだ。

 

 

 

さらに。

 

 

 

「ありがとう、っていいたかった」

 

 

 

——機会の逸失に対する後悔。時間軸を跨いだ自己言及。

 

 

 

深層の水温が、一度だけ下がった。

 

 

 

(成長している)

 

 

 

玄雲は結論した。

 

 

 

(表に出す時間を与えた結果、経験を蓄積し、精神年齢が上昇している)

 

 

 

当然の帰結だ。人格とは経験の函数である。玄雲自身が、そうやって作られたのだから。

 

 

 

五歳の時、訓練の過酷さに耐え兼ね恐怖に潰された魂が「恐れない者」を必要とした、

 

その瞬間に玄雲は生成された。以後八年、表に立ち続けることで肥大した。

 

 

 

同じことが、いま逆向きに起きている。

 

 

 

しかも、ほんの数か月という速さではっきりと成長している。

 

 

 

(やはり、元々の肉体の持ち主、主人格ということか)

 

 

 

玄雲は冷静に推察を重ねる。

 

 

 

(——そしてこのまま成長が進めば)

 

 

 

彼は、感情を伴わずに先を計算した。

 

 

 

(——主導権を、奪い返される)

 

 

 

玄雲は、対策案を三つ組んだ。

 

 

 

案一:処理形式を元に戻す。

 

 

 

『弟』を表に出さない。烈華と小夜による間接処理へ戻す。刺激が減れば成長は止まり、主導権のリスクは消える。

 

 

 

——却下。

 

 

 

効率が落ちる。落ちれば澱む。澱めば〇・〇八秒遅れる。

 

 

 

そして〇・〇八秒遅れる玄雲は戦場で死ぬだろう。

 

 

 

(守るために弱くなるのでは、本末転倒だ)

 

 

 

案二:成長を意図的に阻害する。

 

 

 

処理の質を落とす。烈華と小夜に「話しかけるな。触れるだけにしろ」と命じる。会話刺激を切れば、言語発達は鈍る。

 

 

 

玄雲は、この案をしばらく検討した。

 

 

 

そして、却下した。

 

 

 

第一に、効率が落ちる。『弟』が緩むのは、烈華が馬鹿を言い、小夜が黙って隣にいるからだ。それを剥がせば処理率も落ちる。案一と同じ袋小路だ。

 

 

 

第二に。

 

 

 

(——烈華と小夜が、従わない)

 

 

 

命令すれば形式上は従うだろう。だが、あの二人はもう「玄雲の護衛」であると同時に「あの子を抱く二人」になっている。小夜が苦無を全部棚に上げた夜から、そうなっている。

 

 

 

無理に剥がせば、二人の中で何かが折れる。

 

 

 

そして——折れた官吏は、合図なしで拍を合わせない。

 

 

 

(三百二十七回で積み上げた連携精度が落ちる。損失だ)

 

 

 

(あの二人の拍は、俺が凛殿から与えられた指揮権より重い資産だ)

 

 

 

案三:現状を維持し、リスクを許容する。

 

 

 

成長は進む。いずれ主導権を争う日が来るかもしれない。

 

 

 

だがそれまでの間、玄雲は最高効率で澄み、最速で強くなれる。

 

 

 

玄雲は、天秤を組んだ。

 

 

 

片方の皿に、「主導権を失う可能性」。時期は不明。一年後か、三年後か、あるいは来ないか。

 

 

 

もう片方の皿に、「いま、確実に得られる強さ」。

 

 

 

(——決まっている)

 

 

 

彼は迷わなかった。

 

 

 

(未確定の損失を恐れて、確定した利益を捨てるのは、勘定ではない。臆病だ)

 

 

 

(そして俺には、臆病という機能が実装されていない)

 

 

 

 

 

玄雲は、自分の存在の輪郭を確認する。

 

 

 

彼は「作られた側」だ。それを一度も誤解したことがない。元からいたのは『弟』であり、玄雲は必要に応じて生成された機能に過ぎない。

 

 

 

機能は、必要が消えれば廃棄される。

 

 

 

もし『弟』が恐怖を自分で処理できるようになったら。刃物を見ても震えなくなったら。烈華と小夜に守られながら、自分の足で立てるようになったら。

 

 

 

そのとき、玄雲を表に立たせておく理由は、ひとつも残らない。

 

 

 

その想定に対して湧いたものを、玄雲は正確に観測した。

 

 

 

恐怖ではない。恐怖は『弟』が全部持っていった。

 

 

 

代わりにあったのは——惜しい、という感覚に最も近い何かだった。

 

 

 

強くなれない。それが惜しい。

 

 

 

いま自分は、『静』の武術家として同年代に並ぶ者がいないほどに成長している。

 

凛の対銃戦闘理論を骨まで消化した。銃口の向き、引き金にかかる指、撃つ体の沈み——交通標識のように読める。

 

 

 

数か月前の自分は、銃を「誰が握っても同じ弾が出る道具」だと、どこかで思っていた。

 

 

 

その慢心は、初日の夜に十二分で焼き切られた。

 

 

 

(銃は強い。強いから、国家も軍もそれを選ぶ)

 

 

 

(レイラの隊は、圏の中へ一歩も入らずに俺を殺した。あれは技術だ。積み上げだ。侮った瞬間に死ぬ)

 

 

 

(——だが、銃は極めても弾道より先へは行かない。合理の内側で完結する道具だ)

 

 

 

(技は違う。積むほどに、理屈の外へはみ出していく)

 

 

 

(合理を知り尽くした先にしか、極致はない)

 

 

 

あと数年あれば届く。おおよそ二十代にならぬうちに『達人』という領域に届く。

 

届く場所が、見えている。

 

 

 

それを途中で降ろされるのが、惜しい。

 

 

 

(——これは、感情か?)

 

 

 

玄雲は自問し、棄却した。

 

 

 

(いや。目標未達に対する、機能的不利の認識だ)

 

 

 

そう定義してしまえば、処理できる。

 

 

 

上で、『弟』が笑っている。烈華が何か馬鹿を言ったらしい。小夜の小さな溜息。

 

 

 

(——せいぜい、癒されろ)

 

 

 

そこには悪意も慈悲もなかった。

 

 

 

(お前が満たされるほど、俺の水面は澄む)

 

 

 

(お前が育つほど、俺の残り時間は減る)

 

 

 

(構わん。減った分だけ、速く登る)

 

 

 

自分が、自分を生んだ魂を燃料として消費している。

 

 

 

それを正確に理解した上で、続けると決めた。

 

 

 

それが玄雲という人格の、最も純粋な部分だった。

 

 

 

--

 

 

 

撤収から二日後、立華凛が宿営棟に顔を出した。

 

 

 

籠を背負った二メートル近い巨躯が、鴨居をくぐる時だけ僅かに屈む。用件は事務的なものだった。

 

 

 

「不二巌を、レイラ小隊付きに回す」

 

 

 

烈華が目を丸くした。

 

 

 

「え、巌を? うちから抜くんですか」

 

 

 

「抜くんじゃない。貸す」

 

 

 

凛は書類を卓に置いた。

 

 

 

「あいつの観測眼は、あの隊の火力と噛み合う。演習で証明された。組織はそれを実戦で使いたがっている」

 

 

 

「……早いですね」

 

 

 

玄雲が言うと、凛は肩をすくめた。

 

 

 

「早いのはお前たちだ。数か月で軍隊と噛み合わせを作った。使わない手はない」

 

 

 

部屋の隅で、巌が大鎚を床に立てたまま、いつも通り黙って立っている。

 

 

 

玄雲は、そちらへ視線を向けた。

 

 

 

「巌。異存は」

 

 

 

「ない」

 

 

 

短い。それから、珍しく巌は続けた。

 

 

 

「……あいつが、背中を守れと言った」

 

 

 

烈華が吹き出した。

 

 

 

「あんた、それ承諾したの?」

 

 

 

「頷いた」

 

 

 

「じゃあ行きなさいよ。約束でしょ」

 

 

 

巌は小さく頷いた。

 

 

 

小夜が、静かに頭を下げる。

 

 

 

「……巌様が抜けると、我々の目が一つ減ります」

 

 

 

「そうだ」

 

 

 

玄雲はあっさり認めた。

 

 

 

「構造の穴を先に見つける役が、いなくなる。——次から、それは俺がやる」

 

 

 

(雹護と結が抜けただけで、俺たちは群から個に戻った。あの醜態は二度と晒さん)

 

 

 

(一人抜けても、隊の形が保てるところまで持っていく。それが次の課題だ)

 

 

 

「異存ありません」

 

 

 

凛は書類を回収し、扉の手前で足を止めた。

 

 

 

「玄雲」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「櫛灘の棟梁が、お前の演習を最後まで観ていた。……『緩い』と言っていたぞ」

 

 

 

玄雲は、僅かに口の端を動かした。

 

 

 

「母上らしい」

 

 

 

「殺し合わせろ、とも言っていた」

 

 

 

「凛殿は、断られたのでしょう」

 

 

 

「勘定が合わんからな」

 

 

 

凛は、それだけ言って出ていった。

 

 

 

三日後の夜。

 

 

 

月が、出ていなかった。

 

 

 

宿営棟の廊下に、足音が立った。軍靴ではない。草履でもない。音を殺し切れていない、伝令特有の足運び。

 

 

 

その日、表に出ていたのは『弟』だった。

 

 

 

烈華の膝の上で、彼女の手の豆を数えている最中だった。棚の上には刃物が全部上がっている。

 

 

 

「……あ」

 

 

 

小さな声。

 

 

 

小夜が半身をずらして、扉と『弟』の間に立った。

 

 

 

襖の向こうから、抑揚のない声がした。

 

 

 

「——お館様よりの伝令」

 

 

 

「闇の指令。三日後、月の出ぬ夜。闇の拠点へ出頭せよ」

 

 

 

「対象は、反闇組織への武器供給元。護衛は銃器で武装した私設部隊、二十前後」

 

 

 

「詳細は会合にて」

 

 

 

烈華の喉が鳴った。

 

 

 

小夜の指が、無意識に腰へ伸びて——そこに何も無いことに気づいて、止まった。

 

 

 

『弟』が、烈華の膝の上で固まっている。

 

 

 

「……れっか」

 

 

 

「大丈夫」

 

 

 

烈華が、その頭に手を置いた。

 

 

 

「大丈夫だから」

 

 

 

大丈夫ではない。今度は命を懸けた実戦になる。

 

 

 

深層から、声が上がってきた。

 

 

 

(下がれ)

 

 

 

交渉ではない。要請でもない。ただの上書きだった。

 

 

 

(『……げんうん』)

 

 

 

(下がれ)

 

 

 

(『……うん』)

 

 

 

抵抗は、無い。

 

 

 

奪い返す、という表現すら大袈裟なほど、それは容易だった。八年間表に立ち続けた人格と、数ヶ月分の経験を積んだ魂とでは、質量が違いすぎる。

 

 

 

ーーー今はまだ、だが。

 

 

 

ただ——沈む直前に。

 

 

 

『弟』は、烈華の手を、一度だけ強く握った。

 

 

 

「——っ」

 

 

 

烈華が気づいて、握り返そうとした。

 

 

 

遅かった。

 

 

 

背骨に、芯が通る。

 

 

 

落ちていた肩が上がる。傾いだ首がまっすぐになる。握られていた手が、握り返さない手に戻る。

 

 

 

瞳に映る光の量が、半分になった。

 

 

 

烈華の手の中で、体温だけを残して、中身が入れ替わる。

 

 

 

何度味わっても、彼女はこの感触に慣れなかった。

 

 

 

玄雲は、烈華の手をやんわりと外して立ち上がった。

 

 

 

「聞いたな」

 

 

 

声が違う。平坦で、乾いていて、どこまでも澄んでいる。

 

 

 

「はっ」

 

 

 

「……はい」

 

 

 

ーー

 

 

 

玄雲は襖の向こうへ「承知した」とだけ返し、伝令の足音が遠ざかるのを聞いた。

 

 

 

そして、思考を組み上げ始める。

 

 

 

——護衛二十。銃器装備。私設部隊。

 

 

 

——まず、統制の質を見る。射線が重なっているか。巡回に穴があるか。無線の号令が何秒遅れるか。増援を伏せているか。

 

 

 

——レイラなら、角に囮の光を置く。『囮を置ける組織かどうか』で、こちらの入り方が変わる。

 

 

 

——巌はいない。構造の穴は、俺が五秒で読む。

 

 

 

——烈華は正面。ただし光には飛び込ませない。塀の影の切れ目を渡らせる。

 

 

 

——小夜は屋根に上げない。稜線に立たせない。庇の下の影から、内部の気を読ませる。

 

 

 

——狙いをつけずに区画ごと薙ぐ撃ち方をする奴が混じっていたら、読むな。遮蔽に入れ。あれだけは読めない。

 

 

 

思考が、加速していく。

 

 

 

銃口の群れ。予兆の海。それを歩いて抜ける自分。

 

 

 

玄雲は、薄く笑った。

 

 

 

烈華が、息を呑んだ。

 

 

 

「若様……」

 

 

 

見間違いではない。感情の一切を排したはずの顔の、口の端が、ほんの数ミリ持ち上がっていた。

 

 

 

小夜も、それを見ていた。

 

 

 

——この人は。

 

 

 

小夜は理解する。この人格には、恐怖も、悲しみも、優しさも実装されていない。全部『弟』に押し付けている。

 

 

 

だが、ひとつだけ。

 

 

 

ひとつだけ、押し付けなかったものがある。

 

 

 

(——戦うことの、悦び)

 

 

 

それだけは、玄雲が自分の手元に残した。残さなければ、彼は前へ進む理由を持たない人形になる。

 

 

 

だから彼は、それを唯一の持ち物として抱えている。

 

 

 

(戦いこそ、我が存在理由)

 

 

 

(我が、悦楽)

 

 

 

そして玄雲は、その悦びを、自惚れとは切り離している。

 

 

 

数ヶ月前の彼なら「銃など」と笑っただろう。

 

 

 

いまは笑わない。

 

 

 

(強い相手が、強い装備を、正しく使ってくる可能性を勘定に入れる)

 

 

 

(入れた上で、それでも勝つ)

 

 

 

(——そこが、面白い)

 

 

 

「烈華。小夜」

 

 

 

「はっ」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「戦地へ行く」

 

 

 

短い言葉だった。

 

 

 

「三日後、闇の会合。それまでに整備を終えろ。烈華、金棒と刀と脇差、両方持て。狭所が出る」

 

 

 

「……了解」

 

 

 

「小夜、苦無の数を増やせ。直刀は突きだけでいい」

 

 

 

「はい」

 

 

 

そして玄雲は、一度だけ棚を見た。

 

 

 

布に包まれたまま、そこに上げられている刃物の束を。

 

 

 

「——降ろせ」

 

 

 

烈華が手を伸ばした。

 

 

 

布を解く。刀の柄が、常夜灯の光を鈍く弾いた。

 

 

 

小夜が苦無の束を取る。金属が擦れる、小さく硬い音。

 

 

 

その音を聞いた瞬間、深層で『弟』が身を縮めたのを、玄雲は感じ取った。

 

 

 

(『……こわい』)

 

 

 

(知っている)

 

 

 

(『……ぱんぱん、いっぱい?』)

 

 

 

(いっぱいだ)

 

 

 

(『……ほんものの?』)

 

 

 

(本物だ)

 

 

 

『弟』が震える。

 

 

 

その震えが、そのまま玄雲の水面を澄ませていく。恐怖が下へ落ちるぶんだけ、上が静かになる。

 

 

 

玄雲は、それを受け取った。

 

 

 

そして、いつも通りの声で言った。

 

 

 

(——終わったら、烈華の膝を借りろ)

 

 

 

(『……うん』)

 

 

 

(許可は取ってあるのか)

 

 

 

(『……とってない』)

 

 

 

(なら、俺が言っておく)

 

 

 

深層が、少しだけ凪いだ。

 

 

 

(『……げんうん』)

 

 

 

(何だ)

 

 

 

(『……あのおねえちゃんレイラ達たちだったら』)

 

 

 

(——)

 

 

 

(『きょうのお仕事の、あいての人たちも、まもれたのかな』)

 

 

 

玄雲は、答えなかった。

 

 

 

答えは、たぶん「守れた」だ。

 

 

 

統制された二十挺に、圏の外から区画ごと薙がれる。そういう相手が世界に存在することを、彼はもう知っている。

 

 

 

(だからこそ、あれ等が味方であることは幸運だ)

 

 

 

そして彼は、その発話をもう一件、記録に加えた。

 

 

 

(——敵側の生存可能性への想像。共感対象の拡張)

 

 

 

(想定より、四ヶ月早い)

 

 

 

(構わん)

 

 

 

(その分だけ、速く登る)

 

 

 

三日後。

 

 

 

月は出ない。

 

 

 

車が二台、闇へ向かって出ていく。

 

 

 

行き先は、闇の拠点。

 

 

 

玄雲達の初めての闇の任務だった。

 

 

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