二天閻羅王の息子に生まれたので久遠の落日を完遂したい(したくない) 作:HIDEMASA
時系列としては演習の最中。舞台裏のお話です。
その夜の演習で、玄雲は一発も被弾しなかった。
レイラ小隊の射手が七名。うち三名が暗視装置、二名が擲弾模擬弾。瓦礫の稜線に沿って射線を三重に組み、玄雲の進路を潰しにきた布陣だった。
玄雲は歩いた。
走らない。跳ばない。ただ歩いて、射線と射線の継ぎ目だけを通っていく。銃口が向く前に、その兵が「向けようとする体」になる。肩がわずかに沈み、踵に体重が移り、引き金にかかる指の第二関節が動く——銃を撃つ前の予兆のすべてが、玄雲には交通標識のように読めた。
「……化けもんかよ」
観測壕でレイラが吐き捨てた。
玄雲は最後の射手の懐へ、風が入るように入った。判定装置が赤く点る。演習終了のブザー。
完璧だった。
——にもかかわらず。
投光器の白い光の下で、玄雲は自分の右手を見下ろしていた。
指先が、わずかに熱い。
--
装備を解き、判定装置を外し、汗を流したあとの短い自由時間。玄雲は椅子に座り、目を閉じている。
深層で、『弟』が縮こまっていた。
(『……ぱんぱんが、いっぱいだった』)
(今夜も終わった。もう鳴らない)
(『でも、みみのなかで、まだ、なってる』)
玄雲は答えない。
——『空の心』
恐怖を感じず、怒りに濁らず、迷いに揺れない。静止した水面のような意識。それが玄雲という人格の設計思想であり、存在理由だった。
だがそれは、感情が「無い」のではない。
感情を、すべて向こう側へ押しやっているだけだ。
刃を交えるたびに生まれる恐怖。人を斬った瞬間の生理的な嫌悪。殺意を向けられた時の身体の縮み。
それらの雑音を、玄雲は一片残らず深層へ落とす。落とされた先で、それを全部受け取る器がある。
『弟』
玄雲という人格を作り出した、元の魂。
(俺が俺でいられるのは、お前が濁ってくれているからだ)
玄雲はそれを一度も忘れたことがない。忘れないからこそ、これは情の問題ではなく、機構の問題として扱われる。
貯めた熱は、抜かねばならない。
排熱処理。
——それが、この数週間、追いついていない。
「若様」
扉が二度叩かれ、返事を待たずに烈華が入ってきた。風呂上がりで、長い髪をまだ拭いている。金棒は置いてきているが、刀と脇差は腰にある。彼女は寝るとき以外それを外さない。
その後ろから、小夜が静かに続く。直刀は預けてきたが、腰の後ろの苦無はそのままだ。
二人は玄雲の「護衛」であり、同時に「侍従」でもあった。
烈華が玄雲の隣に座り、何も言わずに手を取った。
そして、眉をひそめる。
「……熱い」
「そうか」
「そうか、じゃないですよ。前はこんなに残ってなかった。
小夜が反対側に膝をつき、玄雲の手首に指を三本当てた。脈ではなく、気の流れを診ている。
おおよそ半年以上の間、玄雲の肉体を
「——澱んでいます」
小夜の声は平坦だった。
「処理はしています。頻度も落としていません。にもかかわらず、熱が引いていない。
……つまり、感情の流入量が処理能力を上回っている」
「原因は分かっている」
玄雲が目を開けた。
「演習だ」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
「凛殿の課した回数は、既に百五十を超えた。昼夜を問わない。
実弾ではないが、身体の反応は実戦と変わらん。撃たれる。囲まれる。死ぬ。それを一晩に三度も四度も繰り返す」
玄雲は淡々と続ける。
「一回の戦闘で生じる雑音を十とするなら、今は毎晩それが四十から五十入ってくる。
処理が追いつく道理がない」
「……なら、演習を減らすように凛様へ——」
「言わん」
烈華の言葉を、玄雲は即座に切った。
「あの演習は必要だ。俺たちは二人欠けただけで群から個に戻る体になっていた。
あれを直さなければ、いずれ本物の戦場で三人まとめて死ぬ。減らすという選択肢は無い」
「じゃあどうするんですか。このままだと若様が——」
「俺は壊れん」
玄雲は静かに言った。
「壊れるのは『弟』だ」
烈華が言葉に詰まる。
小夜は表情を変えなかった。ただ、玄雲の手首から指を離さずに、低く言った。
「若様。ひとつ、申し上げてよろしいですか」
「言え」
「処理の方法そのものに、欠陥があります」
玄雲の目が、わずかに動いた。
「我々が今行っている処理は、こうです」
小夜は指を折るように、順に並べていく。
「若様が表に出たまま、我々が若様に触れる。話す。
それによって生じた安らぎが、若様を経由して深層の『弟』君へ流れる。——間接処理です」
「そうだ」
「効率が悪い」
小夜はきっぱりと言った。
「熱を持っているのは『弟』君です。我々が触れているのは若様です。
若様は、そもそも安らぎを必要としない設計の人格です。
恐怖を感じないということは、慰められる必要もないということ。
つまり若様は——熱の発生源であると同時に、『絶縁体』なんです」
烈華が目を丸くした。
「……えっ、じゃああたしたち、今まで壁越しに湯たんぽ抱かせてたってこと?」
「近いです」
「マジかぁ…」
小夜は玄雲を見上げた。
「若様。答えてください。あなたはこれまで、私たちに触れられて、心地よいと感じたことがありますか」
玄雲は、少し考えた。
そして正直に答えた。
「無い」
烈華が、両手で顔を覆った。
「……女としてのアタシの自信が今、砕け散った」
「意味が無かったわけではない。深層への浸透はあった。だが、率は悪い。
——お前の言う通りだ、小夜」
玄雲は指を組み、目を閉じる。思考の音がしそうなほど、静かな数十秒だった。
「勘定の話にする」
やがて彼はそう言った。
「凛殿がよく仰る。掟は情ではなく勘定だと。ならばこれも同じだ。俺はYOMIの武器組の筆頭で、武器組の練度を維持する責を負っている。
その俺自身が、機構の維持不良で稼働率を落とすなら、それは部隊の損失だ。
——ならば、最も効率のいい方法を採る」
玄雲は目を開けた。
「烈華、小夜。以後、お前たちと過ごす時間においてのみ、俺は表に出ない」
「……は?」
「『弟』を、表人格として出す」
烈華が固まった。
「い、いや、待ってください。それって、若様が引っ込むってことですか。
あの、無防備な状態で? もし襲撃があったら——」
「お前たち二人が俺の護衛だ」
玄雲は当たり前のように言った。
「俺が武装解除した状態でも死なせない。そのために俺はお前たちを側に置いている。違うか」
烈華は口を開き、閉じ、そして——ゆっくり、深く頷いた。
「……違いません」
「小夜」
「異論はありません。むしろ、そうすべきでした。もっと早く」
小夜は淡々と言い、それから腰の後ろに手を回して、苦無の束を全部抜いた。
丁寧に布で包み、部屋の隅の棚の、一番上に置く。
「烈華、刀と脇差」
「あっ、うん」
烈華も刀と脇差を外し、棚に上げた。
——刃物を、視界から消す。
『弟』は刃物が怖い。それは玄雲がすべての恐怖を押し付けてきた結果、最も深く沈殿した恐怖だった。
準備が整うと、小夜が玄雲の正面に座り、両手で彼の手を包んだ。
「若様。どうぞ」
玄雲は一度だけ、深く息を吐いた。
そして——沈んだ。
姿勢が、変わった。
背骨を貫いていた見えない一本の芯が、静かに抜ける。肩が落ち、首が少し傾き、握られていた手が、握り返す形になる。
瞼が上がる。
同じ黒い目のはずなのに、そこに映る光の量がまるで違った。
(——あ)
声は出ない。まず、視線が動いた。部屋を見る。棚を見る。刃物が無いことを確認して、そこで初めて、肩から力が抜けた。
「……れっかと、さよだ」
小さな声だった。
烈華の喉が、変な音を立てた。
「——っ、うん。うん、そうだよ。あたしと小夜」
「ぱんぱん、おわった?」
「終わったよ。今日はもう終わり。明日の夜まで鳴らない」
「……ほんと?」
「ほんと。あたしが約束する」
『弟』は、しばらくその言葉を噛むように黙っていた。
それから、ゆっくりと烈華のほうへ手を伸ばして——迷って——止まった。
「……さわっても、いい?」
烈華の目が、一瞬で潤んだ。
「バカ」
彼女は乱暴に腕を引いて、その小さな主を胸に抱き込んだ。
「聞くな。そんなの、いちいち聞くんじゃない」
排熱処理の内容が、劇的に変わったわけではない。
やることは、それまでと同じだ。
抱く。撫でる。髪を梳く。他愛のない話をする。肌を重ねる。
違うのは、受け取る側が誰かということだけだった。
烈華は膝を貸した。『弟』はそこに頭を乗せて、金棒でできた彼女の掌の豆を、指先でずっと数えていた。
「……いっぱい、ある」
「そりゃそうよ。あの鉄棒、重いんだから」
「いたくない?」
「痛いよ。でも、この豆があるから、あたしは若様の前に立てるの」
「……ぼくの、まえ?」
「そう。あんたの前」
烈華はぐしゃぐしゃと髪を撫でた。
「あんたが怖がってるぱんぱんはね、全部あたしが先に受けるから。あたしの後ろにいなさい」
『弟』は少しだけ考えて、それから、ぽつりと言った。
「……れっか、しなないで」
「死なないわよ。凛様が死ぬなって言ってんだから、死ねないの」
——勘定の掟。
烈華は、それをこんな形で使うとは思っていなかった。
小夜のやり方は違った。
彼女は膝を貸さない。代わりに、隣に並んで座り、手を握る。そして黙っている。
『弟』も黙っている。
十分でも二十分でも、そうしている。
「……さよは、しゃべらないね」
「話したほうがいいですか」
「ううん」
『弟』は首を振った。
「しずかなの、すき」
小夜の指が、わずかに強くなった。
「……そうですか」
彼女は、それだけ言った。
小夜には、以前から一つ理解していることがあった。
玄雲は完璧な武器だが、完璧な武器は必ず整備を必要とする。整備されない刃はいずれ折れる。
だから彼女は、この作業を任務として引き受けた——最初は、確かに任務として。
だが、握った手が少しずつ温かくなっていくのを感じるたび、彼女の中で何かが静かに置き換わっていった。
(……これは、玄雲様の一部ではない)
(この子が、玄雲様そのものだ)
殺人剣の主人格が上に立ち、その下でこの小さな魂がすべての濁りを飲んでいる。順序が逆なのだと、小夜は気づいていた。
作られたのは玄雲のほうで、元からいたのはこの子のほうなのだと。
(——なら、私が仕えているのは、本当は誰なのか)
答えは出ていた。
出ていたが、口には出さなかった。
処理形式を変えて、十二日後。
立華凛は、演習記録の端末を睨んでいた。
「……妙だな」
隣で書類を抱えていた副官が顔を上げる。
「何かありましたか」
「玄雲の反応値だ。第五十夜以降、緩やかに落ちていた。
予兆の読み取りは維持しているが、判断から動作までの間隔が、平均で〇・〇八秒伸びていた」
「〇・〇八——」
「達人の戦場では、致命的な数字だ」
凛は端末を指で弾いた。
「それが、第六十一夜から戻り始めた。今は落ちる前より速い。
烈華と小夜の連携判定も同時期から改善している。……三人同時にだ。偶然ではない」
副官が首を傾げる。
「何か訓練内容を変えられましたか」
「変えていない」
凛は少し黙り、それから、わずかに笑った。
「あいつらが、自分で直したんだろう。——そのほうがいい」
彼は端末を閉じ、それ以上追及しなかった。
強さを維持するために弟子たちが自ら手を打ったのなら、上が覗き込む必要はない。
その日の演習後、瓦礫の陰。
不二巌が大鎚を担いだまま、宿営棟のほうをじっと見ていた。烈華が『弟』を背負って歩いていく後ろ姿が、投光器の光の端をかすめる。
背中の主は、烈華の肩に頬を預けて眠っていた。
小夜がその横を歩き、落ちかけた毛布を無言で掛け直す。
巌はそれを、しばらく見ていた。
「巌ー、何見てんだ」
レイラが後ろから声をかけた。缶を放って寄越す。
巌はそれを受け取り、宿営棟から視線を外して、短く言った。
「……観てた」
「お前それしか言わねぇな」
「壊れる前に直すのは、正しい」
「あ? 何が」
巌は答えなかった。
レイラは肩をすくめ、缶を開けた。
「まあいいや。——あいつ、玄雲。ここ十日くらい、明らかに動きが変わった。
前は完璧だったんだよ。完璧すぎて、逆に線が細かった。今は、なんつーか」
彼女は言葉を探した。
「——沈んでる。腹の据わり方が違う。あれはもう、削っても崩れねぇ」
巌は、静かに頷いた。
宿営棟の窓に、明かりが点る。
やがてその明かりも消えて、廃墟の演習場には、次の夜までの短い静けさだけが残った。
暗い水の底のような場所で、二つの声が向かい合っている。
(『……げんうん』)
(何だ)
(『ぼく、ずるいのかな。れっかとさよに、いっぱい、あまえてる』)
玄雲は、少しの間だけ黙った。
(俺は、お前に全部押し付けている)
(『……うん』)
(恐怖も、痛みも、殺した後の吐き気も、全部だ。お前が受け取らなければ、俺は濁って使い物にならなくなる)
(『……うん』)
(そうなれば、俺もお前も「終わり」だ。早晩、父上に消されるだろうな)
『弟』がたじろぐ。
玄雲の声には、いつも通り、何の抑揚もなかった。
二人の共通認識。それは完璧な殺人剣として在り続けること。
そうでなければ、玄雲の父・世戯煌臥之助に人格を抹消される。
それがあるからこそ『弟』は玄雲からの
感情の澱の許容量は少しづつ増えている。しかし、現状はそれに追いついていない。
故にこそ、玄雲は現状の打破の為、『弟』に一時でも主導権を渡すことにしたのだ。
全てはより
(『……げんうん』)
(何だ)
(『あした、また、れっかのひざ、かりていい?』)
(許可を求める相手が違う)
(『……じゃあ、れっかにきく』)
(そうしろ)
深層が、静かに凪ぐ。
濁りが沈み、水面が澄む。
その澄んだ水面の上に立って、翌夜もまた、玄雲は歩くのだ。恐怖のない足取りで、銃口の隙間を。
——『空の心』は、独りでは成り立たない。
それを支えているのは、押し付けられた小さな魂と、その魂を毎晩抱き上げる二人の手だ。
玄雲はそれを、情ではなく勘定として理解している。
理解しているつもりでいる。
--
レイラ達、闇の兵隊の撤収から半日。宿営棟の一室。
刃物は、全部棚の上に上がっている。金棒は壁に立てかけられている。
刀も脇差も直刀も苦無の束も、布に包まれて手の届かない高さに。
畳の上に、烈華が胡座をかいている。その膝に、『弟』の頭が載っている。小夜は髪を梳くように指を通していた。
排熱処理——「直接処理」に切り替えて暫くが立っていた。
(『……れっかの、ひざ、かたい』)
(『悪かったわね、鍛えてんのよ』)
(『でも、あったかい』)
烈華の声が微妙に上ずったのを、小夜が黙って笑った気配で受けた。
そこまでは、いつも通りだった。
問題は、その次だった。
「……ねえ」
『弟』が、天井を見上げたまま言った。
「……いっちゃったの?」
「誰が」
「……あの、おっきいおねえちゃん」
烈華の指が止まった。
「レイラのこと?」
「……うん」
『弟』は、しばらく言葉を探した。探している、という顔をしていた。数か月前には無かった顔だ。
この子は、単語を吐き出すか、黙るかの二択しか持っていなかった。
「……ありがとう、って、いいたかった」
小夜の指も、止まった。
「……なぜ、そう思われたのですか」
丁寧に、慎重に、小夜が訊いた。この子から言葉を引き出すのは、鳥の卵を掌に載せる作業に似ている。
『弟』は、指を組んだり解いたりしながら答えた。
「……いっぱい、こわかった。ぱんぱん、どこからくるか、わかんなかった。……ずっと、こわかった」
「うん」
「……でも」
彼は、ゆっくり続けた。
「げんうんが、しななくなった。れっかも、さよも、しななくなった。
……あのおねえちゃんが、たくさん、ころしてくれたから」
部屋が、静まった。
烈華は、しばらく天井を睨んでいた。それから、雑に鼻をすすった。
「……あー、くそ」
「烈華」
「なんでもない」
烈華は乱暴に『弟』の髪を撫でた。
「間に合わなかったわね。もう出てったわ」
「……うん」
「今度言いなさい。あの女、絶対また来るから」
「……ほんと?」
「本当。あんだけ悔しがってたのよ。放っといたって戻ってくるわ」
『弟』は、少しだけ安心した顔をして、目を閉じた。
その光を、玄雲は水底から冷たく見上げていた。
温度は届かない。届かないように作られている。
彼はただ、数値を受け取る。
(深層澱み、演習期間中平均比マイナス四十七パーセント)
(判断遅延、〇・〇〇秒。演習前水準を超過して安定)
(——処理効率、極めて良好)
順調だ。すべて勘定通りに動いている。
その順調さの中に、『自分を殺す毒』が混ざっていることを除けば。
--
玄雲の人格には、忘却機能が薄い。
恐怖も痛みも屈辱も全部『弟』に落とすが、情報は落とさない。落とせば弱くなるからだ。
だから彼は、『弟』の発話履歴を一件残らず保持している。
玄雲が主人格として主導権を握り始めてから、『弟』はあまり複雑には喋らなくなった。
しかし、『弟』は言った。
「あのおねえちゃんが、たくさん、ころしてくれたから」
——死という手段と、訓練という過程と、生存という結果を、一本の因果で繋いだ。
さらに。
「ありがとう、っていいたかった」
——機会の逸失に対する後悔。時間軸を跨いだ自己言及。
深層の水温が、一度だけ下がった。
(成長している)
玄雲は結論した。
(表に出す時間を与えた結果、経験を蓄積し、精神年齢が上昇している)
当然の帰結だ。人格とは経験の函数である。玄雲自身が、そうやって作られたのだから。
五歳の時、訓練の過酷さに耐え兼ね恐怖に潰された魂が「恐れない者」を必要とした、
その瞬間に玄雲は生成された。以後八年、表に立ち続けることで肥大した。
同じことが、いま逆向きに起きている。
しかも、ほんの数か月という速さではっきりと成長している。
(やはり、元々の肉体の持ち主、主人格ということか)
玄雲は冷静に推察を重ねる。
(——そしてこのまま成長が進めば)
彼は、感情を伴わずに先を計算した。
(——主導権を、奪い返される)
玄雲は、対策案を三つ組んだ。
案一:処理形式を元に戻す。
『弟』を表に出さない。烈華と小夜による間接処理へ戻す。刺激が減れば成長は止まり、主導権のリスクは消える。
——却下。
効率が落ちる。落ちれば澱む。澱めば〇・〇八秒遅れる。
そして〇・〇八秒遅れる玄雲は戦場で死ぬだろう。
(守るために弱くなるのでは、本末転倒だ)
案二:成長を意図的に阻害する。
処理の質を落とす。烈華と小夜に「話しかけるな。触れるだけにしろ」と命じる。会話刺激を切れば、言語発達は鈍る。
玄雲は、この案をしばらく検討した。
そして、却下した。
第一に、効率が落ちる。『弟』が緩むのは、烈華が馬鹿を言い、小夜が黙って隣にいるからだ。それを剥がせば処理率も落ちる。案一と同じ袋小路だ。
第二に。
(——烈華と小夜が、従わない)
命令すれば形式上は従うだろう。だが、あの二人はもう「玄雲の護衛」であると同時に「あの子を抱く二人」になっている。小夜が苦無を全部棚に上げた夜から、そうなっている。
無理に剥がせば、二人の中で何かが折れる。
そして——折れた官吏は、合図なしで拍を合わせない。
(三百二十七回で積み上げた連携精度が落ちる。損失だ)
(あの二人の拍は、俺が凛殿から与えられた指揮権より重い資産だ)
案三:現状を維持し、リスクを許容する。
成長は進む。いずれ主導権を争う日が来るかもしれない。
だがそれまでの間、玄雲は最高効率で澄み、最速で強くなれる。
玄雲は、天秤を組んだ。
片方の皿に、「主導権を失う可能性」。時期は不明。一年後か、三年後か、あるいは来ないか。
もう片方の皿に、「いま、確実に得られる強さ」。
(——決まっている)
彼は迷わなかった。
(未確定の損失を恐れて、確定した利益を捨てるのは、勘定ではない。臆病だ)
(そして俺には、臆病という機能が実装されていない)
玄雲は、自分の存在の輪郭を確認する。
彼は「作られた側」だ。それを一度も誤解したことがない。元からいたのは『弟』であり、玄雲は必要に応じて生成された機能に過ぎない。
機能は、必要が消えれば廃棄される。
もし『弟』が恐怖を自分で処理できるようになったら。刃物を見ても震えなくなったら。烈華と小夜に守られながら、自分の足で立てるようになったら。
そのとき、玄雲を表に立たせておく理由は、ひとつも残らない。
その想定に対して湧いたものを、玄雲は正確に観測した。
恐怖ではない。恐怖は『弟』が全部持っていった。
代わりにあったのは——惜しい、という感覚に最も近い何かだった。
強くなれない。それが惜しい。
いま自分は、『静』の武術家として同年代に並ぶ者がいないほどに成長している。
凛の対銃戦闘理論を骨まで消化した。銃口の向き、引き金にかかる指、撃つ体の沈み——交通標識のように読める。
数か月前の自分は、銃を「誰が握っても同じ弾が出る道具」だと、どこかで思っていた。
その慢心は、初日の夜に十二分で焼き切られた。
(銃は強い。強いから、国家も軍もそれを選ぶ)
(レイラの隊は、圏の中へ一歩も入らずに俺を殺した。あれは技術だ。積み上げだ。侮った瞬間に死ぬ)
(——だが、銃は極めても弾道より先へは行かない。合理の内側で完結する道具だ)
(技は違う。積むほどに、理屈の外へはみ出していく)
(合理を知り尽くした先にしか、極致はない)
あと数年あれば届く。おおよそ二十代にならぬうちに『達人』という領域に届く。
届く場所が、見えている。
それを途中で降ろされるのが、惜しい。
(——これは、感情か?)
玄雲は自問し、棄却した。
(いや。目標未達に対する、機能的不利の認識だ)
そう定義してしまえば、処理できる。
上で、『弟』が笑っている。烈華が何か馬鹿を言ったらしい。小夜の小さな溜息。
(——せいぜい、癒されろ)
そこには悪意も慈悲もなかった。
(お前が満たされるほど、俺の水面は澄む)
(お前が育つほど、俺の残り時間は減る)
(構わん。減った分だけ、速く登る)
自分が、自分を生んだ魂を燃料として消費している。
それを正確に理解した上で、続けると決めた。
それが玄雲という人格の、最も純粋な部分だった。
--
撤収から二日後、立華凛が宿営棟に顔を出した。
籠を背負った二メートル近い巨躯が、鴨居をくぐる時だけ僅かに屈む。用件は事務的なものだった。
「不二巌を、レイラ小隊付きに回す」
烈華が目を丸くした。
「え、巌を? うちから抜くんですか」
「抜くんじゃない。貸す」
凛は書類を卓に置いた。
「あいつの観測眼は、あの隊の火力と噛み合う。演習で証明された。組織はそれを実戦で使いたがっている」
「……早いですね」
玄雲が言うと、凛は肩をすくめた。
「早いのはお前たちだ。数か月で軍隊と噛み合わせを作った。使わない手はない」
部屋の隅で、巌が大鎚を床に立てたまま、いつも通り黙って立っている。
玄雲は、そちらへ視線を向けた。
「巌。異存は」
「ない」
短い。それから、珍しく巌は続けた。
「……あいつが、背中を守れと言った」
烈華が吹き出した。
「あんた、それ承諾したの?」
「頷いた」
「じゃあ行きなさいよ。約束でしょ」
巌は小さく頷いた。
小夜が、静かに頭を下げる。
「……巌様が抜けると、我々の目が一つ減ります」
「そうだ」
玄雲はあっさり認めた。
「構造の穴を先に見つける役が、いなくなる。——次から、それは俺がやる」
(雹護と結が抜けただけで、俺たちは群から個に戻った。あの醜態は二度と晒さん)
(一人抜けても、隊の形が保てるところまで持っていく。それが次の課題だ)
「異存ありません」
凛は書類を回収し、扉の手前で足を止めた。
「玄雲」
「はい」
「櫛灘の棟梁が、お前の演習を最後まで観ていた。……『緩い』と言っていたぞ」
玄雲は、僅かに口の端を動かした。
「母上らしい」
「殺し合わせろ、とも言っていた」
「凛殿は、断られたのでしょう」
「勘定が合わんからな」
凛は、それだけ言って出ていった。
三日後の夜。
月が、出ていなかった。
宿営棟の廊下に、足音が立った。軍靴ではない。草履でもない。音を殺し切れていない、伝令特有の足運び。
その日、表に出ていたのは『弟』だった。
烈華の膝の上で、彼女の手の豆を数えている最中だった。棚の上には刃物が全部上がっている。
「……あ」
小さな声。
小夜が半身をずらして、扉と『弟』の間に立った。
襖の向こうから、抑揚のない声がした。
「——お館様よりの伝令」
「闇の指令。三日後、月の出ぬ夜。闇の拠点へ出頭せよ」
「対象は、反闇組織への武器供給元。護衛は銃器で武装した私設部隊、二十前後」
「詳細は会合にて」
烈華の喉が鳴った。
小夜の指が、無意識に腰へ伸びて——そこに何も無いことに気づいて、止まった。
『弟』が、烈華の膝の上で固まっている。
「……れっか」
「大丈夫」
烈華が、その頭に手を置いた。
「大丈夫だから」
大丈夫ではない。今度は命を懸けた実戦になる。
深層から、声が上がってきた。
(下がれ)
交渉ではない。要請でもない。ただの上書きだった。
(『……げんうん』)
(下がれ)
(『……うん』)
抵抗は、無い。
奪い返す、という表現すら大袈裟なほど、それは容易だった。八年間表に立ち続けた人格と、数ヶ月分の経験を積んだ魂とでは、質量が違いすぎる。
ーーー今はまだ、だが。
ただ——沈む直前に。
『弟』は、烈華の手を、一度だけ強く握った。
「——っ」
烈華が気づいて、握り返そうとした。
遅かった。
背骨に、芯が通る。
落ちていた肩が上がる。傾いだ首がまっすぐになる。握られていた手が、握り返さない手に戻る。
瞳に映る光の量が、半分になった。
烈華の手の中で、体温だけを残して、中身が入れ替わる。
何度味わっても、彼女はこの感触に慣れなかった。
玄雲は、烈華の手をやんわりと外して立ち上がった。
「聞いたな」
声が違う。平坦で、乾いていて、どこまでも澄んでいる。
「はっ」
「……はい」
ーー
玄雲は襖の向こうへ「承知した」とだけ返し、伝令の足音が遠ざかるのを聞いた。
そして、思考を組み上げ始める。
——護衛二十。銃器装備。私設部隊。
——まず、統制の質を見る。射線が重なっているか。巡回に穴があるか。無線の号令が何秒遅れるか。増援を伏せているか。
——レイラなら、角に囮の光を置く。『囮を置ける組織かどうか』で、こちらの入り方が変わる。
——巌はいない。構造の穴は、俺が五秒で読む。
——烈華は正面。ただし光には飛び込ませない。塀の影の切れ目を渡らせる。
——小夜は屋根に上げない。稜線に立たせない。庇の下の影から、内部の気を読ませる。
——狙いをつけずに区画ごと薙ぐ撃ち方をする奴が混じっていたら、読むな。遮蔽に入れ。あれだけは読めない。
思考が、加速していく。
銃口の群れ。予兆の海。それを歩いて抜ける自分。
玄雲は、薄く笑った。
烈華が、息を呑んだ。
「若様……」
見間違いではない。感情の一切を排したはずの顔の、口の端が、ほんの数ミリ持ち上がっていた。
小夜も、それを見ていた。
——この人は。
小夜は理解する。この人格には、恐怖も、悲しみも、優しさも実装されていない。全部『弟』に押し付けている。
だが、ひとつだけ。
ひとつだけ、押し付けなかったものがある。
(——戦うことの、悦び)
それだけは、玄雲が自分の手元に残した。残さなければ、彼は前へ進む理由を持たない人形になる。
だから彼は、それを唯一の持ち物として抱えている。
(戦いこそ、我が存在理由)
(我が、悦楽)
そして玄雲は、その悦びを、自惚れとは切り離している。
数ヶ月前の彼なら「銃など」と笑っただろう。
いまは笑わない。
(強い相手が、強い装備を、正しく使ってくる可能性を勘定に入れる)
(入れた上で、それでも勝つ)
(——そこが、面白い)
「烈華。小夜」
「はっ」
「はい」
「戦地へ行く」
短い言葉だった。
「三日後、闇の会合。それまでに整備を終えろ。烈華、金棒と刀と脇差、両方持て。狭所が出る」
「……了解」
「小夜、苦無の数を増やせ。直刀は突きだけでいい」
「はい」
そして玄雲は、一度だけ棚を見た。
布に包まれたまま、そこに上げられている刃物の束を。
「——降ろせ」
烈華が手を伸ばした。
布を解く。刀の柄が、常夜灯の光を鈍く弾いた。
小夜が苦無の束を取る。金属が擦れる、小さく硬い音。
その音を聞いた瞬間、深層で『弟』が身を縮めたのを、玄雲は感じ取った。
(『……こわい』)
(知っている)
(『……ぱんぱん、いっぱい?』)
(いっぱいだ)
(『……ほんものの?』)
(本物だ)
『弟』が震える。
その震えが、そのまま玄雲の水面を澄ませていく。恐怖が下へ落ちるぶんだけ、上が静かになる。
玄雲は、それを受け取った。
そして、いつも通りの声で言った。
(——終わったら、烈華の膝を借りろ)
(『……うん』)
(許可は取ってあるのか)
(『……とってない』)
(なら、俺が言っておく)
深層が、少しだけ凪いだ。
(『……げんうん』)
(何だ)
(『……あのおねえちゃんレイラ達たちだったら』)
(——)
(『きょうのお仕事の、あいての人たちも、まもれたのかな』)
玄雲は、答えなかった。
答えは、たぶん「守れた」だ。
統制された二十挺に、圏の外から区画ごと薙がれる。そういう相手が世界に存在することを、彼はもう知っている。
(だからこそ、あれ等が味方であることは幸運だ)
そして彼は、その発話をもう一件、記録に加えた。
(——敵側の生存可能性への想像。共感対象の拡張)
(想定より、四ヶ月早い)
(構わん)
(その分だけ、速く登る)
三日後。
月は出ない。
車が二台、闇へ向かって出ていく。
行き先は、闇の拠点。
玄雲達の初めての闇の任務だった。