スレイをもっと熱血にしてほしかった、という意見を見ることがある。
気持ちは分かる。
もっと怒ってほしい。
もっと叫んでほしい。
もっと「絶対に許さない」と言ってほしい。
そう思う場面は、確かにある。
大切なものを奪われたのなら、怒っていい。
理不尽な目に遭ったのなら、憎んでいい。
救えなかったのなら、泣いて動けなくなってもいい。
普通の人間には、その権利がある。
だが、スレイにはそれが許されていない。
少なくとも、グリンウッドという世界は、彼にそれを許していない。
この世界では、怒りはただの感情で終わらない。
憎しみはただの反応で終わらない。
執着は、ただ意志が強いというだけでは済まされない。
感情が現実を歪める。
現実を否定すれば、穢れる。
自分の正しさに閉じこもれば、穢れる。
救えなかったものを救えなかったと認められなければ、その優しささえ穢れへ変わる。
ただし、怒ることそのものが悪いわけではない。
スレイにも怒りはある。
ジイジを奪われて、何も感じなかったはずがない。
人が傷つけられるのを見て、腹が立たなかったはずもない。
救いたかった者を救えず、悔しくなかったはずがない。
彼は感情が薄いのではない。
ただ、その怒りを自分の居場所にしない。
「許せない」と感じても、許せないままで世界のすべてを見ることはしない。
「助けたい」と願っても、助けられない現実そのものを否定しない。
悲しみを抱いても、悲しみの中に留まり続けない。
怒りを抱くことと、怒りに住み着くことは違う。
スレイが避け続けたのは、おそらく後者だった。
怒りを燃料に、一歩踏み出すことはできる。
だが、怒りだけを燃料にして最後まで歩くことはできない。
グリンウッドでは、その炎がやがて自分自身を焼き、穢れへ変わってしまうからだ。
普通の物語なら美徳になるものが、グリンウッドでは穢れの入口になりうる。
決して諦めないこと。
相手を絶対に許さないこと。
自分の正しさを疑わないこと。
何があっても仲間を手放さないこと。
誰であっても必ず救うこと。
その全部が、別の作品なら主人公らしさとして描かれるかもしれない。
むしろ、そう言い切れる人物こそ、熱くて格好いい主人公と呼ばれるのだと思う。
しかしゼスティリアでは、それが人を壊す。
だからスレイは、熱血主人公ではいられなかった。
怒らないのではない。
叫ばないのではない。
怒りや憎しみを、自分の居場所にしない。
それは物足りなさにも見える。
もっと感情を爆発させてほしい。
もっと自分のために怒ってほしい。
もっと理不尽を理不尽だと叫んでほしい。
だが、グリンウッドを歩く導師としては、それをしないことがおそらく必要な資質だった。
それは彼に熱がなかったからではない。
この世界では、怒り続けることも、憎み続けることも、諦めないことさえも、時に穢れへ繋がってしまう。
そして導師であるスレイは、普通の人間以上に、穢れることを許されていない。
普通の人間なら、怒りに任せて叫んでも、それだけで世界が滅びるわけではない。
誰かを憎んでも、周囲にいる仲間まで即座に怪物へ変わるわけではない。
心が折れて、しばらく立ち上がれなくなったとしても、それは本人の人生の中で起きることだ。
だがスレイは違う。
導師として大きな力を持ち、多くの天族と繋がっている。
彼の精神は、彼一人の内面で完結していない。
彼が崩れれば、浄化の力が失われる。
彼が穢れれば、共にある天族たちも危険に晒される。
彼が世界を憎めば、世界を救うはずだった力が、世界を滅ぼす側へ回りかねない。
スレイが怒ることは、スレイ一人の問題ではない。
だから彼は、自由に怒ることができない。
「腹が立つ」と口にする前に、自分が穢れていないか確かめる。
「許せない」と思った瞬間に、その感情へ留まりすぎていないか疑う。
悲しむ時でさえ、仲間を不安にさせないように笑う。
自分が壊れていないことを、周囲へ示し続ける。
導師たるもの、穢れてはならない。
世界を憎んではならない。
救えない者がいても、世界そのものを見捨ててはならない。
どれほど奪われても。
どれほど傷ついても。
どれほど理不尽でも。
お前だけは、穢れるな。
グリンウッドという世界は、スレイにそう要求しているように見える。
怒るな、とは言わない。
悲しむな、とも言わない。
ただし、怒りに呑まれるな。
悲しみに沈むな。
憎しみに留まるな。
現実を否定するな。
感情を持つことは許されている。
だが、感情に負けることは許されていない。
そんなものは、ほとんど「穢れることを禁じられている」のと同じである。
普通の人間は、時には正しく怒れない。
悲しみをうまく処理できない。
救えなかった現実を、すぐには受け入れられない。
そうして揺らぎ、間違え、時には穢れる。
だがスレイには、その普通の失敗が許されない。
彼が失敗した時に失われるものが、大きすぎるからだ。
そしてスレイは、その要求に奇跡的に適合してしまった。
怒りを抱いても、そこに留まらない。
憎しみを知っても、それだけで相手を見ない。
救えない現実を突きつけられても、世界そのものを見捨てない。
スレイは穢れない。
それは単に、彼が優しいからではない。
イズチで天族たちに愛され、異なる存在を恐れず育った。
世界は自分を拒絶するものではなく、理解しようとすれば応えてくれるものだと、幼い頃から身体の奥まで教えられてきた。
誰かを疑うより、まず理解しようとする。
相手を拒絶するより、なぜそうなったのかを考える。
自分の正しさに閉じこもるより、見えていない事情がある可能性を残す。
愛情を注がれて育った結果、彼は世界を完全には憎めない人間になった。
いや。
世界を憎んだままではいられない人間になった。
それは美しい。
同時に、少し怖い。
穢れないことは、導師にとって理想的な性質である。
だが、人間が本来持つはずの「壊れる権利」まで失っているのだとすれば、それは本当に祝福だけなのだろうか。
スレイの穏やかさは強さである。
だが同時に、世界から課された要件へ適合しすぎた結果にも見える。
***
ユト「ゼンライさんは、スレイさんを理想の導師として育てた方だと思っています」
ミクリオ「……ユト」
ユト「はい」
ミクリオ「その言い方は、スレイが導師になるために育てられたみたいに聞こえる」
ユト「違うのですか」
ミクリオ「違う」
ユト「ですが、結果としてスレイさんは導師に極めて高い適性を示しています。穢れに触れても折れず、怒りや憎しみに留まらず、相手の事情を見ようとする。これは導師として理想的な性質です」
ミクリオ「だからって、ジイジがそうなるように育てたわけじゃない」
ユト「意図的な育成ではなく、環境要因の結果ということですか」
ミクリオ「……そうだ」
スレイ「でも、ジイジがオレを育ててくれたから、今のオレがいるのは本当だよ」
ユト「はい。だからこそ、怖いのです」
スレイ「怖い?」
ユト「スレイさんは、優しすぎます。導師としては理想的です。ですが、人間としてそれが安全な状態なのか、私には判断できません」
ミクリオ「……スレイは、導師である前にスレイだ」
ユト「はい」
ミクリオ「そこを間違えるな」
ユト「分かりました。覚えておきます」
***
ユトの言葉が怖いのは、間違っていないからだ。
ゼンライは、スレイを導師にするために育てたわけではない。
ミクリオの言う通りだ。
イズチの天族たちは、救世主を作ろうとしたわけではない。
ただ、スレイを愛した。
異なる存在を恐れないように。
目に見えない声を信じられるように。
世界を知ることを喜べるように。
一人の子供が、幸福に育つように。
その結果として、スレイは導師に向きすぎる人格になった。
見えないものの言葉を信じる。
自分と異なる存在を恐れない。
自分の正しさだけで相手を裁かない。
怒りや憎しみに呑まれず、その向こうにある事情を見ようとする。
まるで導師になるために用意されたような人格である。
もちろん、そんなはずはない。
スレイは世界を救う道具として育てられたのではない。
ゼンライに愛され、ミクリオと育ち、遺跡を好み、外の世界に憧れた一人の少年だった。
導師になるために優しくなったのではない。
優しく育った少年が、偶然にも導師に向きすぎていた。
だからこそ、怖い。
意図的に救世主を作ったのなら、誰かの責任にできる。
だが、誰もそんなことを望んでいない。
ただ愛しただけだ。
ただ幸せに育ってほしかっただけだ。
その愛情が結果として、穢れることのできない導師を完成させてしまった。
世界にとって、あまりにも都合のよい人格を。
だからこそミクリオは、ユトの言い方を許せない。
スレイの優しさを「導師適性」として評価することは、その優しさがスレイ自身の人生から生まれたものだという事実を、機能へ変換してしまうからだ。
穢れにくい。
折れにくい。
他者を理解しようとする。
世界を憎まない。
それらを並べれば、理想的な導師の性能表が完成する。
だがミクリオにとって、それは性能ではない。
スレイが笑ったこと。
遺跡に夢中になったこと。
知らない世界へ行きたいと願ったこと。
ジイジに愛され、自分と喧嘩をしながら育ったこと。
そのすべてが積み重なった結果である。
世界にとって都合がよい性格だった。
そう言ってしまえば簡単だ。
だがミクリオにとって、スレイは世界のために存在しているのではない。
導師になる前からスレイだった。
導師でなくなった後にも、スレイでなければならない。
だから、
「スレイは、導師である前にスレイだ」
という言葉が必要になる。
それは当然の確認ではない。
世界を救える人格を持ってしまった少年を、世界を救うための機構にしないための言葉である。
世界がスレイに「穢れるな」と要求するなら、ミクリオだけは「穢れてもいい」と言わなければならないのかもしれない。
怒ってもいい。
泣いてもいい。
立てなくなってもいい。
導師として役に立たなくなっても、スレイであることは失われない。
本来なら、誰かがそう言わなければならない。
だが実際には、スレイが穢れることは許されない。
世界のためにも。
天族たちのためにも。
共に旅する仲間たちのためにも。
ミクリオでさえ、本当にスレイが壊れてよいとは言えない。
「導師である前にスレイだ」と守ろうとしながら、同時に、スレイが導師として立ち続けなければならない現実を知っている。
だからこの言葉は、救いであると同時に、ほとんど祈りに近い。
どうか、導師として世界を救う過程で、スレイ自身を失わないでほしい。
***
「絶対に諦めない」は、別の物語なら希望の言葉だ。
だがグリンウッドでは、それは事象の否定に近づくことがある。
もう戻らないものを、戻るはずだと言い続ける。
救えなかったものを、救えなかったと認めない。
死んだ者を、死んだと受け入れない。
それは優しさにも見える。
だがこの世界では、その優しさが穢れになる。
アリーシャとの別れもそうだ。
普通の物語なら、「仲間を置いていけるわけないだろ」と叫ぶ主人公は格好いい。
どれだけ負担があっても一緒に行く。
自分が苦しくても仲間を見捨てない。
身体が壊れても、意志の力で進み続ける。
それは、別の作品なら間違いなく主人公らしい選択だったと思う。
だがゼスティリアでは、それが優しさとは限らない。
従士契約の負担はスレイの身体を削る。
スレイが無理をすれば、彼自身だけでなく、契約している天族たちも危うくなる。
そしてアリーシャもまた、「自分がいることでスレイが傷ついていく」という現実を背負わされる。
「一緒に行きたい」は正しい。
「置いていきたくない」も正しい。
けれど、その正しさだけで進めば、全員が壊れる。
だからスレイは、熱血主人公として叫ぶことができなかった。
仲間だからこそ、手を離さなければならない場面があった。
救いたいからこそ、救えない方法を諦めなければならなかった。
グリンウッドは、そういう世界だった。
戦場でも同じだ。
熱血主人公なら、「こんな戦争、絶対に止めてやる」と叫ぶかもしれない。
その言葉は正しい。
戦争は止めるべきだ。
だが、スレイが相手にしているのは一人の悪人ではない。
国があり、兵士がいて、民がいて、恐怖があり、恨みがあり、積み重なった穢れがある。
誰か一人を倒せば終わる話ではない。
怒りで剣を振るえば、目の前の敵は倒せるかもしれない。
けれど、それで戦場そのものが救われるわけではない。
スレイの旅には、怒りで突破できない現実が多すぎる。
もしスレイが熱血主人公として、「絶対に助ける」「殺すなんて認めない」と叫び続けるタイプだったら、アイゼンの場面で詰んでいたと思う。
エドナの兄を救いたい。
ベルセリアを知っているプレイヤーにとっても、できれば救われてほしい存在だ。
その気持ちは正しい。
だが、ドラゴンは浄化できない。
その現実を認められなければ、前に進めない。
「救えない」と認めることは冷たいことではない。
救えない現実を見ないふりをして、自分の「救いたい」という願いだけを守る方が、グリンウッドでは危うい。
スレイには、救えなかったと認めることまで要求される。
しかも、そこで折れることも許されない。
救えなかった。
それでも次へ進め。
世界は、スレイにそう要求する。
ヘルダルフに対して「絶対に許さない」と言うことも、感情としては自然だ。
彼はあまりにも多くのものを壊した。
ジイジを奪い、マオテラスを穢し、世界を災厄で覆った。
普通なら、許せなくていい。
むしろ許せない方が人間らしい。
だが、導師スレイに必要だったのは、ヘルダルフを憎み続けることではなかった。
彼がなぜ災禍の顕主になったのかを見て、その上で眠らせることだった。
復讐心に呑まれれば、スレイは新たな災禍の顕主になり、世界を滅ぼす側へ回っていただろう。
それこそがヘルダルフの狙いだった。
つまりスレイには、育ての親を奪った相手を憎み続ける権利さえない。
憎めば、敵の思惑通りになる。
怒りに呑まれれば、仲間を危険に晒す。
世界を恨めば、救うべき世界そのものが終わる。
だからスレイは、ヘルダルフに「絶対に許さない」と叫べない。
叫ばない方が立派だからではない。
叫び続けることが許されていないからだ。
スレイは穢れない。
それは優しさというより、ほとんど異常な均衡感覚である。
何を奪われても、世界そのものを憎まない。
誰かを許せなくても、許せないまま全てを裁かない。
救えないものがあっても、現実を否定しない。
イズチで注がれた愛情は、彼を強くした。
同時に、彼から穢れるという逃げ道を奪ったのかもしれない。
スレイはそこに適合してしまった。
だからスレイは理想の導師になれた。
なってしまった。
スレイは熱血主人公ではない。
だが、冷めた主人公でもない。
考えてみれば、スレイは最初から熱のない少年ではなかった。
遺跡の話になれば目を輝かせる。
知らない世界へ行くことを望む。
見たことのないものを知ろうとする。
彼はむしろ、かなり情熱的である。
ただ、その情熱が怒りとして外へ噴き出すことが少ない。
スレイの熱は、相手を倒す力より、相手を知ろうとする力に変換される。
なぜこんな遺跡が残ったのか。
なぜこの土地は穢れたのか。
なぜこの人は憑魔になったのか。
なぜヘルダルフは災禍の顕主になったのか。
遺跡を見る時と同じように、彼は人の痛みにも、その成り立ちを探そうとする。
理解することは、許すことではない。
事情を知ったからといって、相手の行為が正しくなるわけでもない。
それでも、分からないまま憎むことを選ばない。
彼の熱は、怒りや憎しみとして燃え上がるものではなかった。
誰かを理解しようとすること。
救えない現実を見ても、世界を見捨てないこと。
眠らせるしかない相手に、それでも「おやすみ」と言えること。
怒りで世界を焼き払う熱ではない。
世界を見捨てず、理解し続けるための熱である。
それは美しい。
だが同時に、その熱しか許されていなかったのではないかとも思う。
怒りとして燃えることはできない。
憎しみとして燃え続けることもできない。
自分自身を焼いて、もう歩けないと倒れることさえ許されない。
世界を救う方向へ燃え続けることだけを求められる。
だから、スレイが熱血だったらグリンウッドは終わっていた。
けれど、スレイに熱がなかったわけではない。
ただ、その熱の形が、普通の主人公とは違っていた。
そしておそらく、その熱の形を選ぶ以外の自由を、スレイは最初からほとんど与えられていなかった。
あなたはゼスティリア原作を(読者層確認用です)
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